風の氏族の末娘は、冒険者を知らない   作:ほてぽて

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23話後編 届かない風

 

 

「グォオオオ」

 

 低く、腹の底から絞り出すような唸り声が、洞窟の奥で反響した。

 

 暗がりの中、揺れる松明の火が二つ。橙色の光が不規則に踊り、その中心で巨大な影が蠢く。オークだ。

 

 ラウドたち三人が、それを取り囲んでいた。

 

 正面で注意を引く者が一人。側面と背後から、間合いを詰めて斬りつける二人。攻撃を受け流し、意識が逸れた瞬間に別の者が囮になる。役割が自然と入れ替わりながら、同じ動きを繰り返している。

 

 その少し離れた位置で、セナが杖を掲げていた。

 

 そして——私は、そのさらに後ろ。

 

 ただ、見ている。

 

 今日集まったばかりの、即席のパーティー。けれど、連携は思っていたよりも整っていた。ラウドが事前に示した方針通り、誰も無理をせず、確実に傷を積み重ねていく。

 

 一撃で仕留めるのではない。

 

 削る。削って、削って、動きを鈍らせるやり方。

 

 けれど。

 

「……浅い」

 

 思わず、心の中で呟いていた。

 

 剣が皮膚に食い込み、血が滲む。だがそれだけだ。オークの分厚い皮膚は致命傷を許さず、傷口はすぐに意味を失う。動きは止まらない。鈍い棍棒が振り回される。

 

 危ない。

 

 けれど、崩れない。

 

 私は、その一部に入れていない。

 

 ——自分たちの実力を確かめたい。

 

 ラウドの言葉が、頭の奥で繰り返される。

 

 だから私は、ここにいるだけ。

 

 何もしていない。

 

 視線を横にずらす。

 

 セナがいた。

 

 杖を掲げたまま、じっとオークを見据えている。周囲に漂う白い霧。冷気がじわりと肌に触れた。

 

 パキ、パキ、と小さな音。

 

 霜が凝固するように、空中に氷が生まれていく。細かな欠片が幾つも。中心には、ひときわ大きな氷塊。

 

 氷魔法。

 

「皆さん、離れてくださいっ!」

 

 セナの声が響く。

 

 それだけで、三人は一斉に間合いを外した。迷いはない。

 

「アイシクルラピッド!」

 

 振り下ろされた杖。

 

 同時に、氷が放たれる。

 

 鋭い音とともに、無数の氷片がオークへと突き刺さる。細かな欠片が皮膚に食い込み、大きな一撃が肉を抉る。

 

 オークが呻いた。

 

 今までとは違う。

 

 確かな、深手。

 

「どう?」

 

 セナが息を弾ませて問う。

 

「まだっぽいな」

 

 ディルが短く返す。

 

「今だ、畳み掛けるぞ!」

 

 ラウドの声。

 

 三人が再び飛び込む。

 

 剣が振るわれる。突き立てる。叩きつける。

 

 連続する衝撃。

 

 怯んだオークは、もう抵抗の形を失っていた。

 

 そして——

 

 ラウドの剣が、喉元へと深く突き刺さる。

 

 動きが止まる。

 

 完全に。

 

 静寂。

 

 私は、遅れて歩み寄った。

 

「みんなお疲れ。……二体目だな」

 

 荒い呼吸の中で、ラウドが言う。ケインもディルも、肩で息をしていた。

 

「ケイン、盾で受けてたら腕持っていかれてたんじゃないか?」

 

「かもしれんな。危ないところだった」

 

 三人は、互いに言葉を交わす。

 

 戦いの感触を確かめるように。

 

「なんだかんだ……私たちだけでもオークを倒せるなんて……」

 

 セナが、少しだけ嬉しそうに笑う。

 

「私たち、もうDランクなんですね」

 

 その言葉に、皆が軽く応じる。

 

 ——私以外。

 

 ……。

 

 Dランク。

 

 私は——

 

 まだ、Eランク。

 

 試験に落ちて。

 

 ここにいるのに。

 

 同じ場所に立っているのに。

 

 どこか、足場が違う。

 

 握った杖を、胸元へ引き寄せる。

 

 冷たい木の感触。

 

「リュシア、ありがとう」

 

 不意に、ラウドの声が向けられた。

 

「君が見てくれているおかげで、俺たちも余裕を持って戦えた」

 

 ……?

 

「あ、え? はい……」

 

 言葉が、うまく返せなかった。

 

 見ていただけ。

 

 何もしていないのに。

 

 それでも、感謝された。

 

 意味が、わからない。

 

 ありがとう。

 

 その言葉が、妙に引っかかる。

 

 胸の奥に落ちるはずのものが、どこにも収まらずに浮いている。

 

(……本当に?)

