三日だった。
怪我を癒やすには短く、待つには長い三日。
そして今日――冒険者ギルドで、正式な冒険者になるための試験の日。
ポーチを腰に着け、ナイフの感触を確かめる。
中身も重さも問題ない。準備は万全。
新しく手に入れた杖を握る。
まだ少し硬く、手に馴染みきっていない感触。
それでも、今の私に必要なものだった。
「行ってきます」
宿のカウンター越しに声をかけると、おばさんは軽く手を振った。
「いってらっしゃい。頑張ってきな」
扉を開けると、朝の光が差し込む。
まだ早い時間なのに、陽はもう街を照らしていた。
血の染みが残る革鎧が、光をわずかに跳ね返す。
縫い目はほつれていない。留め具も、まだ新しい。
――それでも。
リュシア・フェル・アエリスは、胸を張って走った。
石畳を蹴る足音だけが、街路に響く。
迷いのない足取り。
風の氏族の末っ子にふさわしい、一直線さ。
今日から、冒険者になる。
やがて石畳の先に、見慣れた建物が現れる。
冒険者ギルド。
その姿を認めた瞬間、私は歩調を緩めた。
息を整え、背筋を伸ばし――ゆっくりと歩く。
扉を押し開ける。
鼻をくすぐる、以前と同じ匂い。
木と紙と、汗と鉄の混じった空気。
私は一直線に受付へ向かった。
「冒険者登録の試験を受けに来ました」
仮の冒険者証を差し出す。
受付のお姉さんは一瞬だけ私を見てから、慣れた手つきで手続きを始めた。
「はい、確認しました。試験はお昼からになります。それまで自由に待っていてくださいね」
お昼から。
思ったより、まだ時間がある。
高ぶる気持ちが、胸の奥でそわそわと暴れ出す。
端の長椅子に腰掛け、周囲を見渡す。
朝が早いせいか、ギルド内の人影は少ない。
視線が自然と向かったのは、依頼掲示板だった。
迷宮調査、魔物討伐、素材収集と納品。
並ぶ依頼の紙。
大ネズミの駆除。
スライムの核。
薬草摘み。
……どれも、ぱっとしない。
さらに目を走らせる。
ゴブリン討伐。
推奨ランク:D。
弱い魔物なんだ。
私は、もっと強い魔物だって倒せる。
そう、思ってしまった。
依頼を選別するように、掲示板を流し見る。
胸の奥で、根拠のない自信が、静かに膨らんでいく。
――試験は、まだ先なのに。
私はもう、冒険者になったつもりでいた。
昼前になる頃には、冒険者ギルドの中は人でごった返していた。
朝の静けさが嘘のようだ。
鎧の擦れる音、革靴の足音、話し声が重なり合い、空気がざわついている。
その頃には、到着した順に受付嬢から声がかかり、試験会場へ移動するよう案内が始まっていた。
連れられた先は、ギルド裏手の広場だった。
開けた空間の中央には、打ち込み用の丸太を模した模型がいくつも設置されている。
剣痕や焦げ跡が残り、これまでに何度も使われてきたことが一目で分かった。
集まった人数は四十……いや、五十人近い。
若い人もいれば、私よりずっと年上の人もいる。
鎧を着慣れた者、道具だけが新しい者。
そして、私と同じくらいの年齢の女の子の姿もちらほら見えた。
もうすぐ始まる。
そう思うだけで、胸の奥がそわそわと落ち着かない。
「ねぇ」
不意に声をかけられて、肩がわずかに跳ねた。
「私はミアレ。あなたは?」
にこりと笑う、同い年くらいの女の子だった。
「あ、私は……リュシア」
彼女の視線が、私の手元に向く。
「おっきな杖ね。魔法使いなの?」
「う、うん」
「すごい。なんだか様になってる。魔法使いってローブのイメージがあるけど、その格好のほうが冒険者って感じがするね」
ドクン、と鼓動が跳ねた。
冒険者。
冒険者って、言ってくれた。
「え……ほんと? あ、えへ……ありがとう」
褒められた嬉しさで、思わず杖を両手でぎゅっと握りしめる。
彼女は髪を束ね、腰には矢筒。背には弓を背負っていた。
弓を使う人。
弦を引き、矢を放つ――想像しても、うまく当たる気がしない。
私は魔法が得意。
だから、この子は弓が得意なんだ。
「ねぇ、どんな魔法使うの? 炎でドーンとか、氷で串刺しとか?」
私は首を横に振った。
「風魔法だけ。炎とか氷は全然だめ。でも……風だけは自信あるの」
風は、逃げる相手には強い。
それにゴブリン相手には、十分すぎるほどだった。
「風?」
彼女は少し考え、「へぇ……」とポツリ呟いた。
少し含みを持たせたような声。
でも、私は迷わなかった。
全身全霊をもって、この試験に挑む。
試験官だって、分かってくれるはずだ。
私が、冒険者に必要な存在だって。
「一緒に合格して、冒険者になろうね」
ミアレはそう言って、笑った。
その言葉を、私は胸にしまい込む。
やがて、試験が始まった。
数人のギルド職員――その中でも年嵩の者が前に出て、試験官として名乗りを上げた。
「本日はよく来てくれた。これから行うのは、冒険者登録試験だ」
簡単な挨拶。
そして、続けて告げられた言葉は意外と穏やかだった。
「これは切り捨てるための試験ではない。諸君らの実力を測るためのものだ」
測る、という言い方。
選別されるわけじゃない。
ただ、今の自分がどこに立っているのかを示すだけ。
私はその言葉に、むしろ胸を張った。
試験内容は単純だった。
近接職の受験者は、教官と模擬戦を行い、剣筋や動きを見られる。
そして――
