走った。
ただ、走った。
暗い洞窟の中、靴が石床を叩く乾いた音だけが、やけに大きく響いていた。
視界は悪い。
けれど、迷わなかった。
さっきまで通っていたはずの道を、記憶だけでなぞるように駆け抜ける。
振り返らない。振り返れない。
足を前へ出す。
その瞬間——
ガッ、と何かに引っ掛かった。
乾いた音が、連続して鳴る。
カラン、コロン、と。
体が宙に浮いた。
その瞬間——
やけに長く感じた。
体が前に倒れていく。
ゆっくり。
ゆっくり。
石の床が近づく。
音が、ない。
何も聞こえない。
——次の瞬間、
重力に引き戻され、叩きつけられる。
「はぐ…」
咄嗟に右腕で頭を庇った。
その代わりに、受けた腕がじん、と鈍く痛む。
息が詰まる。
何に、引っ掛かったのか。
考える前に、体を起こそうとする。
両手で地面を押し、起き上がろうとした瞬間、
ズキン、と左肩が悲鳴を上げた。
矢の刺さったままの傷が、思い出したように疼く。
一瞬、力が抜ける。
けれど倒れない。
歯を食いしばり、なんとか体を持ち上げる。
息が荒い。
そのまま、ゆっくりと振り返った。
暗い。
何も見えない。
何もいない。
——はずだ。
腰に手をやり、ランタンを探る。
指先が金具に触れる。
カチャ、と音を立てて火を灯す。
ぼんやりとした光が、周囲を照らした。
そして——
そこにあったのは、骨だった。
人骨。
それ以外、何もない。
あのとき見た。
洞窟に入ったときに、最初に見たもの。
名前だけ、誰かも分からない、冒険者の成れの果て。
……。
骨だ。
それ以上の言葉が、浮かばない。
怖いとも、哀れとも、思わない。
ただ、骨だった。
視線を外す。
周囲を確認する。
何もいない。
それだけを確かめて、立ち上がった。
そしてまた、走り出す。
洞窟を抜けた。
光が差し込む。
外の空気。
いつもなら、重たい空気が抜けて、
息が楽になるはずだった。
けれど——
何も変わらなかった。
風が吹く。
木の葉が擦れる。
鳥が鳴く。
土を踏む感触。
全部、分かるのに。
何も軽くならない。
何かが、纏わりついている。
見えない何かが、ずっと。
分からない。
……。
ああ、そうだ。
冒険者証。
ポーチの中にある。
それを持っていけば、説明できる。
ギルドに話せば、回収してくれるはず。
遺体も、遺品も。
きっと、そうだ。
だから——
大丈夫。
依頼も、達成している。
オークの耳は三体分。
報酬は……金貨一枚。
一人、金貨一枚。
……。
どうなるんだろう。
それだと。
私が、一人で全部、受け取ることになる。
…。
それは、違う。
そんな気がした。
でも、じゃあ。
金貨一枚で、みんなは死んだのか。
それが命の値段なのか。
オークの命か。
私たちの命か。
分からない。
頭の中が、ぐるぐると回る。
何かを、忘れている気がする。
(……一緒に、食べよう)
誰かの声。
そこで止まって、続きが出てこない。
何を食べるのかも、誰とだったのかも。
ただ、その言葉だけが残る。
それが何か分からない。
思い出せない。
……。
街が見えた。
門。
ギルド。
すぐそこ。
足を止めずに駆け抜ける。
人が道を開ける。
誰もがこちらを見る。
視線。
けれど、それを気にする余裕はなかった。
ギルドの扉を押し開ける。
ギィ、と乾いた音。
中へ入る。
いつもと同じ匂い。
汗と酒と——
血の匂い。
それが、消えない。
視線が集まる。
いつもなら、すぐに逸れるはずなのに。
逸れない。
ずっと、見られている。
「おう、派手にやったな」
知らない声。
誰だろう。
分からない。
周囲がざわつく。
ヒソヒソと、声。
気にしない。
そのまま受付へ向かう。
依頼書と討伐証を置く。
「あの、これを、依頼と……」
遅れて、冒険者証を並べる。
「冒険者証です」
受付の女性は、表情を変えない。
「あなた様の冒険者証を」
「あ……」
首から下げたそれを見せる。
「リュシアさんですね」
淡々とした声。
状況の確認。
死亡の確認。
事情聴取。
また呼び出す、とのこと。
「……はい」
それだけ答える。
受付は去る。
静かになる。
ぽたり。
音。
足元を見る。
赤い滴。
自分の血。
後ろを見る。
点々と続く、血の跡。
……。
振り返る。
人。
人、人、人。
見られている。
「他のやつはどうした?」
声。
「死んだのか?」
ズキン、と胸が痛む。
ざわめきが広がる。
音が、耳の奥で膨らむ。
その中で——
一人、見えた。
ミアレ。
人混みをかき分けて、こちらを見る。
その瞬間——
一人の男が、私の横で小さく息を呑んだ。
「……なんだよ、あれ」
別の声。
「血……全部あいつか?」
視線が刺さる。
下を見る。
自分の服。
乾きかけた赤。
固まった血がひび割れて、動くたびに剥がれる。
手。
指の間に黒く固まったもの。
……これが、私?