 

 喉元まで出かかった言葉を、飲み込む。

 勘違いじゃないのか。

 

 見ていただけで、役に立つなんて。

 そんな都合のいいことがあるのか。

 

 ラウドは気にした様子もなく、オークの耳を削ぎ取り、袋へと収める。

 

「いやぁ、魔法使いがいるだけで違うな」

 

 ディルが笑う。

 

「いなかったら、延々と斬ってただろ」

 

「だな。だが頭数も増えれば分け前も減る」

 

 ケインが淡々と続ける。

 

 二人の視線が、一瞬こちらへ向く。

 

 すぐに逸れた。

 

「あと一体だな。先へ進もう」

 

 ラウドが言う。

 

「あの……次は、どうするんですか?」

 

 気付けば、口が動いていた。

 

「次も、皆さんで……?」

 

 確認。

 

「ああ。確認はできたしな。皆は?」

 

 異論はない。

 

「さっさと終わらせて帰ろーぜ」

 

 ディルが肩を回しながら言う。

 

 それで、決まった。

 

 私は、杖を握り直す。

 

 こんな依頼。

 

 すぐに終わる。

 

 終わらせて。

 

 ——エルネのところへ。

 

 足音が、石の上に小さく響いた。

 

 小走りで、彼らの背を追う。

 

 暗闇の奥へ。

 

 残る討伐数は一体。

 

 誰もが思っているだろうか。

 まだ、オークの姿が現れないか、と。

 

 言葉にはしない。

 ただ、足取りがわずかに慎重になる。

 話し声が途切れがちになる。

 

 静かな緊張だけが、隊列の中に漂っていた。

 

 やがて、闇の奥に淡い光が見えた。

 

 外——?

 

 そう思うほどに、それは自然な光だった。

 

 ケインを先頭に、そのまま進む。

 一歩、また一歩と踏み出し、暗がりを抜ける。

 

 そこにあったのは、ひらけた大穴のある大空洞だった。

 

 天井や壁面に無数の穴が穿たれ、そこから差し込む光が空間を満たしている。

 外気が混じる、少し湿った空気。

 松明の炎すら、もう必要ないほどの明るさ。

 

 私は歩きながら、ランタンの火を消した。

 

 その瞬間——前の背中が止まっていることに気づく。

 

 ぶつかる寸前で足を止めた。

 

「おい、オークだ」

 

 ケインの声が低く響く。

 

「群れているのか? 数は」

 

 ラウドが続ける。

 

「……4体」

 

 その一言で、空気が変わった。

 

 列から外れ、横へと出る。

 視線の先——確かに、オークが四体。

 

 こちらを見ている。

 距離を測るように、じっと。

 

 だが、すぐには動かない。

 

「……あれは、不味くね。流石に無理だろ」

 

 ディルが小さく吐き出した。

 

「一体さえ倒せばいい。囮と牽制で時間を稼ぐ。リュシアの魔法で一体落として、その隙に討伐証を剥ぎ取る……リュシア、どうだ?」

 

 ラウドの視線が、私に向く。

 

 皆の視線が重なる。

 

 私に?

 

「問題ないです。二体くらいなら、すぐに倒せます。任せてください」

 

 口は、迷わなかった。

 

「言うね〜」

 

 セナが軽く笑う。

 

 そうだ。

 依頼の最初の一体を、私は一撃で仕留めた。

 だから、任せられている。

 

 それだけのことだ。

 

「無理させて悪いな。残りは俺たちで抑える。剥ぎ取りまで頼む」

 

 ラウドが松明を置き、剣を構える。

 ケインも盾を構え、前へ出る。

 

 全員が、それぞれの役割に散った。

 

 オークの低い咆哮。

 それに応じるように、動き出す巨体。

 

 私は杖を構え、標的を定める。

 

 これで終わり。

 

 さっきと同じだ。

 

 最初の一体も、こうして倒した。

 

 何も変わらない。

 同じ距離、同じ構え、同じ魔力。

 

 だから——同じように終わる。

 

 魔力を流す。

 

「風よ、集いて力となれ——」

 

 詠唱は短い。

 構築も、迷いはない。

 

 ——そのはずだった。

 

 ピキッ。

 

 乾いた、異音。

 

 同時に、腕に走る激痛。

 

 針を、深く突き刺されたような痛み。

 

 針じゃない。

 もっと太い、硬いもの。

 

 肘の内側を通って、指先まで一気に走る。

 

