《別視点》
石畳の広場に、即席の台が組まれていた。
簡素な木材を組み上げただけの、仮設の壇。
だがその周囲には、すでに多くの人が集まり始めていた。
冒険者。職人。商人。通りすがりの者。
そして、ただの野次馬。
立場も目的も違う人々が、ただ一つの方向へと意識を向けている。
――私の方へ。
ざわめきが波のように広がり、そしてゆっくりと収束していく。
喉の奥が、わずかに詰まり、息が浅い。
胸の内側が、小さく震えているのが分かる。
怖いのではない。
ただ――重い。
この場に立つ意味が、この場に立つ責任が、静かにのしかかってくる。
指先を握りしめて、小さく拳を作る。
その感触で、かろうじて自分を繋ぎ止める。
一度、息を吸って、ゆっくりと吐き出す。
そして――頭を下げた。
ざわめきが止まり、音が消える。
顔を上げる。
視線が集まる。
逃げ場はない。
だからこそ、前を向く。
「……本日は、お時間をいただき、ありがとうございます」
声は大きくない。
けれど、不思議と広がっていく。
押し出すのではなく、染みていくように。
「私は、癒しの氏族に連なる者として――この街で、ポーションの供給に携わっております」
言葉を一つずつ、確かめるように紡ぐ。
胸の奥の揺れを、声に乗せないように。
軽く息を吸う。
「皆さまの中には、すでに使われた方もいらっしゃるでしょう」
「怪我をした時、倒れた時、あるいは――帰れないかもしれない、そう思った時に」
一瞬だけ、言葉が引っかかる。
「その命を、繋ぐためのものです」
広場の空気がわずかに変わり、ざわめきが低く揺れる。
私は指を二本立てた。
「回復薬は、今や銀貨二枚で手に入ります」
はっきりと告げる。
「決して高価なものではありません」
それが事実であると疑いなく知っている。
「それは――誰か一人の力ではありません」
言葉を重ねる。
少しだけ、口元に力を込める。
「多くの癒し手が、その力を分け、形にし、瓶に封じているからです」
目に見えないものを、見える形にする。
それが、自分たちの役割だと教えられてきた。
「私たちは、特別なことをしているつもりはありません」
ほんの一瞬、間を置く。
静寂が落ちる。
「ただ――」
「目の前で、助けられる命を、見過ごしたくないだけです」
それだけ。
本当にそれだけ。
特別でも崇高でもない。
「昔は、怪我をすれば――それで終わることもありました」
ゆっくりと語る。
「治るかどうかは、運や時間に委ねられていました」
それは、過去の話。
けれど、遠い話ではない。
「けれど、今は違います」
視線を前へ向ける。
「倒れても、戻ってこられる」
「血を流しても、止められる」
「その場で――生き延びることができる」
言葉に、わずかな熱が宿る。
胸の奥の揺れが、別の形に変わっていく。
息を繋いで崩さないように、整える。
「冒険者の方々へ」
視線が、集まる。
「あなた方は、危険な場所へ向かう方々です」
「それは、誰にでもできることではありません」
「だからこそ――」
ほんのわずかに、言葉を選ぶ。
迷いはない。正確に伝えたい。
「帰ってきてほしいのです」
その一言に、すべてを込める。
「回復薬は、無理をするためのものではありません」
声が、少しだけ強くなる。
「生きて帰るためのものです」
「倒れないためではなく――倒れても、終わらせないためのものです」
それが役割。
それが意味。
「すべての方に行き渡ることも、すべての命を救えるわけではありません」
静かに言う。
事実を、隠さない。
「それでも、救える命は、確実に増えました」
確かなことだけを、積み重ねる。
「本来なら、失われていたはずの命が――今も、ここにある」
広場を見渡す。
そこにいる誰かが、その一人かもしれない。
「それが、私たちの誇りです」
胸の奥にあるものを、そのまま言葉にする。
それ以上でも、それ以下でもない。
私は深く頭を下げた。
「どうか――使ってください」
「どうか――生きてください」
祈りではない。
願いでもない。
ただの、選択の提示。
顔を上げる。
まっすぐ前を見る。
揺れは、もうない。
私は、疑わない。
これが正しいと、信じている。
それ以外を、知らないから。
声は、まだ震えていた。
胸の奥に残る緊張は消えず、言葉の端にかすかに揺れが混じる。それでも、止まるわけにはいかなかった。ここで言葉を止めれば、それまで積み上げてきたものが崩れてしまう気がした。
だから、続ける。
「だから……私は――」
そのときだった。
――カン、と。
乾いた音が、空気を裂いた。
次の瞬間、何かが肩に当たる。
軽い衝撃。
