黄昏時。
ギルドの中は、まだ昼の名残のような活気に満ちていた。
天井から吊られた魔石灯が明るく室内を照らし、木製のテーブルには冒険者たちが思い思いに腰を下ろしている。酒を飲む者、依頼書を眺める者、今日の戦果を語り合う者。そんなざわめきの中で――
一際大きな笑い声が響いた。
「アッハッハッハッ!!」
その声の主は、バルクだった。
私は思わず肩を震わせた。胸がドクンと跳ねる。
反射的に周囲を見回す。みんなこっちを見ていないだろうか。笑われているのは、私だけじゃないだろうか。
「面白すぎるって……あー、笑い死ぬ。おいおい、ロニオ!! 話聞いてたか!?」
「そう笑ってやるな。いい経験だろ。リュシア、できる失敗はいいことだ」
ロニオは穏やかに言うが、バルクはテーブルを叩きながら笑い続けている。
私は杖をぎゅっと握りしめた。
背中を丸め、肩をすくめながらバルクを睨みつける。
頭が真っ白になる。
顔が熱い。
……絶対、真っ赤だ。
こんなに笑われること?
……どうしてこんなことになったのか。
それは、私とエルネがギルドに戻ったときのことだった。
テーブル席に座っていたバルクとロニオを見つけ、私はエルネに依頼受領の手続きを任せて、二人のところへ向かった。
そして――つい話してしまったのだ。
ホーンラビットを丸焼きにしたこと。
その丸焼きが見事に失敗したこと。
しかも肉はあまり美味しくなかったことまで。
……結果がこれだ。
そこまで笑う?
思わず杖が飛び出しそうになる。
「チゲぇーよ、ロニオ」
ようやく笑いを収めたバルクが、椅子に座り直しながら言う。
「できる失敗だから笑ってやるんだよ。新人あるあるってのはこれだから良い。聞き飽きねぇ」
むぅ……。
「つってもよ、俺はホーンラビットは狩ってねぇ。あいつらすばしっこくて捕まえられねぇからな。森オオカミもそうだ。やるやつはほとんどいねぇ。だろ?」
話を振られ、ロニオが頷く。
「だな。僕たちは近接職だ。状況を見て判断するが、逃げる相手を追う戦いは消耗が激しい。罠を張って待つのも性に合わない」
「ああ、そうだ」
バルクは身を乗り出す。
「それでも俺たちはホーンラビットを食ったことはある。別依頼のついでに罠を張ってな。偶然捕まってれば、って感じだ」
そして、真っ直ぐこちらを見た。
「だからよ。俺たちに言ったのは正解だ」
その言葉に、私は少しだけ目を瞬かせる。
「冒険者ってのはな、誰かの話を聞いて覚えるもんだ。誰かの経験も、誰かの失敗もな。で、それを生かすかどうかは聞いた本人次第ってわけだ」
バルクとロニオ。
二人の視線が私に向けられている。
ロニオは少しだけ微笑んでいた。
バルクの目も、さっきまで笑っていたのに、今は真剣だった。
心臓に響くような声で、バルクは続ける。
「捌けるんなら話は早い。次は皮だ。剥ぐか、火で毛を炙って削ぎ落とす。あと一つは一回茹でる、だな」
火で炙る……?
その瞬間、私の脳裏に浮かんだのは――
火達磨になったホーンラビット。
「でも、それをしたら燃えて大変なことになりました」
思わず口から出た言葉に、バルクは呆れた顔をする。
「少しだよ、少し。毛がチリチリになるだろ? それをナイフでこそぎ取るんだ」
横からロニオが補足する。
「炙るなら、手足の先と尻尾は先に切っておくといい。毛の処理が甘いと臭うからな。余分な部分は落とす。僕たちも一度やった」
「言うなって!!」
バルクが慌てて突っ込む。
その瞬間、ロニオは勝ち誇ったような顔をした。
思わず、胸の中に溜まっていた何かが――
ストン、と落ちた。
……ああ。
この人たちも失敗してるんだ。
「まぁなんだ」
バルクは気を取り直して続ける。
「それができりゃ燃えたり丸焦げにはならねぇ。あとは切り込みを入れて、じっくり焼くんだ」
楽しそうに身を乗り出したまま言う。
「ああ! 塩と香草で締めると最高だ! 絶品だぞ!」
