構えた杖から、風の塊を三連続で撃ち放つ。
前方、側面、後方。
考える余裕などなかった。
ただ、迫るものを撃ち払う。
先頭を走るゴブリンに風が直撃する。
弾ける。
肉が裂け、骨が砕け、緑の身体は形を保てずに破裂した。
血と肉片が後方のゴブリンへと降りかかる。
一瞬、動きが止まる。
だが、それだけだ。
すぐにまた動き出す。
感情を向ける暇などなかった。
誰が死んだのか、何をしているのか。
そんなことを考える余裕は、もうない。
ただ撃つ。
ウィンドブラスト。
即射。
4発目、5発目、6発目。
どこに撃っているのか、わからない。
当たっている。
当たっているのは、わかる。
音が遅れてくる。
遅れて、弾ける。
誰かが叫んでいる。
私?
違う。
わからない。
7発目。
まだ撃てる。
腕は動く。
止まらない。
止める理由が、ない。
途切れなく、撃ち続ける。
前。横。後ろ。
どこから来ても関係ない。
緑の塊を潰すだけ。
音が遠くなる。
自分が息をしているのかも分からない。
吸っているのか、吐いているのか。
分からない。
ただ、撃つ。
弾ける音。
飛び散る血。
わめく声。
それだけが、世界のすべてだった。
握りしめた杖だけが、確かな感覚を持っていた。
魔力が、滑らかに流れる。
問題ない。
暴走もしない。
応えてくれる。
これが――再現性。
姉が言っていた言葉が、頭の奥で静かに蘇る。
大きくて派手な魔法はいらない。
必要なのは、何度でも同じように使える魔法。
信頼できるもの。
それが、戦うための魔法。
ウィンドブラスト。
放つたびに、ゴブリンは形を崩す。
顔に飛び散る液体。
血か、肉片か。
分からない。
息を吐き、吸い込む。
もう、悪臭は感じない。
ただ、生臭い血の匂いだけが残る。
足音がする。
一歩。
遅れて、もう一歩。
近い。
遠い。
どっち?
わからない。
視界が、少し遅れる。
動いたあとに、見える。
腕が先に動いて、
そのあとで、
自分が動いたことに気づく。
撃ち続ける。
やがて――数が減っていく。
底が見え始める。
ゴブリンの動きが鈍る。
距離を取り、様子を窺うように足を止める。
それでも囲まれている。
油断はできない。
視線が、合う。
一体。
また一体。
逃げない。
近づかない。
ただ、見ている。
品定めするみたいに。
値踏みするみたいに。
――食べるかどうかを決める目で。
足元は血と肉片で滑る。
それがゴブリンの足を取っていた。
だが関係ない。
攻撃を止める理由はない。
2体。4体。6体。
風でまとめて吹き飛ばす。
その中で、視線が止まる。
赤いゴブリン。
周囲に他のゴブリンを従え、こちらを見ている。
――あれだ。
直感的に理解する。
あれが中心。
あれを潰せば、変わるかもしれない。
このまま殲滅もできる。
けれど、限界がある。
体力が持たない。
考えるな。
感情を殺せ。
集中しろ。
杖を向ける。
「風よ集いて…力となれ」
ウィンドブラスト。
一直線に放たれた風が、赤い個体へと直撃する。
避けない。
受けた。
「グギャェ」
鈍い声とともに、赤い体が吹き飛ぶ。
やった。
確かな手応え。
呆気ない。
魔法さえあれば、倒せる。
その瞬間。
周囲のゴブリンの動きが、止まった。
一拍。
鳴き声が途切れる。
空気が、止まる。
……けれど。
「ギィッ!!」
誰かが叫んだ。
それを合図にしたように、
群れが、崩れて、そして――
一斉に動いて、周囲のゴブリンが騒ぎ立てて、逃げる。
それにつられるように、次々と逃げ出す。
息をつく。
その瞬間だった。
ゴッ。
後頭部に衝撃。
視界が揺れる。
反射的に振り向き、風を放つ。
数体のゴブリンが弾け、肉片となる。
周囲を見渡す。
来ない。
足元に石。
――投擲。
近づかなくても、攻撃できる。
理解する。
止めない。
撃つ。
2発。
さらに数体が吹き飛ぶ。
そして――
逃げる。
ゴブリンたちは散り散りに、洞窟の外へと消えていく。
終わった。
そう思った瞬間。
視界の端。
ラウドとセナ。
ゴブリンが引きずっている。
エアーブロー。
弾き飛ばすと、ゴブリンは逃げた。
駆け寄る。
二人の姿を見る。
見てしまった。
ラウド。
顔は潰れ、判別もつかない。
四肢は切り取られ、解体の途中のように無残だった。
セナ。
顔は残っている。
だが、手首から先。
足首から先。
無い。
「セナさん……?」
肩に手を置く。
軽く揺らす。
反応がない。
「セナさん、起きてください……」
もう一度、揺らす。
強く。
返事がない。
おかしい。
口元に手を当てる。
……何も、触れない。
え?
