小川のせせらぎが、静かに耳に届いていた。
草を踏む音を立てながら、その音のする方へ歩く。
木々の隙間から差し込む光が水面に反射し、透明な流れが視界に入った。
近くまで寄り、屈み込む。
指先で水に触れた。
冷たい。
指に残る体温が、ゆっくりと吸い取られていくような感覚。
流れる水は何も言わず、ただ静かにそこにあった。
遅れて、エルネが隣まで歩いてくる。
私は抱えていたホーンラビットを草の上にそっと置いた。
腰からナイフを取り出す。
青い刃の細身のナイフ。
陽を受けて、刃がかすかに青く光る。
今からやることは決まっている。
頭を外す。
「目は見ないで下さい」
声をかける。
「え……、あ」
エルネのぎこちない返事が返ってくる。
一歩だけ距離を空けた気配。
それでいい。
ホーンラビットの首に刃を当てる。
そして、体重をかける。
メリメリ、メキ、ゴリ。
刃が骨に当たる感触。
音よりも、手に残る振動の方が強く伝わってくる。
骨の軋みが、掌の奥に響く。
刃を反対側にも当てて、首回りの肉を断つ。
「う、う……」
エルネが小さく呻いた。
嫌悪を押し殺したような声。
けれど私は顔を見ない。
集中する。
ここからだ。
首を、捩じ切る。
ミアレが言っていた。
――コツは思いっきりやること。
――中途半端だと出来ないよ。やるなら一気にしてあげて。
私はナイフを脇に置いた。
膝でホーンラビットの体を押さえ込む。
息を吸う。
両手で頭を掴んだ。
手の甲が視界に入る。
自分の指が、少しだけ白くなっている。
息を止める。
そして力を込める。
ゴキッ。
骨が折れる鈍い音がした。
さらに顎を持ち上げる。
ミシ、ともう一度。
ようやく、頭が外れた。
残っていた血がぽたりと落ちる。
わずかな鉄の匂いが鼻をかすめた。
「ひっ、わ、ぁ……やだ……、かわ……ゔっ!」
エルネが言葉にならない声を漏らした。
慌てて両手で口を押さえる。
吐きそうになるのを必死に堪えているのが分かった。
エルネは思わず顔を逸らしたが、それでも、もう一度見た。
私は外れた頭を草の上に置いた。
一息つく。
正直、頭が無くなった方が気が楽になる。
ミアレとやった時のことを思い出す。
あの時は、何匹ものホーンラビットの頭が並んでいた。
今思うと、なかなかすごい光景だった。
けれど、あの時はそんなことを考える余裕はなかった。
ミアレの手の動き。
ナイフの入れ方。
そのやり方を覚えるのに必死だった。
だから、気持ちが追いつく暇もなかったのかもしれない。
冒険者なら。
冒険者だから。
これは出来た方がいい。
これは、必要なこと。
「エルネさん、もっと近くに寄れますか?」
声をかける。
「ひゃ、はい」
少し驚いたような返事。
それでも、エルネはゆっくりと近づいてきた。
屈んだ私の横に、恐る恐るしゃがみ込む。
私はナイフを拾う。
手に持ち直し、その重さを確かめるように強く握った。
ホーンラビットの体を回転させる。
腹側を上に向ける。
毛に覆われた体を撫でるようにして、目的の場所を探す。
「ここ」
指で示す。
「ここが肛門です」
エルネは顔をしかめながらも、必死に見ていた。
「ここから、少し腹側にずらします」
ナイフの切っ先で軽く突く。
「それから、お腹を裂きます」
「ぅ……」
喉の奥で小さく呻く声。
無理に覚えなくてもいい。
手順さえ分かれば、きっと誰でも出来る。
私はナイフを肛門の近くに当てた。
ツン、ツン、と先で位置を確かめる。
指一節ほどずらす。
そして、切っ先を腹に浅く突き立てた。
迷わず引く。
下腹から胸元まで、一息に。
布が裂けるような感触。
毛皮の下の皮膚が開く。
切り込みから、腸が少しだけ溢れた。
血と、獣の匂いが強くなる。
「うぇ……ぇ、うっ……」
エルネがえずいた。
喉の奥が詰まったような苦しそうな声。
それでも逃げない。
「出来たら、川で流しながら内臓を出します」
ホーンラビットの体を持ち上げる。
そのまま小川に浸した。
冷たい水が毛を濡らす。
腹を開き、ナイフで内臓をこそぎ取る。
ぬるりとした感触。
肝や腸が外れ、水の中へ落ちていく。
赤い筋が水に溶ける。