言い切ると、バルクは満足そうにドスンと椅子へふんぞり返った。
これが――
ホーンラビットの丸焼きの作り方。
美味しい食べ方。
私は深く頷いた。
「ありがとうございます! またしてみます!」
今度は上手く焼ける気がする。
ミアレを驚かせてあげよう。
エルネにも、もっと美味しいホーンラビットを食べさせてあげよう。
「ん、おう。……しかしこう話してたら俺も食いたくなってきたな」
バルクが呟く。
するとロニオがすぐに言った。
「最近、ゴブリンが多い。罠を置いても取られる。今はやめたほうがいい」
「……じゃあ無理か」
バルクは残念そうに頭を掻いた。
そのときだった。
「リュシア先輩!」
声がして振り向くと、エルネがこちらへ駆け寄ってくるところだった。
私は思わず笑顔になる。
さっきまでの恥ずかしさは、もう消えていた。
――次は、きっと上手く焼ける。
まだ少し息を弾ませながら、エルネは私の前で立ち止まると、両手をそっと開く。
その掌の上には――
銀貨と銅貨が乗っていた。
灯りに照らされて、金属の表面がきらりと光る。
ほんのわずかな枚数なのに、それはどこか眩しく見えた。
「……これが、報酬です」
どこか誇らしげな声だった。
私は頷く。
「半分ずつにしよう」
そう言って、エルネの手の中から銀貨を二枚取る。
全部で四枚あった銀貨のうちの半分だ。
端の方には銅貨が五枚。
私はそこから二枚だけつまみ上げ、自分のポーチにしまった。
革の口をきゅっと締めながら言う。
「残りはエルネさんの分です。余った銅貨も、いいですよ」
エルネは一瞬ぽかんとした顔をしたあと、ふわっと頬を緩めた。
「ふふ……やった。私のお金」
まるで宝物を見るみたいに、掌の上の硬貨を見つめている。
両手でぎゅっと握りしめたあと、もう一度指を開いて、今度は真剣な顔で数え始めた。
初めての報酬。
私も、この間まで、ああだったのだろうか。
「えっと……」
指先で一枚ずつ触れながら、小さく呟く。
「宿代は銅貨八枚だから……えっと……」
しばらく考え込み、そしてぽつりと言う。
「……二日分くらい? ……ちょっと少ない……」
その独り言に、私は思わず小さく笑いそうになる。
初めての報酬。
きっと、頭の中ではもう生活の計算が始まっているのだろう。
視線を少し横へ戻すと、バルクとロニオがテーブル席からこちらを見ていた。
二人とも黙ったまま。
ただ静かにこちらを見ている。
その目は、どこか懐かしいものを見るような視線だった。
先に口を開いたのは、バルクだった。
「なぁ、お前」
低い声が、エルネに向けられる。
「この間の登録試験にいた奴だよな」
その言葉にエルネはぴくりと反応した。
ゆっくり顔を上げる。
視線が合うと、ほんの少したじろいだ。
怪訝そうな表情でバルクを見つめる。
「えっと……あの……誰、ですか?」
バルクは肩をすくめる。
「ああ、俺はバルク。Dランクだ」
親指で隣を指す。
「こっちはロニオ。同じランク」
ロニオは軽く手を上げた。
「登録試験で一通りの連中は見てたからな。覚えてるだけだ。……まぁ、ここの連中もだいたい知ってるんじゃねぇか?」
「え?」
エルネは驚いたように目を丸くする。
そして、おそるおそる周囲を見渡した。
ギルドの中は相変わらず賑やかだった。
酒を煽る冒険者。
今日の狩りの話を大声で語る者。
笑い声と食器の音が混ざり合う。
誰もこちらなど気にしていない。
視線が合うのは、この三人だけだった。
エルネはもう一度バルクを見る。
するとバルクは苦笑して言った。
「気にすんなって。誰も取って食うなんてことしねぇよ」
腕を組みながら続ける。
「関わってくるかは別だけどな。あそこに立ってると気づかねぇだろ」
登録試験のときに立っていた場所のことだろう。
エルネは少しだけ考えるような顔をしたあと――
そっと一歩、こちらへ寄った。
そして。
まるでバルクから距離を取るように、私の背後へ回り込む。
……?
