風の氏族の末娘は、冒険者を知らない   作:ほてぽて

19 / 39
14話 前を向く理由

承知しました!「─」を取り除き、各シーンの繋ぎ目に自然な一文を補いながら1話にまとめます。

 

---

 

**14話**

 

 次の朝は、あっという間にやってきた。

 

 眠ったのかどうかもわからない。ただ、目を閉じていた時間が終わり、薄い光がカーテンの隙間から差し込んでいる。それだけで「朝」だと告げられる。

 

 依頼に行く気分ではなかった。

 

 ずっとこうしていたい。

 動きたくない。

 世界が私を置いて進むなら、せめてこの部屋の中だけは止まっていてほしい。

 

 枕に顔を押しつけると、かすかに自分の髪の匂いがした。昨日よりも濃い。寝返りを打つたびに、香りが布に移っていったのだろう。

 

 目を閉じたまま、布団の上で横になる。

 

 落ち着く気配はない。

 むしろ、静かだからこそ、余計に考えてしまう。

 

 ——どうして。

 

 その一言が、頭の中を巡る。

 

 兄様なら、どう答えるの。

 

 強い背中。迷いのない言葉。

 きっと「次に活かせばいい」とか、「必要なものが足りなかっただけだ」とか、そういうふうに整理してくれるのだろう。

 

 姉様は違う。

 小さい頃に、

「わかるものから学べばいい」

 

 そう言っていた。

 

 だから、私は魔法があればいい。

 悪い魔物を倒せる力があれば。

 

 私は、その通りだと思っていた。

 

 筆記試験の問題を思い浮かべる。

 パーティーと魔物の対峙したとき、対処法。

 ちゃんと答えた。迷いもなかった。

 

 そのあと、ミアレがぽつりとこぼした言葉。

 

「難しかった」

 

 あの時の彼女の顔。

 少しだけ眉を寄せて、それでもどこか納得しているような横顔。

 

 私は難しいなんて思わなかった。

 

 モンスターを倒して、気をつけることを書くだけ。

 ちゃんと問題の答えも出していた。

 

 それなのに。

 

 結果は、Eランクのまま。

 

 布団の中で、指先をぎゅっと握る。

 

 きっと、誰も私のことをわかってくれない。

 

 そんな考えが、胸の奥に沈む。

 

 強いのに。

 魔物を倒せるのに。

 なのに、どうして評価されないのか。

 

 ただ——泣かなかった。

 

 泣いてしまったら、本当に自分に負けた気がする。

 

 悔しいと認めることが、弱さを認めることのようで。

 

 それだけは、したくなかった。

 

 音のない部屋。

 まぶたの裏は暗く、考えごとだけが渦を巻く。

 

 シーツだけが、私を優しく包んでいる。

 

 その静寂を、乱暴に叩き割る音が響いた。

 

 ドンッ。

 

 心臓が跳ねる。

 

 体が反射的に起き上がる。視線は扉へ。

 

 誰だろう。

 

 宿のおばさんは、あんな叩き方をしない。もっと遠慮がちで、二回ほど控えめにノックする。

 

 じゃあ、ミアレ?

 

 姉様?

 

 わからない。

 

 でも、もしミアレだったら。

 

 顔を合わせる勇気がない。

 

 あの優しい目で見られたら、余計に惨めになる気がする。

 

 それなのに、半分は——

 

 そうであってほしい、と思っている自分もいる。

 

 矛盾に気づいて、視線を落とす。

 

 ベッドの縁に座り、そっと床に足をつける。

 体重を乗せると、床板がわずかに軋んだ。

 

 ドンッ。

 

 また一つ。

 

 そして間を置かず、両手で叩くような連打。

 

 バン、バン、バンッ。

 

 流石に煩い。

 

 眉をひそめながら、忍び足で扉へ近づく。

 杖は持たない。ただ、息を殺す。

 

 扉の前に立ち、ノブを握る手が震える。

 

 深呼吸を一つ。

 

 ゆっくりと、ギィ、と音を立てて扉を開けた。

 

 そこに立っていたのは、知らない少女だった。

 

 くすんだ金髪。少し跳ねた前髪。

 くたびれた袖の服に、レザーの胸当て。

 首から下げた真新しい冒険者証が、朝の光を受けて小さく光る。

 

 年は、私とそう変わらない。

 

 でも、その目は。

 

「出てきた」

 

 真っ直ぐだった。

 

 まるで迷いを知らないみたいに、私を見ている。

 

 その瞳に映る自分の顔は、きっとひどい顔をしているのだろう。

 

「ねぇ、おばさんから聞いたけど、あなた冒険者なんでしょ!」

 

 明るい声。

 

 間髪入れず、続ける。

 

「一緒に行こうよ!」

 

 ——一緒に?

