「ウィンドブラスト!」
短く詠唱を紡ぎ、杖を前へと突き出す。
次の瞬間、先端から圧縮された風の塊が解き放たれ、一直線にオークへと向かっていく。
森の空気が震えた。
枝葉がざわめき、足元の落ち葉が巻き上がる。
オークはそれを避ける素振りも見せなかった。ただ鈍重にこちらを向いたまま、その身で風を受け止める。
弾ける空気の音と、肉を打つ鈍い衝撃音が重なった。
確かな手応え。
風はオークの身体を打ち抜き、その巨体を後方へと弾き飛ばす。
地面を擦りながら転がり、やがて力を失ったように伏した。
動かない。
一撃だった。
私は静かに息を吐く。
思っていた通りだ。
難しいことは何もない。
この依頼は簡単に終わる――そう確信できるほどに。
「すごいな」
「やるじゃない」
ラウドとセナが、ほとんど同時に声をかけてくる。
その言葉が胸の奥に落ちる。
じわりと広がる高揚感。
自分が認められたような感覚。
それが心地よい。
その時、横でケインかディルのどちらかが、ぽつりと呟いた。
「オークっても、大したことないんだな」
その言葉は、あまりにも自然で、あまりにも軽かった。
――大したことはない。
確かに、その通りだと思った。
目の前の存在は大きいだけで、動きは鈍い。こちらを認識した瞬間に、わずかながら動きが止まる。
隙がある。
なら、その隙に差し込めばいいだけだ。
登録試験で、動かない丸太を標的にしていた時と、ほとんど変わらない。
違いは、それが生きているかどうかだけ。
倒れたオークのもとへ、全員で近づく。
巨体は地面に伏したまま、ぴくりとも動かない。
生きているのか、死んでいるのか、その境界すら曖昧だった。
「トドメ刺すか?」
ディルが誰にともなく言う。
ラウドが短く頷いた。
「そうだな。討伐証を剥ぎ取る時に暴れられても困る。確実に行こう」
ディルは無言でロングソードを構える。
軽く肩を回し、両手で柄を握り直す。
「俺がやるのか。まぁ、言い出したの俺だしな」
そう呟いて、剣を振りかぶった。
一瞬の間。
そして、振り下ろされる。
――鈍い音がした。
それは斬るというよりも、叩くに近い音だった。
刃はオークの首に当たり、肉を裂く代わりに弾かれたように止まる。
皮膚は分厚く、わずかに切り込みが入っただけだった。
「マジかよ……ちゃんと狙ったぞ?」
ディルが眉をひそめる。
横からケインが口を挟む。
「刺すのはどうだ?」
「あー、そうだな。まぁ、叩き斬り続けりゃそのうちいけるだろうけど……手っ取り早くいくか」
軽い会話。
まるで、何かの作業手順を確認するようなやり取り。
その一部始終を、私はただ見ていた。
見ていた、というよりも――
どこかで比べていた。
バルクとロニオ。
あの二人の姿が、自然と思い浮かぶ。
あの時の動き。
ジャイアントバットを一刀両断にした迷いのない一撃。
そして、確実にオークの首筋の急所を突き、四肢を切り落とし、解体していく光景。
バルクなら、オークの首くらい一太刀で落としていただろう。
根拠はない。
けれど、そう思えてしまう。
それほどまでに、目の前の光景は違って見えた。
「牙にするか?耳にするか?」
ラウドの声が現実へと引き戻す。
「じゃあ、耳で」
ディルはそう言って、再び剣を動かす。
今度は首ではなく、頭部へ。
刃が皮膚を削ぐ。
肉を裂く音。
耳が切り落とされる。
片方、そしてもう片方。
それを無造作に拾い上げ、ラウドが広げた革袋の中へと放り込んだ。
鈍い音を立てて落ちる。
それで終わりだった。
――まずは一体。
ラウドの言葉に、全員が軽く頷く。
すぐに次へ向かうように、足が動き出す。
街道から外れ、森の奥へと進む。
見覚えのない道。
いつものルートではない。
私の知らない場所。
さらに奥へ。
別の大空洞があるらしい。
その言葉だけが頭に残る。
私は一歩遅れて、ふと振り返った。
さっきの場所。
そこに、耳を失ったオークの死骸が横たわっている。
静かに。
ただ、そこにある。
……。
そうだ。
ふと、考えた。
肉を剥ぎ取って、エルネと一緒に焼けば。
ようやく、オークの肉を得る機会を得たんだ。
最後の一匹を倒した時、腕でも足でも切り落として持って行ってあげよう。
