腕の中にいたはずなのに、体はもう一人だった。
あの温もりを覚えている。
押さえ込まれるような安心感も。
なのに、胸の奥だけがずっと冷たい。
息を吸う。
浅い。
吐く。
うまく抜けない。
鼓動が、少し早い。
落ち着いたはずなのに。
体だけが、納得していない。
何かを、まだ続けている。
鳥のさえずりが聞こえた。
やけに澄んだ音だった。宿にいたはずなのに、そんな音が聞こえること自体がおかしい。
ここは、森の中だ。
風はない。木々は揺れず、葉擦れの音もしない。けれど、音だけがある。音だけが、現実のように響いている。
私は、宿に戻ったはずだった。
そう思った。確かに、あの後、ギルドで手続きをして、傷を見てもらって、それから——
そこから先が、曖昧だった。
視線を巡らせる。
景色の輪郭はぼやけていて、霧のように曖昧に溶けている。けれど、足元だけははっきりしていた。
軽く足踏みをする。
靴裏に、土の感触。
ジャリ、と擦れる音。
土だ。
現実だと、思った。
ふと、手の中にあるものに気づく。
杖。
私の杖だった。
壊れたはずの、あの杖。
折れたはずのそれが、何事もなかったように握られている。
どうして。
疑問が浮かぶ。けれど、答えは出ない。
考えようとした瞬間、
声がした。
「オークを倒したことがあるのは、本当なのね。Eランクでオークを倒すなんて普通ないでしょ?」
振り返る。
セナがいた。
あの時と同じ場所に、同じように立っている。
「あ……」
言葉が出ない。
「無事、だったんですか……?」
問いかける。
けれど。
返事はない。
目は合っているのに、言葉が返ってこない。
違和感。
「一体だけ、俺たちにやらせてくれないか」
隣から声がする。
ラウドだった。
さらにその奥に、ケインとディル。
四人とも、そこにいる。
生きている。
動いている。
視線が合う。
胸の奥が緩む。
安堵が、滲む。
けれど。
同時に、何かが引っかかった。
聞いたことのある台詞。
見たことのある光景。
これは——
戻っている。
あの時に。
洞窟に入る前に。
視線の先に、ぽっかりと口を開けた穴がある。
「この先にいるな。気を引き締めろ」
ラウドの声。
その瞬間、体が勝手に動いた。
走り出して、入り口の前で振り返る。
「ダメです!」
声を張る。
——遅れて、もう一度同じ声が聞こえた。
自分の声が、少し後から重なる。
口はもう閉じているのに、声だけがあとから出てくる。
おかしい。
喉に触れる。
何もない。
なのに——声だけが、遅れて落ちていく。
「行ったら、死にます! みんな、死ぬんです!」
両手を広げる。
止めるように。
遮るように。
「待ってください、お願いです、止まって……」
誰も、反応しない。
まるで、聞こえていないかのように。
止めればいい。
知っている。
この先で、何が起きるか。
だから、止めればいい。
それが正しい。
それで、助かるはずだ。
——本当に?
一瞬だけ、思った。
もし、ここで止めても。
別の形で、同じことが起きるだけなんじゃないか。
淡々と準備を進めている。
考える前に、声を張り上げた。
「ラウドさん! お願い、止めてください……!」
必死に言葉を重ねる。
けれど。
誰一人として、こちらを見ない。
そのまま。
洞窟へと、入っていく。
「待って……!」
手を伸ばした瞬間——
景色が、変わった。
洞窟の中。
あの場所。
血の匂いが蘇る。
腕を、引かれた。
「たす……け……」
振り向く。
ケインだった。
血に濡れた顔で、こちらを見ている。
手が、掴まれている。
強くではない。
必死に、離れないように、指先にだけ力がこもっている。
温かい。
生きている温度。
その目。
その声。
指が、わずかに動く。
私の手を、確かめるように。
「……っ!」
——反射的に振り払った。
意識より先に、体が。
逃げるように。
拒むように。
耐えられなくて。
手を振り払ってしまった。
「あ……」
その瞬間、ケインは闇に引きずり込まれた。
黒い何かに飲まれるように。
消えていく。
追いかける。
手を伸ばす。
届かない。
「グォオオオ!」
雄叫び。
振り向く。
黒い影が、ディルに振り下ろされる。
「避けて!!」
叫ぶ。
ディルと目が合う。
近い。
届く距離。
なのに——
間に合わない。
潰れる音。
飛沫。
消失。
また、同じだ。
また、見ている。
何もできずに。
杖を構える。
魔法を使う。
それしかない。
これでいい。
