それから、少しの休憩を挟んだ。
街道沿いの開けた場所。小川のせせらぎが遠くに聞こえ、平原から吹き込む風が火の跡をかすかに撫でていく。エルネは革袋から水の入った皮袋を取り出し、口をつけて喉を鳴らした。
「ふぅ……」
満足げな吐息。
それを差し出され、私も一口飲む。ぬるい水が喉を通り、体の奥に落ちていく。冷たくはない。それでも、じんわりと落ち着く感覚があった。
だが、落ち着きは長く続かなかった。
じっとしていられない。
それは私も、そしてエルネも同じらしい。
「罠、見に行ってみよーよ」
エルネの提案に頷き、ベリーナッツと薬草の入った革袋を持ち上げる。すぐ戻るつもりだ。焚き火の場所と集めた枝を一度振り返り、それから森へ足を向けた。
木々の間をすり抜け、木陰に入る。土を踏み、枯葉を踏みしめる音が重なる。二人分の足音。
一つ目の罠は手付かずだった。
「捕まってないね」
エルネがぽつりと零す。
罠はそのままにして、次へ向かう。
遠目に見えた二つ目の罠。近づくにつれ、違和感がはっきりする。
荒らされている。
「あれ? おかしいよ? 逃げられちゃった?」
エルネが屈み込む。私も遅れて隣に立ち、地面を観察した。
ツタは引き千切られている。以前、ミアレと森オオカミを確認したときと似ているが、違う。
白い毛が散っている。これはホーンラビットのもの。
だが足跡が違う。
小さな、人型の足跡。ひとつではない。無数に重なり、群れているような跡。
地面には抉れたような凹みもある。
「エルネさん、何の仕業か分かります?」
「私? うーん……」
足跡と切れたツタを見比べ、唸る。
「ボア? かな? ゴブリン? 人の獲物を横取りする悪い魔物なのは確かだね」
ゴブリン。
私も同じ答えに辿り着いていた。
「私もゴブリンだと思います。おそらく、ですけど」
「もしかして、近くにいるってこと?」
エルネの手が剣の柄を掴む。今にも抜き放ちそうな構え。顔は期待に満ちている。
倒したい。
戦いたい。
その気持ちが、隠しきれないほど伝わってくる。
――今は、違う。
今日はホーンラビットの丸焼きだ。
一呼吸置く。
「次の罠を、見に行きましょう。ゴブリンがいるかもしれませんから、気をつけて」
「うん。何かいたら、私に任せて!」
どうしよう。
この子の勢いに飲まれてしまいそうだ。
ミアレならどうしただろう。
きっと足跡を一目で断定し、周囲の気配を探りながら静かに進む。
私は周囲を見渡す。葉の擦れる音、鳥のさえずり。気配はない。
後ろで鼻息荒く歩くエルネの存在感のほうが、よほど目立っている。
三つ目の罠。最後の罠だ。
そこに、一匹のホーンラビットがいた。
足を罠に取られ、身動きが取れない。耳を立て、顔を忙しなく動かし、もぞもぞと口を動かしている。
「ホーンラビットって、よく見ると可愛い」
その一言が、胸を小さく刺した。
「私が、ここから魔法で狙撃します。見ていて下さい」
杖を構える。
失敗はしない。
「エアーブロー」
放たれた風の塊が一直線に飛び、ホーンラビットに直撃する。短い断末魔。体が弾かれ、地面に転がる。
「当たった!」
エルネの声。
ホーンラビットは動かない。
一歩近づく。エルネも後ろをついてくる。
「死んじゃったの?」
「はい、倒しました」
力の抜けた体。
伸びた四肢。
ミアレの時と同じだ。
ナイフを抜き、頭を掴む。首筋に刃を当て、一気に引く。血が溢れ出す。
血抜き。
迷いはない。
肉を食べるなら必要な工程だと、ミアレに教わった。
足を掴み、逆さにする。
ポトリ、ポトリ。
赤い雫が土に落ち、染みていく。
その光景を、エルネは黙って見ていた。
視線を上げる。
眉間に皺を寄せ、唇を噛んで怪訝そうに見下ろして手をぎゅっと握る。
そして、ぽつりと落とした。
「……かわいそう」
その言葉が、思った以上に重く胸に落ち、手の動きが止まった。
かわいそう。
私は、何をしたのだろう。
倒した。
仕留めた。
食べるために血を抜いた。
それだけ。
それでも、その一言は刃のように残った。
可愛いなら食べなければいいの?
