昼の街は、思っていたよりも騒がしかった。
人の流れが絶えず続き、肩が触れそうな距離ですれ違う。朝や夜とは違う、途切れない動き。大通りに出れば、さらにその密度は増すのだろう。
けれど私は、人混みの中を進むよりも、裏通りへと足を向けていた。
日陰に入ると、濡れた服が急に冷たくなる。肌に張り付いた布が体温を奪い、じわりと不快感が広がった。
それでも袖口は乾き始めている。乾ききらない中途半端な状態が、余計に気持ち悪い。
ふと気づく。
人混みをかき分けるより、こうして外れた道を歩くほうが、ずっと楽だということに。
後になって分かることばかりだ。
通りの端には、身なりの汚れた人たちが座り込んでいた。何もせず、ただこちらを見ている。観察するような視線。
けれど、誰もそれを気にしない。
私も同じように、何も感じないふりをして通り過ぎる。
――それが普通なのだと、街が教えてくる。
「先輩、こっちです!」
エルネの声が前から飛んできた。
小さな背中が、迷いなく一つの店へと駆け込んでいく。
雑貨店。
古びた木の扉。色はくすみ、角は削れている。
エルネは迷いなく中へ入り、扉の鈴が軽く鳴った。
私は一歩遅れてその前で足を止める。
古い。
それが第一印象。
けれど、それ以上に――
何かが詰まっていそうな気配がした。
扉に手をかけ、押し開ける。
ギギ、と重たい音。
そして遅れて、チリンと鈴が鳴る。
中に入った瞬間、空気が変わった。
乾いた薬草の粉っぽい匂い。
そこに混ざる、獣か脂のような重たい匂い。
思わず息を止める。
視線を上げると、カウンターの奥まで木箱が積み上がっていた。中身は分からない。ただ、古びた箱が天井近くまで重なっている。
小さな窓から差し込む光の中、塵がゆっくりと舞っている。
新品のものは一つもない。
何に使うのか分からない道具ばかりが並んでいる。
杭、紐、石、鉄片、脂の塊。
思わず手を伸ばす。
鉄製の細長い湯釜。
用途の分からない鉄板。
木の小箱を開けると、中には乾いた葉。
――違う。
思っていたものではない。
その瞬間、強い刺激臭が鼻を突いた。
思わず顔をしかめ、すぐに蓋を閉じる。
ほとんど投げるように元の場所へ戻した。
それでもどこか、楽しかった。
宝探しのような感覚。
エルネの方へ歩み寄る。
天井から吊るされた薬草。
歪んだ棚。
一歩踏み込むたびに、床が軋む。
店主の男が、何も言わずにこちらを見ていた。
視線が合う。
けれど何も言わない。
そのまま奥へと消え、すぐに戻ってきた。
カウンターの上に、布が二枚置かれる。
そして、私を見る。
何を考えているのか、意味が分からない。
「あの、これは……」
「拭け」
短い言葉。
それ以上の説明はない。
商品なのか、値段はいくらなのかも分からない。
少しだけ躊躇してから、一枚を手に取る。
白い布。
薬草の匂いが染みついている。
本当に使っていいのか。
「おじさん、いいの?ありがとう!」
エルネは迷いなくもう一枚を取り、膝を拭き始めた。
その様子を見てから、私は小さく言葉を返す。
「……ありがとう、ございます」
布を服の中に差し込み、濡れた部分を拭いていく。
首、腕、胸元。
叩くように水気を吸わせる。
けれどすぐに布は湿る。
足りない。
何枚も必要だ。
顔を上げると、店主の姿はなかった。
再び戻ってきたとき、今度は服が置かれていた。
無言で。
ただ、視線だけがこちらを向いている。
「これは、いくらなんですか?」
「銅貨九枚」
短い答え。
私は一瞬、考える。
銅貨九枚。
それは、今日の報酬と同じ額だった。
全部が消える。
けれど、このままではいられない。
私は黙って硬貨を取り出し、カウンターに置いた。
店主は奥を指す。
着替えろ、ということだろう。
奥へ向かおうとしたとき、エルネが声を上げる。
「ねぇ、おじさん!私は?」
くるりと回って見せるエルネ。
膝から下は濡れている。
店主は一度視線を落とし、何も言わなかった。
それが答えだった。
「大丈夫ってことですね!」
エルネは納得したように笑う。
私はそのまま奥へ入った。
薄暗い。
木箱が積まれ、どこが通路なのかも分からない。
適当に死角を見つけ、服を手にする。
古着だった。
糸はほつれ、色はくすみ、匂いは店のものが染みついている。
それでも、丈夫そうだった。
装備を一つずつ外し、濡れた服を脱ぐ。
肌に空気が触れる。
そして、新しい服を着る。
ざらついた感触。
けれど、乾いている。
それだけで十分だった。
装備をまとめ、元の場所へ戻る。
売り場に出ると、光が眩しく感じた。
店主が振り返る。
何も言わない。
「わ、先輩!なんかお揃いみたいですね!」
エルネが笑う。
お揃い?
