視線を向けた。
私たちが通ってきた洞の奥。
そこにあったはずのただの影が、ゆっくりと輪郭を持ちはじめる。
暗がりの中で、影が形を持つ。
そして、現れる。
小さな体。
緑の肌。
尖った歪な鼻と耳。
ゴブリン。
その手には――弓。
思わず息が詰まった。
弓だ。
ゴブリンが弓を持っている。
扱っている。
矢は、こちらに向いていたのか。
それとも、オークを狙っていたのか。
分からない。
あの弓は――
さっき見た、あの骨になっていた冒険者のものかもしれない。
そんな考えが一瞬よぎる。
けれど、すぐにそれはどうでもよくなった。
そんなことを考えている余裕なんて、どこにもなかった。
前にも、後ろにも、魔物がいる。
囲まれている。
「……っ」
息がうまく吸えない。
何この状況。
どこに行けばいいの。
横へ逃げるように一歩、足を動かす。
「あ……ゴブ……、ます……」
声を出そうとした。
伝えなきゃいけない。
でも、言葉にならない。
呼吸が浅く、早い。
心臓の鼓動がうるさい。
それが全部、邪魔をする。
足は動く。
まだ、動ける。
弓を持ったゴブリンが、矢をつがえる。
そして放った。
ピュン、と風を裂く音。
矢はオークに突き刺さる。
トスッ、と軽い音。
オークがそちらへと視線を向ける。
その直後だった。
そのゴブリンの背後から――
ぞろぞろと、影が溢れ出す。
「ギャッギャッ」
「ギィーギィギ」
声だけじゃない。
ペタペタと湿った足音。
石を擦る音。
どこかで何かが落ちる乾いた音。
音が、増えていく。
ゴブリン。
ゴブリン。
ゴブリン。
一体、二体じゃない。
十。
二十。
それ以上。
群れだ。
私たちがここに来たとき、こんな数はいなかった。
じゃあ、どこから。
……違う。
入口にあった、あの無数の足跡。
あれは――
最初から、いた。
どこかに潜んでいた。
見えていなかっただけで。
気づいていなかっただけで。
考える余裕なんて、ほとんどない。
ゴブリンたちは散る。
霧のように、四方へ。
オークへ。
私へ。
囲むように。
囲まれたら終わりだ。
でも――
どこへ行けばいい?
ラウドたちは、オークと戦っている。
左に行けば、抜けられるかも。
そう思って一歩踏み出した。
――違う。
そっちにも影が動く。
足が止まる。
判断が遅れた分だけ、距離が詰まる。
セナは、討伐証を剥ぎ取りに向かっている。
そっちに行く?
足が動く。
視線を走らせる。
洞の出口の方。
外気が流れ込む明るい場所。
そこに、影が重なっていた。
無数に。
「ギャッギャッ!」
「ギィィ!」
耳障りな声。
重なり合うわめき声。
全部、ゴブリンだ。
全部。
何かが引っかかる。
既視感。
最初に入ったダンジョンを思いだす。
逃げた一匹を追って――
倒したそのあと、現れた群れ。
取り囲まれた。
あの時と、似ている。
違うはずなのに。
同じだ。
一匹の囮。
そして――オーク。
これも、囮?
偶然?
……そうであってほしい。
そうじゃないと、困る。
「なんだこれ、どうなってる!」
ディルの叫び。
ラウドたちも気づいた。
三人は距離を取ろうとする。
だが、オークがそれを許さない。
興奮しきっている。
目の前の敵しか見えていない。
その向こう。
ゴブリンの群れの中に、ひときわ大きな個体。
赤い肌が混じる。
あれ。
あれが――
まとめている。
統率しているリーダー。
赤いゴブリンが、こちらを見た。
何もしていない。
ただ、見ただけ。
それだけで、
他のゴブリンの動きが揃った。
そんな気配。
けれど、今の私にはどうすることもできない。
悔しい。
後ろを見ると、ゴブリンが迫っている。
卑しい目。
嘲るような笑み。
足が速い。
追いつかれる。
振り返りながら、ナイフを突き出す。
飛びかかってきた一体を刺す。
押し返す。
足が止まる。
その向こう。
群れが近い。
近すぎる。
次が来る。
飛びかかってくる。
遅い。
遅く見えるのに、体が動かない。
目だけが追いついて、
身体が、置いていかれる。
避けられない。
分かっているのに。
体が動かない。
衝撃。
胸元に、重み。
「うっ……!」
ゴブリンが張り付く。
重い。
よろめく。
倒れそうになる体を、なんとか踏みとどまる。
視線を下ろす。
目の前。
至近距離。
「ギャへへ」
黄ばんだ歯。
濁った目。
そして、悪臭。
吐き気がこみ上げる。
息が止まる。
心臓が、暴れる。
ナイフを振るう。
何度も。
何度も。
突き刺す。
刺さる。
けれど浅い。
押し込んでも、骨に止められる。
抜くたびに、ぬるい感触だけが残る。
軽すぎる。
短すぎる。
足りない。
重い。
動けない。
もう一体来たら終わる。
その瞬間。
ゴンッ、と鈍い音。
何かが降ってきた。
正面にいたゴブリンの数匹が、潰れる。
周囲の動きが止まる。
一瞬だけ、見えた。
矢を受けたオーク。
その体に、ゴブリンが群がる。
張り付く。
引き剥がす。
石で叩く。
突き刺す。
肉を抉る。
オークのうめき声。
そして――
棍棒。
オークが持っていたそれが、投げ捨てられ飛ぶ。
こんなところまで。
それが当たった。
だから、助かった。
そう思ったけれど。
――違う。
オークが崩れただけだ。
誰も助けていない。
その隙に。
ゴブリンを引き剥がした。
走る。
どこへ?