土に吸い込まれていく赤を見つめながら、私は言葉を探せずにいた。
耳か足を掴んでそのまま持ち歩くのは、どうしてもできなかった。
エルネの視線が、痛い。
私はポーチから黒パンを取り出し、それを包んでいた布だけを抜き取った。黒パンはすぐにしまい直す。布を広げ、動かなくなったホーンラビットをそっと包んだ。白い毛並みが見えないように、血がにじまないように、丁寧に隠す。
それを、ベリーナッツの入った革袋の中へ入れた。
隠した。
けれど、エルネの視線は変わらない。
――かわいそう。
あの一言が、まだ残っている。
抵抗がなかったわけじゃない。初めて捌いたとき、私も同じように思った。でも、魔物だと割り切ればできた。畑を荒らす大ネズミと同じだ。ホーンラビットも、巡り巡って何かしらの害をなす存在。
ならば悪い魔物だ。
それだけでいい。
私は、それでいい。
冒険者になるというのは、こういうことだと思う。
戦って、勝って、稼いで、食べる。
その裏では、みんな同じことをしている。
バルクも、ロニオも、ミアレだって。倒した魔物を捌き、肉にして、火にかけた。
私はそれを真似ただけ。明確な答えがあるわけじゃない。
それでも。
「エルネさん、これが……冒険者なんだと、私は思うんです」
断定はできなかった。
私はまだ試験に落ちた身だし、冒険者という言葉にワクワクも希望も抱いている。
「仕掛けた罠、見に行きましょう。ホーンラビットが引っかからないうちに」
「……うん」
エルネは静かに頷いた。
森はさっきよりも静まり返っている気がする。
移動中も会話はない。エルネは半歩以上、距離を空けて後ろを歩く。私は何度か振り返り、様子を窺った。
ホーンラビットの丸焼きは、冒険者らしい。
だけど、嫌なら食べなくていい、なんて言葉は出なかった。それは違うと思った。
バルクなら冗談めかして言っただろう。ロニオなら理屈を並べただろう。ミアレならきっと、納得できる説明をした。
私は?
どれもできない。
これが冒険者だから。
本当にそれで合っているのかは分からない。
足音だけが響く。木々がざわりと揺れた。
罠を仕掛けた木の目印が視界に入る。急ぐ理由はないのに、視線を向けた瞬間――ホーンラビットが引っかかっているのが見えた。
その近くに、もう一体。
緑の肌、小柄な体。横長の瞳孔。手には硬木の棍棒。
ゴブリン。
振り上げられた棍棒が、罠のホーンラビットへ向く。
杖を構えきる前に魔力を通す。
「エアーブロー!」
即射。
思考よりも早く、体が動いた。
風の塊がゴブリンの頭部に直撃する。棍棒を振り下ろす直前、体が横へ流されるように吹き飛び、地面へ叩きつけられた。
動かない。
倒した。
その瞬間、背後から叫び声が上がる。
「やめて、殺さないで!」
エルネが背中に飛びついた。
体勢が崩れ、前へ倒れ込む。
ドサリ、と土の音。
「ゴブリン……」
そう言いかけたエルネは、前を見た。
ホーンラビットはまだ生きている。罠に足を取られ、必死にもがいている。
「あれ……え? 先輩、兎さん、無事? ご、ごめんなさい。私、てっきり……また兎さんを」
彼女は慌ててどき、立ち上がる。
私は彼女の手を掴み、引き起こされた。
「剣を抜いて、エルネさん」
杖を構える。
ゴブリンが一体だけでいるはずがない。群れる。ダンジョンで何度も見た。
「え……?」
エルネの声は揺れている。
「私には……できないです。かわいそう」
ゴブリンにも?
さっきまで倒すと息巻いていたのに。
周囲を見渡す。
草を踏む音。枝が折れる音。足音が近づく。
「あの、見逃してあげませんか?」
見逃す?
