「グォオオオ」
低く、腹の底から絞り出すような唸り声が、洞窟の奥で反響した。
暗がりの中、揺れる松明の火が二つ。橙色の光が不規則に踊り、その中心で巨大な影が蠢く。オークだ。
ラウドたち三人が、それを取り囲んでいた。
正面で注意を引く者が一人。側面と背後から、間合いを詰めて斬りつける二人。攻撃を受け流し、意識が逸れた瞬間に別の者が囮になる。役割が自然と入れ替わりながら、同じ動きを繰り返している。
その少し離れた位置で、セナが杖を掲げていた。
そして——私は、そのさらに後ろ。
ただ、見ている。
今日集まったばかりの、即席のパーティー。けれど、連携は思っていたよりも整っていた。ラウドが事前に示した方針通り、誰も無理をせず、確実に傷を積み重ねていく。
一撃で仕留めるのではない。
削る。削って、削って、動きを鈍らせるやり方。
けれど。
「……浅い」
思わず、心の中で呟いていた。
剣が皮膚に食い込み、血が滲む。だがそれだけだ。オークの分厚い皮膚は致命傷を許さず、傷口はすぐに意味を失う。動きは止まらない。鈍い棍棒が振り回される。
危ない。
けれど、崩れない。
私は、その一部に入れていない。
——自分たちの実力を確かめたい。
ラウドの言葉が、頭の奥で繰り返される。
だから私は、ここにいるだけ。
何もしていない。
視線を横にずらす。
セナがいた。
杖を掲げたまま、じっとオークを見据えている。周囲に漂う白い霧。冷気がじわりと肌に触れた。
パキ、パキ、と小さな音。
霜が凝固するように、空中に氷が生まれていく。細かな欠片が幾つも。中心には、ひときわ大きな氷塊。
氷魔法。
「皆さん、離れてくださいっ!」
セナの声が響く。
それだけで、三人は一斉に間合いを外した。迷いはない。
「アイシクルラピッド!」
振り下ろされた杖。
同時に、氷が放たれる。
鋭い音とともに、無数の氷片がオークへと突き刺さる。細かな欠片が皮膚に食い込み、大きな一撃が肉を抉る。
オークが呻いた。
今までとは違う。
確かな、深手。
「どう?」
セナが息を弾ませて問う。
「まだっぽいな」
ディルが短く返す。
「今だ、畳み掛けるぞ!」
ラウドの声。
三人が再び飛び込む。
剣が振るわれる。突き立てる。叩きつける。
連続する衝撃。
怯んだオークは、もう抵抗の形を失っていた。
そして——
ラウドの剣が、喉元へと深く突き刺さる。
動きが止まる。
完全に。
静寂。
私は、遅れて歩み寄った。
「みんなお疲れ。……二体目だな」
荒い呼吸の中で、ラウドが言う。ケインもディルも、肩で息をしていた。
「ケイン、盾で受けてたら腕持っていかれてたんじゃないか?」
「かもしれんな。危ないところだった」
三人は、互いに言葉を交わす。
戦いの感触を確かめるように。
「なんだかんだ……私たちだけでもオークを倒せるなんて……」
セナが、少しだけ嬉しそうに笑う。
「私たち、もうDランクなんですね」
その言葉に、皆が軽く応じる。
——私以外。
……。
Dランク。
私は——
まだ、Eランク。
試験に落ちて。
ここにいるのに。
同じ場所に立っているのに。
どこか、足場が違う。
握った杖を、胸元へ引き寄せる。
冷たい木の感触。
「リュシア、ありがとう」
不意に、ラウドの声が向けられた。
「君が見てくれているおかげで、俺たちも余裕を持って戦えた」
……?
「あ、え? はい……」
言葉が、うまく返せなかった。
見ていただけ。
何もしていないのに。
それでも、感謝された。
意味が、わからない。
ありがとう。
その言葉が、妙に引っかかる。
胸の奥に落ちるはずのものが、どこにも収まらずに浮いている。
(……本当に?)
喉元まで出かかった言葉を、飲み込む。
勘違いじゃないのか。
見ていただけで、役に立つなんて。
そんな都合のいいことがあるのか。
ラウドは気にした様子もなく、オークの耳を削ぎ取り、袋へと収める。
「いやぁ、魔法使いがいるだけで違うな」
ディルが笑う。
「いなかったら、延々と斬ってただろ」
「だな。だが頭数も増えれば分け前も減る」
ケインが淡々と続ける。
二人の視線が、一瞬こちらへ向く。
すぐに逸れた。
「あと一体だな。先へ進もう」
ラウドが言う。
「あの……次は、どうするんですか?」
気付けば、口が動いていた。
「次も、皆さんで……?」
確認。
「ああ。確認はできたしな。皆は?」
異論はない。
「さっさと終わらせて帰ろーぜ」
ディルが肩を回しながら言う。
それで、決まった。
私は、杖を握り直す。
こんな依頼。
すぐに終わる。
終わらせて。
——エルネのところへ。
足音が、石の上に小さく響いた。
小走りで、彼らの背を追う。
暗闇の奥へ。
残る討伐数は一体。
誰もが思っているだろうか。
まだ、オークの姿が現れないか、と。
言葉にはしない。
ただ、足取りがわずかに慎重になる。
話し声が途切れがちになる。
静かな緊張だけが、隊列の中に漂っていた。
やがて、闇の奥に淡い光が見えた。
外——?