 指が、自分のものじゃないみたいに震える。

 握っているはずなのに、感覚が遅れてついてくる。

 

「……っ!?」

 

 意識が一瞬、飛びかける。

 

 何が——

 

 歯を食いしばる。

 杖を、離さない。

 

 ここで手放せば、魔法が暴発する。

 

 それだけは、絶対に駄目だ。

 

「……ぃ……ぃぃやッ……!」

 

 無理やり押し出すように、魔法を放つ。

 

 ウィンドブラスト。

 

 風の塊がオークへと叩きつけられる。

 

 鈍い衝撃音。

 炸裂する空気。

 

 オークは吹き飛び、そのまま動かなくなる。

 

 倒れている。

 

 確かに、倒した。

 

 そのはず、……なのに。

 

 腕の震えが止まらない。

 

 成功しているはずなのに、

 何かを間違えた感覚だけが残っている。

 

 力が抜け、杖が落ちた。

 

 カラン、と乾いた音。

 

 魔力暴走。

 

 まただ。

 

 ホーンラビットの時と同じ。

 

 どうして。

 

 どうして——?

 

 杖が、言うことを聞かない。

 

 魔力は流れている。

 なのに、どこか違う。

 

 そんな感覚。

 

 震える右手を、左手で押さえる。

 

 拾い上げる。

 

 まだ、やれる。

 

 視線を上げる。

 

 一体は倒れている。

 もう一体は後退している。

 

 残りの二体は、仲間たちが抑えている。

 

 やらなくちゃ。

 

 私が。

 

 もう一体。

 

 終わらせる。

 

 杖を構える。

 

 ——一度目は疑問。

 ——二度目は不安。

 

 三度目は、もう。

 

 確信だった。

 

 異常がある。

 

 それが、自分なのか。

 杖なのか。

 それとも、別の何かか。

 

 わからない。

 

 それでも。

 

 魔力を通す。

 

 すっと流れる感覚。

 

 問題ない。

 

 先端に、風を生む。

 

 大丈夫。

 今度は、いける。

 

 息を整える。

 

「ウィンドブラス——」

 

 パンッ。

 

 何かが弾けた。

 

 軽い音。

 

 木が裂けるような。

 

 魔法は逸れた。

 オークには当たらない。

 

 同時に、破片が顔に叩きつけられる。

 

 痛み。

 

 反射的に顔を庇った。

 

 

 軽い。

 手が、急に軽くなる。

 

 

 ——え?

 

 

 恐る恐る、視線を落とす。

 

 握っているはずのもの。

 

 その先が——

 

 無かった。

 

 杖の先端が、消えていた。

 

 

 

 

 連係の声が飛び交う。

 低く響くオークのうめき声。

 足音が乱れ、空洞の空気がざわつく。

 

 セナは詠唱に入っている。

 

 

 

 ——音が、遠い。

 水の中に沈んだみたいに、くぐもって聞こえる。

 

 自分の呼吸の音だけが、やけに大きい。

 

 視線の先。

 オークが、こちらを見ている。

 一歩、踏み出す。

 

 ——その時になって、ようやく理解が追いついた。

 

 杖が、壊れた。

 

 壊れてしまった。

 

 

 そんなこと、聞いたことがない。

 これまで握ってきた杖が折れたことなんて、一度もない。

 同じように魔力を流して、同じように構築して、

 それでおかしくなったことなんて、一度も——

 

 この杖を握ってから、初めて起きた。

 

 どうして。

 どうして、今。

 

 今じゃなくたっていいのに。

 

 手に残ったのは、ただの棒切れ。

 それを強く握りしめる。

 

 迫ってくるオーク。

 距離が、確実に詰まっている。

 

 どうする。

 みんなに言う?

 でも、言う時間があるなら——一手。

 

 頭の中がうまく働かない。

 どこか、自分の思考ではないみたいだった。

 

 この棒切れでも。

 もう一度、一撃を当てさえすれば。

 

 ——折れているのに?

 ——魔力暴走したのに?

 ——そんなもので、何ができるの?

