風の氏族の末娘は、冒険者を知らない   作:ほてぽて

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25話前編 遅れてきた約束

 

 

 腕の中にいたはずなのに、体はもう一人だった。

 

 あの温もりを覚えている。

 押さえ込まれるような安心感も。

 

 なのに、胸の奥だけがずっと冷たい。

 

 息を吸う。

 浅い。

 吐く。

 

 うまく抜けない。

 

 鼓動が、少し早い。

 

 落ち着いたはずなのに。

 体だけが、納得していない。

 

 何かを、まだ続けている。

 

 鳥のさえずりが聞こえた。

 

 やけに澄んだ音だった。宿にいたはずなのに、そんな音が聞こえること自体がおかしい。

 

 ここは、森の中だ。

 

 風はない。木々は揺れず、葉擦れの音もしない。けれど、音だけがある。音だけが、現実のように響いている。

 

 私は、宿に戻ったはずだった。

 

 そう思った。確かに、あの後、ギルドで手続きをして、傷を見てもらって、それから——

 

 そこから先が、曖昧だった。

 

 視線を巡らせる。

 

 景色の輪郭はぼやけていて、霧のように曖昧に溶けている。けれど、足元だけははっきりしていた。

 

 軽く足踏みをする。

 

 靴裏に、土の感触。

 

 ジャリ、と擦れる音。

 

 土だ。

 

 現実だと、思った。

 

 ふと、手の中にあるものに気づく。

 

 杖。

 

 私の杖だった。

 

 壊れたはずの、あの杖。

 

 折れたはずのそれが、何事もなかったように握られている。

 

 どうして。

 

 疑問が浮かぶ。けれど、答えは出ない。

 

 考えようとした瞬間、

 

 声がした。

 

「オークを倒したことがあるのは、本当なのね。Eランクでオークを倒すなんて普通ないでしょ?」

 

 振り返る。

 

 セナがいた。

 

 あの時と同じ場所に、同じように立っている。

 

「あ……」

 

 言葉が出ない。

 

「無事、だったんですか……?」

 

 問いかける。

 

 けれど。

 

 返事はない。

 

 目は合っているのに、言葉が返ってこない。

 

 違和感。

 

「一体だけ、俺たちにやらせてくれないか」

 

 隣から声がする。

 

 ラウドだった。

 

 さらにその奥に、ケインとディル。

 

 四人とも、そこにいる。

 

 生きている。

 

 動いている。

 

 視線が合う。

 

 胸の奥が緩む。

 

 安堵が、滲む。

 

 けれど。

 同時に、何かが引っかかった。

 

 聞いたことのある台詞。

 

 見たことのある光景。

 

 これは——

 

 戻っている。

 

 あの時に。

 洞窟に入る前に。

 

 視線の先に、ぽっかりと口を開けた穴がある。

 

「この先にいるな。気を引き締めろ」

 

 ラウドの声。

 その瞬間、体が勝手に動いた。

 

 走り出して、入り口の前で振り返る。

 

「ダメです!」

 

 声を張る。

 

 ——遅れて、もう一度同じ声が聞こえた。

 

 自分の声が、少し後から重なる。

 

 口はもう閉じているのに、声だけがあとから出てくる。

 

 おかしい。

 喉に触れる。

 何もない。

 

 なのに——声だけが、遅れて落ちていく。

 

「行ったら、死にます! みんな、死ぬんです!」

 

 両手を広げる。

 

 止めるように。

 

 遮るように。

 

「待ってください、お願いです、止まって……」

 

 誰も、反応しない。

 まるで、聞こえていないかのように。

 

 止めればいい。

 

 知っている。

 

 この先で、何が起きるか。

 だから、止めればいい。

 

 それが正しい。

 

 それで、助かるはずだ。

 

 ——本当に?

 一瞬だけ、思った。

 

 もし、ここで止めても。

 

 別の形で、同じことが起きるだけなんじゃないか。

 

 淡々と準備を進めている。

 

 考える前に、声を張り上げた。

 

「ラウドさん! お願い、止めてください……!」

 

 必死に言葉を重ねる。

 

 けれど。

 

 誰一人として、こちらを見ない。

 

 そのまま。

 

 洞窟へと、入っていく。

 

「待って……!」

 

 手を伸ばした瞬間——

 

 景色が、変わった。

 

 洞窟の中。

 

 あの場所。

 

 血の匂いが蘇る。

 

 腕を、引かれた。

 

「たす……け……」

 

 振り向く。

 

 ケインだった。

 

 血に濡れた顔で、こちらを見ている。

 

 手が、掴まれている。

 

 強くではない。

 

 必死に、離れないように、指先にだけ力がこもっている。

 

 温かい。

 生きている温度。

 

 その目。

 

 その声。

 

 指が、わずかに動く。

 