もう一度。
もう一度、確かめる。
何も、ない。
何も、ない。
「……あ」
そこで初めて、気づく。
呼吸が、ない。
揺らす。
反応はない。
血溜まり。
死んでいる。
どうすればいい。
……間に合っていれば。
ほんの少し、早ければ。
最初の一体を、もっと早く倒していれば。
杖が折れなければ。
違った?
わからない。
わからないけど。
――私が、いたのに。
何も、守れていない。
頭の奥に声が蘇る。
(冒険者証を返すの。それが死亡報告になるから)
そうだ。
セナのポーチを開ける。
探る。
硬い感触を取り出す。
冒険者証。
セナ・ルーヴェリア。
名前を確認して握る。
自分のポーチへとしまう。
ラウドのポーチも探る。
革袋。
中にはオークの耳。
依頼の証。
さらに、依頼書と冒険者証。
回収する。
セナのポーチからも同じものを見つける。
これで、依頼は達成できる。
視線を上げる。
オークの死体はない。
運ばれた。
ゴブリンに。
息をする。
匂いはもう分からない。
麻痺している。
残るのは――
ケインとディル。
視線を巡らせる。
オークが、まだゴブリンと組み合っている。
その近く。
潰れたディルの身体が、転がっていた。
杖を握りしめる。
乾いた指先に、かすかに残る血の感触がまとわりついていた。
まだ、終わっていない。
ゴブリンとオークがいる限り、冒険者証の回収はできない。
このまま、全部倒してしまうのが一番早い。
――そう、思うのに。
視線は、自然とゴブリンの方へと向いていた。
腕が先に動いた。
考えるよりも先に、杖が持ち上がっていた。
息を吸った覚えもないのに、魔力だけが流れ込む。
視線の先にいるのは、オーク。
それだけで、十分だった。
「エアーブロー」
短く呟く。
放たれた風の塊は、ウィンドブラストよりも軽く、けれど確かに質量を持って、オークに張り付くゴブリンを弾き飛ばした。
「ギャッ」
悲鳴が上がる。
一体、二体と、風に押し出されるように離れていく。
続けてもう一発。
もう一発。
追い払うように、寄せ付けないように。
誰も、助けられなかった。
それは分かっている。
なのに――
この一瞬だけ、間に合っていた気がした。
二発目を受けて動かなくなった個体もいたが、気に留めることはなかった。
ゴブリンは敵だ。
倒しても、何もおかしくはない。
それなのに――
(……私は、何をした?)
自分でも、理由がわからない。
私は今、オークを助けた。
襲ってくるはずの存在を。
さっきまで、仲間を殺していた相手を。
それでも、体は勝手に動いた。
オークの荒い呼吸が、ここまで届く。
ラウドたちに斬られ、ゴブリンに抉られ、石で叩かれたその身体は、血に濡れて黒く光っていた。
それでも、倒れない。
二体の巨体が、ゆっくりとこちらを向く。
鋭い眼光。
生きている、というより――まだ"動いている"だけのような、そんな視線。
息を呑む。
わかっていた。
こうなると、わかっていた。
「グォオオオ……」
低い咆哮が、洞窟に反響する。
その瞬間だった。
体が前へ押し出され、何かが触れた。
それが何かを理解するまでに、妙に時間がかかった。
視界の端で、細い線がゆっくりと伸びてくる。
風を切る音だけが、やけに遅れて耳に届く。
遅い。
全部が、遅い。
次の瞬間、肩の何かが……。
違う。
押されたんじゃない――何かが、肩を貫いた。
足を出して踏みとどまろうとするが、バランスが崩れる。
左肩に、重い違和感が残った。
痛い、はずだった。
けれど、先に来たのは違和感だった。
自分の腕じゃないみたいに、感覚が遠い。
なのに、心臓だけがやけに近い。
早く動かなきゃいけない。
そう思っているのに、どこへ動けばいいのかが決まらない。
脈がうるさい。
ドクン、ドクンと、頭の奥で鳴り響く。
ゆっくりと、視線を落とす。
そこにあったのは、
木を削った粗末な矢の先端だった。
肩から、わずかに突き出ている。
まだ、血は出ていない。
「……ッ!」
認識した瞬間、痛みが来た。
じわじわと、遅れて広がる。
焼けるような、裂けるような痛み。
声を押し殺す。
膝が地面につく。
叫ばない。
叫んだら、何かが壊れる気がした。