ゆらゆらと揺れながら、下流へ流されていった。
透明だった流れが、一瞬だけ色を変える。
やがて、それも薄まっていく。
水は何事もなかったように、また静かに流れ続けていた。
作業を終えて、私たちは焚き火の場所へ戻った。
ランタンの火をつける。
小さな火は揺れながら灯り、ガラスの中で静かに呼吸しているようだった。
近づけた指先に、じんわりとした熱が伝わる。
その温かさが、冷えていた指をゆっくりと戻していく。
ランタンの蓋を開き、細い枯れ枝を一本差し込む。
火は枝の先に移り、まるで生き物のように燃え広がった。
焚き火の跡。
わずかに残った灰の上には、枝がいくつか整然と並べてあり、その隙間に枯れ葉が詰め込んであった。
私は火のついた枝を枯れ葉の中へ差し込む。
次の瞬間、ぱっと火が広がった。
乾いた葉が一斉に燃え、焚き火が立ち上がる。
パキパキ、と木が焼ける音。
両手を火にかざすと、熱が掌に伝わってくる。
小川で血は洗い流した。
それでも手には、まだわずかに匂いが残っている。
鉄のような、獣のような匂い。
火の温かさの中でも、それは確かにそこにあった。
その時、エルネが隣に腰を下ろした。
「リュシア先輩、すごいです」
私は顔を上げる。
「やることに迷いがないですよね」
思いがけない言葉だった。
思わずエルネの方を見る。
胸の奥に溜まっていた何かが、少しだけ軽くなった気がした。
小さく息を吐く。
「家訓があるんです」
焚き火を見ながら、言葉を続ける。
「言ったなら、やれ。思ったなら、動け。風は成るように成るから」
兄様も。
姉様も。
ずっとそう言っていた。
だから私も。
「自分で決めたことは、自分で裏切りたくないから」
言葉を終えると、エルネがぱっと顔を明るくした。
「わぁ……! 先輩、かっこいい!」
身を乗り出してくる。
「私も! その、その家訓、習っていいですか?」
まっすぐな瞳だった。
少しだけ、くすぐったい。
「はい、いいですよ」
そう答えると、エルネは嬉しそうに笑った。
なんだろう。
まるで私が兄様か姉様になったみたいだ。
視線を落とす。
そこには、解体したホーンラビットの肉があった。
もう、さっきまでの姿はない。
こうなってしまえば、ただの食材にしか見えない。
残っているのは肉と毛皮だけ。
毛と皮。
ミアレと一緒のときは、皮と毛は残していた。
たぶん時間がなかったからだ。
どうだろう。
ここまで来て、皮を剥ぐのも難しい。
そのうえ時間もかかる。
森オオカミを解体したときのことを思い出す。
皮を剥ぎ、肉を取り、魔石まで取り出す。
ミアレは迷いなく、流れるような手つきで作業していた。
見ていると簡単そうだった。
でも、こうして自分でやってみると分かる。
時間がかかる。
それも、かなり。
……たぶん、大丈夫。
丸焼きにするだけなら、そこまで難しく考えなくてもいい。
ただ、このまま焼くのはやりにくい。
私は近くにあった生木の枝を一本拾った。
魔法で折ったばかりの枝だ。
ナイフで先端を削る。
木を削る感触。
やがて枝の先は鋭く尖った。
串にする。
でも、そのままだと燃えるかもしれない。
私は串を一度、小川の水に浸した。
そしてホーンラビットの体に突き刺す。
……。
出来上がった姿を見て、少しだけ困った。
とんでもない見た目になっている。
まあ、仕方ない。
エルネの表情を見る。
曇りはなかった。
もしかしたら、もう可愛いという感情は消えているのかもしれない。
食べ物だと理解したのかもしれない。
わからない。
別に聞く必要もない。
そのときエルネが、楽しそうに言った。
「ほんとに丸焼き、豪快料理!」
そして両手を合わせて続ける。
「私たちの、冒険者ごはんっ!」
冒険者ごはん。
その言葉に、思わず笑みがこぼれた。
「では、焼きます」
私は串を持ち、焚き火の上へとかざした。
エルネはワクワクした顔で見ている。
もちろん、私も少し楽しみだった。
冒険者なら、こういうこともする。
脂がじわりと滲み出る。
「いい匂いがしそうですね」
エルネが期待した声を出す。
私も少しだけ頷いた。
その瞬間だった。
ホーンラビットの毛が、ぼっと燃え上がった。
バチッ!バチッ!