顔を上げる。
ミアレが、こちらを見ていた。
その姿を見て、少しだけ息が落ちた。
安堵。
……のはずだった。
けれど。
ミアレは。
目を見開き、口を押さえた。
まるで。
何か、見てはいけないものを見るように。
「ミァ……」
声をかける。
一歩、近づく。
おかしい。
距離がある。
近いのに、遠い。
目が合わない。
何かが、間にある。
言葉が、出ない。
声が、届かない。
もう一度だけ視線が合う。
そして。
逸らされた。
ミアレは、そのまま後ろへ下がる。
何も言わずに。
離れていく。
……。
……?
あれ。
私。
嫌われた?
そう思った。
ポーチに手を入れる。
紙が触れる。
取り出す。
カサカサと音がする。
しわくちゃの紙。
ミアレから貰ったもの。
何かあったときのためにと、渡された。
住所の書かれた紙。
それを、見つめた。
……。
握りしめる。
紙を、握ったまま動けなかった。
紙が、くしゃりと音を立てた。
強く握りすぎていることに、そこで初めて気づく。
開こうとして、指が止まる。
見れば、そこに書かれている場所に行かなければならなくなる。
行けば、話さなければならない。
話せば——
それが、全部「起きたこと」になる。
……だから。
開けなかった。
指先に力だけが残っている。
けれど、それ以外は何も動かない。
何も言わず、それをポーチの中へ押し込む。
周囲の視線。
ざわめき。
誰かのひそめた声。
それらを背中に感じながら、私はそこから一歩も動けなかった。
ギルドの中。
見慣れた内装。
聞き慣れた音。
……なのに。
すべてが遠く、薄く、現実感を失っている。
世界は動いている。
人は歩き、話し、笑い、手を動かしている。
でも私は。
止まっている。
時間に置き去りにされたみたいに、そこに立ち尽くしていた。
何かあればと、渡された紙。
今がその"何か"なのだと、頭では分かっている。
けれど。
足が、動かない。
どこへ行くのか。
何をするのか。
誰に、何を話せばいいのか。
何も分からない。
「……」
喉は開いているはずなのに、言葉が出てこない。
ただ、立っていた。
「リュシアさん」
不意に、声が届いた。
受付の女性だった。
いつもと同じ、淡々とした声音。
「少し、こちらへ」
促される。
考えるより先に、体が動いた。
カウンターの脇、少し奥まった場所。
人の声が届きにくい、静かな空間。
受付の女性が、静かに口を開く。
「それでは依頼の詳細を、聞かせていただけますか」
問われたことだけを、答えた。
場所。
討伐対象のオークの数。
途中で遭遇したゴブリンの群れ。
パーティーの構成。
戦闘の流れ。
誰が、どう動いて。
どこで、何が起きたのか。
言葉にするたびに、少しずつ。
少しだけ。
現実が戻ってくる。
断片的に、繋がっていく。
それでも、まだ遠い。
「……全員、死にました」
その一言だけが、やけに重く落ちた。
自分の声なのに、どこか他人のように聞こえた。
一拍だけ、間があった。
書き留めていた手が、ほんの少しだけ止まる。
それから、何事もなかったように動き出した。
「……確認します」
声は変わらない。
受付の女性の表情が、ほんのわずかに揺れた気がした。
けれど、それは一瞬で消える。
「冒険者証は、これで全員分ですか?」
「ケインさんのだけ、回収できなくて……」
喉が詰まる。
視線が自然と落ちた。
「……すみません」
「いいえ」
即座に返ってきた声。
「あなたのせいではありません」
その言葉は、確かに届いたはずなのに。
なぜか、うまく受け取れなかった。
どこにも落ちないまま、ただ耳に残る。
頷いた。
それしかできなかった。
手続きは、淡々と進む。
やがて、金貨がテーブルに置かれた。
一枚。
二枚。
三枚。
四枚。
五枚。
並べられたそれを見た瞬間——
吐き気がした。
視界の奥が、ぐらりと揺れる。
けれど。
手を伸ばした。