それが自然なことのように思えた。
その感覚に、疑問を持つこともなく。
私はそのまま前を向いて、森の奥へと足を進める。
前を歩く男の背を、ただ追っている。
足元の感触と、呼吸の浅さだけがやけに鮮明だった。
隣にはセナがいる。
けれど、その存在すらどこか遠くに感じる。
一人一人、改めて見ていく。
ラウド。
セナがリーダーだと言っていた男。茶色の髪。
よく喋るが無駄がない。判断も早い。
この中では一番、整っている人間に見える。
隣のセナ。
肩にかかる青い髪に、短めの外套。
ローブではない、動きやすさを優先した装い。
杖は私のものと似ているけれど、どこか違う。
使い込まれているからか、握り方のせいか。
ケイン。
広い肩幅。茶髪。腕に装着された盾。
木と革で作られたものだろう。
彼を近くで見れば、見上げる形になるはずだ。
ディル。
黒に近い髪。
他の二人に比べれば細いが、軽さがある。
どこか気配が滑るような印象。
そして——私。
その並びを見て、なぜか少しだけ距離を感じた。
目の前にいるのに、どこか別の場所にいるような。
景色も、音も、うまく頭に入ってこない。
彼らは二人ずつでまとまっている。
ラウドとセナ。
ケインとディル。
必要なときだけ交わされる言葉。
それ以外は、それぞれの中で完結している。
そこに、私はいない。
遅れないように、合わない歩幅を駆け足で埋める。
「ねぇ」
声をかけられた。
隣を見ると、セナと目が合う。
「オークを倒したことがあるって、本当だったのね。……あ、最初から疑ってたわけじゃないの。ただ、Eランクでオークを倒すなんて普通ないでしょ?」
少し悔しさが胸に残る。
けれど、それが間違いではないことも分かっていた。
「Dランクの人と一緒に、依頼で倒しました」
そう答えると、ラウドが自然にこちらへ視線を向けた。
「だから、私に任せてもらえれば、オークの依頼はすぐに終わります」
杖を握る。
言葉に迷いはなかった。
しばらくの沈黙のあと、ラウドが口を開く。
「リュシア、だったか。一体だけ、俺たちにやらせてくれないか」
「……?」
「自分たちの実力を確かめたい。あっさり終わると、何も分からないからな。危険なら君の判断で倒してくれていい。それでどうだ?」
ケインとディルも振り返る。
視線が揃う。
その目に、どこか冷たさを感じた。
「……分かりました」
自然に言葉が出た。
腕試し。
きっと、そういうことなのだろう。
けれど——
誰も、嬉しそうではなかった。
胸の奥に、言葉にできない違和感が残る。
バルクとロニオのときは違った。
ミアレのときも。
あのときは——ちゃんと、何かがあった。
やがて、大空洞の入口が見えてくる。
地面にぽっかりと開いた穴。
その周囲には無数の足跡。
大きなもの。小さなもの。
おそらくは、オークとゴブリン。
「この先にいるな。気を引き締めろ」
ラウドの声に、空気が少しだけ引き締まる。
セナが手際よく松明を作り、火を灯す。
慣れた動きでラウドへ渡した。
「ありがとう」
「ええ」
短い会話。
無駄がない。
ケインも松明を持つ。
私はランタンを確かめる。
「前は俺とディルが見る。最終判断はラウドだ」
「ああ、無理はしない」
決まっている。
役割も、流れも。
そこに入り込む余地はない。
一歩、踏み入れる。
空気が変わる。
光が消え、闇が広がる。
松明とランタンの明かりだけが、世界を切り取る。
音が反響する。
足音、火の弾ける音、声。
天井を見上げる。
影が揺れる。
スライムの気配はない。
視線を戻す。
そのとき——
「誰かいるぞ」
ケインの声。
駆け寄る。
松明の光が照らした先。
「お前、これは……」
ディルの言葉が途切れる。
そこにあったのは——骨だった。
人の骨。
頭骨から首元まで、はっきりと残っている。
劣化の様子がない衣服と装備。
それだけが人だった痕跡。
そして。
その衣服の下で、何かが蠢いている。
スライム。
ゆっくりと、骨から離れていく。
誰も言葉を発さない。
ただ、その光景を見ていた。
……。
「もう……何もいないのか?」
ラウドが呟く。
確認が終わると、セナが前に出た。
ディルも続く。
そして——
二人は、装備に手を伸ばした。
あれ……?
