風の氏族の末娘は、冒険者を知らない   作:ほてぽて

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24話中編 風の氏族の末娘

 

 

 構えた杖から、風の塊を三連続で撃ち放つ。

 前方、側面、後方。

 

 考える余裕などなかった。

 ただ、迫るものを撃ち払う。

 

 先頭を走るゴブリンに風が直撃する。

 弾ける。

 

 肉が裂け、骨が砕け、緑の身体は形を保てずに破裂した。

 血と肉片が後方のゴブリンへと降りかかる。

 

 一瞬、動きが止まる。

 

 だが、それだけだ。

 

 すぐにまた動き出す。

 

 感情を向ける暇などなかった。

 誰が死んだのか、何をしているのか。

 そんなことを考える余裕は、もうない。

 

 ただ撃つ。

 

 ウィンドブラスト。

 

 即射。

 

 4発目、5発目、6発目。

 

 どこに撃っているのか、わからない。

 

 当たっている。

 

 当たっているのは、わかる。

 

 音が遅れてくる。

 

 遅れて、弾ける。

 

 誰かが叫んでいる。

 

 私?

 

 違う。

 

 わからない。

 

 7発目。

 

 まだ撃てる。

 

 腕は動く。

 

 止まらない。

 

 止める理由が、ない。

 途切れなく、撃ち続ける。

 

 前。横。後ろ。

 

 どこから来ても関係ない。

 緑の塊を潰すだけ。

 

 音が遠くなる。

 

 自分が息をしているのかも分からない。

 吸っているのか、吐いているのか。

 

 分からない。

 

 ただ、撃つ。

 

 弾ける音。

 飛び散る血。

 わめく声。

 

 それだけが、世界のすべてだった。

 

 握りしめた杖だけが、確かな感覚を持っていた。

 魔力が、滑らかに流れる。

 

 問題ない。

 

 暴走もしない。

 

 応えてくれる。

 

 これが――再現性。

 

 姉が言っていた言葉が、頭の奥で静かに蘇る。

 

 大きくて派手な魔法はいらない。

 必要なのは、何度でも同じように使える魔法。

 

 信頼できるもの。

 

 それが、戦うための魔法。

 

 ウィンドブラスト。

 

 放つたびに、ゴブリンは形を崩す。

 

 顔に飛び散る液体。

 血か、肉片か。

 

 分からない。

 

 息を吐き、吸い込む。

 もう、悪臭は感じない。

 

 ただ、生臭い血の匂いだけが残る。

 

 足音がする。

 

 一歩。

 遅れて、もう一歩。

 

 近い。

 遠い。

 

 どっち?

 

 わからない。

 視界が、少し遅れる。

 

 動いたあとに、見える。

 腕が先に動いて、

 

 そのあとで、

 自分が動いたことに気づく。

 

 撃ち続ける。

 

 やがて――数が減っていく。

 底が見え始める。

 

 ゴブリンの動きが鈍る。

 距離を取り、様子を窺うように足を止める。

 

 それでも囲まれている。

 

 油断はできない。

 

 視線が、合う。

 

 一体。

 また一体。

 

 逃げない。

 近づかない。

 

 ただ、見ている。

 

 品定めするみたいに。

 

 値踏みするみたいに。

 

 ――食べるかどうかを決める目で。

 

 足元は血と肉片で滑る。

 それがゴブリンの足を取っていた。

 

 だが関係ない。

 

 攻撃を止める理由はない。

 

 2体。4体。6体。

 風でまとめて吹き飛ばす。

 

 その中で、視線が止まる。

 

 赤いゴブリン。

 

 周囲に他のゴブリンを従え、こちらを見ている。

 

 ――あれだ。

 

 直感的に理解する。

 

 あれが中心。

 

 あれを潰せば、変わるかもしれない。

 

 このまま殲滅もできる。

 けれど、限界がある。

 

 体力が持たない。

 

 考えるな。

 

 感情を殺せ。

 

 集中しろ。

 

 杖を向ける。

 

「風よ集いて…力となれ」

 

 ウィンドブラスト。

 

 一直線に放たれた風が、赤い個体へと直撃する。

 

 避けない。

 

 受けた。

 

「グギャェ」

 

 鈍い声とともに、赤い体が吹き飛ぶ。

 

 やった。

 

 確かな手応え。

 

 呆気ない。

 

 魔法さえあれば、倒せる。

 

 その瞬間。

 

 周囲のゴブリンの動きが、止まった。

 

 一拍。

 

