ギルドを出たときには、もう夜になっていた。
昼間は人で賑わう通りも、今はまばらだ。
建物の軒先に吊るされたランタンが、橙色の光で石畳をぼんやり照らしている。
風は冷たく、夜の匂いが街を静かに包んでいた。
私はエルネと並んで歩いていた。
いつもの帰り道。
宿へ向かう、慣れた道だ。
大通りから外れた路地に入ると、人影はさらに少なくなる。
足音だけが、石畳に乾いた音を残していく。
カツ、カツ、と。
その横で、エルネはずっと自分のロングソードを手にしていた。
腰に差さず、鞘ごと抱えるように持っている。
ずっと、何かを考えている顔だった。
そして、とうとう口を開いた。
「先輩、聞いてましたよね」
少し不満そうな声。
「……あの人」
エルネは足を止めず、前を向いたまま言葉を続けた。
「突然、剣を見せろって言ってきて」
「説教してきて」
「鞘で叩いてきて」
言葉が少しずつ速くなる。
「私の剣、馬鹿にしてきたの」
その声は、怒っているようにも聞こえた。
けれど、よく聞けば、どこか震えている。
エルネは剣を両手で抱え直す。
大事なものを守るみたいに。
「私だって」
小さく息を吸う。
「私だって、覚悟して」
「努力して」
「武器屋さんで……安かったですけど」
少し間が空く。
「それでやっと、剣を買えたのに」
声がわずかに震えていた。
暗がりの中で、エルネの表情はよく見えない。
ランタンの光もここまでは届かない。
ただ、剣を抱える腕が少し強くなっているのは分かった。
私はしばらく黙ったまま歩いた。
石畳を踏む二人の足音が、夜の路地に響いている。
剣のことは、正直よく分からない。
私は杖だ。
剣の重さも、振り方も、よく知らない。
バルクの言葉も、正直なところ、今ひとつピンと来ていなかった。
重い杖。
軽い杖。
そういう違いはある。
でも剣みたいに振り回すものでもないし、
殴ったりするわけでもない。
折れるとか、壊れるとか。
そんな話を深く考えたこともなかった。
だから、あれはきっと――
剣を持つ人の話だ。
私には関係のない話。
そう思えた。
それでも。
会ってすぐ、あんな言い方をしなくてもいいとも思った。
私は横目でエルネを見る。
エルネは、鞘に納めた剣を軽く握り直すと、
確かめるように一度構えた。
踏み込むように、少しだけ前へ足を出す。
剣先は垂れていない。
少しだけ、上を向いている。
さっきより、ほんの少しだけ形になっている気がした。
私は聞いた。
「……剣、重かったんですか?」
エルネは足を止めた。
こちらを振り向く。
一瞬、視線が合う。
でもすぐに、少しだけ逸らした。
そして、小さく言った。
「……はい」
「重たかった……です」
それだけだった。
私は自分の杖を見下ろす。
しばらく使ってきて多少の傷が付いているが、気になるほどのものでもない。
そして、これも安物。
それで言えば、私のものも同じだ。
けれど杖は、剣とは違う。
振り回すわけでもないし、
叩きつけるものでもない。
折れたり壊れたりするものじゃない。
だからきっと。
あの話は、やっぱり剣の話なんだろう。
私はそれ以上、言葉を見つけられなかった。
気を遣うような言葉も、励ますような言葉も。
うまく思いつかなかった。
そのまま歩いていると――
エルネが突然、剣を腰に納めた。
そして小さく走り出す。
「こっち!」
私は少し驚いて後を追う。
宿へ向かう道から逸れて、細い道へ入る。
その先にあったのは――
冒険者用の雑貨屋だった。
扉は閉まっている。
窓も暗い。
エルネは店の前で立ち止まり、肩を落とした。
「もう閉まっちゃってる〜!」
悔しそうな声。
「ぅ〜……」
そういえば。
ここに来る約束をしていた。
私は少し考えてから言った。
「次、明日に出直そう」
エルネは振り向いた。
「……うん」
小さく頷く。
私はそのまま、エルネの手を引いた。
反発はなかった。
引いた分だけ、エルネはついてくる。
夜の空は見える。
けれど建物の影が、足元をもっと深い黒にしている。
私たちはそのまま宿へ戻った。
扉を開ける。
チリン、と小さな音が鳴る。
暖かい灯りが、二人を迎えた。
「ただいま」
私とエルネの声が重なる。
そのあと、奥からおばさんの声が聞こえた。
「おかえり」
いつもの声だった。
宿の扉をくぐると、いつもの空気が改めて迎えてくれた。
見慣れたカウンター。
いくつか並ぶ木のテーブル。
奥にはおばさんがいて、その近くには酒を飲んでいるおじさん。
暖かくて、静かな空間。
外の夜の冷たさとはまるで違う。
木の壁に囲まれたこの場所は、どこか落ち着く匂いがしていた。
私が周りを見渡している間に、エルネは私を追い抜いてカウンターへ向かった。
「おばさん!」
元気な声。
「タオルと水桶を下さい! 体を洗いたいです!」
おばさんは軽く頷くと、慣れた様子で「はいよ」と答え、裏へ回っていった。
その間にエルネは振り返る。
今度は私に向かって言った。
「先輩、明日も私が起こしに来てあげます!」
いたずらっぽい笑顔。
私は即座に返した。
「自分で起きれるので結構です」
それに――
あんな叩き方は二度とごめんだ。
頭の中で、朝の音が蘇る。
ドンドン。
乱暴に叩かれる扉の音。
あの響きが胸の奥まで届く感じが想像できてしまう。