一瞬で、火が広がる。
「え!?」
思わず声が出た。
「わ、わっ!? 先輩!?」
ホーンラビットは火達磨になり、激しく燃え上がる。
毛は縮れ、黒く焦げ、塊になっていく。
そして。
強烈な匂いが鼻に突き刺さった。
焦げた獣の匂い。
焼けた毛の匂い。
まるで焼けた髪の毛のような臭い。
耐えられない。
思わず串を手放し、鼻をつまむ。
エルネも同時に距離を取った。
黒い煙が立ちこめる。
焚き火の中で、ホーンラビットはバチバチと音を弾いていた。
黒い塊になりながら、火の中で踊っている。
「……」
「……」
しばらくして、エルネがぽつりと言った。
「先輩……」
焚き火を見ながら、困った顔で続ける。
「私たちの冒険者ごはん……これ、食べられるんでしょうか……」
私は思わず肩を落とした。
「ぅ……ごめんなさい」
焚き火はパチパチと音を立てながら燃え続けていた。
その中で、黒焦げになったホーンラビットが、静かに焼けていった。
火の勢いが落ち着くまで、私はエルネと並んで焚き火を眺めていた。
さっきまで激しく燃え上がっていた炎も、今は少しずつ静かになっている。
枝が弾ける音だけが、パチパチと小さく続いていた。
けれど、いい匂いなんてものはどこにもない。
鼻の奥には、さっきの異臭がずっと残っている。
焼けた毛の匂い。焦げた獣の匂い。炭の臭い。
それが混ざり合って、どうにも消えない。
炎が小さくなり、焚き火の中が赤く燻る程度になった頃、私は枝を一本拾った。
黒くなった塊をつつく。
それは、さっきまでホーンラビットだったもの。
今では完全に――黒焦げの物体Xだった。
小突いて、焚き火の外へ転がす。
「これ……もう食べられない、よね? 黒焦げだもんね」
エルネがそう言った。
当然の感想だと思う。
目の前にあるのは、食材というよりも炭の塊に近い。
せっかく捕まえて。
せっかく解体して。
食べようとしたのに。
その成果がこれ。
異臭を放つ黒い塊。
思わず唇をぎゅっと閉じて、顔をしかめる。
私はナイフを抜いた。
柄を強く握りしめる。
どこがどの部位だったのか、もう分からない。
そんな炭の塊に刃を突き立てる。
ぐっと力を込めて切ろうとする。
しかし刃は滑った。
硬くなった炭の表面が、ざり、と削れる。
炭の粉がぱらぱらと落ちた。
もう一度。
今度は中心を狙うように刃を突き込む。
表面の硬い層を削りながら、刃が少しずつ食い込む。
押す。
引く。
そして、切り下ろす。
途中で骨に当たった感触があったが、そのまま力を込めて押し切った。
真っ二つに割れる。
断面を覗く。
表面は黒い炭の層。
その下には少し焼けた肉。
そして――
中心は、ピンク色のままだった。
生肉。
まだ、食べられそう。
「エルネさん、これ」
声をかけると、エルネの顔がぱっと明るくなる。
「もしかして……これって食べられそうなんですか?」
「おそらく、ですけど」
断言はできなかった。
表面の焦げを削ぎ落として、もう一度火で炙れば。
今度こそ、大丈夫。
そんな気がした。
少し冷めた頃、私はその肉を手で掴む。
エルネも隣にしゃがみ込み、一緒に焦げを削り始めた。
これが、思ったよりも大変だった。
ガリガリ、と硬い音を立てて削れる。
