暗い大空洞から外へ出た瞬間、世界はまるで何事もなかったかのように音を取り戻した。
風が木々を揺らし、葉が擦れ合う柔らかな音が耳に届く。どこか遠くで鳥が鳴いている。その一つ一つが、さっきまでいた場所の静寂と断絶しているようで、妙に現実味がなかった。
差し込む陽の光は強く、思わず手をかざす。
……眩しい。
目を細めながら、私は小さく息を吐いた。
結局、スライムの核は三つだけだった。
依頼に必要なのは七つ。
残りは、四つ。
革袋の重みを確かめながら、足りない分の現実を頭の中で反芻する。簡単な計算のはずなのに、それは妙に重く感じられた。
私はランタンの火を消す。
エルネも松明を地面に叩きつけるように振り回す。火の粉が散り、やがて土を被せられて完全に消えた。
火が消える音を背に、私は口を開く。
「残りはあと四つなので、前に薬草を集めた群生地周辺にスライムがいないか探そう」
洞窟以外でスライムがいそうな場所。
湿気。
陰。
腐りかけたものがあるところ。
思い当たる場所は、そう多くない。
「ジメジメしたところにいるもんね」
エルネは軽く頷き、自然と私の隣に並んだ。
群生地までは、そう遠くない。
少し歩けばすぐに辿り着く距離だ。洞窟から出てきたスライムが、周辺に留まっていても不思議ではない。
そう考えながら、二人で森の中へと足を進めた。
木陰の下、柔らかな土を踏みしめる。
やがて、湿気を帯びた匂いが鼻に届く。
薬草の群生地だ。
洞窟の中ほどではないにせよ、空気にはわずかな粘り気がある。
視線を落とすと、以前刈り取った跡がはっきりと残っている。
けれど、その切り口のすぐ下から、新しい芽が顔を出していた。
……再生している。
それが当然のようにそこにあることに、少しだけ違和感を覚えた、その時だった。
「あ、先輩、あれ!」
エルネの声に、思考を切り替える。
指差す先へ視線を移すと、薬草が不自然に揺れていた。
そこに、小さな影。
白く、柔らかな毛並み。
細長く突き出た二つの耳。
――ホーンラビット。
間違いない。
こちらに気づいていないのか、夢中で薬草の葉を食んでいる。
「ウサギさん、怪我してるのかな? いっぱい食べて元気になってね」
エルネが小さく手を振る。
その気配に気づいたのか、ホーンラビットは顔を上げ、こちらを見た。
一瞬の静止。
けれど、次の動きは奇妙だった。
跳ねることもなく、ただ向きを変え、ゆっくりと歩くように木陰の奥へと消えていく。
――逃げない。
いや、逃げているが、あまりにも遅い。
いつもなら白い残像のように駆けていくはずなのに。
違和感はあった。
けれど今は、スライムの核集めだ。
意識を切り替え、周囲へと視線を巡らせる。
薬草の揺れ。
木の幹。
湿った痕跡。
自然と、エルネと互いの姿が見える位置を保ちながら、手分けして探し始めた。
群生地の奥へ、さらにその奥へ。
「せんばーい! いましたー?」
「見つかりませーん」
軽い声のやり取りが、妙に空しく響く。
緑の影は見えない。
粘ついた痕もない。
スライムの気配は、どこにも感じられなかった。
……難航する。
そう思いながら、私はゆっくりと後ろへ下がるように視線を動かす。
上を見て、周囲を見て、そして足元へ。
その瞬間。
ゴリッ、と。
靴裏に、硬い感触が走った。
反射的に足を引く。
もう一歩下がり、足元を見る。
そこにあったのは――
三つの、硬い塊。
屈み込み、指で拾い上げる。
石のようでいて、わずかに違う光沢。
手の中で転がし、確信する。
――魔石。
それもスライムの核に、よく似ている。
「エルネさーん、来てください!」
「見つかったー?」
軽やかな足音が近づき、隣に並ぶ。
エルネは地面を覗き込み、首を傾げた。
「先輩? スライムじゃないの?」
「これを見てください。理由はわからないんですけど、魔石が落ちてるんです」
「わ〜! すご〜い! 運がいいですね私たち! 誰かの落とし物みたい」
屈み込み、エルネも二つを拾い上げる。
無邪気な声。
けれど、その言葉に引っかかりが残る。
――落とし物。
人間なら、拾う。
では、スライムなら?