 

 思考が一瞬止まる。

 

 部屋の前に立って、いきなりそんなことを言うなんて。

 

 戸惑いと、苛立ちと、ほんの少しの驚き。

 

 彼女は私の事情を知らない。

 Eランクのままだということも、昨日の試験のことも。

 

 それなのに。

 

 まるで私が当然、外へ出る前提で話している。

 

 胸の奥が、わずかに揺れた。

 

 動きたくないと思っていたはずなのに。

 

 布団の中で、世界から隠れていたかったはずなのに。

 

 目の前の少女の真っ直ぐな瞳が、それを許さない。

 

 私は、何かを言おうとして、口を開く。

 

 声が出るまで、ほんの少し時間がかかった。

 

 手を引かれ、そのまま一歩踏み出す。

 

 部屋の敷居を越えた、それだけのこと。

 

 世界が変わるわけじゃない。昨日の試験結果が覆るわけでも、胸の奥に残る引っかかりが消えるわけでもない。

 

 それでも。

 

 この一歩は、ようやく踏み出せた一歩のような気がした。

 

「いつまでも黙ってないで話してよ」

 

 振り返った少女が、明るく言う。

 

「私ね、エルネ。昨日から冒険者になって、ここに泊まることにしたの。見て、これ。冒険者証!」

 

 誇らしげに、首から下げた冒険者証を指でつまみ、私の目の前に掲げる。まだ傷一つないその表面が、朝の光を受けてかすかに光った。

 

 ニッコリと歯を見せる笑顔。

 

 ズキン、と胸が痛む。

 

 少し前——いや、昨日までの私が、そこにいる。

 

 期待と、希望と、自分はきっとやれるという疑いのない顔。

 

 ああ、この子は知らない。

 

 私が今、どんな気持ちでいるのか。

 

 胸の奥に沈んだ重さも、Eランクの文字を見たときの息苦しさも。

 

 でも、それをわざわざ口に出すことでもない。

 

「私は……リュシア、です」

 

 絞り出すような声。自分でも驚くほど覇気がない。

 

「ねぇ、冒険者ランクは?」

 

 無邪気な問い。

 

 その一言に、喉が詰まる。

 

 呼吸が、一瞬止まる。

 

 目を逸らし、唇を開く。

 

「E、ランク」

 

 短い言葉なのに、やけに重かった。

 

「へぇ〜! 試験にいなかったから? じゃあ先輩だ!」

 

 エルネはぱっと顔を輝かせる。

 

「リュシア先輩って呼んでいいです?」

 

 先輩?

 

 私が?

 

 昨日、自分の未熟さを突きつけられたばかりの私が。

 

 こそばゆいような、居心地の悪いような感覚が胸をかすめる。

 

「いい、ですけど……」

 

「うん、決まり!」

 

 その勢いに押されるように、私たちは通路を抜け、宿のカウンターへ出た。

 

「おはよう」

 

 宿のおばさんが、気さくに声をかけてくる。

 

「おはようございます」

 

 返事は、思ったより普通に出た。

 

 部屋の外に出てしまえば、意外と呼吸はできる。気持ちが晴れたわけじゃない。ただ、誰かと一緒にいると、思考が一点に沈まずに済む。

 

「朝ごはんにするかい? ちゃんと宿泊代金を払ってる子には出すようにしてるんだからね」

 

 おばさんは、テーブルに突っ伏して眠る、いつもの酔っぱらいのおじさんを横目で見る。どうやらまだ夢の中らしい。

 

「やったー。食べまーす!」

 

 エルネが元気よく返事をする。

 

 ほどなくして、テーブルに並んだのは、いつもの朝食。

 

 黒パン。

 塩辛いベーコンと目玉焼き。

 豆入りのスープ。

 

 特別でもなんでもない、見慣れた光景。

 

「黒パン……」

 

 隣から、少し落胆した声が漏れる。

 

 その気持ちはわかる。黒パンは固くて、味気ない。焼きたてでもなければ、特別美味しいものでもない。

 

 けれど私は、昨日の昼にジュースを飲んでから何も口にしていなかった。

 

