風の氏族の末娘は、冒険者を知らない   作:ほてぽて

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18話前編 違和感

 

 

 薄暗い洞窟だった。

 

 風の吹き抜ける大空洞のダンジョン。その内部を、私はエルネと並んで歩いていた。

 

 視界は暗く、その奥は暗闇。

 頼りになるのは、私の持つランタンの橙色の灯りと、エルネが掲げている松明の炎だけだ。

 

 揺れる光が岩壁を照らし、影がゆっくりと形を変える。

 

 湿った匂いが鼻に残る。

 足元の砂利を踏む二人分の足音が、洞窟の中で反響し奥へ奥へと吸い込まれていく。

 

 時折、どこか遠くで水滴が落ちる音がした。

 

 ぽたり、と。

 

 ……静かだった。

 

「ここにスライムがいるの?」

 

 前を歩くエルネが振り向きながらそう言った。

 

 依頼はスライムの核を七個。

 ギルドではよくある、ごく簡単な討伐依頼だ。

 

 特別危険というわけでもない。

 報酬もそれほどいいわけでもなく。

 

 それでも、今回は少し理由があった。

 

 以前、エルネが「ダンジョンに行ってみたい」と言っていたからだ。

 

 それなら――と、私はこの依頼を選んだ。

 

「天井とか、壁にくっついていたりするので、よく見て下さい」

 

 私はそう答えた。

 

 スライムは動きが鈍い。

 だが、その代わりに気配が薄い。

 

 足元や壁に紛れていることも多い。

 

 エルネは「へぇ〜」と声を上げ、松明を高く掲げた。

 届かない洞窟の天井を照らそうとしている。

 

 炎の光が揺れ、黒い天井がぼんやりと浮かび上がる。

 

 何もいない。

 

 エルネは少し残念そうな顔をした。

 

 そんなやり取りをしながら、私たちはゆっくりと奥へ進んでいく。

 

 ……少し、頭が重かった。

 

 今朝、何度寝返りを打っただろう。

 

 眠れたのか、眠れていないのか。

 よくわからないまま朝になって、私は起き上がった。

 

 ――死体漁り。

 

 その言葉が、頭から離れなかった。

 

 たとえ死んでしまったとしても。

 その人の物を盗むなんて、人として落ちぶれた有り様にはなりたくない。

 

 その人には家族がいるかもしれない。

 仲間がいるかもしれない。

 

 だったら、その人に返すべきだ。

 

 そんな卑しい真似。

 恥ずかしい真似。

 

 いけない。

 許してはいけない。

 

 私はしない。

 

 でも……。

 

 ……ガルド。

 

 あのおじさんは、そんなことをする人だったんだ。

 

 けれど、その話を誰かにするべきかと考えると――

 口には出せなかった。

 

 酔っ払いの話だ。

 

 本当かどうかもわからない。

 

「ガルドは死体から装備を盗んでいた」

 

 そんなことを言ったところで、確かめる方法なんてない。

 

 だから私は、何も言えなかった。

 

 確かめてすらいない。

 

 朝からずっと、胸の奥にモヤモヤしたものがある。

 

 顔を洗っても。

 朝の光を浴びても。

 

 それは消えなかった。

 

 思わず、溜息が漏れる。

 

 周りを見渡す。

 

 ……静かだった。

 

 バルクとロニオと一緒に来たときは、ここまでスライムを見かけないことはなかった。

 

 あの時はもっと――

 

 ぬめっとしたものが、そこら中にいたはずだ。

 

 いなくなった?

