風の氏族の末娘は、冒険者を知らない   作:ほてぽて

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18話後編 ぬめりの痕跡

 

 

「今度は私がするね」

 

 そう言うと、エルネは小走りで前へ出た。

 軽い足音が洞窟の石床に響く。

 

 彼女は腰の鞘にロングソードを収め、代わりにナイフを片手で引き抜いた。

 刃が松明の光をわずかに反射する。

 

 その瞬間だった。

 

 踏み込んだ足が、前へ滑った。

 

「きゃっ!?」

 

 ツルリと足を取られ、エルネの体が横に流れる。

 尻もちではなく、勢いのまま盛大に横転した。

 

 ドシン、と鈍い音が洞窟の壁に反響する。

 

 とっさに腕で頭を守ったらしいが、手に持っていた松明とナイフは宙に放り出され、石の床を跳ねながらコロンコロンとあらぬ方向へ転がっていった。

 

「いったぁ……」

 

 エルネが呻く。

 

「大丈夫?」

 

 私は急がず、慎重に歩いて近づいた。

 同じ場所で滑っては意味がない。

 

 足元を確かめながら近づき、落ちていた松明を拾い上げる。

 掲げると、炎が揺れて周囲の影が大きく伸びた。

 

 少し離れたところでナイフの刃が光を返す。

 私は杖を脇に挟み、それを拾い上げた。

 

「うぅ、最悪……先輩。そこ滑るから気をつけて」

 

 エルネは四つん這いの姿勢で体を起こした。

 

 私は彼女のそばへ行き、顔を覗き込む。

 

「怪我はないですか?」

 

 エルネはその場にぺたんと座り込み、腕を伸ばしたり、体を軽く叩いたりして確認する。

 服についた塵を払い、指で頬をつつくように触れた。

 

 視線が合う。

 

 すると彼女はぱっと目を開いて言った。

 

「転んで腕が痛いですけど大丈夫。平気」

 

 強がりなのか、本当に大丈夫なのかは分からない。

 

 私は小さく頷き、足元へ視線を落とした。

 

 石の床。

 

 そこに足を乗せると、ぬるりとした感触がある。

 確かに、滑る。

 

 けれどただ濡れているのとは違う。

 

 湿気ではなく、もっと粘りのある何か。

 足を離すと僅かに糸を引いた。

 

 スライムが這った跡だろうか。

 

 だが、これまで見てきたスライムの跡は、ただ湿るだけだった。

 ここまでのぬめりにはならない。

 

 それに。

 

 バルクもロニオも、こんなことは一度も言っていなかった。

 

 私は慎重に歩き、エルネの前まで行く。

 拾ったナイフを差し出した。

 

 そして杖を握り直す。

 

「ありがとう、先輩! ようし、今度は私の番!」

 

 エルネは元気に立ち上がると、目の前で這っているスライムへ歩み寄った。

 

 スライムは私たちから逃げるように、ゆっくりと地面を這って動いている。

 

 私はその跡を足で確かめた。

 

 岩の感触が靴底に伝わる。

 ごつごつとした石の感触。

 

 しかし、そこには先ほどの滑りはない。

 

 ……じゃあ、あれはスライムじゃない。

 

 では、何だ。

 

 何かがいる。

 

 しかも、近くに。

 

 私は杖を構え、もう一度だけ周囲を見渡した。

 

 洞窟の奥。

 

 暗闇。

 

 岩陰。

 

 聞こえる音は、水滴が落ちる音。

 エルネの息遣い。

 そしてスライムをナイフで裂く、わずかな水っぽい音。

 

 それだけ。

 

 私たち以外の音は、何もない。

 

 まだ、今はまだ。

 

「ほら! 先輩! 取れました! 取れましたよ! 見て!」

 

 エルネの声に、私は一歩だけ後ろへ退いた。

 

 息を吐く。

 

 ふぅ、と深い吐息。

 

「先輩?」

 

「ううん、何でもない。二個目ですね」

 