 手が、自然と動く。

 

 黒パンはスープに浸して、少し柔らかくしてから口へ運ぶ。

 目玉焼きは、塩気の強いベーコンと一緒に食べると、ちょうどいい。

 

 黙って食べる私を横目に、エルネも慌てたように食べ始める。

 

 最初の一口は不満そうだったけれど、空腹には勝てないらしい。次第にペースが上がっていく。

 

 温かいスープが胃に落ちる。

 

 それだけで、胸の奥の固まりが少し緩む気がした。

 

「おばさん。ありがとうございます。私、この子と一緒にギルドに行ってきます」

 

 言葉が、自然と出た。

 

 自分でも少し驚く。

 

 お腹が満たされると、心にも余裕が生まれるらしい。

 

 視界が広がる。周囲の音が戻る。

 

 エルネはその言葉を聞いて、さらに急いで食べ終える。

 

「私、準備してきます! 待っててください!」

 

 ぱたぱたと駆け足で去っていく。

 

 その背中を見送りながら、私は静かに息を吐いた。

 

 少しだけ、笑いそうになる。

 

 あんなふうに、何も迷わず前を向けるのは、どんな気持ちなのだろう。

 

 私も、昨日までは——。

 

 考えかけて、やめる。

 

 私は立ち上がり、部屋へ戻る。

 

 レザー装備を身につけ、ポーチの中身を確認する。杖を手に取ると、冷たい感触が掌に馴染む。

 

 軽く深呼吸。

 

 部屋を出る。

 

 カウンター席で待っていたエルネが、ぱっと顔を上げる。

 

「それじゃあ、行こ! 私、まだ全然わからないことが多いから、一人で行くには心細かったの」

 

 その言葉に、胸の奥が小さく揺れる。

 

 心細いのは、私のほうかもしれない。

 

「ほら、黒パン、持っておいき」

 

 おばさんが、布に包んだ黒パンを差し出す。

 

「ありがとうございます」

 

 ポーチにしまい、エルネの隣へ並ぶ。

 

 宿の扉を押し開ける。

 

 朝の光が、まぶしい。

 

 昨日と同じはずの街並み。

 同じ石畳。

 同じ空。

 

 何も変わっていない。

 

 それでも。

 

 隣にいるこの子の足取りは軽く、私の歩幅を引き上げる。

 

 世界は変わらない。

 

 でも、歩く方向は、自分で決められる。

 

 Eランクのままでも。

 

 迷いを抱えたままでも。

 

 私は、歩いている。

 

 その事実だけが、今は少しだけ救いだった。

 

 エルネは軽やかな足取りで石畳を踏みしめ、朝の街に乾いたリズムを刻んでいた。

 

 その背を、私は少し遅れて追う。

 

 朝焼けに染まる街並みは、見慣れたはずなのにどこか遠い。露店はまだ布をかけられ、通りを行き交う人影もまばらだ。冷たい空気が肺に入り、頭をわずかに冴えさせる。

 

 視線でエルネを追っていたが、ふと彼女は道を外れた。

 

 ……おかしい。そっちにギルドはない。

 

 胸の奥に小さな違和感が走り、私は駆け足になる。石畳を踏む音が、等間隔に響いた。

 

 追いついた先で、エルネは小さな木の椅子に腰掛け、こちらに手を振っていた。

 

「リュシア先輩、ほらここ! 冒険者に必要なもの、ここで売ってるんだって。雑貨屋さん!」

 

 人差し指で示された先には、古びた看板を掲げた小さな店。外壁は色あせ、窓も曇っていて、目立たない。魔道具屋と大差ない、地味な店構えだった。

 

 冒険者用の雑貨屋。

 

 ポーション、保存食、罠解除用の道具、ロープ、携帯用ランタン——。

 

 一瞬、胸が小さく高鳴る。冒険者として必要なものが揃っている場所。けれど同時に、現実が頭をもたげる。

 

 私は今、杖のためにお金を貯めている。余計な出費はできない。

 

 店内を覗くと、薄暗く静まり返っている。

 

「朝早くて営業してないみたい」

 

 エルネは少し残念そうに言った。

 

「帰りに、また寄ってみる?」

 

 私がそう尋ねると、彼女はすぐに「うん」と頷く。

 

 ギルドにも併設の店はある。でも、私はほとんど立ち寄らない。見れば欲しくなる。今は我慢だ。

 

「ギルドに行こう」

 

 開かない扉から視線を外し、前を向く。

 