 私の手を、確かめるように。

 

「……っ!」

 

 ——反射的に振り払った。

 

 意識より先に、体が。

 逃げるように。

 拒むように。

 

 耐えられなくて。

 

 手を振り払ってしまった。

 

「あ……」

 

 その瞬間、ケインは闇に引きずり込まれた。

 

 黒い何かに飲まれるように。

 

 消えていく。

 

 追いかける。

 

 手を伸ばす。

 

 届かない。

 

「グォオオオ!」

 

 雄叫び。

 

 振り向く。

 

 黒い影が、ディルに振り下ろされる。

 

「避けて!!」

 

 叫ぶ。

 

 ディルと目が合う。

 

 近い。

 届く距離。

 

 なのに——

 間に合わない。

 

 潰れる音。

 

 飛沫。

 消失。

 

 また、同じだ。

 また、見ている。

 

 何もできずに。

 

 杖を構える。

 

 魔法を使う。

 

 それしかない。

 

 これでいい。

 これで間に合う。

 

 魔法を撃てば、全部終わる。

 

 助けられる。

 ——そう思った瞬間だった。

 

 杖が、軋む。

 細い音。

 嫌な予感。

 

 空を掴むみたいに、手応えがない。

 

 崩れる。

 砂のように。

 握っていたはずのものが、手の中から消えていく。

 

「ウィンド……」

 

 杖が砂のように、崩れていく。

 

「ウィンドブラスト!」

 

 魔力を流す。

 

 何も起きない。

 

 そのまま、手の中から消えた。

 

 理解できない。

 

 呼吸が乱れる。

 

 次は。

 次は誰だ。

 

 そう思った瞬間、

 

 背後から何かが突き出された。

 

 杖。

 

 セナの杖。

 

 杖を掴んだ。

 

 反射的に。

 

 それしかないと思って。

 

 引き寄せる。

 

 ブチッ。

 嫌な音。

 

 振り返る。

 

 距離を取る。

 

 視線を落として、杖をみる。

 

 その先。

 

 指。

 指が、ある。

 

 手。

 

 ——腕が、ない。

 そこでようやく気づいた。

 

 切り離された手。

 

 それが、杖を握っている。

 

「……っ!!」

 

 落とす。

 

 ボトッ。

 鈍い音。

 

 息が止まる。

 ゆっくりと、視線を上げる。

 

 セナ。

 

 四肢の先がない。

 

 ラウド。

 

 顔が潰れている。

 

「いや……」

 

 声が出る。

 

 走る。

 

 逃げる。

 

 どこでもいい。

 

 ここから離れないと。

 

 離れないと。

 

 思考が回らない。

 

 何かを忘れている。

 

 大事なことを。

 

(……一緒に、食べよう)

 

 声。

 

 足が止まる。

 

「先輩」

 

 振り返る。

 

「リュシア先輩、こっちですよ」

 

 そこには、焚き火があった。

 

 揺れる火。

 暖かい。

 ……はずなのに。

 

 火の音が、少しだけ遅れて聞こえる。

 パチ、と鳴る。

 

 遅れて、もう一度パチ、と鳴る。

 同じ音が、二度。

 

 焼ける音。

 香ばしい匂い。

 

 ホーンラビット。

 

 その前に座る、エルネ。

 

「先輩が遅いから、もう焼いてますよ」

 

 笑っていた。

 

 あの時と同じように。

 

 何も知らないままの顔で。

 

 言葉を失ったまま、私は立ち尽くしていた。

 

 焚き火の前。揺れる炎。ぱちぱちと薪が弾ける音だけが、やけに現実味を帯びて耳に届く。

 

「もぉ〜、そんなところでボーッと立ってないで」

 

 明るい声が、軽やかに空気を揺らした。

 

「隣に座って、座って。先輩が火加減をみてくれないと焦げちゃいます」

 

 倒木を椅子代わりにして、エルネがぽんぽんと隣を叩く。

 

 ……言われるままに、足が動いた。

 

 なぜだろう。

 

 考えるより先に、体が従っていた。

 

 エルネの隣に腰を下ろす。

 

 膝の横に、杖があった。

 

 ……当たり前みたいに。

 

 握れば、何の抵抗もなく手に馴染む。

 

 軽い。

 

 あまりにも、軽すぎる気がした。

 

 視線をエルネに戻す。

 

 彼女は、いつもと同じ顔で笑っていた。

 

 口角を少し上げた、あの、見慣れた笑顔。

 

 ……おかしい。

 

 そう思うべきなのに。

 

 喉が動かない。

 声が出てこない。

 

 ただ、呼吸だけが、ゆっくりと整っていく。

 

「ふぅ……」

 

 吐いた息が、白く見えた気がした。

 焚き火の熱が頬に当たる。

 

