風の氏族の末娘は、冒険者を知らない   作:ほてぽて

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21話 価値と値段

 

 

 気がつけば、先ほど立ち寄った雑貨店の前まで戻ってきていた。

 

 広場の喧騒はもう遠く、耳に刺さるような怒声や騒ぎは届かない。それでも人の流れだけは絶えず、どこか落ち着かない気配が街の空気に残っている。

 

 何事もなかったかのように、人は動いている。

 

 その中で、エルネはすでにいつもの調子に戻っていた。

 

 ポーションのことは、もう諦めたのだろう。さっきまでの出来事を引きずる様子もなく、表情は軽く、足取りも普段と変わらない。

 

(……切り替えが早いな)

 

 前から思っていたことが、ふと浮かぶ。

 

 あれだけの騒ぎがあったというのに、まるで最初からなかったかのように振る舞えるのは、ある意味で強さなのかもしれない。

 

 それとも――考えないようにしているだけなのか。

 

「先輩」

 

 不意に呼ばれ、顔を上げる。

 

 エルネの視線が、まっすぐこちらを見ていた。瞳の奥に迷いはなく、どこか決意のようなものが宿っている。

 

「私、今日は宿に帰らないで、おばあちゃんのところに行きます。宿のおばさんに、よろしく伝えておいてください」

 

「わかりました。伝えておきます」

 

 頷くと、エルネはほっとしたように笑った。

 

 そして、思い出したように言葉を続ける。

 

「あ! それと私、その……先輩みたいに兎さんをちゃんと捌けるようになりたくて。だから明日、早朝にホーンラビットの依頼を受けようと思うんです」

 

 少し照れたように笑いながら、それでもどこか誇らしげに続ける。

 

「先輩が教えてくれたこと、ちゃんと全部やってみます。そしたら、先輩みたいな冒険者になれますよね!」

 

 その言葉はまっすぐで、疑いがない。

 

 ほんの少しだけ、胸の奥が温かくなる。

 

「先輩も来てくださいよ! 余分に捕まえたら丸焼きにしましょう! 来なかったら……一人で全部食べちゃいますからね!」

 

 くすくすと笑いながら、明日のことを楽しそうに話す。

 

 悪くない、と思う。

 

 ミアレもいれば、きっともっと賑やかになるだろう。三人で火を囲んでいる光景が、自然と頭に浮かんだ。

 

(……いいな)

 

 心の中で、小さく笑う。

 

「はい。それでは……お昼くらいに、焚き火をした場所に集まりましょうか」

 

「うん、それでいいよ! 約束!」

 

 エルネは私を指差して、にっと笑った。

 

 そのままくるりと踵を返し、通りを駆けていく。

 

 軽やかな足音が遠ざかっていくのを見送りながら、私はしばらくその場に立っていた。

 

 やがて、ひとりになったことを実感し、宿へと足を向ける。

 

 見慣れた扉の前に立つ。

 

 古びた木製の扉は、年季こそ感じるものの、丁寧に手入れされているのが分かる。軽く押すと、抵抗なく滑らかに開いた。

 

 キィ、と小さな音。

 

 中に入ると、いつもの光景が広がっていた。

 

 カウンターの向こうにいるおばさんと目が合う。

 

「ただいま」

 

 自然と口をついて出る。

 

「おかえり」

 

 変わらない声が返ってくる。

 

 それはもう、すっかり習慣になっていた。

 

「おや? エルネちゃんは一緒じゃないのかい?」

 

「エルネさんは、一度家に戻るみたいです」

 

「そうかい……もしかして、このまま泊まらなくなるのかねぇ?」

 

 少し心配そうな声色。

 

「いえ、今日だけだと思います」

 

 確信はない。けれど、そう答えた。

 

 人にはそれぞれ事情がある。

 

 ミアレもそうだったし、エルネもきっと同じだろう。

 

 深く踏み込むものではない。

 

「そうかい。まぁ、また顔を出してくれるといいねぇ」

 

 おばさんはそう言って、小さく頷いた。

 

「あの、布と水桶を貸してもらえますか? 体を拭きたいので」

 

