薄暗い洞窟だった。
風の吹き抜ける大空洞のダンジョン。その内部を、私はエルネと並んで歩いていた。
視界は暗く、その奥は暗闇。
頼りになるのは、私の持つランタンの橙色の灯りと、エルネが掲げている松明の炎だけだ。
揺れる光が岩壁を照らし、影がゆっくりと形を変える。
湿った匂いが鼻に残る。
足元の砂利を踏む二人分の足音が、洞窟の中で反響し奥へ奥へと吸い込まれていく。
時折、どこか遠くで水滴が落ちる音がした。
ぽたり、と。
……静かだった。
「ここにスライムがいるの?」
前を歩くエルネが振り向きながらそう言った。
依頼はスライムの核を七個。
ギルドではよくある、ごく簡単な討伐依頼だ。
特別危険というわけでもない。
報酬もそれほどいいわけでもなく。
それでも、今回は少し理由があった。
以前、エルネが「ダンジョンに行ってみたい」と言っていたからだ。
それなら――と、私はこの依頼を選んだ。
「天井とか、壁にくっついていたりするので、よく見て下さい」
私はそう答えた。
スライムは動きが鈍い。
だが、その代わりに気配が薄い。
足元や壁に紛れていることも多い。
エルネは「へぇ〜」と声を上げ、松明を高く掲げた。
届かない洞窟の天井を照らそうとしている。
炎の光が揺れ、黒い天井がぼんやりと浮かび上がる。
何もいない。
エルネは少し残念そうな顔をした。
そんなやり取りをしながら、私たちはゆっくりと奥へ進んでいく。
……少し、頭が重かった。
今朝、何度寝返りを打っただろう。
眠れたのか、眠れていないのか。
よくわからないまま朝になって、私は起き上がった。
――死体漁り。
その言葉が、頭から離れなかった。
たとえ死んでしまったとしても。
その人の物を盗むなんて、人として落ちぶれた有り様にはなりたくない。
その人には家族がいるかもしれない。
仲間がいるかもしれない。
だったら、その人に返すべきだ。
そんな卑しい真似。
恥ずかしい真似。
いけない。
許してはいけない。
私はしない。
でも……。
……ガルド。
あのおじさんは、そんなことをする人だったんだ。
けれど、その話を誰かにするべきかと考えると――
口には出せなかった。
酔っ払いの話だ。
本当かどうかもわからない。
「ガルドは死体から装備を盗んでいた」
そんなことを言ったところで、確かめる方法なんてない。
だから私は、何も言えなかった。
確かめてすらいない。
朝からずっと、胸の奥にモヤモヤしたものがある。
顔を洗っても。
朝の光を浴びても。
それは消えなかった。
思わず、溜息が漏れる。
周りを見渡す。
……静かだった。
バルクとロニオと一緒に来たときは、ここまでスライムを見かけないことはなかった。
あの時はもっと――
ぬめっとしたものが、そこら中にいたはずだ。
いなくなった?
「いないね〜?」
エルネが楽しそうに声を上げた。
軽快な足取りで歩きながら、上を見上げている。
「ねぇ? もっと奥にいるの?」
その時だった。
グチャ、潰れた音と「きゃッ!」と悲鳴が響いた。
エルネが飛び跳ねる。
瞬間的に、私は杖を構えた。
反射的に視線を向ける。
……スライムだ。
足元で潰れている。
「びっくりしたぁ。踏んじゃった、うわぁ……」
エルネが顔をしかめる。
私はふぅ、と小さく息を吐いて、構えを解いた。
エルネは嫌そうに呻きながら、緑色の粘液のついた足をぶらぶらと振っている。
ぺたっ、と。
粘つく音がした。
「うわぁ……最悪」
足を振るたび、粘液が床に散る。
しばらくして、エルネはふっと顔を上げた。
「もう、怒った」
その目は妙に真剣だった。
「このスライムは私が――」
エルネは片手に握ったロングソードを振り上げる。
「ギッタンのバッコンバッコンにしちゃう!」
そう宣言して。
彼女は一歩、強く踏み込んだ。
松明の火がゆらゆらと揺れていた。
炎の揺らぎは壁に大きな影を作り、洞窟の凹凸を歪ませて見せる。
暗い岩肌はところどころ湿り、光が触れるたびに鈍く反射した。
その足元で、踏み潰された不定形の塊がもぞもぞと動いている。
森オオカミより小さい。
バケツほどに大きいスライムだった。
さっきエルネが踏みつけたそれは、潰れた形からゆっくりと元の形へ戻ろうとしている。