それはできない。
ゴブリンは悪い魔物だ。人の獲物を奪い、畑を荒らし、人を襲う。近くにいるなら、倒すべきだ。
視線の先に、ようやく姿が現れる。
四体。
それぞれ棍棒を持ち、そのうちの一匹は、頭の潰れたホーンラビットを足を掴んで引きずっていた。
血が、地面に線を引く。
私は杖を握り直した。
噛み合わない言葉の間で、森の空気が張り詰めていく。
ゴブリンと視線が合った。
濁った横長の瞳孔がこちらを射抜く。
ギャッ、ギィ、と耳障りな唸り声を上げ、三体が一斉にこちらへ動き出した。
そのとき、ようやくエルネが反応する。
「ゴブリン……?」
遅い。
そう思うより先に、私は杖を前に突き出し、魔力を通す。
「エアーブロー」
風の塊を二発、即射。
圧縮された空気が弾丸のように放たれ、先頭の二体をまとめて打ち抜いた。
ギ、と短い声を上げたかと思うと、体が後方へ弾き飛ばされ、そのまま地面に叩きつけられる。もがく暇もなく、四肢が伸びきった。
残る一体が足を止める。
「ゴブリンまだいたの? あ、先輩、私も、私も戦いたい」
振り返ると、エルネはようやく状況を理解したようだった。
さっきまで、きっとホーンラビットしか見えていなかったのだろう。
柄に手をかけ、ぎこちなく剣を引き抜く。
刃は少しくすみ、手入れが行き届いているとは言い難い。
バルクの剣とは違い、切っ先はやや短く、軽い。扱いやすいはずなのに、どこか頼りなく見える。
状況を確認する。
二体とも沈黙。一体は動揺している。
あのとき入ったダンジョンも同じだった。
群れの一体を素早く倒すと、残りは様子を窺う。
「エルネさん。ゴブリンは数が減ると動揺します。今がチャンスです」
「はい!」
返事だけは威勢がいい。
奥では、ホーンラビットの遺骸を掴んだ別のゴブリンが、何かを叫びながら立ち尽くしている。
エルネは剣を大振りに構えたまま駆け出した。
風を切る音。
次の瞬間、鈍い衝撃音が響く。
斬る、というより叩き潰すような一撃だった。
振り下ろされた勢いのまま、ゴブリンは地面に伏し、押し潰される。
かろうじて切っ先の跡が残っている。
バルクもロニオも、ほぼ一刀両断だった。
ジャイアントバットを真っ二つにしたあの光景が、脳裏をよぎる。
――武器に振るわれているな。
試験会場で聞いた言葉。
確かにそうだ。
今のエルネは、まさにそれだった。
だが、止める暇はない。
「あ、兎さん……」
ゴブリンが引きずっていたホーンラビットが、エルネの視界に入る。
彼女は再び剣を振りかぶった。
「くらえ!!」
両手で勢いをつけて振り下ろす。
ギャ、と短い断末魔。
グチャ、と嫌な音。
脳天を割る一撃。
刃は頭の半分ほどまで食い込み、わずかな返り血が飛ぶ。
「うっ、なに、気持ち悪い……」
力を失ったゴブリンが崩れ落ち、食い込んだ剣に体重が引かれる。
「ゴブリンって気持ち悪い……離れて」
剣を引き抜こうとすると、潰れた頭部が一緒についてくる。
ゴブリンはただの肉塊になった。
その拍子に、ぐちゃぐちゃになったホーンラビットの体が地面に転がる。
「エルネさん、ギッタンギッタンに倒せましたね」
軽く言うと、エルネはぱっと振り返り、嬉しそうに笑った。
「見てました!? ふへへへ、これで私も冒険者の一員!」
足でゴブリンの遺骸を踏みつけ、剣を抜く。
だが視線はすぐ逸れた。
そして、近くに横たわるホーンラビットへ駆け寄る。
「かわいそう……頭が潰れちゃってる……」
両手で抱きかかえ、こちらを向く。
「先輩、あの……埋めてあげてもいいですか?」
視線が合う。
このホーンラビットは、私たちの罠にかかった個体かもしれない。
だとしたら、奪われたことになる。
けれど同時に、ゴブリンにとっては食事だったのかもしれない。
エルネの「かわいそう」は、最初から最後までホーンラビットにだけ向けられていた。
ゴブリンには、一欠片も向かっていない。
魔物だから。
特にゴブリンは、悪い魔物だから。
きっと、そう。
私は小さく頷いた。
エルネは少し離れた場所でナイフを使い、土を掘る。
土の匂いと手に付く血。
浅い穴だが、小さな体はすっぽり収まった。
最後に土をかける。
「ごめんね、助けられなくて」