 鳴き声が途切れる。

 空気が、止まる。

 

 ……けれど。

 

「ギィッ!!」

 

 誰かが叫んだ。

 

 それを合図にしたように、

 

 群れが、崩れて、そして――

 

 一斉に動いて、周囲のゴブリンが騒ぎ立てて、逃げる。

 

 それにつられるように、次々と逃げ出す。

 

 息をつく。

 

 その瞬間だった。

 

 ゴッ。

 

 後頭部に衝撃。

 

 視界が揺れる。

 

 反射的に振り向き、風を放つ。

 

 数体のゴブリンが弾け、肉片となる。

 

 周囲を見渡す。

 

 来ない。

 

 足元に石。

 

 ――投擲。

 

 近づかなくても、攻撃できる。

 

 理解する。

 

 止めない。

 

 撃つ。

 

 2発。

 

 さらに数体が吹き飛ぶ。

 

 そして――

 

 逃げる。

 

 ゴブリンたちは散り散りに、洞窟の外へと消えていく。

 

 終わった。

 

 そう思った瞬間。

 

 視界の端。

 

 ラウドとセナ。

 

 ゴブリンが引きずっている。

 

 

 エアーブロー。

 

 弾き飛ばすと、ゴブリンは逃げた。

 

 駆け寄る。

 二人の姿を見る。

 

 見てしまった。

 

 ラウド。

 

 顔は潰れ、判別もつかない。

 四肢は切り取られ、解体の途中のように無残だった。

 

 セナ。

 

 顔は残っている。

 

 だが、手首から先。

 足首から先。

 

 無い。

 

「セナさん……?」

 

 肩に手を置く。

 軽く揺らす。

 

 反応がない。

 

「セナさん、起きてください……」

 

 もう一度、揺らす。

 強く。

 

 返事がない。

 

 おかしい。

 

 口元に手を当てる。

 

 ……何も、触れない。

 

 え?

 

 もう一度。

 

 もう一度、確かめる。

 

 何も、ない。

 

 何も、ない。

 

「……あ」

 

 そこで初めて、気づく。

 

 呼吸が、ない。

 

 揺らす。

 

 反応はない。

 

 血溜まり。

 

 死んでいる。

 

 どうすればいい。

 

 ……間に合っていれば。

 

 ほんの少し、早ければ。

 

 最初の一体を、もっと早く倒していれば。

 杖が折れなければ。

 

 違った?

 

 わからない。

 

 わからないけど。

 

 ――私が、いたのに。

 

 何も、守れていない。

 

 頭の奥に声が蘇る。

 

(冒険者証を返すの。それが死亡報告になるから)

 

 そうだ。

 

 セナのポーチを開ける。

 

 探る。

 

 硬い感触を取り出す。

 

 冒険者証。

 

 セナ・ルーヴェリア。

 

 名前を確認して握る。

 自分のポーチへとしまう。

 

 ラウドのポーチも探る。

 

 革袋。

 中にはオークの耳。

 依頼の証。

 

 さらに、依頼書と冒険者証。

 

 回収する。

 

 セナのポーチからも同じものを見つける。

 これで、依頼は達成できる。

 

 視線を上げる。

 

 オークの死体はない。

 

 運ばれた。

 

 ゴブリンに。

 

 

 息をする。

 

 匂いはもう分からない。

 

 麻痺している。

 

 残るのは――

 ケインとディル。

 

 視線を巡らせる。

 

 オークが、まだゴブリンと組み合っている。

 その近く。

 

 潰れたディルの身体が、転がっていた。

 

 杖を握りしめる。

 乾いた指先に、かすかに残る血の感触がまとわりついていた。

 

 まだ、終わっていない。

 

 ゴブリンとオークがいる限り、冒険者証の回収はできない。

 このまま、全部倒してしまうのが一番早い。

 

 ――そう、思うのに。

 

 視線は、自然とゴブリンの方へと向いていた。

 

 腕が先に動いた。

 

 考えるよりも先に、杖が持ち上がっていた。

 

 息を吸った覚えもないのに、魔力だけが流れ込む。

 

 視線の先にいるのは、オーク。

 それだけで、十分だった。

 

「エアーブロー」

 

 短く呟く。

 放たれた風の塊は、ウィンドブラストよりも軽く、けれど確かに質量を持って、オークに張り付くゴブリンを弾き飛ばした。

 

「ギャッ」

 

 悲鳴が上がる。

 一体、二体と、風に押し出されるように離れていく。

 

 続けてもう一発。

 もう一発。

 

 追い払うように、寄せ付けないように。

 

 誰も、助けられなかった。

 それは分かっている。

 

 なのに――

 

 この一瞬だけ、間に合っていた気がした。

 

 二発目を受けて動かなくなった個体もいたが、気に留めることはなかった。

 ゴブリンは敵だ。

 倒しても、何もおかしくはない。

 

 それなのに――

 

(……私は、何をした?)

