承知しました!「─」を取り除き、各シーンの繋ぎ目に自然な一文を補いながら1話にまとめます。
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**13話後編**
屈伸座りのまま、壁にもたれかかった。
石壁のひんやりとした感触が背中越しに伝わる。杖は倒れないように壁へ立て掛け、杖の柄を指でなぞりながら、ぼんやりと広場を眺めていた。
胸の奥が、妙に静かだった。
悔しいはずなのに、怒りもない。ただ、冷めきった水のように感情が沈んでいる。
目の前の試験の熱気とは裏腹に、自分だけがどこか外側にいるような感覚だった。
広場の中央では、木剣がぶつかる乾いた音が規則的に響いている。掛け声と足音。踏みしめられた地面から舞い上がる砂煙が風に乗ってこちらまで流れてきて、わずかに鼻をくすぐった。
少しの間、何も考えたくなかった。
考えれば考えるほど、余計なことまで思い出してしまいそうで。
ただ、試験を受けている人たちを、何も言わずに眺めていた。
「おい、見てみろよ。あいつ、試験官に弄ばれてんぞ。可哀想にな。前の時は流してたのによ」
バルクがひとりごとのように笑う。
視線を向けると、確かにそうだった。
受験者が木剣を振るたびに、試験官は身体の隙へと軽く木剣を当てる。トン、と置くような。強く打つわけでもない。ただ、触れる寸前で止める。
圧倒的な実力差。
受験者は必死に大きく振りかぶり、勢いよく斬り込む。
真っ直ぐで、力任せで、迷いのない初動。けれどその刃は、空を斬るばかりで、撃ち合いにすらなっていない。
「武器に振るわれているな」
ロニオが静かに言う。
「重心が武器に寄りすぎてる」
二人の言葉は、私にはうまく理解できなかった。
一見すると、受験者の方が攻めているように見える。追い込んでいるようにも見える。けれど、結果は違う。試験官の身体には一撃も入らない。逆に木剣がぴたりと身体へ触れて止まる場面ばかりが増えていく。
ただ、見ているだけでも分かることがある。
試験官は余裕を崩さない。受験者の動きは荒い。
また木剣が、ぴたりと身体に触れて止まった。
――あれでは、なれない。
……そう思った。
ただそれだけ。理由なんて、きっといらない。
剣の扱いなんて分からない。でも、二人が「動きが悪い」と言うのなら、きっとそうなのだろう。私には見えない何かが、彼らには見えている。
「バルクさん、ロニオさん。あの、一ついいですか?」
声を上げたのはミアレだった。私は顔を上げ、彼女を見る。
ミアレの視線は二人に向いている。
「見守るにしても、他の冒険者の方々もいて……多くないですか?」
言われて、周囲を見渡した。
剣、杖、槍、弓。様々な武器を携えた冒険者たちが、広場の縁に点々と立ち、中央を見つめている。
――そこで、ハッとした。
視線を逸らす。
今さら、気づいた。
登録を終えたあと、顔も知らない人からパーティーに誘われたこと。
私のことを知っているように話しかけられたこと。
どうしてだろうと思っていた。
でも、違う。
あのとき、私は気づいていなかっただけだ。
あのとき、私は丸太の打ち込み台を魔法で破壊した。
自分の力を証明するために、ただ全力を叩き込んだ。
この広場で、こんなふうに、みんなが見ていたのだ。
私は傍観者の存在に、気づいていなかった。
ずっと、前しか見ていなかったから。
「ここのギルドだけ暗黙の了解みたいな恒例行事だよ」
バルクが肩をすくめる。
「別に守る必要も、ここに来てまで見る必要もないんだけどな。まぁ、新しく入るやつの実力をみるって言うのは本当だ」
一呼吸置いて、中央の受験者を眺めたまま続けた。
「俺たちは癒し手が来ねぇか、ずっと待ってんだよ」
癒し手。
その言葉に、思わず反応する。
癒し手の氏族。回復魔法に秀でた魔法使いたち。
私は風の氏族。火、水、土、そして癒し。いくつもの系譜があると聞いてきた。
「それじゃあ、みなさんは癒し手の人を心待ちにしているんですね」
「ああ……」
バルクが短く返す。
「ポーション代もアンチドーテも、馬鹿にならんからな」
ロニオの視線が、バルクへ向く。
「へぇへぇ、わかってますよ」
どこか拗ねたような声に、ミアレがくすりと笑った。
他愛ない会話。
そのやり取りを眺めながら、静かに息を吐いた。
癒し手を待つ。
誰かが来るのを待つ。
それは、自分が足りない何かを補う存在を待つということだ。
私は――待たれている側ではない。
風の魔法は速さや補助には向いている。でも、傷を癒すことはできない。
誰かの失血を止めることも、毒を抜くこともできない。
それでも私は、前に出るしかない。
胸の奥に、冷たい感覚が戻る。