ロニオがその様子を見て、くすっと笑った。
「バルク」
「ん?」
「お前、怖がられてるみたいだ」
「は?」
バルクはぽかんとした顔でロニオを見る。
それから慌ててエルネを見る。
「おい、なんでだよ!? どこにそんな怯える要素があるんだよ!?」
大きな声で抗議する姿に、ロニオは肩を揺らして笑う。
バルクの体は大きい。
声もやたら大きい。
エルネが一歩下がるのも無理はなかった。
そのとき、背後から小さな声がした。
「……先輩」
エルネが耳元で囁く。
「先輩の知り合いですか?」
私は少し考えて答えた。
「一度だけ、一緒に依頼に行った仲です」
それを聞いたエルネは「そうなんですか」と小さく返事をした。
そして、もう一度バルクたちの方を見る。
まだ何か言い合っている。
「俺のどこが怖いんだよ!」
「声がでかいところじゃないか?」
「それだけか!?」
その様子が、少しだけ可笑しくて。
私は思わず小さく笑ってしまった。
ギルドの喧騒の中で。
初めての報酬を握りしめたエルネと、
騒がしい先輩冒険者たち。
そんな何気ない時間が、ほんの少しだけ温かく感じられた。
《別視点》
ギルドのテーブル越しに、俺はそいつを見ていた。
リュシアの後ろに半分隠れるように立っている新人。
名前は……確か、エルネだったか。
視線は自然と腰に向く。
冒険者ってのはそういうもんだ。
武器を見る。装備を見る。立ち方を見る。
それだけで、だいたいのことがわかる。
特に俺やロニオみたいな近接職なら尚更だ。
剣を扱う者は、他人の剣に目が行く。
癖みたいなもんだ。
そして――
俺は覚えていた。
登録試験で見た、あの剣の振りを。
乱雑で、大振り。
勢い任せ、力任せ。
剣に振られているような、不格好な一撃。
素人丸出しの振り方だった。
だが――まあ、それは別に珍しくもない。
誰だって最初はそんなもんだ。
問題は、そこじゃない。
「……なあ、ちょっと見せろ」
俺が言うと、リュシアは少し考えたあと、エルネの剣を受け取った。
そしてテーブル越しにこちらへ差し出す。
俺はそれを受け取り、テーブルの下へ引き寄せる。
椅子に座ったまま、股の間で剣を抜いた。
鞘から滑り出した刀身を見て――
思わず口から言葉が漏れた。
「……こいつはスゲェや」
悪い意味で、だ。
刀身はくすんでいる。
刃は何度も研ぎ直され、痩せて短くなっていた。
本来のロングソードなら、もっと幅がある。
もっと重さがある。
だがこれは――
軽い。
軽すぎる。
しかも、刀身が痩せすぎて鞘と微妙に合っていない。
中古品だ。
しかも、かなり使い込まれたやつだ。
ああ、昔、同じような剣を握っていた奴を思い出す。
横からロニオが覗き込む。
「……繋ぎで使うにはいいが、これは細すぎるな」
淡々とした声で言う。
「いつ折れるか、わかったもんじゃない。これで肉を断つにしても、相当な技量が必要になる」
俺は鼻で笑った。
「お前がそこまで言うなら……じゃあ、ナイフの方がマシか?」
ロニオは少し考えてから答える。
「そいつが折れるくらいなら、ナイフの方がマシだろうな」
ロニオが言うなら、そいつは大体正しい。
俺は剣を鞘に戻した。
そして顔を上げる。
「おい」
視線はエルネに向ける。
「リュシアの後輩。こっち来い」
新人は少し戸惑った顔をした。
それでも、おずおずと近づいてくる。
俺は脇に置いていた自分のロングソードを手に取った。
そして――
放り投げた。
「ほら」
エルネは慌てて両手を伸ばす。
剣を受け止めた瞬間――
「うっ!」
体がぐらりと揺れた。
重心が崩れ、二、三歩後ろへ下がる。
その様子に、思わず口の端が上がる。
「抜くな」
俺は言った。
「そのまま構えてみろ」
エルネは驚いた顔をしていたが、言われた通り柄を握る。
重たそうに腕を上げて――
ぎこちなく剣を構えた。
「こ、こう……ですか?」
エルネの腕が震える。
……なっちゃいねぇ。
剣先はだらりと下がっている。
脇は開きっぱなし。
立ち方も不安定。
まるで子供だ。
可愛いくらいの、ズブの素人。
だが――
スタートラインなんて、誰だってこんなもんだ。
俺は立ち上がり、鞘でその剣先を持ち上げた。
「なっちゃいねぇ」
そして、鞘で肘を軽く叩く。
「脇を締めろ」
「いたっ!」
次に膝を叩く。
「両足はしっかり地面につけとけ」
「ぃやっ!」
叩かれた足が一瞬引く。
だが、すぐに踏み直した。
エルネは俺を睨んでいる。
「俺を見るな」
低く言う。
「前向け。顎を引け。真っすぐ前を見ろ」
エルネの視線がゆっくり前を向く。
ぎこちない。
だが――
少しだけ形になった。
俺は身を乗り出す。
「よーし」
小さく頷く。
「その姿勢、覚えろ」
そして続ける。
「様んなってる女は、凛として綺麗なもんだ」
エルネは少しだけ目を瞬いた。
俺はそのまま言葉を続ける。
「……それと」
剣を見る。
「その剣の重さ、忘れるなよ」
声が少し低くなる。
「その重さがお前の命を預ける重さだと思え」
ギルドの喧騒が遠く聞こえる。
「扱いやすいだ。軽いだ。安いだ」
鼻で笑う。
「そんなもんで命は預けるもんじゃねぇ」
俺は一歩近づき、エルネの構えていた剣を抜き取る。
そして元の位置に彼女の剣を返した。
椅子に座り直し、背もたれに寄りかかる。
少しの沈黙。
その横で、ロニオが呟いた。
「バルク」
「ん?」
「お前も焼きが回ってきてるな」
俺は舌打ちする。
「……うっるせぇ」
ロニオは何も言わない。
だが、わかってる顔だった。
言わない後悔なんて、なんにもならねぇ。
俺たちは見てきただろう。
目の前で助けられなかったやつを。
何も言えずに死んだやつを。
……お前もだろうが、ロニオ。
ギルドの喧騒の中で、俺は黙ったまま天井を見上げた。