そう呟くエルネの横顔は、真剣だった。
その気持ちは分からなくもない。
私は振り返る。
ゴブリンの遺骸は、そのまま放置されている。
誰も埋めない。誰も祈らない。
エルネは何も言わない。
森の中、土をかけられた小さな墓と、転がる緑の死体。
同じ命だったはずのもの。
私はそれを、ただ黙って見ていた。
最後の罠へ向かうため、私は立ち上がった。
罠にかかったホーンラビットを前にして、エルネが静かに言った。
「この子は、逃がしていいですか?」
その問いは、迷いというより願いに近かった。
私は一瞬だけ彼女の顔を見る。
同じ気持ちだった。
もともと罠の確認と解除が目的だった。
人知れず捕まって、ただ弱っていく個体が出ないように。
ミアレのときもそうだった。罠はきちんと解除してから次に進む。
私たちはそれを真似しているだけだ。
「エルネさん、しっかり抑えてて下さい」
「うん」
ホーンラビットは小さな体を震わせ、後ろ足をばたつかせる。
エルネは必死に抱え込むように押さえた。
絡みついたツタを緩める。
引っかかった後ろ足を慎重に外す。
次の瞬間。
力強い脚が地面を蹴り上げ、エルネの腕を振りほどいた。
「わぁ!」
尻餅をつくエルネの横を、白い影が駆け抜ける。
草陰にガサリと音を立て、そのまま森へ消えた。
「行っちゃった。すごい逃げ足」
私は小さく息を吐く。
逃げ切った。それでいい。
周囲に散らばったベリーナッツを拾い集め、一箇所にまとめる。
安全に食べられるように。
前と同じ。
贖罪と感謝。
「薬草も食べるかな」
エルネが隣でしゃがみ込む。
「食べるかもしれませね。一緒に並べます?」
「うん」
薬草を一本取り出し、ベリーナッツの横にそっと置く。
まるで誰かのための供物のように。
「お皿があったら見栄えがよくなるのにね」
嬉しそうに並べ替えるエルネ。
「食べてくれるかな」
「そう、ですね」
けれど、ここへ戻ってきて食べることがあったら。
また罠にかかるかもしれない。
そんな予感が胸をかすめる。
ホーンラビットは可愛い。
エルネの言葉が、静かに沈み込む。
深く息を吐いた。
「戻りましょう」
立ち上がる。
ゴブリンの遺骸が視界の端に入る。
魔石。
本来なら剥ぎ取るべきだ。
けれど今は、その作業をする気になれなかった。
そこまでしてしまえば、このあと丸焼きにするホーンラビットを、どんな気持ちで口にすればいいのか分からなくなりそうだった。
考えを振り払うように、頭を軽く振る。
焚き火の場所へ戻る。
木々の陰を抜け、開けた場所に出た瞬間、詰めていた息がようやく抜けた。
集めておいた枝。
椅子代わりの石。
倒木。
その傍らに、ベリーナッツの袋を置く。
中には布で包んだホーンラビット。
これを、今から小川で捌く。
頭を落とし、内臓を取り出す。
ミアレのやり方。
それを、そのままやるだけ。
でも。
これは。
これこそ、エルネには見せられない。
血抜きで、あんな顔をした。
また何かを言われるかもしれない。
「私、今から近くの小川でホーンラビットを食べられるように捌いてきます」
布に触れる。
熱の失われた、ぬるい感触。
布の一箇所に、赤い点。
それを両腕に抱える。
「あの、リュシア先輩」
呼び止められる。
エルネの視線は、確かに私の腕の中にあるものへ向いている。
さっきと同じ、物悲しい目。
けれど、口にした言葉は違った。
「それは、その……冒険者に必要な……ことなんですか?」
その問いは。
一度、私自身が自分に向けたものだった。
魔石を剥ぐ。
素材を取る。
食材にする。
必要なこと。
喉の奥が少しだけ重い。
「……これは、冒険者に必要なこと、です」
けれど、言った後に胸が少し重い。目を逸らす。
食べて生きるため。
お金のため。
冒険者であるために。
エルネは小さく息を吸い、言った。
「私、見ててもいいですか?」
表情はまだ晴れない。
けれど目は逸らさない。
逃げない、と言っているようだった。
「いいよ。一緒に来て」
平原に風が渡る。
少し凪いだ空気の中を歩き出す。
水音が近付く。
布をめくり、生ぬるいホーンラビットを両手で抱え直す。
その重さを、確かめるように。