 

 わかっている。

 わかりきっている。

 

 それでも。

 

 たとえ1%でも成功があるなら。

 

 それに縋るように、私はその棒を握り直した。

 

 呼吸が浅い。

 喉が焼けるように乾く。

 周りの音が遠くなる。

 瞬きを忘れ、目が痛い。

 

 震える腕を、もう片方の手で押さえつける。

 

 私は——

 

 風の氏族の末娘。

 リュシア・フェル・アエリス。

 

 風の魔法使い。

 

 兄さまの背を見て、

 姉さまから魔法を教わって。

 

 それが、私の強さだった。

 

 それが——

 

 こんな形で、途切れるはずがない。

 

「風よ……」

 

 魔力を、柄へと通す。

 

「集いて……」

 

 集いて。

 

 ——集まらない。

 

 流したはずの魔力が、鈍く、重く、反応しない。

 まるで詰まるような感覚。

 押し出したはずの流れが、逆流する。

 

 さっきは、できたのに。

 一撃で、倒せた。

 

 簡単だった。

 

 なのに、どうして今は。

 同じようにやっているはずなのに。

 

 どうして——。

 

 腕の中を、ざらついた何かが這う。

 

 ズキン、と痛みが走る。

 

 時間をかければ——

 

 そう思った瞬間、オークがさらに一歩踏み込む。

 

 近い。

 

 焦りが喉を締めつける。

 

 その瞬間だった。

 

 パンッ——

 

 軽い、乾いた音。

 

 手の中の杖が弾けた。

 

 痺れが腕を駆け抜け、

 握っていたものが跳ねるように飛んでいく。

 

 視界の端で、それが回転する。

 ヒュン、ヒュンと空を切って、カラン、と音を立てた。

 

 ——あれ。

 

 どうして。

 

 目で追っていた。

 息をするのも忘れていた。

 

 わかっていたのかもしれない。

 でも、それを事実として受け止めることができない。

 

 声がする。

 叫び声。

 オークの足音。

 

 近い。

 

 ——近い。

 

「アイシクルラピッド!」

 

 氷の破片が、視界の先で弾けた。

 無数の刃が降り注ぎ、オークの動きを止める。

 

 助かった、という感覚すら遅れてやってくる。

 

 振り向かずともわかる。

 セナだ。

 

「リュシア!? どうしたの、あなた、杖は!?」

 

 声が、届く。

 

 けれど、喉が動かない。

 

「……」

 

 見られている。

 何もできない私を。

 

 さっきまで「任せてください」なんて言っていた私を。

 

 喉が詰まって、何も言えない。

 

 言えるわけがない。

 魔法使いなのに、杖がない。

 

 そんなこと——言えるわけがない。

 

 彼女の手にしている杖を見た。

 

 あれがあれば、私は戦えた。

 あれがあれば、私は強かった。

 

 姉さまに教わった魔法も、

 風の氏族の名も、

 

 全部、この杖を通して、形になっていた。

 

 それが——今、ない。

 

「リーダー! 状況が変わった! オーク一体は倒したけど、リュシアに問題が出てる!」

 

 セナの声が飛ぶ。

 

「倒した個体から討伐証を剥ぎ取って離脱する! 二体抑えるので手一杯だ!」

 

 ラウドの判断。

 

「リュシア、走って! 私が剥ぎ取ってすぐ撤退するから!」

 

 走る?

 

 逃げる?

 

 撤退——?

 

 その一言が、やけに重く落ちた。

 

 討伐をやめる。

 諦める。

 引き返す。

 

 それはつまり——負ける、ということだ。

 

 胸の奥が、ぎゅっと縮む。

 

 私のせいで。

 

 私が、戦えないから。

 

 腰に手を当てる。

 ナイフの柄に触れる。

 

 引き抜く。

 

 短い刃。青い金属。

 

 軽い。

 あまりにも軽い。

 

 こんなもので、あれを?

 オークの腕。

 あの太さ。

 

 さっきまで握っていた杖と比べることすら、おこがましい。

 

 それでも、これしかない。

 

 オークが近づく。

 

 立っているそれは、倒れていた時とは違う。

 巨大で、重くて、圧し潰されるような威圧。

 

 息が詰まる。

 

 一歩、下がる。

 

 足がもつれる。

 

 尻餅をついた。

 

「っ……」

 

 すぐに立ち上がる。

 構える。

 後ろへ下がる。

 

 本当なら。

 

 本当なら、すぐに倒せる相手なのに。

 

 息を呑む。

 

 オークが棍棒を振り上げる。

 

 ——来る。

 

 ヒュン。

 

 風を裂く音が、耳元をかすめた。

 

 次の瞬間。

 

 トスッ、トスッ——

 

 何かが、オークに突き刺さる。

 

 矢だ。

 

 私の背後から放たれた矢が、

 オークの脇と腕に突き立つ。

 

 風でもない。

 音でもない。

 

 ただ、オークの身体に結果だけが現れる。

 

 オークが唸り、動きを止めた。

 

「グォオオ……!」

 

 弓矢。

 

 ——ミアレ?

 

 助けに来てくれた?

 

 思わず、振り向く。

 

 誰が放ったのか。

 確かめずにはいられなかった。

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