ほんの一拍遅れて、じん、とした痛みが広がった。
「……っ」
足元が揺れる。
視界が傾き、身体のバランスが崩れる。
台の上で踏みとどまることができず、そのまま尻もちをついた。
硬い感触が背中に響く。
ころり、と転がる音。
視線の端で、それが見えた。
――空のガラス瓶。
中身のない、乾いた音を立てて止まった。
静寂。
ほんの一瞬、何もかもが止まったような感覚。
そして、遅れてざわめきが広がる。
「……誰?」
痛む肩に手を当てながら、顔を上げる。
投げられた方向へと視線を向ける。
そこにいたのは――一人の男だった。
煤と薬品の匂いをまとった、中年の男。
汚れた身なりと粗末な外套に、荒れた手。
その中で、目だけが異様にぎらついている。
「……は、綺麗事だなァ」
低く、吐き捨てるような声。
ざわめきが一瞬、引く。
「何が救うだ。何が死なないだ」
空気が、冷える。
私は言葉を失ったまま、男を見つめる。
男は一歩、踏み出した。
「知ってるか?」
指がこちらへ向けられる。
突き刺すような、鋭い動き。
「お前らのせいでなァ……食えなくなった奴がいるんだよ」
ざわめきが強くなる。
誰かが小さく「やめろ」と呟いた。
けれど、止める者はいない。
「調合師だ」
吐き捨てるように言う。
「薬を作って、生きてきた連中だ。怪我人に頭下げられて、金もらって、それで食ってた」
一歩。
また一歩。
距離が詰まる。
「それがどうだ?」
男は笑った。
歪んだ、ひび割れたような笑み。
「安い、早い、効く――だと?」
吐き出される言葉は、重く、鈍い。
「上から手ぇかざして全部終わりだ」
肩が、びくりと震えた。
「薬なんか売れねぇ。依頼も来ねぇ。腕も知識も……全部、無価値だ」
声が荒れていく。
押し殺していた何かが、滲み出るように。
「借金抱えてなァ……首吊った奴もいる」
広場の空気が、重く沈む。
「俺の弟だ」
「家族ごと消えた奴もいる」
その言葉が、胸の奥に落ちる。
「……知ってたか?」
静かな問い。
逃げ場のない言葉。
私は――答えられなかった。
唇が、震える。
「……わ、私は……」
声が出ない。
男は鼻で笑う。
「知らねぇよなァ」
「考えもしねぇよなァ」
「だって良いことしてるんだもんなァ?」
その言葉は、鋭く胸を刺した。
「誰かを救ってる」
「誰かに感謝されてる」
「気持ちいいよなァ?」
否定しようとする。
「違……っ」
けれど、言葉が続かない。
頭の中に浮かぶ。
――助けた人たちの顔。
――ありがとう、と言われた声。
その裏側。
その向こう側。
一度も、考えたことがなかった。
「……っ、わたし、は……」
喉が詰まる。
「私は……ただ……」
言えない。
救いたかっただけ。
その言葉が、喉の奥で止まる。
男は吐き捨てた。
「何が癒し手だ」
沈黙。
広場に、重い空気が落ちる。
視界が滲む。
否定できない。
自分のしてきたことが、誰かを追い詰めていたかもしれない。
その可能性を――
私は、一度も考えなかった。
ぽろり、と涙が落ちる。
「……ごめ、なさ……」
か細い声。
誰に向けたものかも分からない。
その瞬間――
「――おい、てめぇ!」
怒号が、空気を裂いた。
「やりすぎだろ!」
「女の子に何してんだ!」
一気に流れが変わる。
群衆が動く。
誰かが男の肩を掴む。
別の誰かが拳を振り下ろす。
「ぐっ……!」
「やめろ! 離せ!」
叫び声。
だが止まらない。
誰かが正義を掲げた瞬間、それは連鎖する。
殴る側が興奮していてもう止まらない。
「暴れるな!」
「警備兵呼べ!」
殴打の音が響く。
罵声が飛ぶ。
男は地面に押し倒される。
踏まれる。
蹴られる。
「……っ、は……」
それでも、男は笑った。
血の混じる口元で。
「ほらなァ……」
誰にも届かない声。
「……お前らは……そうやって……」
言葉は途中で途切れた。
殴打にかき消される。
私は、動けなかった。
助けることも。
止めることも。
何もできずに。
ただ、その光景を見ていた。
目の前で起きていることを、理解できないまま。
理解しようとして、できないまま。
涙だけが、頬を伝って落ち続ける。
音が遠くなる。
止まらない。
止められない。
――私は、何をしていたのだろう。
――私は、何を信じていたのだろう。
その答えは見えなかった。
同じ頃、広場の縁で、私はその一部始終を見ていた。
癒し手の少女は、誰に語りかけるでもなく、ただ静かに言葉を紡いでいた。
助けられる命を見逃したくない。
帰ってきてほしい。
どうか、生きてほしい。
その声は強くはない。けれど、真っ直ぐで、迷いがなかった。