思わず呼吸を整えた。
そのとき、おばさんが戻ってくる。
木の桶に水を入れ、タオルを乗せている。
エルネはそれを受け取ると、ぱっと顔を明るくした。
「ありがとうございます!」
そして、またすぐ駆け出す。
「先輩、また明日!」
振り向きながら言う。
私は小さく手を振った。
そのとき――
「あんた、よそ見してるとコケるよ!」
おばさんが声を上げた。
「わっ!」
エルネの体が前のめりになる。
危うく転びそうになったが、なんとか体勢を立て直した。
ドン、と。
床が大きく軋んだ。
「ごめんなさーい!」
そう言って、エルネは慌ただしく自分の部屋へ走っていく。
廊下の奥で扉が閉まる音がした。
おばさんは呆れたように息をついた。
エルネの元気そうな姿を見て少し安心する。
「まったく、慌ただしい娘だねぇ」
そう言いながら、今度は私の方を見る。
「あんたもいるかい?」
「はい。お願いします」
私が答えると、おばさんはまた裏へ向かおうとして、ふと立ち止まった。
「お腹は空いてないかい?」
聞かれて、少し考えた。
昼間のことを思い出す。
森の中。
火の匂い。
黒く焦げたホーンラビット。
あのとき黒パンも食べた。
量は多くなかったはずなのに、不思議と今はお腹が空いていない。
「出先で食べたので、いらないです」
そう答えると、おばさんは歩み寄ってカウンターに肘をついた。
少し身を乗り出して聞く。
「あんた、魔物を食べたのかい?」
「はい。ホーンラビットです」
私は思い出しながら続ける。
「丸焦げにしちゃいましたけど、焦げたのは外側だけだったので削って……また焼いて食べました」
おばさんは何も言わず、目を細めて聞いていた。
ゆったりした顔。
それから、静かに聞いた。
「美味しかったかい?」
私は少し考えた。
味を思い出そうとする。
焦げた匂い。
煙。
苦いような匂い。
「焦げ臭くて、味はしませんでしたけど」
そこで少し笑う。
「美味しかったです」
頭に浮かぶのはエルネの顔だ。
嬉しそうに食べていた。
おばさんは「へぇ」と小さく息を漏らした。
「意外だねぇ」
そう言って私の手を見る。
「あんた、綺麗な手をしてるから、てっきりそういうことは何も知らないと思ってたよ」
私は自分の手を見る。
そのあと、おばさんの手を見る。
ごつごつしている。
細いけれど、指は角張って太い。
皺もあって、黒ずんだ荒れた肌。
それに比べると私の手は白い。
細くて、弱そうな指。
折れてしまいそうなほど細い。
「教えてもらったんです」
私は言った。
「血を抜いたり、捌き方を……」
ミアレのことを思い出す。
今は家の用事でいない。
でも私は、もう一人でできる。
おばさんはゆっくり頷いた。
「その子にお礼を言っときな」
少し強めの声。
「言わないと、また次いつ会えるかわかんないよ」
私は黙った。
お礼。
そういえば言っていない気がする。
感謝。
言葉だけでいいのだろうか。
ミアレからもらった貯金箱。
私は何も返していない。
何もしていない。
そんなことを考えていると、おばさんが手を叩いた。
「またホーンラビット食べるんだろ?」
笑う。
「だったら、おばちゃん良いもん持ってきてやる」
「待ってて」
そう言って裏へ消えていった。
カウンターの前に、私一人が残る。
少しの静けさ。
そのとき――
背後から声がした。
「おい、嬢ちゃん」
咄嗟に振り向く。
酒飲みのおじさんだった。
顔が赤い。
耳の先まで赤くなっている。
酒の匂いもする。
「ポーション、よく効いただろ?」
にやりと笑う。
「なぁ、おい。もう一本買ってくれねぇか?」
私は少し困った。
前に買った分がまだ残っている。
正直、今は要らない。
それに――
杖のこともある。
お金も、あまり使いたくない。
「すみません。今、買いたいものがあって」
そう言うと、おじさんは肩をすくめた。
「なんだぁ? 金がねぇのか?」
へらっと笑う。
「そりゃ仕方ねぇ」
しばらく黙ったあと、急に思い出したように顔を上げた。
「金がねぇならよぉ」
身を乗り出す。
「いい稼ぎ、知ってるぜ」
私は自然と身体がおじさんの方へ向いた。
「昔の冒険者がやってたやつだ」
「聞きたいか?」
お金を稼ぐ方法。
その言葉に、思わず耳を傾けてしまう。
おじさんはさらに身を寄せ、声を低くする。
「今そいつが生きてるか、やめてるかは知らねぇけどな」
そして言った。
「死体漁りだ」
私は眉をひそめた。
「死んだやつから装備を剥ぎ取るんだ」
おじさんは笑う。
「ぜーんぶ自分のもんにして売っちまえばいい」
言っている意味が、すぐには理解できなかった。
死体漁り?
死んだ人から物を取る?
それを売る?
信じられない。
この人は何を言っているんだろう。
おじさんは首をひねった。
「あー……名前なんだったかな」
少し考えてから、指を鳴らす。
「ああ、そうだ」
そして言った。
「死体漁りのガルド」
音が、消えた。
おじさんの声も、宿の静けさも、遠くなる。
ガルド。
その名前だけが、頭の中に残っている。
知っている。
その名前を、私は知っている。
でも——
死体漁り。
その言葉と、あの背中が、うまく重ならない。
その名前と、知っている背中が、頭の中でゆっくりと重なっていく。
重なる。
でも、まだ、信じられない。