試験の日は、思っていたよりもずっと早くやってきた。
気づけば朝の光が窓から差し込み、革鎧の留め具を確かめる指先に、わずかな緊張が宿っている。胸の奥で何かが小さく跳ねるのを感じながら、私はギルドへ向かった。
重たい木の扉を押し開けると、見慣れた光景が広がった。
依頼掲示板、酒場の方から漂ってくる香り、行き交う冒険者たちの足音。
受付嬢のいるカウンターへ、私はミアレと並んで歩み寄る。
「昇格試験の参加ですね。本人確認をお願いします」
受付嬢はいつも通り整った姿勢で、柔らかな笑みを浮かべていた。
名前を伝え、手続きを済ませる。
そして受付嬢は、どこか安心させるような声で言った。
「Dランクへの昇格試験は、実技はありません。答案による判断と意識の確認のようなものですので、難しく考える必要はありませんよ」
難しくない。
そう言われると、逆に拍子抜けしてしまう。私は小さく頷き、指定された部屋へ向かうことになった。
廊下を歩きながら、周囲を見渡す。
年季の入った床板は歩くたびにわずかに軋み、壁には古い張り紙の跡が残っている。
紙とインクが混じった独特の匂いが、鼻の奥に残った。
隣を歩くミアレが、ふいに口を開いた。
「私ね。しばらくの間は家の用事があるから、ギルドに顔を出さないけれど……もし、もし何かある時は私に声を掛けてね」
差し出されたのは、小さな紙切れ。
受け取って見ると、簡単な道筋と店の名前が書かれている。
「お肉屋さん?」
「うん。家の手伝いでね。それに、これを期に弓の整備もしておこうと思って。リュシアちゃんも、杖を一度見てもらった方がいいよ。依頼をこなすためにも、身を守るためにも、魔物を倒すためにも……必要だから」
私は手に持っていた杖を、両手で持ち直して眺めた。
滑らかな木肌。小さな傷と凹みのある 程度。
「必要、ですか?」
「壊れちゃったら困るでしょ?」
視線が重なり、ミアレは柔らかく微笑む。
深くは考えなかった。
もう一度、杖を見る。
「うーん……」
だって、この杖は本来の杖の繋ぎでしかない。
今だけ、仮に使っているだけのもの。
そう思うと、どうしても自分のものという気がしなかった。
しばらく歩き進めると、目的の部屋に辿り着く。
扉を開けると、教室のような空間が広がっていた。
机と椅子と教壇。
以前、冒険者登録試験の講座を聞いたときと同じ場所だ。
人は少なかった。
あのときの大人数と比べると、驚くほど少ない。
まだ集まっていないだけなのかもしれない。
ミアレと並んで席に着く。
時間が経つにつれて、人は少しずつ増えていった。
ざわざわと話し声が広がり、椅子を引く音が重なる。
それでも、集まったのは二十人にも満たない。
登録試験のあの日にいた人の数とは、まるで合わない。
その差が、頭の中で形を持つ。
死んだか、辞めたか。
バルクの言葉が蘇る。
つまり、そのどちらかだ。
ここにいるのは、振り子に落とされなかった者たち。
生き残った者たち。
やがてギルド職員の男性が現れ、教壇に立った。
「昇格試験に来てくれた冒険者諸君、こんにちは。私はギルドに勤めているハインズだ。Eランクで一人でやってきた奴もいるかもしれないが、Dではそうはいかない場面がある」
落ち着いた声が部屋に響く。
「一人でDランクの魔物や群れに遭遇した場合、どうにもならないことがある。だからこそ、複数人で協力し合う基礎を問うのがこの場だ。個人の強さより、連係、確認、判断。それができれば、個人の強さより遥かに有利になる」
用紙と筆が配られる。
男性は肩をすくめて続けた。
「個人的には、こんなことをしなくてもDに上げていいと思っているがな。制度というやつだ。落ちても何度でも受けられる。思ったことをそのまま書けばいい。難しく考えるな」
そうして試験は始まった。
沈黙が落ちる。耳に入るのは、筆が紙をなぞる音だけだ。
名前を書き、問題を見る。
三人のパーティーで一人が負傷。ポーションを所持している場合どうするか。
ひらけた場所で魔物の群れに遭遇したとき、どう行動するか。
どれも、答えは一つではない問いだった。
けれど難しいとは思わなかった。思ったことを書けばいい。それだけだ。
私は、「ポーションを飲ませて戦闘継続」と書いた。
筆を走らせ、気づけば時間が余っていた。
やがて用紙が回収され、軽い挨拶とともに解散となる。
椅子の音が重なり、部屋の空気が緩んだ。
「難しかった……」
隣でミアレがぽつりと言う。
私は少しだけ考え、首を傾げた。
「そうでした?」
自分の声が、思ったよりも軽かった。