振り返る。
弓。
弓を持ったゴブリン。
逃げたと思っていた。
終わったと思っていた。
油断していた。
ゴブリンは、歪んだ笑みを浮かべていた。
嘲るように。
見下すように。
杖を向ける。
呼吸が漏れる。
痛みで、視界が揺れる。
――そのとき。
ズシン。
足元が揺れた。
地震じゃない。
ズキン、と肩が痛む。
違う。
これは、足音。
振り返る。
近い。
一体のオークが、こちらへ走ってきていた。
二歩。
三歩。
それで、届く。
間に合わない。
巨大な影が覆いかぶさる。
反射的に、尻餅をついた。
杖を構える。
「ウィンドブラ――」
ズシン。
もう一度、揺れた。
目が合った、気がした。
ほんの一瞬だけ。
その瞬間、オークは――
私を、通り過ぎた。
「……え?」
間の抜けた声が漏れる。
振り返る。
オークは一直線に、弓を持ったゴブリンへ向かっていた。
「ギャ?」
困惑したような声。
逃げる間もなく、ゴブリンの頭上に影が落ちる。
振り上げられた腕が、そのまま振り下ろされる。
――バンッ!!
地面が砕ける音。
肉が潰れる音。
すべてが混ざる。
ゴブリンは、原形を留めていなかった。
ぺしゃん、と。
ただの何かに変わっていた。
血が飛ぶ。
肉片が散る。
細い骨が、行き場を失って転がる。
助けられた。
そう思いかけて、すぐに否定する。
違う。
たまたま、そこにいたから。
ただ、それだけ。
……本当に?
いや、違う。
そんなはずはない。
だって、あれは魔物だ。
左腕を動かす。
肩に激痛が走る。
杖を地面につき、体を支えながら立ち上がる。
一歩、後ろへ。
二歩、下がる。
全体を見る。
二体のオーク。
こちらを見る。
確かに視線は合う。
けれど――
さっきまでのような、敵意がない。
あの、叩き潰そうとする圧は、もうない。
ただ、見ている。
何かを測るように。
あるいは、どうでもいいものを見るように。
違和感。
言葉にできない、何か。
オークは、私を無視するように背を向けた。
そのまま、洞窟の奥へと歩いていく。
重い足音が、遠ざかっていく。
音が、消えた。
さっきまであったはずの足音も、叫びも、何もない。
残っているのは、自分の呼吸だけ。
浅くて、速い。
残されたのは、静寂と、血の匂い。
張り詰めていたものが、ふっと緩んだ。
長く、息を吐く。
……終わった?
違う。
終わってなんか、いない。
足を出す。
一歩が、やけに遠い。
地面が柔らかいのか、靴が沈む。
違う。
足が上がっていない。
もう一度、踏み出す。
近づいているはずなのに、距離が縮まらない気がした。
潰れたディルの亡骸へと、近づいていく。
見なければならないものが、そこにあるとわかっていた。
オークとゴブリンが争った跡は、もはや戦いの痕跡というよりも、ただの破壊の残骸だった。
こん棒で叩き潰されたのか、拳で砕かれたのか。ディルと同じように、原型を留めていないものがいくつも転がっている。緑の塊だったもの、裂けた肉、飛び出した骨。それらが無造作に散らばり、どれが誰だったのかも判別がつかない。
鼻は、もう役に立たなかった。
ずっと同じ匂いが張り付いている。
血と鉄の匂い。
それだけが、この空間のすべてを覆っていた。
シンと静まり返った洞窟の中、風が吹き抜ける音だけが耳に残る。
それが、妙に遠く感じた。
足取りが重い。
肩の傷が脈打つように痛むからではない。
一歩を踏み出すたびに、何かが胸の内側から押し返してくる。
進むな、とでも言うように。
身体が、拒んでいる。
それでも足は止まらない。
止まってしまえば、ここに留まってしまう気がした。
視線が動くたびに、目に入るものすべてが重しになる。
血。肉。緑の塊。骨。
動かなくなったものたちから流れ出た血は、石の床に染み込み、細い流れとなって一箇所へと集まっていた。
その先にできたのは、黒く濁った血溜まり。
ぴちゃ……。
小さな音がした。
視線を落とす。
自分の左腕だった。
矢に貫かれた傷口から、血がゆっくりと伝っていく。
指先へ、重く溜まった一滴。
それが落ちた。
血溜まりの中へと沈み、何事もなかったかのように混ざって消えた。
腕から、血が出ている。