あるいは、あのトカゲ。
……食べる。
だとすれば。
これは、排泄物か?
眉間に皺が寄る。
だが、それならおかしい。
魔石だけが、こうして綺麗に残る理由がない。
消化されたものと混ざっていないと、筋が通らない。
思考を整理するように、私は革袋を取り出し、中の核と見比べる。
色はわずかにくすんでいる。
だが、大きさも形も、ほとんど同じ。
――スライムの核。
「先輩! これスライムから取ったものと大きさが似てますね?」
「私もそう思います」
即答した。
エルネはぱっと顔を明るくする。
「これも一緒に納品したらいいですよね? 倒さなくったって同じもの! ね! 先輩!」
……言いたいことは、わかる。
難航していたところに現れた、都合のいい解答。
それを掴みたくなる気持ちも。
私は一つを革袋に入れる。
続いて、エルネも二つを落とした。
これで――六つ。
あと、一つ。
ほんの少しだけ、届かない。
ふと、視線を上げる。
群生地の奥。
さらにその先、木々の隙間の向こうに、光を鈍く反射する水面が見えた。
水草が揺れ、地面は沈み込むように暗い。
――沼。
あるいは、沼沢地。
どう考えてもスライムが、最も好む場所。
私は無意識に、息を浅くした。
あと一つ。
それを探しに行く先としてはあまりにも、出来すぎている場所だった。
それでも、足は自然と水辺へ向いていた。
足を踏み入れる。
境界のようなものがあるかと思っていたが、空気が変わることもなく、ただ草の感触が靴裏に伝わるだけだった。拍子抜けするほどに、何も起こらない。
そのまま水辺の近くまで歩み寄る。
屈み込み、水面を覗き込んだ。
……綺麗だ。
濁りはほとんどなく、底まで見える。光が揺れ、水の中で反射しながらゆらゆらと歪んでいる。浅い。泥の沈殿がうっすらと積もり、その上に透明な水が重なっているだけだ。
水の中に魚や虫がいない。
危険な気配は、感じない。
「わっ!」
背後からの声に、身体が跳ねた。
反射的に肩が上がり、息が詰まる。
「もぅ!」
振り返ると、エルネが笑いながら手を引っ込めていた。
「えへへ、ごめんなさい。先輩、ずっと水面見てると落ちちゃいますよ」
……確かに。
もう少しでバランスを崩していたかもしれない。
小さく息を吐き、慎重に一歩だけ後ろへ下がる。
改めて周囲を見るが、魔物の気配はない。水辺特有の湿気はあるが、それ以上の違和感は感じられなかった。
エルネの方へ視線を向けると、彼女は上を見上げている。木の幹や枝の隙間を探るように、スライムの姿を念入りに探している。
私は軽くため息をついた。
水辺をなぞるように歩く。
そのとき、視界の端で何かが光った。
キラリ、と反射した。
足を止め、もう一度同じ場所を見る。
水の中。
底の泥の上に、何かが沈んでいる。
光を拾う、硬質なもの。
……魔石だ。
スライムの核。
しかも一つではない。まとまって、いくつか沈んでいる。
五つほど。
胸の内で計算が弾ける。
これを取れば、納品数は揃う。それどころか、余分が出る。
余分はそのまま報酬になる。
……取りに行くべきだ。
だが、水の中。
「エルネさん、水の中に魔石が落ちてます!」