「順調、順調。ダンジョン探索も簡単ですね。この調子だとすぐに終わりそう」

 

 エルネは嬉しそうに言う。

 

 どろりと裂かれたスライムの残骸を見下ろし、それから私は彼女を見た。

 

 彼女は満面の笑みを浮かべている。

 

 そして軽い足取りで歩き出した。

 

 私はその背を追う。

 

 石床に靴音が響く。

 

 その瞬間だった。

 

 クッチャ、クッチャ。

 ズズッ。

 

 聞こえた。

 

 私たちのものではない音。

 

 すぐ背後から。

 

 ドクン、と心臓が大きく跳ねた気がした。

 

 背筋に冷たいものが走る。

 

 私は反射的に振り向いた。

 

 杖を構える。

 

 松明の光が揺れる。

 

 その先。

 

 暗闇の縁に、何かがいた。

 

 エルネも音に気づいたらしい。

 さっきまでの笑顔が、一瞬で消える。

 

「え? なに。スライム?」

 

 私は答えられなかった。

 

 松明の光の届くぎりぎりの場所。

 

 そこに、犬ほどの背丈の黒い影があった。

 

 影は動いている。

 

 そして――

 

 クッチャ、クッチャ、と。

 

 何か、生々しい音を繰り返していた。

 

 息を殺した。

 

 杖は構えたまま、動かさない。

 掲げた松明の炎だけが、頼りなく揺らめいている。

 

 いつでも撃てる。

 

 そう思いながらも、私はまだ動かなかった。

 

 

 何かを食べている。

 

 それに夢中なのか、こちらへ襲ってくる様子はない。

 

 オークにしては小さい。

 ゴブリンにしては、人の形をしていない。

 

 そのどちらでもない何か。

 

 その時だった。

 

 服の裾に、かすかな違和感。

 

 視線を落とすと、エルネが何も言わずに私の服を掴んでいた。

 強くではない。けれど確かに、引き止めるように。

 

 ……正直、動きづらい。

 

 少し邪魔に思えた。

 

 けれど振り払うほどでもない。

 

 私は一度だけ小さく息を整え、言った。

 

「エルネさん、剣を抜いて下さい」

 

 返事を待たず、手に持っていた松明を振りかぶる。

 

 そして――

 

 影の傍へ、音のする方へ放り投げた。

 

 カラン。

 コロン。

 

 石に当たる音を立てながら、松明が転がる。

 

 炎が跳ね、揺れ、光が広がる。

 

 その先にいたものが、照らし出された。

 

 黒く、湿った体。

 ぬめるように光を反射し、濃淡のあるまだら模様を浮かべている。

 

 高さは膝ほど。

 

 四足で、地面に這いつくばるような姿勢。

 

 頭は平たく、横に大きく裂けた口。

 

 そして、長い尾の先には――ヒレのような器官。

 

 見た目だけなら、小さなドラゴン。

 

 けれど。

 

 ドラゴンと呼ぶには、どこか頼りない。

 

 どちらかと言えば、大きなトカゲ。

 

 しかも、どこか間の抜けた顔をしている。

 

 そのトカゲは、先ほどエルネが仕留めたスライムを口に咥え、ゆっくりと呑み込んでいた。

 

 噛み砕くこともなく、ただ丸呑みするように。

 

 喉が、わずかに膨らんでいく。

 

 なんだろう、この生き物。

 

 知らない。

 

 初めて見る。

 

 私は、有名な魔物しか知らない。

 

 オオカミ、クマ、オーク、ゴブリン。

 依頼書に貼り出される名前。

 

 それ以外は――ほとんど知らない。

 

 目の前のそれは、どこにも載っていなかった。

 

 見た目だけなら、危険はなさそうに思える。

 

「わ……あ、私の倒したスライムが食べられちゃった……」

 

 エルネが、少し残念そうに呟いた。

 

 私は視線を外さずに言う。

 

「あの魔物、知っていますか?」

 

 問いかけると、エルネは首を横に振った。

 