難しくはなかった。けれど、何かを問われていた気もする。
その言葉が、なぜか少しだけ胸に引っかかった。
試験の結果は午後に出されると言われていた。
それまでの時間、依頼を受けることもできず、やることがない。
待つだけ、というのは思っていたよりも落ち着かないものだった。
ギルドの廊下を、ミアレと並んで歩く。
硬い床板に、二人分の足音が規則的に響いていた。
静かで、少しだけ空気が重たい。
ふと、窓の外から人のざわめきが聞こえた。
声が重なり合う音。金属が触れ合うような、どこか乾いた響き。
自然とそちらへ視線が向く。
窓の外、中庭には人だかりができていた。
「あ……」
思わず足が止まる。
そこには、冒険者登録のために集まった人たちがいた。
まだ武器も馴染んでいないような、ぎこちない立ち姿。
期待と緊張と不安が混じった顔。
「ミアレさん、見て」
声に出すよりも先に、体が動いていた。
視線が釘付けになり、そのまま引き寄せられるように中庭へと出る。
外に出た瞬間、陽の光が強く目に刺さり、思わず手で影を作った。
眩しさに目を細めながら、集まっている人数を数える。
少ない。
二十人いるかどうか。
いや、それよりも少ないかもしれない。
自分がここに立っていた時は、もっと、ずっと多かった。
押し合うほどの人の数で、ざわめきが止まらなかった。
みんな、冒険者になりたくて集まっていたはずなのに。
小さな違和感が胸の奥に沈んだ。
「なんだか、人が少ないですね」
「本当……私たちの時は沢山いたのに」
ミアレも同じことを感じていたようだった。
視線を外へ向けたまま、ふと横へ滑らせる。
すると、壁にもたれかかって腕を組んでいるバルクの姿が目に入った。
その隣にはロニオもいる。
視線が合う。
私は軽く手を振り、そのまま駆け寄った。
「こんにちは! バルクさん、ロニオさん。ここで何をしてるんですか?」
二人は小さく手を上げて応える。
「よぉ」
ミアレも少し遅れて挨拶をした。
バルクは顎で中庭の方を示す。
「新人がどんなやつか見るためにここにいるんだよ。お前らは……ここにいるってことは、昇格試験を受けたのか?」
私は大きく頷く。
これで同じDランク。
肩を並べられる。
一人前の冒険者。
胸の奥が少し熱くなった。
「簡単な問題だったろ?」
「バルク、そこは人によるだろ」
ロニオが横から口を挟む。
「ハハッ、いいじゃねぇか。俺は無事に昇格できてた事だしな。答えなんてねぇだろ?」
私は再び頷いた。
ロニオは呆れたように息を吐き、ミアレを見る。
ミアレは視線が合うと、少しだけ首を傾げた。
「あの……登録試験の方たちって、いつもこんなに少ないんですか?」
二人は一瞬、顔を見合わせる。
バルクが落ち着いた視線をミアレへ向けた。
「ああ、こんなもんだ。お前らの時が異常に多かっただけだよ。ほら……ロニオ、覚えてるか? 大金稼いで騒いでたやつ」
ロニオが小さく頷く。
「Dランクの冒険者がな、近くのダンジョンで高価な杖を見つけたんだ。それを売って大金貨二枚。で、自慢して回って、それが広まって……参加者が一気に増えた」
途中まで聞いた瞬間、私は一歩踏み出していた。
「それ、私の杖なんです! 私のです! その人たちは誰なんですか! 許せないです! 教えてください!」
ロニオが驚いて一歩引く。
バルクが慌てて間に入り、ミアレが肩を掴んで引き寄せてくる。
「リュシアちゃん、落ち着いて」
「突然なんだ、何の話だ」
私の杖だ。
間違いない。
矛先がある。
相手がいる。
歯を食いしばる。
それだけで、感情が一気に流れ込んできた。
「最後まで話を聞け」
ロニオが静かに続ける。
「そいつらがその後どうなったか……端的に言えば、行方不明だ」
行方不明。
音が遠くなる。
逃げたのか。
売って、姿をくらましたのか。
「依頼は未達成のまま。報告もない。他のギルドからの連絡もない。期限切れで失敗扱い。証も見つかってない。だから行方不明だ。……まぁ、死んでる可能性が高い」
その言葉を聞いた瞬間、胸に渦巻いていた感情がすっと冷えた。
力が抜け、ミアレに寄りかかる。
バルクが私の手元を指差す。
「リュシア、お前のいま握ってるそれはなんだよ。お前の杖じゃねぇのかよ」
私は杖を見る。
握る感触を確かめる。
違う。
これは繋ぎだ。
「違うんです……私の本当の杖は、お店に売られてて……お金が足りなくて……だから依頼を……」
「全部言わなくていいよ、リュシアちゃん」
ミアレが優しく声をかけてくれる。
ロニオがバルクを止めた。
「嘘は言ってない。身なりを見ろ。事情ってもんがあるだろ」