「ホント〜!?」
声を弾ませて駆け寄ってくる。
水魔法があれば、水流で引き寄せられるだろうか。土魔法なら底を持ち上げて道を作れるかもしれない。
風では、届かない。
できることの差が、妙に現実として胸に残る。
「先輩どこどこ。どこですか?」
指を差す。
「あそこ、水の中に落ちてる」
「わ、ほんと、五個くらい落ちてる」
無防備に身を乗り出すエルネを横目で見る。
その姿に、さっきの仕返しを思いついた。
ほんの、軽い悪戯。
手が、動く。
「わっ!」
両手で肩を掴み、引く。
「ヒィャアッッ!!」
大きな悲鳴とともに体が跳ねる。
そのまま後ろへ引き、二人して地面に転がった。
「ちょっとぉ、もぉお、びっくりしたぁーー!」
エルネが文句を言う。
その顔が、あまりにも大げさで。
思わず、笑いが漏れた。
エルネもつられて笑う。
何が面白いのか分からないまま、二人でしばらく笑い続けた。
仰向けのまま、木陰越しの空を見る。
葉の隙間からこぼれる光が、ゆらゆらと揺れていた。
……こんなことをしていて、いいのだろうか。
そんな疑問が浮かぶ。
けれど、それを咎める者はいない。
誰もいない。
だから――許されているような気がした。
体を起こす。
靴を脱ぎ、ズボンの裾を引き上げる。杖と手袋、ポーチを横に置く。
やることは単純だ。
入って、取って、戻る。それだけ。
それで終わる。
エルネの視線を感じる。
「先輩の足って綺麗」
「?」
意味が分からず、首を傾げる。
「ありがとう?」と、とりあえず返す。
エルネは満足そうに頷いた。
「私が取りに行ってきますね」
「あ、はい。お願いします」
水辺へ足を向ける。
家にいた頃、水浴びで足を浸けた感触を思い出す。
つま先が水に触れると、ひやりと冷たい。
足首まで沈むと、一気に熱が奪われる感覚が広がった。
そのまま、ゆっくりと足を進める。
水底は柔らかく、沈殿物が足を包み込む。足首まで沈み込むような感触。
もう片方の足も入れる。
一歩。
また一歩。
進むたびに泥が舞い、水が濁る。
だが気にしない。
魔石の位置は、もう分かっている。
やがて、すぐ目の前。
「やりましたね! 先輩!」
岸からエルネの声が飛ぶ。
振り返ると、笑顔で手を振っていた。
その姿に、ほんの少しだけ安心する。
視線を戻す。
腰を曲げ、左腕の袖を捲る。
腕を伸ばす。
指先が水に触れる。
冷たい。
そのまま、手を沈める。
水が腕を包み込み、感覚が鈍る。
底へ。
泥の中へ。
指が何かに触れる。
硬い。
それを掴み、握りしめる。
――その瞬間だった。
左脇。
すぐ隣で。
バンッ!!
水が弾けた。
爆発したような衝撃音。
認識するより早く、激痛が走る。
左腕。
全体を、何かに掴まれた。
潰されるような圧力。
視界が揺れる。
何も見えない。
判断が追いつかない。
身体が引かれる。
水の中へ。
足が滑り、体勢が崩れる。
そのまま――水の中へ叩き込まれた。
冷たい。
重い。
暗い。
痛い。
思考が、痛みに塗り潰される。
何が起きたのか、分からない。
分からないまま、
ただ引きずり込まれる。
遠くで、声がした気がした。
――先輩!