 

「いないね〜?」

 

 エルネが楽しそうに声を上げた。

 

 軽快な足取りで歩きながら、上を見上げている。

 

「ねぇ? もっと奥にいるの?」

 

 その時だった。

 

 グチャ、潰れた音と「きゃッ!」と悲鳴が響いた。

 

 エルネが飛び跳ねる。

 

 瞬間的に、私は杖を構えた。

 反射的に視線を向ける。

 

 ……スライムだ。

 

 足元で潰れている。

 

「びっくりしたぁ。踏んじゃった、うわぁ……」

 

 エルネが顔をしかめる。

 

 私はふぅ、と小さく息を吐いて、構えを解いた。

 

 エルネは嫌そうに呻きながら、緑色の粘液のついた足をぶらぶらと振っている。

 

 ぺたっ、と。

 粘つく音がした。

 

「うわぁ……最悪」

 

 足を振るたび、粘液が床に散る。

 

 しばらくして、エルネはふっと顔を上げた。

 

「もう、怒った」

 

 その目は妙に真剣だった。

 

「このスライムは私が――」

 

 エルネは片手に握ったロングソードを振り上げる。

 

「ギッタンのバッコンバッコンにしちゃう!」

 

 そう宣言して。

 

 彼女は一歩、強く踏み込んだ。

 

 松明の火がゆらゆらと揺れていた。

 

 炎の揺らぎは壁に大きな影を作り、洞窟の凹凸を歪ませて見せる。

 暗い岩肌はところどころ湿り、光が触れるたびに鈍く反射した。

 

 その足元で、踏み潰された不定形の塊がもぞもぞと動いている。

 

 森オオカミより小さい。

 バケツほどに大きいスライムだった。

 

 さっきエルネが踏みつけたそれは、潰れた形からゆっくりと元の形へ戻ろうとしている。

 切り裂かれたゼリーのような身体が、互いを引き寄せるように寄り合い、形を繋ぎ直していた。

 

 不思議な光景だった。

 

 エルネは片手にロングソードを構えている。

 剣先は少し上を向いている。

 

「やぁ!」

 

 掛け声と同時に、刃が振り下ろされた。

 

 鋼が空気を裂く音がする。

 

 スパッ。

 

 軽い手応えの音がして、スライムの上部が真っ二つに割れた。

 

 しかし、それで終わりではない。

 

 振り下ろした勢いのまま体を流すことなく、エルネは慌てて体の軸をずらして勢いを殺した。

 一歩を強く踏み込み、足で地面を捉え、体勢を立て直す。

 

 だが――

 

 スライムは、まだ動いている。

 

 割れた身体がゆっくりと寄り合い、繋がり始めていた。

 

 まるで粘土が形を取り戻すように。

 

 ロングソードの刃をものともしていない様子に、エルネは眉を寄せる。

 

「うわ、きもちわる」

 

「エルネさん、スライムは内部にある魔石……核が弱点です。それを取り除けば倒せます」

 

 私がそう言うと、エルネは首をかしげた。

 

「核?」

 

 片手に持つ松明をスライムへ近づける。

 

 炎の熱が近づくと、スライムは身をよじるように波打った。

 それでも再生は止まらない。

 

 切断された断面が、ゆっくりと溶け合うように繋がっていく。

 

 ただし、さっき飛び散った粘液はそのままだった。

 周囲の地面に散った飛沫が、本体へ戻る様子はない。

 

「ここ? これですか? 先輩?」

 

 エルネが指さす。

 

「真ん中の、粒みたいな……」

 

「はい、それです」

 

 私は少し離れたところからそれを見ていた。

 

 スライムは危険な魔物ではない。

 だからこそ、私は戦いに加わるより周囲を確認する。

 

 松明の光で薄暗く照らされる天井。

 

 そこに張り付いた影の塊がないか、目を凝らす。

 

 スライムの脅威はそこだけだ。

 

 上から落ちてくること。

 

 それ以外に危険はない。

 

 ――バルクとロニオはそう言っていた。

 

 あの二人は、ロングソードで器用に核を抉り出していた。

 刃を差し込み、ひねるようにして、簡単そうに。

 

「スライムの核を集めるんでしたよね?」

 

 エルネが確認する。

 

「はい。その核を七個、取り出して集めます」

 

 エルネはそれを聞いて、戦う構えを解いた。

 

 スライムの前にしゃがみ込み、ロングソードを振り下ろして切り分け始める。

 