そう言われても、よく分からない。
「似合ってますか?」
「似合ってます!」
即答だった。
その顔は、本当に嬉しそうだった。
店主がまた袋を一つ出す。
カウンターに置く。
私はそれを見て、当然のように思った。
――これも買うのだと。
「これも、ですか?」
店主は首を横に振る。
理解できない。
「いくら……」
もう一度、首を横に振る。
分からない。
どうすればいいのか。
エルネを見る。
「先輩?受け取らないんですか?」
「え……?」
「たぶん、おまけですよ」
その言葉で、ようやく気づいた。
お金を払わなくても、受け取っていいものがある。
そんなことを、考えたこともなかった。
手を伸ばしたが手が止まる。
店主の顔を見てから恐る恐る袋を手に取り、濡れた服をしまう。
それだけのことなのに、少しだけ躊躇いが残る。
エルネがそっと近づき、耳元で囁く。
「先輩……ありがとう、って」
私は顔を上げる。
店主を見て、言葉を探す。
そして、口を開いた。
「……ありがとう、ございます」
店主は何も言わなかった。
ただ、少しだけ視線を外した気がした。
一区切りついたものの、私はすぐには動かなかった。
店の中を、ゆっくりと歩く。
足元が軋むたびに、どこかで積まれた木箱が揺れた気がした。
視線は自然と棚や箱へと落ちていく。
――杖さえあれば。
そう思う。
何度も、何度も。
あの短い白木の杖。
手に馴染んでいた、あの重さ。
それさえあれば。
気になったものも、好きなものも、迷わず買えるのに。
自分でも分かるくらい、納得のいかない顔をしていた。
手が無意識に、何もない空間を握る。
そこにあるはずの感触を、探すように。
そのときだった。
開いたままの木箱の中に、何かが見えた。
無造作に積まれたガラクタの隙間。
その中に、見覚えのある形。
木のような、質感。
思わず手を伸ばす。
掘り起こすようにして、それを取り出した。
掌に収まったのは、荒削りの器だった。
お椀のような、コップのような、用途のはっきりしない形。
表面は削り跡がそのまま残っていて、ゴツゴツと指に引っかかる。
――似ている。
バルクが使っていたものと。
「わぁ……」
気づけば、声が漏れていた。
欲しい。
そう思った。
両手で包み込み、表面を撫でる。
指先に引っかかる感触が、妙に心地いい。
これで白湯を飲んでいた姿が浮かぶ。
埃を払う。
息を吹きかける。
少しだけ、木の匂いがした。
これだ、と確信する。
誰かが使っていたものでも構わない。
むしろ、その方がいい気がした。
私はこれが欲しいから、買う。
理由はそれだけで十分だった。
一人、小さく頷く。
そして、器を抱えたままカウンターへ向かう。
エルネが店主と向かい合っていた。
その手には、一本の紐。
「だから、なんでこれが今の私に必要なんですかって話なんですよ!」
少し不満げな声。
どうやら買わされたらしい。
銅貨二枚。
安いのか高いのかは分からないが、エルネは納得していない様子だった。
店主は何も言わない。
ただ、エルネの剣を指差した。
「これ?これは売りませんからね」
言いながらも、エルネはしぶしぶ剣を外す。
鞘ごとカウンターに置いた。
店主はそれを手に取り、柄の部分に紐を巻き始めた。
何も言わずに。
丁寧に、隙間なく。
ぐるぐると、何重にも。
まるでほどけないように固定するかのように。
それだけだった。
やがて手を止め、エルネへと返す。
「えっと?これだけ?」
エルネは首を傾げる。
私も同じだった。
何が変わったのか、よく分からない。
エルネは柄を握る。
ぎゅっと握り、離し、また握る。
抜いて、納めて、もう一度握る。
「うーん……?ん?ん〜?」
はっきりしない反応。
それでも何かを確かめているようだった。
その様子を横目に、私は器を差し出す。
「あの、これを下さい」
店主は一瞥する。
「銀貨一枚」
迷わなかった。
ポーチから銀貨を取り出し、カウンターに置く。
これでいい。
これで、この器は私のものになる。
それだけで、胸の奥が少しだけ軽くなる。
ほんのわずかに、頬が緩む。
むず痒いような感覚。
それをポーチにしまい込む。
エルネはまだ、柄の感触を確かめていた。
店を出る。
あまり長くいれば、きっと一日中でも居続けてしまう。
そんな場所だった。
外に出た瞬間、空気が変わる。
喉の奥に、すっと入り込んでくる。
思わず息を吐いた。
静かで、少し怖そうな人だったけれど。
いい人だった、と思う。
袋の中の服を確かめる。
ちゃんとある。
それだけで、少し安心した。
顔を上げる。
そのとき、違和感に気づいた。
人の流れが、一方向に偏っている。
しかも、歩いているのではない。
――走っている。
何人もが、同じ方向へ急いでいる。
声が聞こえた。
「癒し手が来てるんだってよ!」
「早くしろ!」
急かすような声。
癒し手。
その言葉に、記憶が引っかかる。
バルクの声。
ギルドに来るはずのない癒し手。
だから、来るのを待っている――そんな話をしていた。
「先輩、行きましょう!」
エルネが振り返る。
「ポーションもらえるかもしれません!」
ポーション?
癒し手と、どう関係があるのか。
考えようとする。
宿にいた酔っぱらいの男。
調合師だと言っていた。
ああいう人が作るものじゃなかったか。
――分からない。
考えがまとまる前に、手を引かれた。
そのまま、走り出す。
石畳を叩く足音が増える。
周囲のざわめきも大きくなる。
人の流れに乗って、大通りへと出る。
強い光が、目に差し込む。
思わず手をかざして、影を作る。
徐々に視界がはっきりしていく。
そこには、人だかりができていた。
円を描くように集まる人々。
その中心に、即席の台。
Fine Motion
そして――一人の少女。
周囲には兵のような人間が立ち、近づきすぎないように制している。
少女は、動かずに立っていた。
その姿は、あまりにも整っていた。
汚れ一つない衣服。
金色の髪。
帽子。
宝石の装飾が光を受けて輝いている。
流れるような布の重なりが、風に揺れる。
癒し手の氏族。
そういう存在なのだとしたら。
この姿は、きっと普通なのだろう。
「綺麗な人……」
隣で、エルネがぽつりと呟いた。
私は何も言わなかった。
ただ、その光景を見ていた。