 歩きながら、私は問いかけた。

 

「ギルドの雑貨屋は?」

 

 エルネは首を振る。

 

「値段比べたけど、高いもん」

 

 その一言で、なんとなく分かる。彼女はただ明るいだけじゃない。ちゃんと見て、考えている。

 

 ギルドが近づくにつれ、胸の奥が重くなる。

 

 見慣れた道なのに、足取りが鈍る。昨日、逃げるように駆けた道。その石畳が、今日は妙に硬い。

 

 息をゆっくり吐く。

 

 足取りが鈍る。

 

 歩幅が狭くなる。

 

 息が浅い。

 

「ねぇ、ほら、ギルドだよ!」

 

 エルネは一人で駆け出し、扉を押しのけて中へ入っていった。

 

 私は取り残されたように立ち尽くす。

 

 昨日、逃げた場所。

 

 一体、何が怖い?

 

 ミアレに会うのが?

 

 それとも、Eランクの自分をまた思い知らされるのが?

 

 ——認められなかった自分を見るのが、怖いのか。

 

 その考えに触れた瞬間、胸がひりつく。

 

 そのとき、ギィ、と音を立てて扉が開き、二人の男が出てきた。驚いた拍子に身体が硬直する。

 

 ぶつかってもいないのに、足の力が抜けた。

 

 視界が揺れ、尻もちをつく。

 

「わりぃ、ぶつかったか?」

 

 差し出された手を取る。

 

「すみません」

 

 男たちは笑いながら去っていく。

 

「ぶつかった感覚すらねぇのお前おかしいだろ? ははは」

 

 ——誰も、私を見ていない。

 

 怖がっているのは、私だけだ。

 

 その背中を見送り、私は扉に向き直った。

 

 息が止まる。

 

 周囲の音が、遠のく。

 

 視界にあるのは、ただその扉だけ。

 

 手を伸ばす。

 

 重く感じる取っ手を押し、ゆっくりと中へ踏み込む。

 

 変わらない光景。

 

 受付のお姉さん。掲示板の前に立つ冒険者。汗と酒の混ざった匂い。

 

 ミアレはいない。

 

 当然だ。家の用事があると言っていた。

 

 そこでようやく、肺に溜め込んでいた息を吐き出した。

 

 肩の力が抜ける。

 

 気を張っていたのが、馬鹿みたいだ。

 

 視線を巡らせると、エルネが掲示板の前で真剣な顔をして依頼を眺めている。

 

 きっと、どれがいいのか分からないのだ。

 

 私はその隣に立つ。

 

「ねぇ、先輩、簡単なやつからしましょ」

 

 掲示板には、見慣れた依頼が並んでいた。

 

 ホーンラビットの討伐。

 薬草採取。

 ベリーナッツの収集。

 

 変わらない、Eランクの並び。

 

 私はベリーナッツの依頼札を手に取る。森の浅い場所で採れる、安全な依頼。

 

 それを見て、エルネも薬草採取を選ぶ。

 

「これにする〜」

 

 依頼書を掲げ、内容を確認しながら、少し唇を尖らせる。

 

「ん〜……ねぇ、全部、報酬少ないね」

 

「Eランクの依頼だから、仕方ないよ」

 

 自分で言いながら、胸が少しだけ痛む 

 

 私は依頼書を握り直す。

 

 隣に、エルネがいる。

 

 まだ不安は消えない。Eランクのまま。評価も変わらない。

 

 でも、足は止まっていない。

 

 受付へ向かう。

 

 一歩一歩。

 

 昨日は逃げた場所へ、今日は歩いて行く。

 

 それだけで、今は十分だった。

 

 依頼書に受領印が押される乾いた音が、やけに大きく聞こえた。

 

 ベリーナッツの収集と、薬草集め。

 どちらもEランクらしい、地味で確実な依頼。

 

 紙を受け取りながら、私はもう一度内容を目でなぞる。

 

 薬草の特徴。葉の形。茎の色。採取方法。

 

 ——根は残す。乱獲はしないようにと。

 

 ミアレに教わったのは、それくらいしか覚えていない。葉の縁が波打つとか、匂いが違うとか、説明は受けたはずなのに、肝心なところが曖昧だ。

 

 視線を上げた瞬間、ぐい、と顔のすぐ前に影が差した。

 

「先輩、さっきから顔色悪いよ?」

 

 エルネが覗き込むように距離を詰めている。

 