奥は?
横穴は?
全部、いるかもしれない。
この輪の中。
囲まれた、この場所で。
どこに――
逃げればいいのか。
答えを探しながら、視線が自然とラウドたちへと向いた。
ラウドたちの前には、なおも二体のオークが立ちはだかっていた。
背後からは、外気の光とともに押し寄せるゴブリンの群れ。
挟まれている。
その事実は、誰が言葉にするまでもなく明白だった。
連携の声が飛ぶ。
だが、それはもう噛み合っていない。
誰かが何かを言っている。
誰かが別のことをしている。
そのすべてが、ほんの少しずつ、ズレていた。
――崩れている。
そう感じた瞬間だった。
オークのこん棒が横薙ぎに振られる。
ケインが盾を構える。
だが、その距離をわずかに見誤った。
「ぐっ――」
鈍い音とともに、身体ごと弾かれる。
ケインの体が宙を舞い、そのままゴブリンの群れの中へと投げ込まれた。
ケインの身体がゴブリンの群れに飲み込まれる。
すぐには見えなくならなかった。
盾が、まだ見えている。
腕も、もがいている。
「や、やめ――」
声が、途切れない。
何かを殴る音。
何かを剥がす音。
「くるな、来るな、来るな――ッ!」
その声が、だんだんと細くなる。
盾が倒れた。
それでも声は、まだ続いている。
「……たす……け……」
最後は、言葉にならなかった。
「が、ァ、うわぁぁあ!!!」
断末魔が、洞窟の中に響いた。
「ケイン……!!」
ディルの叫び。
「ディル!避けろ!!」
ラウドの声。
――遅い。
振り下ろされたもう一体のオークのこん棒が、ディルを叩き潰した。
ディルの身体が潰れる。
鈍い音が、響いた。
――そのあと。
何も聞こえなかった。
ゴブリンの声も。
足音も。
誰かの叫びも。
全部、消えた。
――何の音だろう。
考えた。
考えたはずなのに、意味が浮かばない。
目の前で何かが起きている。
わかっている。
でも、それが何なのか、言葉にならない。
考えればわかるはずなのに、
考えること自体が、どこか遠くにあるみたいだった。
ただ、見ていた。
聞きたくない音が逃げ場なく耳の奥に残る。
それなら少し、遅れて音が戻ってきた。
ゴブリンのわめき声。
オークの雄叫び。
無数の足音。
世界が、音で満ちていた。
ラウドは後ろへ回り込み、距離を取る。
だが、その視線は全体を見渡しているだけで――何も指示を出さない。
出せない。
そう、感じた。
その時だった。
「ラウド、伏せて!」
セナの声。
彼女の周囲に、白い冷気が渦巻く。
無数の氷の欠片が空中に展開されていく。
「アイシクルラピッド!」
振り下ろされた杖。
氷が降り注ぐ。
オークの身体に突き刺さる。
ゴブリンを穿つ。
だが――止まらない。
倒れても、倒れても。
後ろから次が来る。
前の個体が倒れれば、その隙間を埋めるように別の個体が前へ出る。
ただ、それだけ。
魔法が止んだ瞬間、再び前進が始まる。
まるで波だ。
止まることを知らない、濁流。
その流れは、やがてオークすら飲み込んだ。
ゴブリンたちはオークへと群がり、噛みつき、叩き、引き裂く。
オーク達も応戦する。
溢れた個体がラウドとセナへと流れ込む。
「も、もう一度……」
セナは再び詠唱を始める。
ラウドは、なおも何も言わなかった。
言えない。
この状況では、もう。
背後を見る。
そこにあったのは、無数のゴブリン。
そして――
オークの姿は、もうなかった。
代わりに。
腕。
脚。
肉の塊を掲げているゴブリンたち。
それを見た瞬間、背筋が凍った。
――餌。
それは、ただの戦利品ではない。
食べ物。
理解してしまった。
喉が締まる。
息が苦しい。
考えたくないのに、考えてしまう。
「セナ!後ろだ!」
ラウドの声。
視線を戻す。
セナの背後――
飛びかかるゴブリン。
間に合わない。
セナは押し倒され、地面に叩きつけられた。
声も出ない。
ゴブリンはそのまま馬乗りになり、杖を奪い取る。
そして――
鈍い音が二度。
杖で、後頭部を叩いた。
投げ捨てられた杖。
押さえつけられる身体。
「ラウド……助けて」
弱々しい声。
「離せ!」
ラウドが突っ込む。
剣でゴブリンを引き剥がし、セナを引き起こす。
ナイフを握らせる。
そのまま――
2人は群れの中へと消えた。
ゴブリンに覆われて。
見えなくなった。
視線を逸らした。
見てはいけない。
考えてはいけない。
けれど見てしまう。
腕が見える。
引きずり出せば、間に合うかもしれない。
――行けば。
私も飲まれるだけかもしれない。
その時だった。
カラン、と乾いた音。
地面に転がる杖。
見えているのに、遠い。
足がもつれる。
一歩が、遅い。
――間に合わない。
そう思った瞬間、無理やり足を前に出した。
手を伸ばす。
指先が土に触れる。
冷たい。
湿っている。
そのまま、木に触れた。
ざらついた感触。
削れた部分が指に引っかかる。
強く、握る。
折れない。
これは、折れていない。
――使える。
そう思った。
思ってしまった。
振り返る。
迫るゴブリン。
構える。
息が荒い。
視界が狭い。
それでも――
「ウィンドブラスト!!」
叫ぶように、放った。