そう思うほどに、それは自然な光だった。
ケインを先頭に、そのまま進む。
一歩、また一歩と踏み出し、暗がりを抜ける。
そこにあったのは、ひらけた大穴のある大空洞だった。
天井や壁面に無数の穴が穿たれ、そこから差し込む光が空間を満たしている。
外気が混じる、少し湿った空気。
松明の炎すら、もう必要ないほどの明るさ。
私は歩きながら、ランタンの火を消した。
その瞬間——前の背中が止まっていることに気づく。
ぶつかる寸前で足を止めた。
「おい、オークだ」
ケインの声が低く響く。
「群れているのか? 数は」
ラウドが続ける。
「……4体」
その一言で、空気が変わった。
列から外れ、横へと出る。
視線の先——確かに、オークが四体。
こちらを見ている。
距離を測るように、じっと。
だが、すぐには動かない。
「……あれは、不味くね。流石に無理だろ」
ディルが小さく吐き出した。
「一体さえ倒せばいい。囮と牽制で時間を稼ぐ。リュシアの魔法で一体落として、その隙に討伐証を剥ぎ取る……リュシア、どうだ?」
ラウドの視線が、私に向く。
皆の視線が重なる。
私に?
「問題ないです。二体くらいなら、すぐに倒せます。任せてください」
口は、迷わなかった。
「言うね〜」
セナが軽く笑う。
そうだ。
依頼の最初の一体を、私は一撃で仕留めた。
だから、任せられている。
それだけのことだ。
「無理させて悪いな。残りは俺たちで抑える。剥ぎ取りまで頼む」
ラウドが松明を置き、剣を構える。
ケインも盾を構え、前へ出る。
全員が、それぞれの役割に散った。
オークの低い咆哮。
それに応じるように、動き出す巨体。
私は杖を構え、標的を定める。
これで終わり。
さっきと同じだ。
最初の一体も、こうして倒した。
何も変わらない。
同じ距離、同じ構え、同じ魔力。
だから——同じように終わる。
魔力を流す。
「風よ、集いて力となれ——」
詠唱は短い。
構築も、迷いはない。
——そのはずだった。
ピキッ。
乾いた、異音。
同時に、腕に走る激痛。
針を、深く突き刺されたような痛み。
針じゃない。
もっと太い、硬いもの。
肘の内側を通って、指先まで一気に走る。
指が、自分のものじゃないみたいに震える。
握っているはずなのに、感覚が遅れてついてくる。
「……っ!?」
意識が一瞬、飛びかける。
何が——
歯を食いしばる。
杖を、離さない。
ここで手放せば、魔法が暴発する。
それだけは、絶対に駄目だ。
「……ぃ……ぃぃやッ……!」
無理やり押し出すように、魔法を放つ。
ウィンドブラスト。
風の塊がオークへと叩きつけられる。
鈍い衝撃音。
炸裂する空気。
オークは吹き飛び、そのまま動かなくなる。
倒れている。
確かに、倒した。
そのはず、……なのに。
腕の震えが止まらない。
成功しているはずなのに、
何かを間違えた感覚だけが残っている。
力が抜け、杖が落ちた。
カラン、と乾いた音。
魔力暴走。
まただ。
ホーンラビットの時と同じ。
どうして。
どうして——?
杖が、言うことを聞かない。
魔力は流れている。
なのに、どこか違う。
そんな感覚。
震える右手を、左手で押さえる。
拾い上げる。
まだ、やれる。
視線を上げる。
一体は倒れている。
もう一体は後退している。
残りの二体は、仲間たちが抑えている。
やらなくちゃ。
私が。
もう一体。
終わらせる。
杖を構える。
——一度目は疑問。
——二度目は不安。
三度目は、もう。
確信だった。
異常がある。
それが、自分なのか。
杖なのか。
それとも、別の何かか。
わからない。
それでも。
魔力を通す。
すっと流れる感覚。
問題ない。
先端に、風を生む。
大丈夫。
今度は、いける。
息を整える。
「ウィンドブラス——」
パンッ。
何かが弾けた。
軽い音。
木が裂けるような。
魔法は逸れた。
オークには当たらない。
同時に、破片が顔に叩きつけられる。
痛み。
反射的に顔を庇った。
軽い。
手が、急に軽くなる。
——え?
