「今度は私がするね」
そう言うと、エルネは小走りで前へ出た。
軽い足音が洞窟の石床に響く。
彼女は腰の鞘にロングソードを収め、代わりにナイフを片手で引き抜いた。
刃が松明の光をわずかに反射する。
その瞬間だった。
踏み込んだ足が、前へ滑った。
「きゃっ!?」
ツルリと足を取られ、エルネの体が横に流れる。
尻もちではなく、勢いのまま盛大に横転した。
ドシン、と鈍い音が洞窟の壁に反響する。
とっさに腕で頭を守ったらしいが、手に持っていた松明とナイフは宙に放り出され、石の床を跳ねながらコロンコロンとあらぬ方向へ転がっていった。
「いったぁ……」
エルネが呻く。
「大丈夫?」
私は急がず、慎重に歩いて近づいた。
同じ場所で滑っては意味がない。
足元を確かめながら近づき、落ちていた松明を拾い上げる。
掲げると、炎が揺れて周囲の影が大きく伸びた。
少し離れたところでナイフの刃が光を返す。
私は杖を脇に挟み、それを拾い上げた。
「うぅ、最悪……先輩。そこ滑るから気をつけて」
エルネは四つん這いの姿勢で体を起こした。
私は彼女のそばへ行き、顔を覗き込む。
「怪我はないですか?」
エルネはその場にぺたんと座り込み、腕を伸ばしたり、体を軽く叩いたりして確認する。
服についた塵を払い、指で頬をつつくように触れた。
視線が合う。
すると彼女はぱっと目を開いて言った。
「転んで腕が痛いですけど大丈夫。平気」
強がりなのか、本当に大丈夫なのかは分からない。
私は小さく頷き、足元へ視線を落とした。
石の床。
そこに足を乗せると、ぬるりとした感触がある。
確かに、滑る。
けれどただ濡れているのとは違う。
湿気ではなく、もっと粘りのある何か。
足を離すと僅かに糸を引いた。
スライムが這った跡だろうか。
だが、これまで見てきたスライムの跡は、ただ湿るだけだった。
ここまでのぬめりにはならない。
それに。
バルクもロニオも、こんなことは一度も言っていなかった。
私は慎重に歩き、エルネの前まで行く。
拾ったナイフを差し出した。
そして杖を握り直す。
「ありがとう、先輩! ようし、今度は私の番!」
エルネは元気に立ち上がると、目の前で這っているスライムへ歩み寄った。
スライムは私たちから逃げるように、ゆっくりと地面を這って動いている。
私はその跡を足で確かめた。
岩の感触が靴底に伝わる。
ごつごつとした石の感触。
しかし、そこには先ほどの滑りはない。
……じゃあ、あれはスライムじゃない。
では、何だ。
何かがいる。
しかも、近くに。
私は杖を構え、もう一度だけ周囲を見渡した。
洞窟の奥。
暗闇。
岩陰。
聞こえる音は、水滴が落ちる音。
エルネの息遣い。
そしてスライムをナイフで裂く、わずかな水っぽい音。
それだけ。
私たち以外の音は、何もない。
まだ、今はまだ。
「ほら! 先輩! 取れました! 取れましたよ! 見て!」
エルネの声に、私は一歩だけ後ろへ退いた。
息を吐く。
ふぅ、と深い吐息。
「先輩?」
「ううん、何でもない。二個目ですね」
「順調、順調。ダンジョン探索も簡単ですね。この調子だとすぐに終わりそう」
エルネは嬉しそうに言う。
どろりと裂かれたスライムの残骸を見下ろし、それから私は彼女を見た。
彼女は満面の笑みを浮かべている。
そして軽い足取りで歩き出した。
私はその背を追う。
石床に靴音が響く。
その瞬間だった。
クッチャ、クッチャ。
ズズッ。
聞こえた。
私たちのものではない音。
すぐ背後から。
ドクン、と心臓が大きく跳ねた気がした。
背筋に冷たいものが走る。
私は反射的に振り向いた。
杖を構える。
松明の光が揺れる。
その先。
暗闇の縁に、何かがいた。
エルネも音に気づいたらしい。
さっきまでの笑顔が、一瞬で消える。
「え? なに。スライム?」
私は答えられなかった。
松明の光の届くぎりぎりの場所。
そこに、犬ほどの背丈の黒い影があった。
影は動いている。
そして――
クッチャ、クッチャ、と。
何か、生々しい音を繰り返していた。
息を殺した。