 どきり、と胸が跳ねた。

 手のひらにじわりと汗が滲む。乾いた喉を、唾を飲み込んで誤魔化す。

 

「……大丈夫です。外、出れば平気なので」

 

「ほんと?」

 

 疑うような、でも責めるわけではない声音。

 返事を待つより早く、エルネはくるりと踵を返して扉へ駆け出した。

 

「はやくはやく〜」

 

 その背中を追いかけた瞬間、ギルドの扉が内側から開く。

 

 黒い影。

 

 エルネが小さな声を上げ、どん、と鈍い音とともに尻もちをついた。

 

 一瞬、空気が張り詰める。

 罵声は飛んでこない。

 

 見上げると、そこに立っていたのは見覚えのある男だった。

 

 Dランクの冒険者、ガルド。

 

「あ……ごめんなさい」

 

 エルネは慌てて謝る。

 ガルドは無言で手を差し出し、引き起こした。

 

「見ない顔だな」

 

 低い声。

 一瞬だけ私と目が合う。すぐに逸らされ、エルネへ落ちる視線。

 

 その大きな手が、ぽん、とエルネの頭に乗った。軽く押され、彼女は半歩後ろへ下がる。

 

「前は見ろ」

 

 それだけ言って、ガルドはいつもの隅の椅子へと歩いていく。

 

 怒っているわけでもない。優しいわけでもない。

 ただ、それだけ。

 

 私は立ち尽くすエルネの背をそっと押した。

 

「行こ、エルネさん」

 

 扉を抜けると、朝の光が差し込んだ。

 

 石畳を二人分の足音が刻む。

 

「ねぇ、見てた? 私ちゃんと謝ったのに、あのおじさん素っ気なくて感じ悪かった」

 

 少し頬を膨らませるエルネ。

 

 私は曖昧に笑う。

 ガルドと深く話したことはない。でも、一度だけ助けられたことがある。危うく囲まれかけたとき、魔物を叩き伏せてくれた曖昧な記憶。

 

 そのことを、今ここで言う必要はない。

 

「ねぇ、先輩、あの人知ってるの?」

 

「少しだけ」

 

 息を吸って、吐く。

 

「Dランクのガルドさんだって。冒険者の中では有名な人みたいです」

 

「Dランク? ふぅん」

 

 エルネはすぐに表情を切り替える。

 

「じゃあ、私もすぐDランクになって、我が物顔でギルドにいれるように頑張ろ。冴えないおじさんみたいじゃなくて、キラキラの冒険者に!」

 

 無邪気な宣言。

 その足取りは軽く、私との足音のリズムがズレた気がした。

 

 Dランク。

 

 その響きが胸に刺さる。

 

 Dランクにすらなれなかった私。

 筆記で落ちた。実技はなく、紙の上の問題で。

 

 強ければいい。

 勝てばいい。

 成果を出して、誰かが「強い」と言ってくれた。

 

 そう思っていた。

 

 でも、ギルドは違う。

 

 何を評価したいのか、まだ分からない。

 

 ——でも、また受ければいい。

 

 そう思う。

 

 隣を見る。

 エルネは未来しか見ていない。

 

 次の昇格試験。

 もし私がまた落ちたら。

 

 そのとき、エルネはDランクになっているかもしれない。

 

 じゃあ、私は?

 

 視線が自然と地面へ落ちる。

 

「リュシア先輩」

 

 ぐい、と手が引かれる。

 

「下を見ないで前を見ましょう!」

 

 反射的に顔を上げる。

 

 目の前には城門。

 その向こう、陽光に照らされた街道が続いている。

 

 風が吹き抜ける。

 外の空気は、ギルドの中よりずっと軽い。

 

 前を見ろ。

 

 さっきのガルドの言葉が、遅れて胸に落ちてくる。

 

 前を見ないでぶつかったのはエルネ。

 でも、本当に前を見ていなかったのは、私の方。

 

 ランク。

 評価。

 過去。

 

 全部、足元ばかり。

 

 エルネが笑う。

 

「行きましょ、先輩!」

 

 引かれるまま、一歩踏み出す。

 

 城門を抜けると、光が視界いっぱいに広がった。

 

 何も変わっていない。

 

 それでも。

 

 私は顔を上げたまま、陽の差す先へと駆け出した。

 

 前を向く理由は、まだはっきりしない。

 けれど隣にいる誰かが、そう言ってくれるなら。

 

 それだけで、足は止まらなかった。

 

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。