 だが――

 

 切る。

 

 くっつく。

 

 切る。

 

 くっつく。

 

 その繰り返しだった。

 

「うまくいかないよ〜!」

 

 エルネが情けない声を上げる。

 

「先輩も手伝って〜」

 

 どうしよう。

 

 魔法で吹き飛ばせば、スライムは弾け飛ぶ。

 そうなれば核を探すのはもっと面倒になる。

 

 かといって、バルク達のように剣で抉り出す技量もない。

 

 私がロングソードで同じことを出来るとは思えなかった。

 

 それなら。

 

 私は腰のナイフを握った。

 

 私が剥ぎ取る。

 

「エルネさん、松明をスライムに近づけてもらえますか?」

 

 ロニオが言っていた。

 

 スライムは火の熱を嫌うと。

 

 火で動きを鈍らせれば、再生も遅れるかもしれない。

 

 確信はない。

 

 私はスライムの前にしゃがみ込んだ。

 

 表面は水を含んだように光っている。

 松明の炎を反射して、緑色の光が揺れていた。

 

 近づくと、生臭い匂いがする。

 少し腐ったような、湿った匂い。

 

 ぬちゃり。

 

 切られた部位が、ゆっくりと繋がる音がする。

 

 ……これは生き物なのか。

 

 ふと、そんなことを思った。

 

 顔もない。

 足もない。

 内臓も、脳もないだろう。

 

 見て分かる構造は、ほとんど体と核だけ。

 

 不思議な存在だった。

 

 私はレザーの手袋越しに、スライムの表皮へ手を押し当てる。

 

 柔らかい。

 

 肉よりもずっと柔らかい。

 

 青光りするナイフを逆手に持つ。

 

 そして――

 

 突き立てた。

 

 ぬるり、と刃が沈む。

 

 肉を刺したときの抵抗より、はるかに軽い。

 

 私は刃を引いた。

 

 核の真上を、真っ直ぐに裂く。

 

 手の側面に、スライムが触れる感触。

 

 柔らかな粘土のような触感が、小指に触れる。

 ぬめりが手袋に絡みつく。

 

 もう一度。

 

 ナイフを突き刺す。

 

 引き下ろす。

 

 裂け目が深くなる。

 

 そして――

 

 核が露出した。

 

「先輩! 核が見えてます!」

 

 エルネの声。

 

 私はナイフを持たない手でそれを掴んだ。

 

 引く。

 

 ……うまく取れない。

 

 核の下部に、スライムの肉が絡みついている。

 

 私は素早くナイフを差し込み、切り離す。

 

 ぬるり、と外れた。

 

「一個目ですね!」

 

 エルネが嬉しそうに言う。

 

 私はそれをエルネに渡した。

 

 そこで初めて、自分が息をしていなかったことに気づく。

 

 深く、息を吐いた。

 

 ……なんだろう。

 

 捌く作業なら、ホーンラビットの方が楽な気がする。

 

 時間をかければ、ちゃんと捌ける。

 

 でもこれは違う。

 

 バルクのやり方は簡単そうに見えた。

 

 でもやっぱり、出来ない。

 

 こんなに汚れるなら――

 

 魔法で吹き飛ばして、飛んだ核を探す方が楽かもしれない。

 

 私は手袋についた粘液を払うように、腕を軽く振った。

 

 それから、スライムは蠢くこともなく、力を失った水のようにとろけていった。

 形を保っていた透明な塊は、ゆっくりと崩れ、やがてただの濡れた跡のように石の床へ広がる。

 

 残ったのは、手袋にまとわりつくぬめりと、核を抜いたあとの頼りない残滓だけだった。

 

「なんか、戦ってる気がしないね。薬草採取みたい」

 

 その様子を見ながら、エルネが残骸を剣でつつきながら、ぽつりと呟いた。

 

 確かに、と思う。

 

 戦いというより、作業。

 抵抗もしない相手の素材を取るだけ。

 