弱い。
さっき受験者を見て思った言葉が、自分へ向けて返ってくる。
試験官に弄ばれていたあの人と、私はどこが違うのだろう。
圧倒的な差。
あの木剣が触れた瞬間の、どうしようもなさ。
あの時のゴブリンの影を思い出す。
杖を掴む。
広場では、また木剣の音が鳴る。
誰かのため息と、誰かの歓声が混ざる。
私は杖を両手に抱え、その光景を見つめた。
風は、いつも前へ吹くものだ。
私は顔を上げる。
何も考えたくないと思っていたはずなのに、胸の奥で、かすかに風が動き始めていた。
冷めきっていたはずの感情が、わずかに揺れる。
試験を受ける人たちの姿を、もう一度見る。
弱い、と切り捨てたその言葉が、少しだけ重くなった。
ずっとそこで時間を潰していると、登録試験は思っていたよりもあっけなく終わった。
受験者の数が少なかったせいもあるが、私にとっては試験というよりも、軽い稽古のようなものに見えた。
相手を務めた試験官は額に汗を浮かべながらも、どこか気楽そうに距離を取り、最後には苦笑いを残して離れていった。
職員が前に出て、形式ばった挨拶と後の講義の案内を告げる。受験者たちは三々五々に散っていき、それを取り囲んでいた冒険者たちも、それぞれの用事へと戻っていった。
私は立ち上がり、腰と腿についた埃を叩き払う。
パン、パン、と乾いた音がやけに響いた。
どこへ行くでもない。ただ、座っている理由がなくなっただけ。
「んじゃ、お開きだな」
バルクが肩を回しながら言い、ロニオも無言で歩き出す。
「今日は依頼はしないんですか?」
自然と口をついて出た疑問だった。まだ日は高い。時間はある。もし試験の発表がなければ、私は迷わず森へ向かっていただろう。
「あ〜、まぁな。こういう日くらいはギルドの連中を労って、依頼をやらねぇってのもアリだろ」
バルクは笑い、わざとらしく肩をすくめる。
「多忙でギルドの姉ちゃんが険悪な顔で八つ当たりしてくるのも嫌だしよ。せっかくの美人が台無しだ。どうせなら可愛いまま対応されたいだろ?」
「お前の主観だが、それには同意だな」
ロニオが鼻で笑う。
二人は並んで歩き出し、その背中が少しずつ遠ざかっていく。私はしばらくその背を見つめていた。
そのとき、隣にすっと並ぶ気配がした。
「私たちも行こ」
「はい」
ミアレだった。
視線が合う。柔らかな微笑み。私は頷き、並んで歩き出す。
けれど、胸の奥に小さな棘が刺さっているのを自覚していた。
しばらくは会えなくなる。
次に並ぶとき、私たちは——Dランクになっているはずだ。
Dランク。
その言葉を思うだけで、心が浮き立つ。Eランクの掲示板から一歩抜け出す。それはただの記号の変化かもしれない。けれど、私にとっては違う。前に進む証だ。
ギルドの受付エリアに戻り、酒場でオレンジジュースを二つ買う。
並々と注がれたジョッキは、陽を透かして橙色に輝いていた。
一口。
二口。
甘くて、少し酸っぱい。爽やかな喉越しが胸の奥まで落ちていく。
一気には飲めない。時間をかけて味わいたい。
私は掲示板を覗いた。
Eランクの依頼はいつも通りだ。森オオカミ、ホーンラビット、薬草採取、きのみ集め。
視線を上げる。
Dランク。
オーク討伐。ゴブリン討伐。ダンジョン調査。
オーク討伐がある。
オークなら、いくらでも倒せる。
倒して、肉を剥ぎ取って、ミアレと焼いて食べよう。
その光景を想像しただけで、口元が自然と緩む。
「リュシアちゃん、楽しそうな顔して、どうしたの?」
ミアレの声は、ゆっくりで、すべてを見透かしているようだった。
「私達、Dランクになれるんですね」
弾む声が自分でもわかる。
「ね。私達、一体どこまで行けるのかな」
どこまで。
Dランクの先。
Cランク。Bランク。
Aランク——いや。
Sランク。
バルクも、ミアレも、言ってくれた。
強いって。
だから、つまり——
誰も、私を弱いなんて言っていない。
……はずだ。
胸が高鳴る。
足取りが軽い。
未来は、私の前に開けている。
そのとき、受付嬢の声が響いた。
「昇格試験を受けた方がおられましたら、部屋に案内しますのでこちらに」
書類を抱えた受付嬢の後を、受験者たちがぞろぞろとついていく。私とミアレも、その流れに加わった。
小部屋に通される。
窓が閉め切られている。
少しだけ空気が重い。
「皆さん、昇格試験お疲れ様でした。合格された方のみ、順番に封筒の中の書類と冒険者証を提出してください。不合格の方は再度、昇格試験を受けてDランク昇格を目指してください。以上です。順番にお呼びします」
一人ずつ名前が呼ばれ、封筒が手渡されていく。
誰かが咳払いを我慢して、紙の擦れる音がやけに大きい。
ミアレの名前が呼ばれる。