「ああ、いいよ。ちょっと待ってな」

 

 おばさんは裏手へと引っ込んでいく。

 

 その背を見送って、ふと視線をテーブル席へ向けた。

 

 ――いる。

 

 例の酒飲みの男。

 

 テーブルに突っ伏したまま、動かない。

 

 眠っているのか、それともただ酔い潰れているのか。

 

 分からない。

 

(……この人)

 

 調合師、と名乗っていた。

 

 以前、私が初めてポーションを買おうとしたとき、おばさんの言葉に対して、あの人は強く言い返した。

 

「信用を売っている」と。

 

 あの言葉が、ふと頭をよぎる。

 

 聞いてみたい。

 

 何を、とはうまく言えない。

 

 でも――

 

(……この人は、何を見てきたんだろう)

 

 さっきの出来事と、無関係とは思えなかった。

 

 気づけば、足がテーブルの方へ向いていた。

 行くつもりだったのかは、自分でもよくわからない。

 

 けれど、いざ近づくと、言葉が浮かばない。

 

 何を聞くべきかも、分からない。

 

 それでも。

 立ち止まったままでは、何も変わらない気がした。

 

 私は一歩、近づく。

 近づくにつれて、わずかに足が重くなる。

 

 そして、そっと声をかけた。

 

「おじさん。ポーションのおじさん?」

 

 返事はない。

 手を伸ばす。

 ほんの少し迷ってから背中に手を置き、軽く揺する。

 

 わずかに、体温が伝わってきたのを感じた。

 

 触れた瞬間、ほんのわずかに後悔した。

 けれど、もう手は離せなかった。

 

 おじさんは、喉の奥で潰れたような唸り声を漏らしながら、ゆっくりと体を起こした。

 

「……誰だぁ。せっかく気持ちよく寝てたってのによぉ……酔いが覚めちまったじゃねぇか」

 

 顔はこちらを見ないまま、突っ伏していた体を引き剥がすように起こし、背もたれにだらしなく体重を預ける。

 

 その動きを見て、私は一歩だけ距離を取った。

 

 やがて、ようやく目が合う。

 

「……おお? 嬢ちゃんじゃねぇか。どうした? ……ああ、あれか。死体漁りは順調か?」

 

 その言葉に、思わず眉間にしわが寄った。

 

 死体漁り。

 そんなこと、するはずがない。

 

 やっていいことではない。

 人として、誰かの遺したものを奪うなんて。

 

 ――違う。今は、そこじゃない。

 

「しません。そんなこと。違います、聞きたいことがあって」

 

 身じろぎするたびに、酒の匂いが強くなる。

 体からなのか、服からなのか、それとも吐息からか。鼻の奥に刺さるような刺激が残る。

 

 くさい。

 

 一瞬息を止め、無意識に距離を取る。

 

「お? じゃあポーション買ってくれるのか? へへへ」

 

「それも、違います……」

 

 返した瞬間、わずかに空気が変わる。

 

「なんだぁ? 女将にでも言われてきたのか。俺を追い出そうってか?」

 

 違う。

 違うからこそ、自分から言わなきゃいけない。

 

「あの……変なこと、聞いてもいいですか」

 

 言葉を探す。

 まとまっていないのは、自分でも分かっていた。

 

「今日、広場で……瓶、投げてる人がいて。癒し手の人にです。あれって……どういうことなんですか」

 

 記憶を辿りながら問いかける。

 自分の声が、少しだけ曖昧に揺れた。

 

「んぁ? ……広場? 知らねぇな。で、何だ」

 

 適当に返されたようで、それでも目はちゃんとこちらを見ている。

 

 ――聞いてくれている。

 

 だから、続ける。

 

「ポーションって……本当は、どういうものなんですか?」

 

 知っている。

 頭では分かっている。

 

 傷を治すもの。

 怪我をしたときに使うもの。

 

 それでも、何かが引っかかっている。

 

 問いを聞いたおじさんは、鼻で短く笑った。

 

「嬢ちゃんよ。最初会ったとき、怪我してただろうが」

 

「あ……」

 