 剣を振るう緊張もなければ、命のやり取りの気配もない。

 

「薬草みたいに密集してたら、すぐに集まりますね」

 

「ね、先輩。手間が省けますもんね」

 

 エルネは少し考えるように口を閉じたあと、嫌そうな顔をした。

 

 そして間を置いてから、肩をすくめる。

 

「……集まってるスライムも気持ち悪いかも。

 嫌、やっぱり一匹ずつかなぁ」

 

 私はスライムで濡れたレザーの手袋を、軽く振ってぬめりを払う。

 

 乾くはずもないが、つい癖のように振ってしまう。

 

「もう少し奥に行こう」

 

 そう言うと、エルネは「はい」と短く返事をした。

 

 二人で並んで歩き出す。

 

 洞窟の空気は変わらず湿っている。

 エルネが松明を振って炎が揺れるたび、岩肌の影が伸び縮みする。

 

 ランタンの灯りは柔らかいが、小さい。

 それよりも松明のほうが、少しだけ遠くまで光を押し出してくれる。

 

 足音が石に響く。

 

 その間に、風の流れる音がある。

 どこか遠くから、細く吹き抜ける空気の音。

 

 ぽつ、ぽつ、と雫が落ちる音も聞こえてくる。

 靴の滑る感覚。

 

 ただそれだけ。

 

 前に来た時を考えると、ジャイアントバットの羽音はしない。

 

 ふと、考えが浮かぶ。

 

 あのスライムは、どうして地面を這っていたのか。

 

 以前、天井から降ってきたスライムのことを思い出す。

 あれは私を狙っていたのか。

 それとも、近くを走っていたネズミを捕食するつもりだったのか。

 

 結局、あの時はよく分からなかった。

 

 ただ一つ分かったことがある。

 

 バルクとロニオと一緒にいた時、教わったことだ。

 

 スライムは熱に反応する。

 

 だから、人が近くを通ると、天井から落ちてくる。

 

 もし落ちてきたスライムなら。

 

 それは、誰かがここを通った後ということになる。

 

 私たち以外の誰か。

 

 人かもしれない。

 それとも魔物かもしれない。

 

 ……けれど。

 

 もし、最初から地面を這っていたのなら。

 

 そこまで考えて、思考を止める。

 

 考えすぎだ。

 

 杖を握る手に、少しだけ力が入る。

 

 振り返る。

 

 エルネは特に何も気にした様子もなく歩いていた。

 

 視線が合う。

 

 エルネが少し首を傾げる。

 

「どうしたんですか? 先輩」

 

 私は首を横に振った。

 

「何でもないです」

 

 そう答えてから、また前を向く。

 

 そしてもう一度、天井を見上げる。

 

 松明の光が届ききらない場所。

 ごつごつとした岩肌が暗闇の中で影になっている。

 

 緑の影もない。

 ぶら下がるものもない。

 

 あれだけいたジャイアントバットが、一匹もいない。

 

 いないことに、ほっとする。

 

 だけど。

 

 それが、かえって少しだけ不安になる。

 

 説明できない違和感。

 

 胸の奥に、小さく引っかかるもの。

 

 以前の私なら、きっと気にもしなかった。

 

 それでも。

 

 オーク程度なら、全然平気で倒せると…。

 

 そのくらいの自信はある。

 

 足を止めた。

 

 何かが見えたからだ。

 

 進む道の先。

 松明の光の届くぎりぎりの場所に、小さな影。

 

 私は杖を構える。

 

 その瞬間、背中にエルネがぶつかった。

 

 少し前に押し出される。

 

「んぶっ、ちょ、先輩」

 

 私は一歩踏み出して、また止まる。

 

「止まるなら止まるって言って」

 

 エルネが文句を言いながら、松明を高く掲げた。

 

 炎の光が前方を照らす。

 

 岩の床。

 濡れた石。

 そして――

 

 ゆっくりと地面を這うもの。

 

 そこにいたのは。

 

 ただ一匹のスライムだった。

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