エルネの声。
それだけが、かろうじて届いた。
正体のわからない何かは、私の左腕を乱暴に掴んだまま、振り回すようにして奥へと引きずり込んだ。
抵抗しようと力を込めた瞬間、骨ごと握り潰されるような圧迫が走る。
――まずい。
直感的に理解して、力を抜く。
だがそれでも、掴まれているだけで腕が軋む。引き千切られそうな痛みに、声が喉で潰れた。
「……っ、ぅぐ……」
まともに声にもならない。
次の瞬間、顔に冷たい感触が触れる。
水。
理解するよりも早く、顔がその中へ沈んだ。
息を溜める暇もない。
反射的に目を閉じる。水が入り込むのを防ごうとするが、そんな余裕はない。腕の痛みが神経を焼くように強くなり、身体は落ち着くどころか、勝手に呼吸を求めて動こうとする。
息が、持たない。
吐き続けていた空気が尽きていく。
――浅瀬。
そうだ、ここは浅いはずだ。
立てばいい。体勢を戻せば、すぐに息ができる。
そう思って、膝を水底へ引っかけるように動かす。
だが、踏めない。
底は柔らかく、泥と沈殿物が足を飲み込む。力を入れるほどに、滑って沈み、引きずられる。
右手で何かを掴もうとする。
しかし、何もない。
支えがない。
引き止めるものがない。
ただ、引かれていく。
息が、もう。
思わず顔を上げた。
水面に触れる。
空気に触れた感覚。
反射的に息を吸う。
吸って、吐く。
――なのに。
おかしい。
息をしているのに、息をしている感覚がない。
胸が満たされない。
呼吸が浅い。
小刻みにしか動かない。
空気が、足りない。
声を出す余裕もなかった。
視線を、左腕へ。
そこに――黒い影があった。
二の腕から前腕にかけて、黒いものに呑み込まれている。
目を凝らす。
大きく裂けた口。
ぬめりを帯びた黒い体表。
まだらな模様。
離れた位置にある、小さな目。
……見覚えがある。
ついさっき、見た。
洞窟の中で。
――トカゲ。
その魔物が、もう一度、私の腕に噛みついたまま大きく揺さぶる。
引きずられ、体勢が崩れる。
再び、顔が水の中へ落ちた。
視界が暗くなる。
右手で引き剥がそうとする。
押す。
叩く。
だが、体表はぬかるみのように滑り、力が逃げる。
一度。
二度。
何度やっても、同じ。
無駄だと分かっても、やめられない。
痛い。
苦しい。
息ができない。
溺れる。
思考が崩れる。
――姉さま。
ふと、浮かぶ。
揺さぶられる勢いの中で、必死に顔を上げる。
水面に出る。
……はずだった。
だが。
空気に触れている感覚が、ない。
その瞬間。
水を、飲み込んだ。
喉に流れ込む。
焼けるような異物感。
むせ返る。
咳が出る。
だが、息がない。
咳も、呼吸も、どちらもできない。
苦しさだけが増えていく。
そのとき。
右手が強く引かれた。
引き上げられ、身体が持ち上がる。
その反動で、左肩に激痛が走る。
千切れる。
そう錯覚するほどの痛み。
声も出ない。
息もできない。
ただ、苦しい。
引かれてもまだ水に沈む感覚。
「――ッ、ゲホッ……ゲホ、ゲェ……!」
水を吐く。
咳が止まらない。
肺が空気を求めて痙攣する。
無理やり息を吸う。
喉が焼ける。
「リュシア先輩! 大丈夫ですか!? 今、助けますから……!」
エルネの声。
右手を強く握られている。
そのまま、さらに引かれる。
同時に、別の音。
バシャンッ――!
水を叩きつける音。
もう一度。
さらに一度。
何度か繰り返される。
やがて、左腕の拘束が、ふっと消えた。
引かれる力がなくなる。
エルネに引き上げられるまま、水から引き離される。
泥の上を引きずられ、岸へ。
ようやく、完全に水から離れた。
そこで、やっと、呼吸が戻る。
咳き込みながら、何度も空気を吸い込む。
胸が痛い。
喉が痛い。
腕が、痛い。
……生きている。
その実感が、遅れてやってくる。
荒い呼吸のまま、ぼやけた視線を動かす。
「エルネ、さん……私を襲ったのって……何か分かりますか……?」
途切れる息の合間に、問いかける。
エルネは一瞬言葉に詰まり、けれどすぐに掠れた声で答えた。
「あ、あの……先輩。さっきの洞窟で見かけたトカゲと同じ見た目を、その、してたと思う」
……やっぱり。
思った通りだった。
洞窟の中で見た、あの魔物。
近づいても、こちらに興味を示さなかった存在。
無害だと。関心がないのだと。
そう、思っていた。
――違った。
なぜ襲われたのか。
どうしてここで。
水に入ったから?
スライムの体液に触れたから?
餌だと思われた?
答えはまだ分からない。
ゆっくりと、左手を開く。
震える指の中に。
五つの、小さな魔石。
それは確かに、そこにあった。