「そのときポーション飲んだよな? どうだ。次の日には治ってただろ」

 

 当たり前の答えだった。

 

 足の痛みは引いた。

 殴られた後頭部の鈍い痛みも、気づけば消えていた。

 

 私はそっと、自分の後頭部に触れる。

 

「……はい。次の日には」

 

「だろうなぁ。俺ぁ調合師だ。効かねぇもんは作らねぇ」

 

 にやりと笑う。

 

「価値ってのはな、そこにある。瓶一つ、中身一つ。全部に意味がある。……過程だな」

 

 言葉を選ぶように、少しだけ間を置く。

 

「……時間だ」

 

 時間。

 

 思わず、その言葉を頭の中で繰り返す。

 

 調合の工程。

 素材。

 完成までの流れ。

 

「時間を買う、って言い方もできるな。はは……で、癒し手だっけか」

 

 視線が少し遠くを見る。

 

「あいつらのも本物だ。効く、すぐ治る、量も出せる。文句のつけようもねぇ。俺らが勝てる隙なんざ、どこにもねぇ」

 

 そこまで言って、ふっと声が落ちた。

 

 静かに、人差し指を立てる。

 

「……あんな値段で出せるわけがねぇ」

 

 空気が変わる。

 

「材料も、手間も、命もな……全部軽く見積もって、やっと形になる」

 

 指先がわずかに震えている。

 

「それをあの値段で出すってことは――」

 

 言葉が一度切れる。

 

「どっかで、誰かが、損してるってことだ」

 

 手が落ちた。

 

 その言い方が、なぜか引っかかった。

 

 視線を外す。

 

 そのまま前のめりになり、空の酒瓶を持ち上げてコップに傾ける。

 一滴だけ、ぽたりと落ちる。

 

「……もうねぇのか」

 

 覗き込んで、諦めたように瓶を置いた。

 

 沈黙が落ちる。

 

 私はそのまま、ぽつりと口にした。

 

「……でも、助かっている人もいます」

 

 間を置かず返ってくる。

 

「ああ、そりゃそうだ」

 

 短く、はっきりと。

 

「だから厄介なんだ……俺らじゃ、どうにもならねぇ……」

 

 コップを握る手に、力が入る。

 

「なぁ。お前ら冒険者にとって、あれはな……怪我を買ってるのと同じだ」

 

 怪我を、買う。

 

 その言葉が、頭の中で引っかかる。

 

「……よく考えろ」

 

 それ以上は、何も言わなかった。

 

 怪我をする前提、だから必要になるポーション。

 それは、当たり前のことのはずなのに。

 

 ――何かが違う気がする。

 

 怪我を買う?

 言葉の意味は分かるのに、うまく繋がらない。

 

 分からないまま、ただその言葉だけが残った。

 

 考えがまとまらないうちに、裏手からおばさんが戻ってきた。

 

 桶とタオルを手にしている。

 

 店内で、そのおじさんがいつものように酒をねだっていた。

 声を張り上げて、おばさんとやり合っている。

 

 怒鳴り合いに近い。

 けれど、どこか違う。

 

 互いに距離は詰めないし、手も出ない。

 決して越えない線が、最初から引かれているみたいだった。

 

 ひとしきり言い終えると、おばさんはため息をついた。

 そして酒瓶を一本、ドン、とテーブルに置く。

 

 その瞬間だった。

 

 さっきまであれだけ食い下がっていたおじさんが、急に姿勢を低くする。

 申し訳なさそうに、言葉まで柔らかくなる。

 

 見ていると、妙な光景だった。

 

 喧嘩のようで、喧嘩ではない。

 関係のようで、関係とも言い切れない。

 

 ……不思議だ。

 

 おばさんは私に視線を向けた。

 

「聞きそびれたけれど、いつも着ている服はどうしたんだい」

 

 そう言って、私の今の服装を上から下まで見下ろす。

 

 私は片手に持っていた紙袋を少し持ち上げて見せた。

 

 トカゲに引きずり込まれて、びしょ濡れになったなんて――そんなこと、言えるはずがない。

 

「湿地のぬかるみに足を取られて、転びました」

 