遠距離職。
弓、クロスボウ、魔法。
私たちは、目の前に置かれた打ち込み用の丸太を攻撃するだけでいい。
動かない的。
逃げない。
反撃もしない。
ただの、丸太。
……簡単だ。
距離も遠くない。
風魔法を当てるには、むしろ近いくらいだ。
緊張はなかった。
あるのは、「まだか」という待ち遠しさだけ。
弓使いたちから始まった。
木剣が打ち合う乾いた音の合間に、矢が風を切る音が混じる。
トスッ。
確かな手応えの音。
ミアレの姿もそこにあった。
弦を引き、迷いなく放つ。
矢は真っ直ぐに飛び、丸太の中心近くに突き刺さる。
上手い。
クロスボウを使う人もいた。
弓とは違う乾いた発射音。
それでも、的は動かない。
やがて、弓使いたちが終わり――魔法職の番になる。
一人目が詠唱を始めた。
火の属性。
五つのファイアーボールが形を成し、丸太へ向かう。
ドドドッ、と着弾音。
丸太は焦げ、欠けた。
次は氷。
長めの詠唱の末、三角錐のアイスニードルが突き刺さる。
皆、悪くない。
でも――
少し、拍子抜けした。
強力ではあるが、決定的ではない。
慎重すぎる詠唱。
試験だからこその、安全な選択。
そして、最後。
「次、リュシアさん。どうぞ」
「はい」
私は一歩前に出た。
ここで、全力を出す。
この場で見せる。
私が、冒険者に必要な存在だと。
――逃げない。反撃もしない。ただの的だ。
詠唱を紡ぐ。
「風よ、力となりて集え……」
ふわり、と風が髪を撫でた。
いつもの感覚。
いつもの、私の風。
視線の先は丸太だけ。
「ウインドブラストッ!」
放たれた風の塊が直撃した瞬間――
パァァンッ!!
高い破裂音とともに、丸太が木っ端微塵に弾け飛んだ。
木屑が宙を舞い、地面に降り注ぐ。
一瞬の静寂。
次の瞬間、どよめきが広場を包んだ。
「……っ!」
「嘘だろ……」
「粉砕、した……?」
試験官ですら、言葉を失ったまま残骸を見つめている。
「……これは、想像以上だ」
その一言で、全てが決まった。
視線が、集まる。
さっきまでと違う目。
それが――少しだけ、気持ちよかった。
誰が見ても。
どう見たって。
私は、強い。
広場の空気が、まだ揺れていた。
誰も、すぐには動かなかった。
それが、どこか嬉しかった。
その後は、講習だった。
試験会場とは打って変わって、ギルドの室内は静かで、どこか現実の匂いがした。木の机と椅子が整然と並び、私たちは二つのグループに分けられて席に着く。
私はミアレの隣だった。
彼女は相変わらず明るくて、時折こちらを見ては「さっきの魔法、ほんとすごかったね」と小声で言ってくる。そのたびに胸の奥が、少しだけ温かくなる。
……でも。
それとは別に、私は気づいていた。
視線だ。
ちらり、ちらりと向けられる、評価と警戒と、ほんの少しの羨望が混じった視線。さっきの試験で見せた魔法の余波が、まだ消えていない。
悪い気はしなかった。
むしろ、少し心地いいとさえ思ってしまった。
――冒険者として、見られている。
ギルド職員が前に立ち、淡々と語り始める。
「では、講習を始めます」
淡々とした声。けれど、内容は現実的だった。
「冒険者ランクは、最高がS、最低がEです。モンスターにも同様にランクが設定されています」
大ネズミはE。
ゴブリンはD。
トロールはC。
黒板に書かれる文字を、私は一つひとつ目で追った。
「これはあくまで、単体、もしくは少数の場合の話です。群れになれば、危険度は一段階上がる」
職員の声は落ち着いていて、感情がない。
それが逆に、現実を突きつけてくる。
「よく周囲を見なさい。逃げることは、生き延びるための選択です。失敗も撤退も、恥ではありません」
……逃げる。
その言葉が、胸のどこかに引っかかった。
「何が起きても、自己責任です。準備、装備、対策を怠らないこと」
ポーションの使い方。
毒を持つ魔物の特徴。
剣と杖の扱い。
冒険者同士のトラブル。
講習は長く、淡々と続いた。
それでも私は、期待を胸に、それらを聞いていた。
怖さよりも、先に進めることへの高揚の方が勝っていた。
最後に職員は言った。
「この地区周辺に出没する魔物は、ランクCまでです。比較的、安全な地域だと言えるでしょう」
その言葉に、室内の空気が少し緩む。
講習が終わり、皆が席を立ち、体を伸ばす。
その日は、それで終わりだった。
――講習のあと。
私はギルドの受付で、冒険者証を受け取った。
名前を確認し、署名をして、差し出されたそれは、思っていたよりもずっと小さくて、それでも眩しかった。
光を受けて、きらりと輝く金属。
「……やったぁ」
思わず声が漏れる。
これが、私の冒険者の証。
夢じゃない。現実だ。
受付のお姉さんが、くすりと微笑んだ。
私は紐を通し、首にかけ、レザー装備の内側へと大事にしまい込む。
そして、そのままギルドを飛び出した。
目指すのは、あのダンジョン。
――自分の杖を探すために。
迷宮の中は、妙に静かだった。
ゴブリンの姿は、ほとんどなかった。
残っているのは、折れた木片と、乾いた土、迷宮の冷たい床。
必死に探しても、どこにも見当たらない。
……ない。
私の杖は、どこにもなかった。
胸の奥で、小さな不安が芽生える。
私は、空になった手を、ぎゅっと握りしめた。