恐る恐る、視線を落とす。
握っているはずのもの。
その先が——
無かった。
杖の先端が、消えていた。
連係の声が飛び交う。
低く響くオークのうめき声。
足音が乱れ、空洞の空気がざわつく。
セナは詠唱に入っている。
——音が、遠い。
水の中に沈んだみたいに、くぐもって聞こえる。
自分の呼吸の音だけが、やけに大きい。
視線の先。
オークが、こちらを見ている。
一歩、踏み出す。
——その時になって、ようやく理解が追いついた。
杖が、壊れた。
壊れてしまった。
そんなこと、聞いたことがない。
これまで握ってきた杖が折れたことなんて、一度もない。
同じように魔力を流して、同じように構築して、
それでおかしくなったことなんて、一度も——
この杖を握ってから、初めて起きた。
どうして。
どうして、今。
今じゃなくたっていいのに。
手に残ったのは、ただの棒切れ。
それを強く握りしめる。
迫ってくるオーク。
距離が、確実に詰まっている。
どうする。
みんなに言う?
でも、言う時間があるなら——一手。
頭の中がうまく働かない。
どこか、自分の思考ではないみたいだった。
この棒切れでも。
もう一度、一撃を当てさえすれば。
——折れているのに?
——魔力暴走したのに?
——そんなもので、何ができるの?
わかっている。
わかりきっている。
それでも。
たとえ1%でも成功があるなら。
それに縋るように、私はその棒を握り直した。
呼吸が浅い。
喉が焼けるように乾く。
周りの音が遠くなる。
瞬きを忘れ、目が痛い。
震える腕を、もう片方の手で押さえつける。
私は——
風の氏族の末娘。
リュシア・フェル・アエリス。
風の魔法使い。
兄さまの背を見て、
姉さまから魔法を教わって。
それが、私の強さだった。
それが——
こんな形で、途切れるはずがない。
「風よ……」
魔力を、柄へと通す。
「集いて……」
集いて。
——集まらない。
流したはずの魔力が、鈍く、重く、反応しない。
まるで詰まるような感覚。
押し出したはずの流れが、逆流する。
さっきは、できたのに。
一撃で、倒せた。
簡単だった。
なのに、どうして今は。
同じようにやっているはずなのに。
どうして——。
腕の中を、ざらついた何かが這う。
ズキン、と痛みが走る。
時間をかければ——
そう思った瞬間、オークがさらに一歩踏み込む。
近い。
焦りが喉を締めつける。
その瞬間だった。
パンッ——
軽い、乾いた音。
手の中の杖が弾けた。
痺れが腕を駆け抜け、
握っていたものが跳ねるように飛んでいく。
視界の端で、それが回転する。
ヒュン、ヒュンと空を切って、カラン、と音を立てた。
——あれ。
どうして。
目で追っていた。
息をするのも忘れていた。
わかっていたのかもしれない。
でも、それを事実として受け止めることができない。
声がする。
叫び声。
オークの足音。
近い。
——近い。
「アイシクルラピッド!」
氷の破片が、視界の先で弾けた。
無数の刃が降り注ぎ、オークの動きを止める。
助かった、という感覚すら遅れてやってくる。
振り向かずともわかる。
セナだ。
「リュシア!? どうしたの、あなた、杖は!?」
声が、届く。
けれど、喉が動かない。
「……」
見られている。
何もできない私を。
さっきまで「任せてください」なんて言っていた私を。
喉が詰まって、何も言えない。
言えるわけがない。
魔法使いなのに、杖がない。
そんなこと——言えるわけがない。
彼女の手にしている杖を見た。
あれがあれば、私は戦えた。
あれがあれば、私は強かった。
姉さまに教わった魔法も、
風の氏族の名も、
全部、この杖を通して、形になっていた。
それが——今、ない。
「リーダー! 状況が変わった! オーク一体は倒したけど、リュシアに問題が出てる!」
セナの声が飛ぶ。
「倒した個体から討伐証を剥ぎ取って離脱する! 二体抑えるので手一杯だ!」
ラウドの判断。
「リュシア、走って! 私が剥ぎ取ってすぐ撤退するから!」
走る?
逃げる?
撤退——?
その一言が、やけに重く落ちた。
討伐をやめる。
諦める。
引き返す。
それはつまり——負ける、ということだ。
胸の奥が、ぎゅっと縮む。
私のせいで。
私が、戦えないから。
腰に手を当てる。
ナイフの柄に触れる。
引き抜く。
短い刃。青い金属。
軽い。
あまりにも軽い。
こんなもので、あれを?
オークの腕。
あの太さ。
さっきまで握っていた杖と比べることすら、おこがましい。
それでも、これしかない。
オークが近づく。
立っているそれは、倒れていた時とは違う。
巨大で、重くて、圧し潰されるような威圧。
息が詰まる。
一歩、下がる。
足がもつれる。
尻餅をついた。
「っ……」
すぐに立ち上がる。
構える。
後ろへ下がる。
本当なら。
本当なら、すぐに倒せる相手なのに。
息を呑む。
オークが棍棒を振り上げる。
——来る。
ヒュン。
風を裂く音が、耳元をかすめた。
次の瞬間。
トスッ、トスッ——
何かが、オークに突き刺さる。
矢だ。
私の背後から放たれた矢が、
オークの脇と腕に突き立つ。
風でもない。
音でもない。
ただ、オークの身体に結果だけが現れる。
オークが唸り、動きを止めた。
「グォオオ……!」
弓矢。
——ミアレ?
助けに来てくれた?
思わず、振り向く。
誰が放ったのか。
確かめずにはいられなかった。