 

 自分でも、理由がわからない。

 

 私は今、オークを助けた。

 

 襲ってくるはずの存在を。

 さっきまで、仲間を殺していた相手を。

 

 それでも、体は勝手に動いた。

 

 オークの荒い呼吸が、ここまで届く。

 ラウドたちに斬られ、ゴブリンに抉られ、石で叩かれたその身体は、血に濡れて黒く光っていた。

 

 それでも、倒れない。

 

 二体の巨体が、ゆっくりとこちらを向く。

 

 鋭い眼光。

 生きている、というより――まだ"動いている"だけのような、そんな視線。

 

 息を呑む。

 わかっていた。

 

 こうなると、わかっていた。

 

「グォオオオ……」

 

 低い咆哮が、洞窟に反響する。

 

 その瞬間だった。

 

 体が前へ押し出され、何かが触れた。

 

 それが何かを理解するまでに、妙に時間がかかった。

 

 視界の端で、細い線がゆっくりと伸びてくる。

 

 風を切る音だけが、やけに遅れて耳に届く。

 

 遅い。

 

 全部が、遅い。

 

 次の瞬間、肩の何かが……。

 

 違う。

 押されたんじゃない――何かが、肩を貫いた。

 

 足を出して踏みとどまろうとするが、バランスが崩れる。

 

 左肩に、重い違和感が残った。

 痛い、はずだった。

 

 けれど、先に来たのは違和感だった。

 

 自分の腕じゃないみたいに、感覚が遠い。

 

 なのに、心臓だけがやけに近い。

 

 早く動かなきゃいけない。

 

 そう思っているのに、どこへ動けばいいのかが決まらない。

 

 脈がうるさい。

 ドクン、ドクンと、頭の奥で鳴り響く。

 

 ゆっくりと、視線を落とす。

 そこにあったのは、

 木を削った粗末な矢の先端だった。

 

 肩から、わずかに突き出ている。

 

 まだ、血は出ていない。

 

「……ッ!」

 

 認識した瞬間、痛みが来た。

 

 じわじわと、遅れて広がる。

 焼けるような、裂けるような痛み。

 

 声を押し殺す。

 膝が地面につく。

 

 叫ばない。

 叫んだら、何かが壊れる気がした。

 

 振り返る。

 

 弓。

 弓を持ったゴブリン。

 

 逃げたと思っていた。

 終わったと思っていた。

 

 油断していた。

 

 ゴブリンは、歪んだ笑みを浮かべていた。

 

 嘲るように。

 見下すように。

 

 杖を向ける。

 呼吸が漏れる。

 痛みで、視界が揺れる。

 

 ――そのとき。

 

 ズシン。

 

 足元が揺れた。

 

 地震じゃない。

 

 ズキン、と肩が痛む。

 

 違う。

 これは、足音。

 

 振り返る。

 

 近い。

 

 一体のオークが、こちらへ走ってきていた。

 

 二歩。

 三歩。

 

 それで、届く。

 

 間に合わない。

 

 巨大な影が覆いかぶさる。

 反射的に、尻餅をついた。

 

 杖を構える。

 

「ウィンドブラ――」

 

 ズシン。

 

 もう一度、揺れた。

 

 目が合った、気がした。

 

 ほんの一瞬だけ。

 

 その瞬間、オークは――

 

 私を、通り過ぎた。

 

「……え?」

 

 間の抜けた声が漏れる。

 

 振り返る。

 

 オークは一直線に、弓を持ったゴブリンへ向かっていた。

 

「ギャ?」

 

 困惑したような声。

 

 逃げる間もなく、ゴブリンの頭上に影が落ちる。

 

 振り上げられた腕が、そのまま振り下ろされる。

 

 ――バンッ!!

 

 地面が砕ける音。

 肉が潰れる音。

 

 すべてが混ざる。

 

 ゴブリンは、原形を留めていなかった。

 

 ぺしゃん、と。

 ただの何かに変わっていた。

 

 血が飛ぶ。

 肉片が散る。

 細い骨が、行き場を失って転がる。

 

 助けられた。

 

 そう思いかけて、すぐに否定する。

 違う。

 

 たまたま、そこにいたから。

 ただ、それだけ。

 

 ……本当に?