「知らないです……」

 

 分からないまま。

 

 それでも、私は杖を構えたまま動かない。

 

 ゆっくりと位置を変え、松明の落ちた側へ回り込む。

 

 距離を保ちながら、観察する。

 

 わずかな沈黙。

 

 しばらくして。

 

 スライムを飲み終えたトカゲは、こちらを気にする様子もなく、その場でじっとしていた。

 

 敵意は感じない。

 

 危険ではない……気がする。

 

 確証はない。

 

 それでも。

 

 気づけば、杖を下ろしていた。

 

 松明を拾い上げる。

 

 その判断よりも先に、エルネの声が弾む。

 

「なんか……よく見るとちょっと、キモかわいい、かも」

 

 キモかわいい。

 

 確かに、そう言われればそんな気もする。

 

 平たい顔。

 離れた目。

 

 何を考えているのか分からない、間の抜けた表情。

 

 私は少しだけ、その姿を見つめた。

 

 エルネは私の前に乗り出して、もう一歩踏み出しそうになる様子だった。

 

 その時だった。

 

 トカゲが、のそりと動いた。

 

 前足を一歩、前へ。

 

 ぺたり、と小さな音を立てる。

 

 遅い。

 

 とても緩慢な動き。

 

 エルネと並んで、それを見ていた。

 

 私は松明をエルネに渡す。

 

 彼女はそれを受け取り、少し離れた距離からトカゲの後を追い始めた。

 

「あまり近づかないで下さい」

 

「うん。離れたところで見てる」

 

 敵意はない。

 

 ただ――

 

 食事に夢中で、こちらに関心がないだけかもしれない。

 

 ……魔物にも、色々いる。

 

 魔物だから危険。

 魔物だから人を襲う。

 

 そう思っていた。

 

 けれど、違うみたいで。

 

 襲ってくるものもいれば、逃げるものもいる。

 そして――

 

 関心を持たないものもいる。

 

 私は、思っていたものと違う世界を見ている。

 

 ふと、足元に目をやる。

 

 トカゲの這った跡。

 

 そこを踏むと、ぬかるむように滑った。

 

 ――これだ。

 

 エルネが転んだ原因。

 

 その時。

 

 エルネの声が響いた。

 

「あー! 先輩! トカゲさんがスライム食べました!

 あ゛! まって! 素材だけちょうだい!?

 まってまって、だめー!」

 

 私はすぐに顔を上げた。

 

 そして、滑らないように慎重に足を運びながら、エルネの元へ駆けた。

 

 トカゲの口に咥えられたスライムは、抵抗らしい抵抗も見せず、その形をあっけなく崩した。

 

 ぐ、と押し潰された瞬間、内側に溜まっていた体液が破れるように弾ける。

 ピチャ、と湿った音がして、飛び散ったそれが足元に落ちた。

 

 思わず一歩引きそうになる。

 

 けれど視線は逸らさない。

 

 トカゲはそれを気にも留めず、地面に押し付けるようにして器用に口へ運んでいく。

 顎の動きに合わせて、喉がゆっくりと膨らみ――そして、呑み込んだ。

 

 噛み砕くというより、押し込むような食べ方だった。

 

 私はエルネと並んで、その様子を見ていた。

 

 やがてトカゲは、満足したように低く喉を鳴らし――動かなくなった。

 先ほどまでの執着が嘘のように、ただそこにあるだけの存在になる。

 

「スライムを美味しそうに食べてるけど、スライムって美味しいの?」

 

 エルネが、ぽつりと呟いた。

 

 視線はトカゲのまま。

 けれどその声は、どこか呑気だった。

 

「おいしくないと思う」

 

 即答した。

 

 味がするとは思えない。

 見た目からして、水に近い。しかも、澄んだ水ではない。

 

 緑色で、どこか濁っていて。

 地面を這い、汚れを取り込んでいるそれは――飲むなら泥水と変わらない気がした。

 

「だよね〜」

 