杖は構えたまま、動かさない。
掲げた松明の炎だけが、頼りなく揺らめいている。
いつでも撃てる。
そう思いながらも、私はまだ動かなかった。
何かを食べている。
それに夢中なのか、こちらへ襲ってくる様子はない。
オークにしては小さい。
ゴブリンにしては、人の形をしていない。
そのどちらでもない何か。
その時だった。
服の裾に、かすかな違和感。
視線を落とすと、エルネが何も言わずに私の服を掴んでいた。
強くではない。けれど確かに、引き止めるように。
……正直、動きづらい。
少し邪魔に思えた。
けれど振り払うほどでもない。
私は一度だけ小さく息を整え、言った。
「エルネさん、剣を抜いて下さい」
返事を待たず、手に持っていた松明を振りかぶる。
そして――
影の傍へ、音のする方へ放り投げた。
カラン。
コロン。
石に当たる音を立てながら、松明が転がる。
炎が跳ね、揺れ、光が広がる。
その先にいたものが、照らし出された。
黒く、湿った体。
ぬめるように光を反射し、濃淡のあるまだら模様を浮かべている。
高さは膝ほど。
四足で、地面に這いつくばるような姿勢。
頭は平たく、横に大きく裂けた口。
そして、長い尾の先には――ヒレのような器官。
見た目だけなら、小さなドラゴン。
けれど。
ドラゴンと呼ぶには、どこか頼りない。
どちらかと言えば、大きなトカゲ。
しかも、どこか間の抜けた顔をしている。
そのトカゲは、先ほどエルネが仕留めたスライムを口に咥え、ゆっくりと呑み込んでいた。
噛み砕くこともなく、ただ丸呑みするように。
喉が、わずかに膨らんでいく。
なんだろう、この生き物。
知らない。
初めて見る。
私は、有名な魔物しか知らない。
オオカミ、クマ、オーク、ゴブリン。
依頼書に貼り出される名前。
それ以外は――ほとんど知らない。
目の前のそれは、どこにも載っていなかった。
見た目だけなら、危険はなさそうに思える。
「わ……あ、私の倒したスライムが食べられちゃった……」
エルネが、少し残念そうに呟いた。
私は視線を外さずに言う。
「あの魔物、知っていますか?」
問いかけると、エルネは首を横に振った。
「知らないです……」
分からないまま。
それでも、私は杖を構えたまま動かない。
ゆっくりと位置を変え、松明の落ちた側へ回り込む。
距離を保ちながら、観察する。
わずかな沈黙。
しばらくして。
スライムを飲み終えたトカゲは、こちらを気にする様子もなく、その場でじっとしていた。
敵意は感じない。
危険ではない……気がする。
確証はない。
それでも。
気づけば、杖を下ろしていた。
松明を拾い上げる。
その判断よりも先に、エルネの声が弾む。
「なんか……よく見るとちょっと、キモかわいい、かも」
キモかわいい。
確かに、そう言われればそんな気もする。
平たい顔。
離れた目。
何を考えているのか分からない、間の抜けた表情。
私は少しだけ、その姿を見つめた。
エルネは私の前に乗り出して、もう一歩踏み出しそうになる様子だった。
その時だった。
トカゲが、のそりと動いた。
前足を一歩、前へ。
ぺたり、と小さな音を立てる。
遅い。
とても緩慢な動き。
エルネと並んで、それを見ていた。
私は松明をエルネに渡す。
彼女はそれを受け取り、少し離れた距離からトカゲの後を追い始めた。
「あまり近づかないで下さい」
「うん。離れたところで見てる」
敵意はない。
ただ――
食事に夢中で、こちらに関心がないだけかもしれない。
……魔物にも、色々いる。
魔物だから危険。
魔物だから人を襲う。
そう思っていた。
けれど、違うみたいで。
襲ってくるものもいれば、逃げるものもいる。
そして――
関心を持たないものもいる。
私は、思っていたものと違う世界を見ている。
ふと、足元に目をやる。
トカゲの這った跡。
そこを踏むと、ぬかるむように滑った。
――これだ。
エルネが転んだ原因。
その時。
エルネの声が響いた。
「あー! 先輩! トカゲさんがスライム食べました!
あ゛! まって! 素材だけちょうだい!?