 

 いや、違う。

 そんなはずはない。

 

 だって、あれは魔物だ。

 

 左腕を動かす。

 肩に激痛が走る。

 

 杖を地面につき、体を支えながら立ち上がる。

 

 一歩、後ろへ。

 

 二歩、下がる。

 

 全体を見る。

 

 二体のオーク。

 

 こちらを見る。

 確かに視線は合う。

 

 けれど――

 さっきまでのような、敵意がない。

 

 あの、叩き潰そうとする圧は、もうない。

 ただ、見ている。

 

 何かを測るように。

 あるいは、どうでもいいものを見るように。

 

 違和感。

 言葉にできない、何か。

 

 オークは、私を無視するように背を向けた。

 そのまま、洞窟の奥へと歩いていく。

 

 重い足音が、遠ざかっていく。

 

 音が、消えた。

 

 さっきまであったはずの足音も、叫びも、何もない。

 

 残っているのは、自分の呼吸だけ。

 浅くて、速い。

 

 残されたのは、静寂と、血の匂い。

 

 張り詰めていたものが、ふっと緩んだ。

 

 長く、息を吐く。

 

 ……終わった?

 

 違う。

 

 終わってなんか、いない。

 

 足を出す。

 一歩が、やけに遠い。

 

 地面が柔らかいのか、靴が沈む。

 

 違う。

 足が上がっていない。

 

 もう一度、踏み出す。

 近づいているはずなのに、距離が縮まらない気がした。

 

 潰れたディルの亡骸へと、近づいていく。

 

 見なければならないものが、そこにあるとわかっていた。

 

 オークとゴブリンが争った跡は、もはや戦いの痕跡というよりも、ただの破壊の残骸だった。

 

 こん棒で叩き潰されたのか、拳で砕かれたのか。ディルと同じように、原型を留めていないものがいくつも転がっている。緑の塊だったもの、裂けた肉、飛び出した骨。それらが無造作に散らばり、どれが誰だったのかも判別がつかない。

 

 鼻は、もう役に立たなかった。

 ずっと同じ匂いが張り付いている。

 

 血と鉄の匂い。

 

 それだけが、この空間のすべてを覆っていた。

 

 シンと静まり返った洞窟の中、風が吹き抜ける音だけが耳に残る。

 それが、妙に遠く感じた。

 

 足取りが重い。

 

 肩の傷が脈打つように痛むからではない。

 一歩を踏み出すたびに、何かが胸の内側から押し返してくる。

 

 進むな、とでも言うように。

 

 身体が、拒んでいる。

 

 それでも足は止まらない。

 止まってしまえば、ここに留まってしまう気がした。

 

 視線が動くたびに、目に入るものすべてが重しになる。

 

 血。肉。緑の塊。骨。

 

 動かなくなったものたちから流れ出た血は、石の床に染み込み、細い流れとなって一箇所へと集まっていた。

 その先にできたのは、黒く濁った血溜まり。

 

 ぴちゃ……。

 

 小さな音がした。

 

 視線を落とす。

 自分の左腕だった。

 

 矢に貫かれた傷口から、血がゆっくりと伝っていく。

 指先へ、重く溜まった一滴。

 

 それが落ちた。

 

 血溜まりの中へと沈み、何事もなかったかのように混ざって消えた。

 

 腕から、血が出ている。

 

 肩を見ると、服が赤く滲んでいた。

 じわりと広がる色が、現実を突きつけてくる。

 

 出血は多くない。

 むやみに矢を抜けば、逆に危ない。

 

 分かっている。

 分かっているのに、見てしまったことで痛みが増した気がした。

 

 杖を一度離し、右手で傷の周りを押さえる。

 

「ぅっ……」

 

 息が漏れる。

 

 堪えた分だけ、苦しさが増す。

 呼吸が浅く、速くなる。

 

「はぁ……はぁ……」

 

 自分の呼吸音だけが、やけに大きく響いた。

 

 ゆっくりと顔を上げる。

 

 目の前にあるのは――潰れた何か。

 

 それを見ないように、意識的に視線を逸らしたまま屈み込む。

 手探りでポーチを探る。

 

 硬い感触。

 

 それを掴み、引き抜く。

 

 歪んだ金属。

 

 冒険者証だった。

 