広場に集まった人々もまた、その言葉を受け止めるように静まり返っていた。ざわめきは消え、空気は張り詰め、まるで世界がその一言一言に耳を傾けているかのようだった。
――そのときだった。
静寂を切り裂くように、低い声が響いた。
「綺麗事だな」
それは鋭く、短く、けれど深く突き刺さる声だった。
視界には、その声の主は映っていない。けれど分かる。どこか暗がりから放たれたその声は、まるで針のように、あの少女の言葉を貫いていた。
一瞬で、空気が変わった。
先ほどまでの静けさが嘘のように、ざわめきが広がる。
怒号、罵声、そして――鈍い音。
何かが起きている。けれど、それは単純な善悪で片付けられるものではないと、直感的に理解していた。
私は、頭の中で必死に状況を整理する。
癒し手は、人を救うためにポーションを作る。
調合師は、生きていくためにポーションを作る。
同じ"ポーション"のはずなのに、その意味はまるで違う。
価格も違う。
癒し手のものは安く、多くの人に届く。
調合師のものは高く、それでも彼らの生活を支えるために必要な対価だ。
だからこそ――衝突する。
どちらかが正しければ、どちらかが間違っている、そんな単純な話ではない。
むしろ逆で。
どちらも正しいからこそ、ぶつかる。
視線を巡らせる。
人々は、怒りの矛先を一人の男へと向けていた。調合師だと名乗ったその男に、言葉と拳が浴びせられている。
不思議なことに、全体で見れば、その男の方が"悪く"見える。
だから、殴られる。
だから、責められる。
けれど――
(……本当に?)
胸の奥に、引っかかるものがあった。
魔物なら、簡単だ。
倒せばいい。そこに迷いはない。
人に害をなす存在であれば、それだけで理由になる。
でも、これは違う。
これは、そんな単純な話じゃない。
私は考え込んでいた。
そのとき、不意に腕を引かれる。
「行きますよ」
エルネの声だった。
気づけば私は、群衆の縁に立っていた。少しでも遅れれば、あの暴力の渦に飲み込まれていたかもしれない。
引かれるままに、その場を離れる。
けれど、視線だけは後ろに残したままだった。
癒し手の少女は、警護の人間に支えられながら退場していく。
その背後で、なおも荒れ狂う群衆。
その光景を最後に、私は前を向いた。
理解できない。
どうすればいいのかも、分からない。
胸の中にあるのは、言葉にならない感情だった。
裏通りを走る。
人の流れに逆らうように、騒ぎから遠ざかっていく。
今でも、男が殴られている光景。
鈍い音が頭に残る。
あの場にいながら、何もできなかったこと。
「迷惑ですよね、本当に」
息を切らしながら、エルネが言った。
その言葉は、どこか軽く、しかし確信に満ちていた。
私は何も答えなかった。
「あんなことされたら、せっかくのイベントも台無しですし……ポーションも配ってくれなくなるかもしれません? 顔を見に来る人だって減っちゃう」
エルネは困ったように、しかし少し苛立ったように眉をひそめる。
その視点は、分かる。
銀貨二枚。
それだけで救われる命がある。
安いからこそ、多くの人が手に取れる。
それがどれだけ大きな意味を持つかも、理解できる。
でも――
(それだけでいいの?)
ふと、そんな考えが浮かぶ。
「エルネさん」
私は口を開いた。
「もし、癒し手さんのポーションがなくて、調合師さんのものしかなかったら……買いますか?」
エルネは少しだけ考え、すぐに首を横に振った。
「買わないです。その分、生活費に回します」
即答だった。
迷いは、ほとんどない。
「……緊急のときでも?」
「そんなこと、ないです」
少しだけ視線を逸らしながら、エルネは続ける。
「もしそんな状況になったら……多分、もう手遅れかもしれませんし」
言いにくそうに、そう付け加えた。
「そう、ですか……」
思わず声が漏れる。
責めるつもりはない。
どちらが正しいとも、まだ言えない。
同じ銀貨二枚なのに、
誰かにとっては軽く、誰かにとっては重すぎる。
ただ一つ、確かに感じたことがある。
「悪い人がいないのに、誰かが困ってる……」
その言葉に、エルネはきっぱりと言い返した。
「悪いのは調合師の人ですよ。人の善意を、あんなふうに台無しにするなんて」
ああ――
そうか。
エルネにとっては、もう答えは出ている。
彼女はまだ知らない。
あの裏側も、あの男の言葉も、そこにある現実も。
私だって、理解しきれていない。
それでも――
(簡単に決めていいことじゃない)
そう思った。
だから私は、曖昧に頷くだけにした。
何も断言せず、何も否定せず。
どちらも正しいように見えて、どちらもどこかで間違っている気がした。
だから、何も言えなかった。