「……お、おう。わりぃ」
沈黙が落ちる。
遠くで、登録試験の掛け声と足踏みの音、武器が打ち合う音が聞こえていた。
陽の光の中で、これから冒険者になる人たちが声を張り上げている。
夢の入り口。
あの声の何人が、またここに帰ってくるのだろう。
その音は、どこか遠くで、やけに静かに聞こえた。
─
《別視点》
いつものことのようにギルドに呼び出され、いつもの椅子に腰を下ろす。
そこにいる必要があるのかと問われれば、おそらくない。肩書きがあるわけでも、書類を裁く権限があるわけでもない。だがなぜか俺はこの仕組みの一部に組み込まれていて、こうして時折、何もせず座っている。
本当に、座っているだけだ。
目の前では職員たちが書類を捌き、印を押し、インクの匂いを漂わせながら忙しなく動いている。俺はその光景を眺めているが、別に上司でもなければ監督役でもない。相談役と言えば聞こえはいいが、実際のところは「厄介な案件の最終確認係」といったところだ。
何もしなくていい日。
そう思えば、この退屈も悪くない。
窓の外に目をやる。
今日は試験日らしい。初心者たちは試験に群がり、中堅どもは新しく来た連中の様子を腕組みして眺めている。
依頼に出る者は少数だ。
まあ当然だろう。
Eランクの依頼は割が悪い。新人なら早く抜け出してDに上がりたいはずだ。わざわざEに留まり続ける理由もない。
視線を戻す。
印を押す音、紙をめくる音、職員同士の小声のやり取り。外からは試験官の声が聞こえる。
ふと受付嬢のルーナと目が合った。
あいつはぱっと花が咲いたように笑い、にこやかに小さく手を振る。
俺は冷めた目で見返すとあいつは片手で投げキスをしてきた。
仕方なくそれを空中で掴む仕草をし、窓の外へ放り投げてから手で追い払う。
ルーナは唇を尖らせ、頬を膨らませた。ぶつぶつと難癖をつける顔だ。
思わず鼻で笑う。
椅子に深く凭れ、腕を組む。
若い連中は、からかっても許される年上に対しては遠慮がない。嫌いではない。ああいうやり取りに救われる奴もいる。張り詰めた空気を、少しだけ緩める。
溜め込んだ息を吐き、目を閉じる。
――ガルド、死なないためには何が必要なんだ。
昔、そう問われたことがある。
そのとき俺は答えた。
戦わない。
当然、相手は笑った。腹を抱えて、ひとしきり笑ってから、こう言った。
「俺もそうしよう」
あいつはその後も何度も戦ったがな。
記憶の奥の声が薄れていく頃、職員が声をかけてきた。
「すみません、ガルドさん。少しよろしいですか?」
目を開ける。差し出された用紙に視線を落とす。
昇格試験の答案らしい。
「三つくらい、出しゃばった答えでもいいだろ?」
職員は困った顔で頷き、試験の答案を読み上げる。
――オーク二体とゴブリン三体。林。前衛二、後衛一。どう対処するか。
先にオークを落とす。
ゴブリンは脅威度が低い。
後衛で牽制、片方を集中攻撃。
数を減らせば勝てる。
次の問題。
――仲間の武器が戦闘中に破損。敵は健在。
代わりに自分が前に出る。
注意を引きつけ、速攻で決着。
さらに。
――新人と依頼に行く際の注意点。
実力を見極める。
無理をさせない。
危険なら自分が処理する。
読み終えた職員が困ったように眉を下げ、言葉を濁す。
「他が軒並み……」
問題児を見る目だ。
俺は鼻で息を抜く。
ほんの数秒、用紙を手に取って見つめる。
「無理だな。次回に回せ。名前は?」
彼は一瞬、目を細める。
「リュシア、と」
ああ。あの小娘か。
冒険者でもないのにダンジョンに潜り、死にかけて血まみれで睨んでいた。助けられてなお、変わらない。
答案は悪くない。むしろ鋭い。優先順位も的確だ。
だが、どれも戦う前提だ。
数を減らせば勝てる。
自分が前に出れば守れる。
危険なら自分が処理する。
だが、全部"勝つ"前提で書いてある。
全部、戦う。
全部、抱える。
鼻で笑う。
撤退がない。
崩れたときの想定がない。
自分が倒れた場合の計算がない。
自分がいる限り大丈夫だと、無意識に信じている。
そういうやつは、死ななきゃ治らない。
……いや。
本当は分かっている。
死んでも治らないやつもいる。
椅子に深く凭れ、目を閉じる。
悪く思うなよ、小娘。
こっちはお前のためにやってる。
戦わないという答えに辿り着くまで、何人が血を流すかは知らないがな。
ギルドのざわめきが遠くなる。
俺はまた、何もせず座っている。
だが、この椅子は無意味じゃない。
戦わずに済むやつを、一人でも増やすための場所だ。
そのために嫌われ役をやるのも、悪くない。