 曲がり、凹み、元の形を失いかけている。

 オークの一撃でそうなったのか、それとも最初からか。

 

 考えようとしたが、思考は続かなかった。

 

 そのまま、自分のポーチに押し込む。

 

 視線を巡らせる。

 

 ――ケインがいない。

 

 剣も盾も、何も残っていない。

 

 口が、わずかに開いた。

 

「ケ……」

 

 音にならない。

 呼べば、そこにいる気がした。

 

 確か、あの時。

 オークに弾き飛ばされて――

 

(……助け……)

 

 声が蘇る。

 

 ――やめた。

 

 唇を閉じる。

 そのまま、視線を落とした。

 

 胸の奥が、鋭く痛んだ。

 

 考えない。

 もう、そっちは見ない。

 それ以上、思い出す前に思考を切り捨てる。

 

 無理だ。

 

 考えたら、壊れる。

 

 落ち着いている。

 なのに、何もまとまらない。

 

 ケインの冒険者証は――回収できない。

 

 諦める。

 

 私には、できない。

 

 ラウドの姿がよぎる。

 あの状態。

 

 その先を想像した瞬間、胃の奥が冷たくなる。

 

 ディルも、見られない。

 

 見てはいけない。

 

 視線を逸らし、半ば逃げるように足を動かした。

 

 ぴちゃ、と靴裏が鳴る。

 血で濡れた石床が、足にまとわりつく。

 

 セナのところへ戻る。

 

 二人を見下ろす。

 ――どうすればいいのか、分からない。

 

 運びたい。

 せめて、ギルドへ。

 

 この人たちには、帰る場所があるはずだから。

 誰かが待っているはずだから。

 

 私にもいる。

 

 母さまも、父さまも。

 

 だから。

 

 人として、弔われる最期がいい。

 

 そう思うのに。

 

 右手一本で杖を握るだけの自分には、何もできない。

 

 二人どころか、一人すら運べない。

 

 無理だ。

 

 脳裏に浮かぶのは、あの男。

 

 万年Dランクの冒険者――ガルド。

 

 即席のソリを作って、怪我人を運んでいた姿。

 

 でも、ここから街まで?

 この状態で?

 

 私に、そんな体力があるのか。

 

 ――あれ?

 

 おかしい。

 

 家訓。

 

 言ったなら、やる。

 思ったなら、動け。

 

 なら、どうして。

 

 どうして私は、動けない。

 

 ――動け。

 

 頭の中で、声がする。

 

 一歩。

 出そうとした。

 

 ぐらり、と視界が揺れる。

 

 息が詰まる。

 肺がうまく動かない。

 

 踏み出した足は、半歩も進まずに止まった。

 

 違う。

 動けないんじゃない。

 

 ――動かない。

 

 身体が、拒んでいる。

 

 一歩が出ない。

 

 それをしたら。

 

 ――私は。

 

 咄嗟に首元へ手を伸ばす。

 冒険者証を掴み、それを見つめる。

 

 冷たい金属の感触。

 

 それが、急に恐ろしくなった。

 

 まるで――

 今まで集めたそれらと同じ側に、自分が落ちるような予感。

 

 一歩、後ずさる。

 

 視線が定まらない。

 

 ここにいてはいけない。

 

「……なさい」

 

 声が、かすれる。

 

「ごめんなさい……」

 

 もう一歩、下がる。

 

 足が何かに引っかかる。

 

 バランスを崩し、そのまま尻もちをついた。

 

 鈍い痛み。

 

 けれど、その瞬間。

 

 反射的に、杖を構えていた。

 

 何もいない。

 

 それを確認して、初めて自分の息の荒さに気づく。

 

 躓いたものを見る。

 

 緑と赤の、何か。

 

 形を持たないそれ。

 

「……気持ち悪い」

 

 足で蹴る。

 

 ぐに、とした感触が靴裏に伝わる。

 

 その感触が、離れない。

 

 もう無理だ。

 

 耐えられない。

 

 数歩、走ったところで足が止まる。

 

 振り返れば、まだ見える距離だ。

 二人の場所。

 わかっている。

 

 見れば、戻れなくなる。

 呼吸が乱れる。

 喉の奥が詰まる。

 

 ――見ない。

 

 視線を無理やり前へ戻す。

 

 私は、逃げるように走り出す。

 

 振り返らない。

 

 見ない。

 

 考えない。

 

 通ってきた道へと、ただ戻る。

 

 洞窟の暗がりの中へ。

 

 その影に飲み込まれるように、私は消えていった。

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