嫌な予感がする。
まさか……。
理解する。
死体漁り。
「何をしてるんですか……!」
ラウドを見る。
少しの間のあと、彼は答えた。
「遺品回収だよ」
言葉を変えただけだ。
「死体漁り、じゃないですか?」
「……目に付く言い方をしないでくれ」
分かっている。
悪いことだと。
それでも、やる。
だったら——
止めないと。
「あの——」
言葉を出しかけた、そのとき。
「あった!!」
セナの声。
掲げられたものが、光を反射する。
金属の板。
それは——
冒険者証だった。
名はユアン・ハイラム。
名前は、はっきりと読めた。
擦れも、欠けもない。
それだけが、綺麗に残っていた。
……それだけが。
それを見た瞬間。
胸の奥で、何かが静かに沈んだ。
私は、息を呑んだ。
首に下げていた冒険者証を服の上から、そっと撫でるように触れる。
そして、それを握りしめた。
「それを、どうするんですか」
気づいたときには、言葉が喉を通っていた。
自分でも抑えきれないほど、声にはわずかに熱が乗っていた。
脳裏に浮かぶのは、宿で酔っていた男の言葉。
酒臭い息と一緒に吐き出された、軽い笑い話のような声。
——死体漁り。
死んだ冒険者から装備を剥ぎ取って、売り払う。
それで日銭を稼ぐ。
そんなこと。
そんなこと——。
目の前でディルが骨のそばにしゃがみ込み、ためらいもなく手を伸ばしている。
衣服をめくり、袋を確かめ、装備に触れる。
ケインもラウドも、それを止めない。
誰も何も言わない。
この場で、異を唱えたのは——私だけだった。
まるで。
自分の方が間違っているとでも言われているような、静かな圧。
少しの間があって、セナが顔を上げた。
手のひらに乗せたそれを、こちらへ向ける。
松明の光を受けて、鈍く光る金属板。
「これをギルドに返すの。提出して、初めて死亡報告になるから」
報告。
その言葉が、妙に引っかかった。
「……そうなんですか」
納得したわけじゃない。
けれど、言葉はそれ以上続かなかった。
頭の中で、別の記憶が浮かび上がる。
試験の日。
ミアレの問いに、バルクとロニオが答えていた場面。
あのとき、自分は感情を抑えきれずにいた。
そしてロニオが、静かに説明してくれたこと。
——杖を売った人物。
あの人はもう、死んでいるだろうと。
あの日から、時間は経っている。
それなのに、その人がどこでどうなったのか、誰も知らない。
もし。
もし、誰にも見つからないまま——
どこかで、ずっと。
そのまま。
孤独で暗闇の中……。
背筋を、ぞわりとしたものがなぞった。
思わず頭を振る。
思考を断ち切るように。
喉が乾いている。
生唾を飲み込み、ゆっくりと息を吐いた。
「これはギルドに返すけど、荷物は回収しないとね」
セナの声が、現実に引き戻す。
「それは……売るんですよね?」
自分でも、どこかよそよそしい問いだった。
セナは少し考えるように、人差し指を顎に当てる。
「そう、だね。必要なものだけもらうかな。あとは売る。持ちきれないし」
隣でディルが小さく笑った。
「しけてんな。なぁんにも持ってない」
「漁られたあとか?」
ケインが覗き込みながら言う。
「たぶんな。弓使いっぽいけど、肝心の弓も矢もない。荷物だけ残ってる」
弓。
その言葉に、一瞬だけミアレの顔がよぎる。
けれど、すぐに違うと分かる。
彼女がここにいるはずがない。
——これは、知らない誰かだ。
ラウドが隣に立つ。
そのまま、こちらを見下ろすように言った。
「お前、こういうの嫌なのか?」
視線が強い。
逃げるように、わずかに目を逸らす。
「死体か? それとも、盗っ人だと思うのか?」
言葉が、まっすぐ刺さる。
「……盗られた人も、残された人も……」
うまく言葉がまとまらない。
それでも、なんとか続ける。
「そんなことされたら、嫌な気持ちになります。悲しい気持ちに……なりますから」
自分の杖を思い出す。
落として盗られて、失って。
けれど、売られていて、見つけられたからまだ良かった。
もしあれが、どこにも見つからなかったら。
——私は、どう思っただろう。
「持ち主とか……家族の人に、返してあげられないんですか」
自分でも分かる。
この言葉は、どこか距離がある。
ラウドは少しだけ考えるように間を置いた。
「ああ……それだけか?」
そして、淡々と続ける。
「まず、冒険者は慈善活動じゃない。遺族に届けるほど暇でもない」
その言葉は、あまりにもあっさりしていた。
「それに、持ち帰らない方が問題になる場合もある。武器や防具が魔物の手に渡れば、それで次の被害が出る」
言葉を選ぶように静かな声。
「そいつの後始末を、俺たちがしてる。それに対する対価だ」
正しさの形をした言葉。
そして最後に、小さく付け加える。
「……まぁ、先輩連中の受け売りだけどな」
少しだけ、空気が緩む。
「どこ出身か知らないが、どっかで折り合いはつけた方がいい。全部抱えたら、動けなくなる」
「リーダー、いいこと言う」
セナが軽く笑う。
ケインも頷く。
「気持ちは分かる。でも、そこまでやる義理はないからな。世話になった相手でもなきゃ」
言葉が、重なる。
どれも、間違っていないように聞こえる。
——でも。
私は、何も言えなかった。
視線を落とす。
そこにある骨。
もう、誰だったのか分からないもの。
もし。
もし、ミアレに同じことを聞いたら。
きっと、似た答えが返ってくる。
でも——
同じではない。
そんな気がした。
理由は分からない。
けれど、確かに違う。
やがて、漁りは終わる。
残されたのは、骨と衣服だけ。
それ以上、価値のないもの。
誰も振り返らない。
人の形だったもの。
何が原因でそうなったのか。
最後にその骨に触れた感触が手に残った。
それは、軽く脆い。
指で押せば、乾いた音を立てていた。
血の跡も何もない。
スライムは血の跡さえも綺麗に舐め取ったのだろう。
誰も振り返ることもなく、私たちはその場を後にした。
暗闇の奥へ。
光の届かない先へ。
足音だけが、静かに響いていた。