切り裂かれたゼリーのような身体が、互いを引き寄せるように寄り合い、形を繋ぎ直していた。
不思議な光景だった。
エルネは片手にロングソードを構えている。
剣先は少し上を向いている。
「やぁ!」
掛け声と同時に、刃が振り下ろされた。
鋼が空気を裂く音がする。
スパッ。
軽い手応えの音がして、スライムの上部が真っ二つに割れた。
しかし、それで終わりではない。
振り下ろした勢いのまま体を流すことなく、エルネは慌てて体の軸をずらして勢いを殺した。
一歩を強く踏み込み、足で地面を捉え、体勢を立て直す。
だが――
スライムは、まだ動いている。
割れた身体がゆっくりと寄り合い、繋がり始めていた。
まるで粘土が形を取り戻すように。
ロングソードの刃をものともしていない様子に、エルネは眉を寄せる。
「うわ、きもちわる」
「エルネさん、スライムは内部にある魔石……核が弱点です。それを取り除けば倒せます」
私がそう言うと、エルネは首をかしげた。
「核?」
片手に持つ松明をスライムへ近づける。
炎の熱が近づくと、スライムは身をよじるように波打った。
それでも再生は止まらない。
切断された断面が、ゆっくりと溶け合うように繋がっていく。
ただし、さっき飛び散った粘液はそのままだった。
周囲の地面に散った飛沫が、本体へ戻る様子はない。
「ここ? これですか? 先輩?」
エルネが指さす。
「真ん中の、粒みたいな……」
「はい、それです」
私は少し離れたところからそれを見ていた。
スライムは危険な魔物ではない。
だからこそ、私は戦いに加わるより周囲を確認する。
松明の光で薄暗く照らされる天井。
そこに張り付いた影の塊がないか、目を凝らす。
スライムの脅威はそこだけだ。
上から落ちてくること。
それ以外に危険はない。
――バルクとロニオはそう言っていた。
あの二人は、ロングソードで器用に核を抉り出していた。
刃を差し込み、ひねるようにして、簡単そうに。
「スライムの核を集めるんでしたよね?」
エルネが確認する。
「はい。その核を七個、取り出して集めます」
エルネはそれを聞いて、戦う構えを解いた。
スライムの前にしゃがみ込み、ロングソードを振り下ろして切り分け始める。
だが――
切る。
くっつく。
切る。
くっつく。
その繰り返しだった。
「うまくいかないよ〜!」
エルネが情けない声を上げる。
「先輩も手伝って〜」
どうしよう。
魔法で吹き飛ばせば、スライムは弾け飛ぶ。
そうなれば核を探すのはもっと面倒になる。
かといって、バルク達のように剣で抉り出す技量もない。
私がロングソードで同じことを出来るとは思えなかった。
それなら。
私は腰のナイフを握った。
私が剥ぎ取る。
「エルネさん、松明をスライムに近づけてもらえますか?」
ロニオが言っていた。
スライムは火の熱を嫌うと。
火で動きを鈍らせれば、再生も遅れるかもしれない。
確信はない。
私はスライムの前にしゃがみ込んだ。
表面は水を含んだように光っている。
松明の炎を反射して、緑色の光が揺れていた。
近づくと、生臭い匂いがする。
少し腐ったような、湿った匂い。
ぬちゃり。
切られた部位が、ゆっくりと繋がる音がする。
……これは生き物なのか。
ふと、そんなことを思った。
顔もない。
足もない。
内臓も、脳もないだろう。
見て分かる構造は、ほとんど体と核だけ。
不思議な存在だった。
私はレザーの手袋越しに、スライムの表皮へ手を押し当てる。
柔らかい。
肉よりもずっと柔らかい。
青光りするナイフを逆手に持つ。
そして――
突き立てた。
ぬるり、と刃が沈む。
肉を刺したときの抵抗より、はるかに軽い。
私は刃を引いた。
核の真上を、真っ直ぐに裂く。
手の側面に、スライムが触れる感触。
柔らかな粘土のような触感が、小指に触れる。
ぬめりが手袋に絡みつく。
もう一度。
ナイフを突き刺す。
引き下ろす。
裂け目が深くなる。
そして――
核が露出した。
「先輩! 核が見えてます!」
エルネの声。
私はナイフを持たない手でそれを掴んだ。
引く。
……うまく取れない。
核の下部に、スライムの肉が絡みついている。
私は素早くナイフを差し込み、切り離す。
ぬるり、と外れた。
「一個目ですね!」
エルネが嬉しそうに言う。
私はそれをエルネに渡した。