けれど、一箇所削るだけでもかなり時間がかかる。
焼けた肉ごと切り落とした方が早い。
でも、そうすると食べる部分がどんどん減ってしまう。
……こんなことなら。
ちゃんと皮を剥いでおけばよかった。
一瞬そんな考えが浮かぶ。
私は小さく頭を振って、それを追い払った。
今さらだ。
気がつけば、手はすっかり黒くなっていた。
焦げの粉。
炭の汚れ。
そして、あの匂い。
焼けた毛の匂い。
炭の匂い。
獣の匂い。
全部が手に染みついている。
けれど。
私とは違って、エルネは楽しそうだった。
文句も言わない。
むしろ鼻歌まで歌いながら、焦げを削っている。
その様子を見て、少しだけ不思議に思った。
やがて、一通り削り終える。
残ったのは、胴と腿の肉だけだった。
私はそれを小川へ持っていく。
水に浸してすすぐ。
黒い焦げカスが流れていく。
ついでに手も洗った。
「せんぱぁーい! ほらほら」
エルネが突然、両手を私の顔の前に差し出す。
水滴がいくつも滴る、綺麗な手。
……のはずなのに。
鼻に届く匂い。
焦げ臭さ、獣臭、全部混ざったあの匂い。
「うっ、ちょっ……」
思わずエルネの手を払った。
「もう、焚き火に戻ろ」
「はーい」
エルネは嬉しそうに肉を持って歩き出す。
陽の光を受けて、くすんだ金髪がきらりと光った。
眩しくて、思わず目を細める。
もう一度見る。
そこには、もういなかった。
視線を動かすと、エルネはもう焚き火のところまで戻っていた。
……なにを当たり前のことを。
私も焚き火のそばへ戻る。
丸焼きはもう無理だと分かっている。
私は肉を小さく切り分けた。
枝に刺す。
串焼き。
それをエルネと並んで火にかざす。
今度は燃えない。
じわじわと肉が焼けていく。
表面に焼き目がつく。
くるくると回しながら炙る。
脂がじんわりと光った。
焦げ臭さの中に、ほんのわずか。
肉の焼ける香りが混ざる。
「なんだか、いい匂いがしますね」
エルネが言った。
私は小さく頷く。
どのくらい焼けばいいのか、正直分からない。
串を火から引く。
肉を口元へ近づける。
熱い。
息を吹きかけて冷ます。
そして、表面を少しだけかじった。
肉の繊維を噛む。
肉汁は出ない。
ほんの少しだけしっとりしている。
けれど噛むほど、パサパサになっていく。
味は――
ほとんどしない。
美味しいかと聞かれれば、美味しくはない。
でも、食べられないわけでもない。
飲み込む。
その瞬間、遅れて焦げの香りが口の中に広がった。
鼻にも上がってくる。
なんだこれは……。
思わず眉間に皺が寄る。
「おいしいですか? 先輩」
エルネが期待した目で見てくる。
「……食べられなくないかも。おいしいかな?」
曖昧な答えになった。
それでもエルネは嬉しそうだった。
「じゃあ、私も!」
エルネも肉を口にする。
息を吹いて冷まし、かじる。
もぐもぐと噛む。
少し考えた表情をしながら、飲み込む。
そして、ぱっと笑う。
「おいしい! 先輩、おいしいですよ!」
そう言って、すぐに二口目を食べる。
少ししてから、
「ちょっと焦げ臭いですけど」
と笑った。
それでも、本当に美味しそうに食べていた。
私はその様子を見ながら、小さく微笑んだ。
焚き火がパチリと音を立てた。