伸ばしかけた手が、止まる。
これを受け取れば、終わる。
受け取らなければ、終わらない。
……終わらせたい。
そう思った。
それに気づいて、ぞっとした。
それでも、手は伸びる。
金貨に触れる。
重い。
——助かった。
一瞬だけ、そう思ってしまった。
その瞬間、自分の中の何かが、ひどく冷えた。
そのまま、五枚の金貨を掴む。
冷たい。
ただ、それだけの感触。
それだけだった。
……でも。
これがあれば、私の杖の代金に。
宿のお金にも食事もできる。
明日も、生きられる。
それは、確かなことだった。
硬貨をポーチに押し込む。
金属同士が触れ合う、乾いた音がした。
「肩の傷は、診ていただきましたか」
「……まだ」
「ギルド付きの治療士がいます。案内しますか」
「……お願いします」
言われるままに頷く。
案内された部屋は静かだった。
簡素な寝台。
棚に並ぶ道具。
差し込む外の光。
椅子に座っていた年配の男が、こちらを見た。
「矢は、抜かないといけないね」
落ち着いた声。
「痛むよ」
「……はい」
覚悟は、していた。
けれど実際は。
思っていたよりも、ずっと早く終わった。
引き抜かれる瞬間よりも、その後の消毒の方が痛かった。
焼けるような感覚。
歯を食いしばる。
声は出さなかった。
出せなかった。
血は拭き取られ、布が当てられ、包帯が巻かれる。
「化膿しなければ、動かすのに支障はない」
「無理はしないように」
「……はい」
それだけ。
何も聞かれなかった。
何も問われなかった。
ただ処置をして、
「終わりです」
それだけ言われた。
私は頭を下げた。
「ありがとう、ございます」
かろうじて出た言葉。
それが、精いっぱいだった。
部屋を出る。
廊下。
差し込む光の中に、埃が舞っている。
ゆっくりと。
静かに、漂っている。
しばらく、それを見ていた。
何も考えずに。
ただ、見ていた。
ふと、思う。
どうして、私なんだろう。
同じ場所にいた。
同じように戦っていた。
なのに、
私だけが、ここに立っている。
——間違っている気がした。
…。
私は、どこへ行けばいいのか。
宿。
帰れば、おばさんがいる。
何を話すのか。
分からない。
何も話したくない。
けれど。
「ただいま」と言えば。
「おかえり」と返ってくる。
それだけが、確かにあった。
一歩、踏み出す。
廊下を歩く。
視線は感じる。
けれど、もう気にする余裕もなかった。
扉を押す。
外へ出る。
光。
まだ、昼だった。
そんな時間だったのか、とぼんやり思う。
石畳を踏む。
コツ、コツ、と音がする。
一人分の足音だけ。
空は変わらない。
雲が、ゆっくりと流れている。
そのまま、宿へ向かった。
扉の前で止まる。
手をかける。
少しだけ、間があく。
そして、開けた。
チリン、と鈴が鳴る。
中に入る。
おばさんが顔を上げた。
一瞬だけ、表情が動く。
けれど、何も言わない。
私も、何も言えない。
「……ただいま」
声は、かすれていた。
おばさんは、すぐには動かなかった。
私を見る。
そのまま、数歩の距離を置いたまま。
それから、おばさんは一歩、近づいてゆっくりと近づいてくる。
触れられる直前。
反射的に、一歩引いた。
——触られたくない。
血で汚れている。
自分が。
でも。
逃げきれなかった。
抱き寄せられる。
強く。
抵抗しかけた力が、そこで抜けた。
触れられて、
初めて、自分が震えていることに気づいた。
そして——
何も言わずに、私の頭を抱えた。
強く。
けれど優しく。
包み込むように。
血に濡れたままの私を、気にすることもなく。
引き寄せる。
声は出なかった。
言葉も出なかった。
ただ。
涙だけが、落ちた。
止まらなかった。
音もなく、ただ流れ続けた。
おばさんは、何も言わなかった。
ただ、そこにいた。
それだけだった。
それだけで——
よかった。
ここで一区切り