いつもの街道だった。
もう何度も歩いたはずの、同じ平原の景色。
背の低い草が一面に広がり、遠くで風に揺れている。空は高く、雲はゆっくりと流れていた。平原から吹き抜けてくる風は、青い草の匂いを含んでいて、胸の奥に溜まっていた重たい空気を少しずつ押し出してくれる。
大きく息を吸い込むと、気持ちが軽くなった。
隣を歩くエルネは、私より半歩後ろをついてくる。けれど、決して遅れない。無意識に私の歩幅に合わせているのだと分かる。
その様子が、どこか懐かしかった。
――前の私みたい。
ミアレの背中を追いかけていた時の、自分と重なる。あのときの私は、ただ前を歩く背中が頼もしくて、置いて行かれないようについていくばかりだった。
視線を落とす。
エルネはロングソードの柄の先端を掴むようにして手を置いていた。いつでも抜ける体勢だ。まるで、魔物が現れる瞬間を今か今かと待っているように見える。
バルクもロニオも、ダンジョンでは常に抜剣していた。肘を軽く掛ける程度のときもあったが、空気が張り詰めれば即座に刃が抜かれた。
剣の扱いは、正直よく分からない。
けれど、杖なら違う。
私は手に持った杖を軽く見下ろした。磨かれた木の感触。魔力の通り道。問題はない。杖は抜く必要がない。常に手の中にあって、思えばすぐに力になる。
「なんか、魔物が出てきたりしないかな?」
ぽつりと、エルネが言った。
期待に満ちた声だった。
今日は収集依頼だ。ベリーナッツと薬草の納品。危険度は低い。
それなのに、彼女の瞳はきらきらと輝いている。
「じゃあ、討伐依頼にすればよかったんじゃないですか?」
そう問うと、エルネは少し困ったように眉を寄せた。
「せっかく、冒険者になったから……えーと、手応えというか、実感が欲しいんです! 先輩!」
その言葉に、胸の奥がちくりとした。
――分かる。
私も、仮証を手にしたとき、真っ先にダンジョンへ駆け出した。危険よりも、冒険者になったという実感が欲しかったのだ。
「人に迷惑を掛ける悪い魔物を倒すのは良いことだけど、今は依頼をやります。そのついでに見かけたら、そのときは倒そうね」
できるだけ落ち着いた声で言うと、エルネの顔がぱっと明るくなった。
「やった! 私がギッタンギッタンに倒しますから、先輩は手を出さなくて大丈夫です!」
胸を張る姿が少し可笑しい。
けれど、その無邪気さが眩しかった。
前を向き直りながら、私は心の中で別のことを考えていた。
ベリーナッツの依頼。
私がこれを選んだ本当の理由。
――ホーンラビットの丸焼きが食べたい。
討伐依頼だと、規定数ぴったりでは足りない。食べる分を確保するには、もう一体余計に仕留めなければならない。目視で追いかけるのは難しい。
だから、罠を使う。
ミアレが教えてくれたやり方。
ベリーナッツとツタ紐で足を絡め取る簡易罠。時間はかかるが、確実だ。
あのとき歩いた森の道を、記憶を辿るように進む。背後では、エルネの足音が規則正しく続いていた。
やがて、視界がひらける。
低い木々に、赤と紫の果実が実っている。陽の光を受けて、宝石のように艶やかだ。
「なにあれ! あれがベリーナッツ?」
「そう、ベリーナッツ。赤色と紫色のものを収穫して、ギルドに納品します」
ポーチから畳んでいた革袋を取り出す。少し大きめのものだ。
「これ、食べられるよね?」
「はい」
私は一つ摘み取り、口に運ぶ。
枝先が小さく揺れ、葉が擦れる音がする。
穏やかな空の下、風と木の音だけが響く。
噛み潰すと、果肉が弾けた。
甘さが広がり、すぐに酸味が追いかけてくる。
この味を、私は覚えている。
隣では、エルネが一粒を口に入れ、ぎゅっと目と口を閉じた。
「しゅぱい!」
その顔があまりにも大げさで、思わず笑いそうになる。けれど次の瞬間には、また一つ摘んで口に運んでいる。
「……好きなんですか?」
「うん。なんかクセになりそう!」
革袋に果実を入れながら、私は空を見上げた。
魔物もいない。