 誤魔化すように、そう答えた。

 

 ほんのわずか、間があった。

 

 おばさんの口元が、ほんの少しだけ動いた気がした。

 けれどそれ以上は何も言わず、すぐに口を開く。

 

「一緒に洗ってあげようか?」

 

 私は少しだけ迷って、うなずいた。

 そのまま袋を差し出す。

 

「お願いします」

 

 自室へ戻る前、ふと振り返る。

 

 おじさんは、もう騒いでいなかった。

 酒をちびちびと舐めるように飲んでいる。

 

 その背中は、さっきまでの勢いが嘘みたいに静かだった。

 

 時折、手が止まっては視線がずっと下に向いていたままだった。

 

 部屋に戻る。

 

 水の入った桶を床に置いて、その前に座り込む。

 

 上着を脱いで、濡れたタオルで髪を撫でる。

 絡まった毛先を、ゆっくりと梳かすように。

 

 タオルには、細かな砂や土がわずかに残った。

 

 ……昔は、もっと長かった。

 

 小さな頃、私は髪を伸ばしていた。

 姉さまの後ろ姿が綺麗で、ただそれを真似しただけだった。

 

 長く伸びた髪を揺らして歩く姿。

 それだけで、どこか特別に見えた。

 

 周りの人も、よく褒めてくれた。

 可愛いとか、お姫様みたいだとか。

 

 髪を洗うときも、整えるときも、

 いつも誰かが手伝ってくれた。

 

 けれど――

 

 胸のあたりまで伸びた頃、気づいた。

 

 自分一人では、どうにもならないことに。

 

 絡まる。引っかかる。汚れる。

 思ったよりもずっと、面倒で、不自由だった。

 

 姉さまが家を出て、しばらくして戻ってきたとき。

 

 その髪は、ばっさりと切られていた。

 

 肩ほどの長さ。

 

 あのときの光景を、今でも覚えている。

 

 それから私も、髪を短くした。

 

「切ったんだ」

 

 姉さまはそう言って、私の頭を撫でた。

 落ち着いた声だった。

 

 けれど――

 

 ほんの少しだけ、含みのあるように聞こえた気がする。

 

 ……気のせいかもしれない。

 昔の記憶は、どうしても曖昧になる。

 

 タオルで体を拭く。

 

 腕、横腹、そして下へ。

 

 汚れを落とすように、なぞる。

 

 それでも、泥の匂いは消えない。

 

 鼻の奥に残っているのか、

 それとも、まだ体に残っているのか。

 

 もう、よく分からない。

 

 こんなことならば、石鹸も買っておけばよかった。

 

 そう思った。

 

 けれど――

 

 あれもこれも頼るのは、なんとなく気が引けた。

 

 拭き終えて、桶を持って部屋を出る。

 

 カウンターの上にそれを置いた。

 

「あの、おばさん、これ……」

 

 声をかけると、裏手から顔を出した。

 

「ああ、ちょっと待っててね」

 

 おばさんは、今度は両手にレザーの胸当てを持って戻ってきた。

 

 それを私に差し出す。

 

「これは返しとくよ。洗って拭いただけだけどね。明日も出るんだろ?」

 

 私はそれを受け取る。

 

「はい。明日も出ます。エルネさんとホーンラビット狩りです」

 

「ほーん。頑張ってきなよ。困ったら言いな。話し相手くらいにはなれるからね」

 

 少しだけ、頬が緩んだ。

 

 おばさんは桶を持って、また裏手へ戻っていく。

 

 窓の外は、赤く染まり始めていた。

 

 エルネは、明日も一人で早く出るつもりだろう。

 

 私は後から向かって、様子を見て、状況を見て――

 そして、何か言う。

 

 ……本当に、先輩みたいだ。

 

 ふ、と笑みがこぼれた。

 

 心の中で、小さく笑う。

 

 少しだけ、足元が浮ついている気がした。

 

 そのまま部屋へ戻る。

 

 扉を押すと、ギィと軋んだ音が鳴る。

 

 中に入り、振り返って閉める。

 

 バタン、と。

 

 音だけが、やけに大きく響いた。

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