肩を見ると、服が赤く滲んでいた。
じわりと広がる色が、現実を突きつけてくる。
出血は多くない。
むやみに矢を抜けば、逆に危ない。
分かっている。
分かっているのに、見てしまったことで痛みが増した気がした。
杖を一度離し、右手で傷の周りを押さえる。
「ぅっ……」
息が漏れる。
堪えた分だけ、苦しさが増す。
呼吸が浅く、速くなる。
「はぁ……はぁ……」
自分の呼吸音だけが、やけに大きく響いた。
ゆっくりと顔を上げる。
目の前にあるのは――潰れた何か。
それを見ないように、意識的に視線を逸らしたまま屈み込む。
手探りでポーチを探る。
硬い感触。
それを掴み、引き抜く。
歪んだ金属。
冒険者証だった。
曲がり、凹み、元の形を失いかけている。
オークの一撃でそうなったのか、それとも最初からか。
考えようとしたが、思考は続かなかった。
そのまま、自分のポーチに押し込む。
視線を巡らせる。
――ケインがいない。
剣も盾も、何も残っていない。
口が、わずかに開いた。
「ケ……」
音にならない。
呼べば、そこにいる気がした。
確か、あの時。
オークに弾き飛ばされて――
(……助け……)
声が蘇る。
――やめた。
唇を閉じる。
そのまま、視線を落とした。
胸の奥が、鋭く痛んだ。
考えない。
もう、そっちは見ない。
それ以上、思い出す前に思考を切り捨てる。
無理だ。
考えたら、壊れる。
落ち着いている。
なのに、何もまとまらない。
ケインの冒険者証は――回収できない。
諦める。
私には、できない。
ラウドの姿がよぎる。
あの状態。
その先を想像した瞬間、胃の奥が冷たくなる。
ディルも、見られない。
見てはいけない。
視線を逸らし、半ば逃げるように足を動かした。
ぴちゃ、と靴裏が鳴る。
血で濡れた石床が、足にまとわりつく。
セナのところへ戻る。
二人を見下ろす。
――どうすればいいのか、分からない。
運びたい。
せめて、ギルドへ。
この人たちには、帰る場所があるはずだから。
誰かが待っているはずだから。
私にもいる。
母さまも、父さまも。
だから。
人として、弔われる最期がいい。
そう思うのに。
右手一本で杖を握るだけの自分には、何もできない。
二人どころか、一人すら運べない。
無理だ。
脳裏に浮かぶのは、あの男。
万年Dランクの冒険者――ガルド。
即席のソリを作って、怪我人を運んでいた姿。
でも、ここから街まで?
この状態で?
私に、そんな体力があるのか。
――あれ?
おかしい。
家訓。
言ったなら、やる。
思ったなら、動け。
なら、どうして。
どうして私は、動けない。
――動け。
頭の中で、声がする。
一歩。
出そうとした。
ぐらり、と視界が揺れる。
息が詰まる。
肺がうまく動かない。
踏み出した足は、半歩も進まずに止まった。
違う。
動けないんじゃない。
――動かない。
身体が、拒んでいる。
一歩が出ない。
それをしたら。
――私は。
咄嗟に首元へ手を伸ばす。
冒険者証を掴み、それを見つめる。
冷たい金属の感触。
それが、急に恐ろしくなった。
まるで――
今まで集めたそれらと同じ側に、自分が落ちるような予感。
一歩、後ずさる。
視線が定まらない。
ここにいてはいけない。
「……なさい」
声が、かすれる。
「ごめんなさい……」
もう一歩、下がる。
足が何かに引っかかる。
バランスを崩し、そのまま尻もちをついた。
鈍い痛み。
けれど、その瞬間。
反射的に、杖を構えていた。
何もいない。
それを確認して、初めて自分の息の荒さに気づく。
躓いたものを見る。
緑と赤の、何か。
形を持たないそれ。
「……気持ち悪い」
足で蹴る。
ぐに、とした感触が靴裏に伝わる。
その感触が、離れない。
もう無理だ。
耐えられない。
数歩、走ったところで足が止まる。
振り返れば、まだ見える距離だ。
二人の場所。
わかっている。
見れば、戻れなくなる。
呼吸が乱れる。
喉の奥が詰まる。
――見ない。
視線を無理やり前へ戻す。
私は、逃げるように走り出す。
振り返らない。
見ない。
考えない。
通ってきた道へと、ただ戻る。
洞窟の暗がりの中へ。
その影に飲み込まれるように、私は消えていった。