緊張もない。
ただ、風と甘酸っぱい匂いだけがある。
こんな時間も、悪くない。
後輩ができて、私は少しだけ前を歩く側になった。
まだ頼りないかもしれないけれど、それでも今は、確かに先輩だ。
枝を揺らしながら、赤と紫の実を摘み続ける。
依頼のため。
罠のため。
そして、丸焼きのため。
平原の風がまた吹き抜けた。
その中で、エルネの「しゅぱい」が、もう一度響いた。
革袋がいっぱいになった頃、私は森の奥へ足を向けた。
森の奥は、平原とは違う匂いがする。
湿った土と、若い葉の青い香り。差し込む光はやわらかく、木々の隙間からこぼれる陽光が、地面にまだら模様を描いていた。
「リュシア先輩、何してるんですか?」
背後から覗き込むような声。
私はしゃがみ込んだまま、手元のツルを引き寄せる。
少し前に切っておいた丈夫なツルを、近くの木の根元に固定する。しなり具合を確かめ、先端で輪を作る。地面すれすれに、自然に見えるように。
ミアレに教わった罠だ。
「罠です。ホーンラビットをこれで捕まえられるんです」
「えっ、これで?」
エルネは目を丸くする。
「ここに手を置いてみてください」
言われるまま、エルネはかがみ込み、輪の中に手を入れた。
「ぴょんぴょん」
合図のつもりで呟くと、エルネが面白がって手を跳ねさせる。次の瞬間、ツルが弾けるように締まり、手首にきゅっと絡みついた。
「わ、わ! すごい! 引っかかる! これで捕まえられるんだ!?」
目を見開き、大袈裟なくらい驚いている。
うまく出来ている。
私は満足して罠を解き、もう一度仕掛け直した。
「今度は一緒にやろう」
枝にツルをかける位置。
輪の高さ。
張り具合。
ひとつずつ説明しながら、私はエルネにやらせてみる。彼女は真剣な顔で、けれどどこか楽しそうに、私の手元を真似していく。
仕上げに、先ほど収穫したベリーナッツをばら撒いた。赤と紫の実が、落ち葉の上に散る。
これでいい。
しばらく、エルネはぼうっとその光景を見つめていたが、ふと気づいたように顔を上げた。
「これ、餌ですか?」
「はい。絶対に来てくれるとは言えませんけど」
そう答えると、エルネは突然、罠の前に両手を突き出した。
「私がおまじないを掛けます。うぅ〜……来い来い来い来〜い、ホーンラビット!」
真顔で念じる姿があまりに真剣で、思わずくすりと笑いがこぼれる。
「なんですか、それ」
言った瞬間、エルネ自身も吹き出した。
二人で小さく笑い合う。
木陰の隙間から差し込む陽光が、エルネの金髪を照らす。揺れるたびにきらきらと光り、まるで森の中に落ちた一片の陽だまりのようだった。
罠は三つ、少し離れた場所に設置した。
最後の一つを仕掛け終え、私が立ち上がろうとしたとき、エルネがじっとこちらを見ていることに気づく。
「ねぇ、先輩」
「はい?」
「もしかして……ベリーナッツの依頼って、本当はホーンラビットを捕まえるのが目的で受けたの? そうですよね?」
鋭い。
私は小さく笑った。
「ふふ、そう。バレちゃいました」
「やっぱり!」
エルネは満足げに頷く。
だがすぐに首を傾げた。
「でも、捕まえてどうするの? 依頼でもないのに?」
真っ直ぐな視線。
私は胸を張った。
「食べます。ホーンラビットを丸焼きにして食べます」
堂々と宣言する。
「丸焼き?」
エルネはまだ実感が湧かない様子で、ぱちぱちと瞬きをする。
「ほら、冒険者っぽい食事じゃないですか?」
焚き火を囲んで、串に刺して焼く。
きっと、外はぱりっと、中は柔らかく。
煙の匂いと肉の香ばしさ。
想像しただけで、少しだけ胸が躍る。
「うんうんうん。食べたいかも!」
エルネの瞳がきらきらと輝いた。
その無邪気さが、少しだけ眩しい。
罠に、丸焼きに、薬草。
全部まとめて手に入れればいい。
ここから、罠がかかるまでの時間を薬草探しに使う。
ミアレの時には待ったけれど、これなら合理的で、隙がない。
私は周囲を見渡し、森の奥へと視線を向ける。