 分かっていたように笑う。

 

 エルネはくるりとこちらを向いた。

 

「先輩! これじゃあ、み〜んなトカゲに食べられます! 集めなきゃ」

 

 そう言って、松明を片手に、もう片方の手でナイフを握りしめる。

 そのまま先を照らしながら歩き出した。

 

 私は、その手を見た。

 

 ――ロングソードは、抜かれていない。

 

 ほんの一瞬だけ、思考が止まる。

 

 けれど。

 

 結果として、何も起きていない。

 問題もない。

 

 小さく息をついた。

 

 先ほどまで感じていた、あの得体の知れない緊張は、もうどこにもなかった。

 

 私は一度だけ、足を止める。

 

 トカゲを見下ろした。

 

 危険な魔物。

 

 そう思っていた。

 

 けれど実際は、本当に無害で、無関心で。

 ただスライムを食べているだけの存在。

 

 もし――これが討伐依頼の対象だったら。

 

 私は、どうしていただろう。

 

 ……考えるまでもない。

 

 何の感情もなく、討伐していた。

 

 理由はある。

 依頼だから。危険かもしれないから。報酬が出るから。

 

 それだけで十分だった。

 

「……」

 

 杖を向けることすらせず、私は視線を外した。

 

 エルネの背中を追う。

 

 揺れるランタンの光。

 松明の火が、壁を歪ませる。

 

 二人分の足音が、洞窟の奥に吸い込まれていく。

 

 けれど。

 

 結局、見つけたスライムは――一匹で最後だった。

 

 それ以上は見当たらない。

 

 気配もない。

 

「……ここまで、かな」

 

 自然とそう口にしていた。

 

 無理に探しても意味がない。

 いないものは、いない。

 

 逃げるわけじゃない。

 ただ、場所を変えるだけ。

 

 それだけの判断。

 来た道を戻る。

 

 その途中で――気づいた。

 

 岩陰の奥。

 暗がりの中から、ぬめる影がひとつ。

 

 そして、もうひとつ。

 トカゲが現れる。

 

 どれも同じだった。

 

 スライムを見つければ、ただ噛みつき、押し込み、呑み込む。

 それだけを繰り返している。

 

 不思議だった。

 

 天井に張り付いていれば、スライムは襲われないはずだ。

 

 それなのに、落ちてくる。

 

 ――ああ。

 

 そういうことか。

 

 トカゲの動き。

 体温。振動。

 

 それに反応して、スライムは落ちてきている。

 

 襲うために、捕らえるために。

 

 けれど、結果は逆だ。

 落ちた瞬間に食べられる。

 

「……」

 

 少しだけ、考える。

 

 なんというか――皮肉だ。

 狙っているはずなのに、狩られている。

 強いつもりで、弱い。

 あるいは、その逆もあるのかもしれない。

 

 けれど、それだけでは説明がつかない。

 ジャイアントバットがいない理由。

 

 それには、まだ繋がらない。

 

「分からない……」

 

 思考は、そこで途切れた。

 

 隣で、エルネがこちらを見る。

 

 もっと奥に行こうとか、探そうとか。

 そう言い出すかと思った。

 

 けれど。

 

「うん、わかった。それじゃあ、外で探すの? 先輩」

 

 あっさりとしたものだった。

 

 私は少しだけ、意外に思う。

 

 あれだけ中に入りたがっていたのに。

 

「そうします」

 

 短く答える。

 洞窟の入口が、近づいてくる。

 

 その途中で。

 

 足元が、ぬるりと滑った。

 

「あっ――」

 

 思わず体勢を崩しかける。

 

 トカゲの這った跡のあの粘液。

 振り返ると、エルネも同じようにバランスを崩していた。

 

「わっ、危なっ」

 

 二人して、少しだけ笑う。

 

 転びそうになりながら、なんとか踏みとどまる。

 

 ただ、それだけのこと。

 大きな成果も、戦いもなかった。

 

 だけど、ここには確かに知らなかったものがあった。

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