彼女は小さく息を吐き、受け取った。
次。
「リュシアさん」
私の名が、はっきりと告げられる。
封筒を受け取る。
紙の感触が、妙に重い。
ようやくこの瞬間が来たのだと、胸がどくどくと鳴る。
手のひらがじんわりと汗ばむ。
ゆっくりと封を切る。
書類を取り出す。
視線を落とす。
——その瞬間。
ぷつり、と。
音が消えた。
ざわめきも、紙の擦れる音も、誰かの咳払いも。
世界が、真空のように静まり返る。
文字だけが、目に焼き付いている。
呼吸を忘れたまま、私はただ、そこに立ち尽くしていた。
部屋を出てからのことは、あまり覚えていない。
気づけば、ギルドの酒場エリアに戻っていた。手にはまだジョッキがある。さっきミアレと並んで飲んでいたはずのオレンジジュースが、いつの間にか半分ほどに減っている。
静かなギルドだった。
ついさっきまで確かにあった喧騒が、まるで最初から存在しなかったかのように消えている。笑い声も、ジョッキのぶつかる音も、依頼のやり取りも、遠くへ押しやられたみたいに薄い。
視界の端に、受付に並ぶ人たちが映る。
その列の中に、ミアレがいる。
背筋を伸ばして、順番を待っている。
——ここに戻る途中、ミアレは何かを言っていた。
励ますような、慰めるような声だったと思う。
でも、何を言っていたのか思い出せない。言葉が耳に届く前に、どこかへ吸い込まれていったみたいに、意味が残っていない。
そして気づく。
受験者の中で、私だけが、ここにいる。
あの小部屋で、封筒を開けた瞬間。
プツリと音が消えた。
そのまま、世界が一枚隔てられたみたいに遠くなった。
バルクは言っていた。
「簡単」だと。
実際、その通りだと思っていた。筆記の内容は難しくなかった。手応えはあった。むしろ自信さえあったはずなのに。
なのに。
ああ、納得がいかない。
どうして。
私は、あそこに並んでいる人達より、ずっと強いはずなのに。
おかしい、強いって、なんだっけ。
兄様ならどうしただろう。
胸の奥がじわりと締め付けられる。呼吸が浅くなる。息を吸っても、うまく肺に届かない。
ジョッキを掴む手に、無意識に力が入る。
指先が白くなるほど握り込んでいることに、しばらく気づかなかった。
一口、飲もうとする。
甘酸っぱいはずのオレンジジュースは、舌に触れた瞬間、妙に苦く、酸っぱく感じた。喉が拒む。飲み込めない。
——こんな味だっただろうか。
違う。
変わったのは味じゃない。
私だ。
この場に立っていること自体が、どこか場違いな気がしてくる。
ここは、合格した者が次へ進む場所。
次の依頼を受ける場所。
未来へ歩き出す場所。
私だけが、そこに入れない。
置いていかれた。
裏切られた。
そんな言葉が、胸の奥で渦を巻く。
誰に?
試験に?
ギルドに?
それとも、自分に?
わからない。
ただ、ここに立っていることが耐えられない。
ミアレの空になったジョッキの横に、自分の飲みかけを置く。カタン、と小さな音がした。
杖を手に取る。
——ミアレは、こちらを見ていないか。
一瞬だけ視線を走らせる。彼女はまだ受付に並んでいる。私に気づいていない。
それを確認した瞬間、胸の奥が少しだけ軽くなる。
今なら、行ける。
私は踵を返し、駆け足でその場を離れた。
ギルドの扉へ向かう途中、視界が狭くなっていく。人の声も、足音も、遠い。自分の鼓動だけがやけに大きい。
——離れなきゃ。
——ここから。
その瞬間。
ドンッ、と衝撃が走った。
視界が揺れ、身体が後ろへ弾かれる。尻もちをつき、床の硬さが伝わる。
「おい、どこ見て歩いてんだ!」
男の怒鳴り声が降ってくる。見上げると、見知らぬ冒険者が眉を吊り上げている。何かを言っている。口が動いている。
けれど、言葉が意味を結ばない。
頭が、処理を拒んでいる。
ああ、関係ない。
怒られたって、どうでもいい。
強いか弱いかも、今はどうでもいい。
ただ——
ここから離れなきゃ。
行かなきゃ。
宿に。
自分の部屋に。
扉を閉めて、誰にも見られない場所へ。
じゃないと。
じゃないと、私——
どうにかなってしまいそうだ。
胸の奥の何かが、崩れてしまいそうで。
そのまま、壊れてしまいそうで。
立ち上がり、謝罪の言葉も曖昧なまま、私は再び走り出した。
背後でまだ何か声が聞こえた気がしたが、振り返らない。
振り返ったら、立ち止まってしまう。
立ち止まったら、全部を受け止めなければならない。
不合格という事実も、
自分が思っていた強さの意味も、
ミアレの「どこまで行けるのかな」という言葉も。
今は、無理だ。
ギルドの扉を押し開け、外の光に飛び出す。
眩しさに目を細めながら、私はただ走る。
音のない世界から、逃げるように。