――待つだけなんて、もったいない。
「薬草も探そっか」
「はい、先輩!」
元気な返事が返る。
私は杖を握り直す。
森の風が葉を揺らし、さわさわと音を立てる。
私の風は止まらない。
そう、心の中で呟いた。
けれど、足が止まった。
ミアレから教わった薬草の知識は、罠を見て回る途中に聞き流した程度のものだ。「ついで」に教えられただけで、正直、深くは理解していない。
私はエルネに問いかける。
「エルネさん、薬草はわかります?」
問いかけると、エルネはくるりと振り向き、得意げにポーチへ手を突っ込んだ。
「困ったときは、ほら、みて、冒険者のススメ!」
取り出したのは、一冊の本。見覚えがある。ギルドの棚にも置いてあった入門書だ。ページをぱらぱらと捲りながら、声に出して読む。
「えーと、薬草は、朝露が残る時間帯、花が咲く直前の若葉、葉裏に白い筋が明瞭なもの、って。場所は……」
指で行を追いながら続ける。
「湿地周辺と川沿い、ダンジョン入口付近、森林に群生、ってあります」
――ダンジョン付近。
その言葉に、胸の奥がわずかに冷えた。
このあたりのダンジョンといえば、あの大空洞だ。
バルクとロニオと一緒に入った、あの場所。
私は息を整え、何でもないように言った。
「それじゃあ、近くのダンジョンに行こ」
「ダンジョン!」
エルネの声が一段高くなる。
ぱっと表情を輝かせ、軽やかな足取りで隣に並ぶ。
行きたくてたまらない、という顔。
――前の私なら。
きっと同じ顔をしていた。止められても入ったかもしれない。
けれど、あの洞窟の中にいるものを思い出すと、足が少しだけ重くなる。
ジャイアントバット。
天井から急降下してきた影。
腕を掴まれたときの、あの感触。
爪の冷たさ。羽音。湿った息。
そして、耳に残る叫び声。
息を吐く。
言葉にしないだけで、あれは軽い傷になっている。
もし見かけたら――今度こそ、一匹残らず倒してやる。
そんな、少し歪んだ衝動が胸の奥で渦を巻く。
「どこにあるんですか? ねぇ、行きましょ! 早く!」
エルネは駆け足で先へ出る。
「たぶん、ひらけたところで、地面が踏みしめられた道筋を、街道の反対側にまっすぐ行けば――」
途中で言い淀む。
「先に行って見てきます!」
そう言い残して、エルネは森の奥へ走り去った。
小さくなる背中。
ドクン、と心臓が跳ねる。
もし、私だったら?
初めてのダンジョンを前にして、どうした?
――入る。
間違いなく、入る。
「え? ちょっと、待って……!」
考えるより先に、私は走り出していた。
木陰を抜け、踏み固められた道を辿る。
やがて視界がひらける。
そこにあったのは、ぽっかりと地面に開いた巨大な穴。
黒い口を開けたまま、静かにこちらを見上げている。
ダンジョン。
その前に、エルネは立っていた。
ほっと息を吐く。
ちゃんと入口で止まっている。
洞窟の奥から、淀んだ空気がゆっくりと流れ出てくる。
冷たく、湿り気を帯びた風。外の森の匂いとはまるで違う。
内部は幾重にも繋がっている構造だと聞いた。
だから空気は動く。
生き物のように、呼吸している。
その風を浴びながら、エルネは口角を上げ、目を輝かせた。
「凄い、先輩! 少し入ってみませんか?」
上ずった声。
私はエルネの顔を見て、それからダンジョンの奥へと視線を向けた。
暗闇が、そこにある。
奥は見えない。
けれど確かに、何かが潜んでいる気配がする。
体が、吸い込まれそうになる。
一歩、足が前に出る。
私が強い。
私が強いことを、エルネに見せられる。
いや。
違う。
エルネに、見せたい。
足裏に、境界線の感触が伝わる。
陽の光が背中で揺れ、前方は闇。
一歩、踏み込む。
森の匂いが遠ざかり、湿った冷気が肌を撫でる。
心臓が早鐘を打つ。
強さを、証明できる。
もう一歩、踏み込む。
足元の小石が転がり、洞窟の中へ乾いた音を響かせる。
心臓が高鳴る。
恐怖か、興奮か、分からない。
じっと、その暗闇の奥を見つめた。