そこで初めて、自分が息をしていなかったことに気づく。
深く、息を吐いた。
……なんだろう。
捌く作業なら、ホーンラビットの方が楽な気がする。
時間をかければ、ちゃんと捌ける。
でもこれは違う。
バルクのやり方は簡単そうに見えた。
でもやっぱり、出来ない。
こんなに汚れるなら――
魔法で吹き飛ばして、飛んだ核を探す方が楽かもしれない。
私は手袋についた粘液を払うように、腕を軽く振った。
それから、スライムは蠢くこともなく、力を失った水のようにとろけていった。
形を保っていた透明な塊は、ゆっくりと崩れ、やがてただの濡れた跡のように石の床へ広がる。
残ったのは、手袋にまとわりつくぬめりと、核を抜いたあとの頼りない残滓だけだった。
「なんか、戦ってる気がしないね。薬草採取みたい」
その様子を見ながら、エルネが残骸を剣でつつきながら、ぽつりと呟いた。
確かに、と思う。
戦いというより、作業。
抵抗もしない相手の素材を取るだけ。
剣を振るう緊張もなければ、命のやり取りの気配もない。
「薬草みたいに密集してたら、すぐに集まりますね」
「ね、先輩。手間が省けますもんね」
エルネは少し考えるように口を閉じたあと、嫌そうな顔をした。
そして間を置いてから、肩をすくめる。
「……集まってるスライムも気持ち悪いかも。
嫌、やっぱり一匹ずつかなぁ」
私はスライムで濡れたレザーの手袋を、軽く振ってぬめりを払う。
乾くはずもないが、つい癖のように振ってしまう。
「もう少し奥に行こう」
そう言うと、エルネは「はい」と短く返事をした。
二人で並んで歩き出す。
洞窟の空気は変わらず湿っている。
エルネが松明を振って炎が揺れるたび、岩肌の影が伸び縮みする。
ランタンの灯りは柔らかいが、小さい。
それよりも松明のほうが、少しだけ遠くまで光を押し出してくれる。
足音が石に響く。
その間に、風の流れる音がある。
どこか遠くから、細く吹き抜ける空気の音。
ぽつ、ぽつ、と雫が落ちる音も聞こえてくる。
靴の滑る感覚。
ただそれだけ。
前に来た時を考えると、ジャイアントバットの羽音はしない。
ふと、考えが浮かぶ。
あのスライムは、どうして地面を這っていたのか。
以前、天井から降ってきたスライムのことを思い出す。
あれは私を狙っていたのか。
それとも、近くを走っていたネズミを捕食するつもりだったのか。
結局、あの時はよく分からなかった。
ただ一つ分かったことがある。
バルクとロニオと一緒にいた時、教わったことだ。
スライムは熱に反応する。
だから、人が近くを通ると、天井から落ちてくる。
もし落ちてきたスライムなら。
それは、誰かがここを通った後ということになる。
私たち以外の誰か。
人かもしれない。
それとも魔物かもしれない。
……けれど。
もし、最初から地面を這っていたのなら。
そこまで考えて、思考を止める。
考えすぎだ。
杖を握る手に、少しだけ力が入る。
振り返る。
エルネは特に何も気にした様子もなく歩いていた。
視線が合う。
エルネが少し首を傾げる。
「どうしたんですか? 先輩」
私は首を横に振った。
「何でもないです」
そう答えてから、また前を向く。
そしてもう一度、天井を見上げる。
松明の光が届ききらない場所。
ごつごつとした岩肌が暗闇の中で影になっている。
緑の影もない。
ぶら下がるものもない。
あれだけいたジャイアントバットが、一匹もいない。
いないことに、ほっとする。
だけど。
それが、かえって少しだけ不安になる。
説明できない違和感。
胸の奥に、小さく引っかかるもの。
以前の私なら、きっと気にもしなかった。
それでも。
オーク程度なら、全然平気で倒せると…。
そのくらいの自信はある。
足を止めた。
何かが見えたからだ。
進む道の先。
松明の光の届くぎりぎりの場所に、小さな影。
私は杖を構える。
その瞬間、背中にエルネがぶつかった。
少し前に押し出される。
「んぶっ、ちょ、先輩」
私は一歩踏み出して、また止まる。
「止まるなら止まるって言って」
エルネが文句を言いながら、松明を高く掲げた。
炎の光が前方を照らす。
岩の床。
濡れた石。
そして――
ゆっくりと地面を這うもの。
そこにいたのは。
ただ一匹のスライムだった。