 目の前では、ホーンラビットの肉がじっくりと焼かれている。

 

 脂が滲み、表面が照りを帯びている。

 

 ……美味しそうだ。

 

 そんな感覚が、わずかに戻ってくる。

 

「先輩」

 

 呼ばれて、顔を上げた。

 

「私、罠も作って、ウサギさんも捕まえられて、それも捌けて、納品の数も揃えられて……」

 

 エルネは胸を張る。

 

「これで、私も先輩みたいな立派な冒険者ですね!」

 

 その声は弾んでいて。

 未来を疑っていない音だった。

 

 私は、ほんの少しだけ視線を落とす。

 

「そうですね……」

 

 言葉が、ゆっくりと出てくる。

 

「これだけできたら、私が教えることはもうないかもしれません」

 

 言いながら、自分でも違和感があった。

 

 それでも、言葉は止まらない。

 

「そんなことないです!」

 

 すぐに返ってくる。

 

「私、知らないことがたくさんあるんです。だから、これからも先輩と一緒ですよ」

 

 楽しそうに笑う。

 

 無邪気に。

 まっすぐに。

 その横顔を、ただ見ていた。

 

「これから試験を受けて、Eランクを卒業して、Dランク冒険者になって……お金を稼ぐんです!」

 

 未来の話。

 

 まだ何も失っていない言葉。

 

「……もし、試験に落ちたら?」

 

 ふと、口からこぼれた。

 少しだけ、意地の悪い問いだった。

 

「何度落ちても、諦めませんよ」

 

 エルネは眉を寄せて、きっぱりと言う。

 

「でも、先輩! おいて行かないで下さいね」

 

 甘えるような声。

 

 その響きに、思わず笑みがこぼれた。

 

「大丈夫ですよ」

 

 自然と、言葉が続く。

 

「置いていきません。私たち、同じパーティですから」

 

 ……あれ?

 

 胸の奥が、微かに痛んだ。

 

 この言葉。

 

 これは。

 私の言葉じゃない。

 

 ――ミアレだ。

 

 あのとき。

 

 試験に落ちて、落ち込んでいた私に、かけてくれた言葉。

 

 どうして、今。

 こんな形で。

 

「えへへ、ありがとうございます」

 

 エルネは満足そうに笑った。

 

「ワイバーン倒して、おっきな魔石持って帰ってきたりして、一気に有名になったりして!」

 

 夢が、次々と溢れてくる。

 

 大きくて、明るくて。

 

 現実なんてまだ触れていない夢。

 

 それが、まぶしい。

 本当に、まぶしい。

 

「エルネさん」

 

 気づけば、口を開いていた。

 

「私、エルネさんの夢を一つだけ叶えてあげます」

 

 言葉が、自分でも意外だった。

 

「なんでもいいです。ひとつだけ」

 

「いいの!?」

 

 顔が近づく。

 目が輝いている。

 

「私にできる範囲で、ですけど」

 

「じゃあ……!」

 

 少し考えて。

 すぐに、あふれ出す。

 

「いろんなところに行きたい! この街だけじゃなくて、山も、海も、高いところからの景色も!」

 

 両手を広げる。

 

「光が差して、空があって……いろんな景色を見たいです。先輩と!」

 

 その言葉に、少し遅れて頷いた。

 

 ……今、なんて返すのが正しかったんだろう。

 

「あ! あと、いろんなもの食べたいです!」

 

 ……ひとつじゃない。

 

 思わず、吹き出した。

 

「一つだけって言いましたよね」

 

「えへへ」

 

 笑う。

 

 つられて、私も笑う。

 

 何がおかしいのか分からないまま。

 

 ただ、笑った。

 

 笑っているのに、胸の奥がじくじくと痛んだ。

 

 息を吸うたびに、少しだけ引っかかる。

 

 苦しいわけじゃない。

 

 でも、楽でもなかった。

 

 ひとしきり笑ったあと。

 

 エルネは焚き火へと視線を戻した。

 

「先輩、串、回してください」

 

 立ち上がる。

 

 言われるままに、串を持つ。

 

 焼けた肉。

 

 皮はなく、頭もない。

 

 ただの肉。

 

 脂が垂れ、炎に落ちる。

 

 バチッ、と弾ける音。

 

 その火の粉が。

 

 肩に触れた。

 

 ――痛い。

 

 その感覚だけが、やけに鮮明だった。

 

 ここにいれば、

 何も失っていないままでいられる。

 

 彼女みたいに、無邪気なままで。

 

 戻らなくてもいい。

 

 ――戻りたくない。

 

 そう思った瞬間、

 

 目が開いた。

 

 息を吸う。

 

 体を起こす。

 

 暗い。

 見慣れた天井。

 

 宿の、自分の部屋だった。

 

 静寂。

 

 焚き火の音は、もうどこにもなかった。

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