まってまって、だめー!」
私はすぐに顔を上げた。
そして、滑らないように慎重に足を運びながら、エルネの元へ駆けた。
トカゲの口に咥えられたスライムは、抵抗らしい抵抗も見せず、その形をあっけなく崩した。
ぐ、と押し潰された瞬間、内側に溜まっていた体液が破れるように弾ける。
ピチャ、と湿った音がして、飛び散ったそれが足元に落ちた。
思わず一歩引きそうになる。
けれど視線は逸らさない。
トカゲはそれを気にも留めず、地面に押し付けるようにして器用に口へ運んでいく。
顎の動きに合わせて、喉がゆっくりと膨らみ――そして、呑み込んだ。
噛み砕くというより、押し込むような食べ方だった。
私はエルネと並んで、その様子を見ていた。
やがてトカゲは、満足したように低く喉を鳴らし――動かなくなった。
先ほどまでの執着が嘘のように、ただそこにあるだけの存在になる。
「スライムを美味しそうに食べてるけど、スライムって美味しいの?」
エルネが、ぽつりと呟いた。
視線はトカゲのまま。
けれどその声は、どこか呑気だった。
「おいしくないと思う」
即答した。
味がするとは思えない。
見た目からして、水に近い。しかも、澄んだ水ではない。
緑色で、どこか濁っていて。
地面を這い、汚れを取り込んでいるそれは――飲むなら泥水と変わらない気がした。
「だよね〜」
分かっていたように笑う。
エルネはくるりとこちらを向いた。
「先輩! これじゃあ、み〜んなトカゲに食べられます! 集めなきゃ」
そう言って、松明を片手に、もう片方の手でナイフを握りしめる。
そのまま先を照らしながら歩き出した。
私は、その手を見た。
――ロングソードは、抜かれていない。
ほんの一瞬だけ、思考が止まる。
けれど。
結果として、何も起きていない。
問題もない。
小さく息をついた。
先ほどまで感じていた、あの得体の知れない緊張は、もうどこにもなかった。
私は一度だけ、足を止める。
トカゲを見下ろした。
危険な魔物。
そう思っていた。
けれど実際は、本当に無害で、無関心で。
ただスライムを食べているだけの存在。
もし――これが討伐依頼の対象だったら。
私は、どうしていただろう。
……考えるまでもない。
何の感情もなく、討伐していた。
理由はある。
依頼だから。危険かもしれないから。報酬が出るから。
それだけで十分だった。
「……」
杖を向けることすらせず、私は視線を外した。
エルネの背中を追う。
揺れるランタンの光。
松明の火が、壁を歪ませる。
二人分の足音が、洞窟の奥に吸い込まれていく。
けれど。
結局、見つけたスライムは――一匹で最後だった。
それ以上は見当たらない。
気配もない。
「……ここまで、かな」
自然とそう口にしていた。
無理に探しても意味がない。
いないものは、いない。
逃げるわけじゃない。
ただ、場所を変えるだけ。
それだけの判断。
来た道を戻る。
その途中で――気づいた。
岩陰の奥。
暗がりの中から、ぬめる影がひとつ。
そして、もうひとつ。
トカゲが現れる。
どれも同じだった。
スライムを見つければ、ただ噛みつき、押し込み、呑み込む。
それだけを繰り返している。
不思議だった。
天井に張り付いていれば、スライムは襲われないはずだ。
それなのに、落ちてくる。
――ああ。
そういうことか。
トカゲの動き。
体温。振動。
それに反応して、スライムは落ちてきている。
襲うために、捕らえるために。
けれど、結果は逆だ。
落ちた瞬間に食べられる。
「……」
少しだけ、考える。
なんというか――皮肉だ。
狙っているはずなのに、狩られている。
強いつもりで、弱い。
あるいは、その逆もあるのかもしれない。
けれど、それだけでは説明がつかない。
ジャイアントバットがいない理由。
それには、まだ繋がらない。
「分からない……」
思考は、そこで途切れた。
隣で、エルネがこちらを見る。
もっと奥に行こうとか、探そうとか。
そう言い出すかと思った。
けれど。
「うん、わかった。それじゃあ、外で探すの? 先輩」
あっさりとしたものだった。
私は少しだけ、意外に思う。
あれだけ中に入りたがっていたのに。
「そうします」
短く答える。
洞窟の入口が、近づいてくる。
その途中で。
足元が、ぬるりと滑った。
「あっ――」
思わず体勢を崩しかける。
トカゲの這った跡のあの粘液。
振り返ると、エルネも同じようにバランスを崩していた。
「わっ、危なっ」
二人して、少しだけ笑う。
転びそうになりながら、なんとか踏みとどまる。
ただ、それだけのこと。
大きな成果も、戦いもなかった。
だけど、ここには確かに知らなかったものがあった。