これで間に合う。
魔法を撃てば、全部終わる。
助けられる。
——そう思った瞬間だった。
杖が、軋む。
細い音。
嫌な予感。
空を掴むみたいに、手応えがない。
崩れる。
砂のように。
握っていたはずのものが、手の中から消えていく。
「ウィンド……」
杖が砂のように、崩れていく。
「ウィンドブラスト!」
魔力を流す。
何も起きない。
そのまま、手の中から消えた。
理解できない。
呼吸が乱れる。
次は。
次は誰だ。
そう思った瞬間、
背後から何かが突き出された。
杖。
セナの杖。
杖を掴んだ。
反射的に。
それしかないと思って。
引き寄せる。
ブチッ。
嫌な音。
振り返る。
距離を取る。
視線を落として、杖をみる。
その先。
指。
指が、ある。
手。
——腕が、ない。
そこでようやく気づいた。
切り離された手。
それが、杖を握っている。
「……っ!!」
落とす。
ボトッ。
鈍い音。
息が止まる。
ゆっくりと、視線を上げる。
セナ。
四肢の先がない。
ラウド。
顔が潰れている。
「いや……」
声が出る。
走る。
逃げる。
どこでもいい。
ここから離れないと。
離れないと。
思考が回らない。
何かを忘れている。
大事なことを。
(……一緒に、食べよう)
声。
足が止まる。
「先輩」
振り返る。
「リュシア先輩、こっちですよ」
そこには、焚き火があった。
揺れる火。
暖かい。
……はずなのに。
火の音が、少しだけ遅れて聞こえる。
パチ、と鳴る。
遅れて、もう一度パチ、と鳴る。
同じ音が、二度。
焼ける音。
香ばしい匂い。
ホーンラビット。
その前に座る、エルネ。
「先輩が遅いから、もう焼いてますよ」
笑っていた。
あの時と同じように。
何も知らないままの顔で。
言葉を失ったまま、私は立ち尽くしていた。
焚き火の前。揺れる炎。ぱちぱちと薪が弾ける音だけが、やけに現実味を帯びて耳に届く。
「もぉ〜、そんなところでボーッと立ってないで」
明るい声が、軽やかに空気を揺らした。
「隣に座って、座って。先輩が火加減をみてくれないと焦げちゃいます」
倒木を椅子代わりにして、エルネがぽんぽんと隣を叩く。
……言われるままに、足が動いた。
なぜだろう。
考えるより先に、体が従っていた。
エルネの隣に腰を下ろす。
膝の横に、杖があった。
……当たり前みたいに。
握れば、何の抵抗もなく手に馴染む。
軽い。
あまりにも、軽すぎる気がした。
視線をエルネに戻す。
彼女は、いつもと同じ顔で笑っていた。
口角を少し上げた、あの、見慣れた笑顔。
……おかしい。
そう思うべきなのに。
喉が動かない。
声が出てこない。
ただ、呼吸だけが、ゆっくりと整っていく。
「ふぅ……」
吐いた息が、白く見えた気がした。
焚き火の熱が頬に当たる。
目の前では、ホーンラビットの肉がじっくりと焼かれている。
脂が滲み、表面が照りを帯びている。
……美味しそうだ。
そんな感覚が、わずかに戻ってくる。
「先輩」
呼ばれて、顔を上げた。
「私、罠も作って、ウサギさんも捕まえられて、それも捌けて、納品の数も揃えられて……」
エルネは胸を張る。
「これで、私も先輩みたいな立派な冒険者ですね!」
その声は弾んでいて。
未来を疑っていない音だった。
私は、ほんの少しだけ視線を落とす。
「そうですね……」
言葉が、ゆっくりと出てくる。
「これだけできたら、私が教えることはもうないかもしれません」
言いながら、自分でも違和感があった。
それでも、言葉は止まらない。
「そんなことないです!」
すぐに返ってくる。
「私、知らないことがたくさんあるんです。だから、これからも先輩と一緒ですよ」
楽しそうに笑う。
無邪気に。
まっすぐに。
その横顔を、ただ見ていた。
「これから試験を受けて、Eランクを卒業して、Dランク冒険者になって……お金を稼ぐんです!」
未来の話。
まだ何も失っていない言葉。
「……もし、試験に落ちたら?」
ふと、口からこぼれた。
少しだけ、意地の悪い問いだった。
「何度落ちても、諦めませんよ」
エルネは眉を寄せて、きっぱりと言う。
「でも、先輩! おいて行かないで下さいね」
甘えるような声。
その響きに、思わず笑みがこぼれた。
「大丈夫ですよ」
自然と、言葉が続く。
「置いていきません。私たち、同じパーティですから」
……あれ?
胸の奥が、微かに痛んだ。
この言葉。
これは。
私の言葉じゃない。
――ミアレだ。
あのとき。
試験に落ちて、落ち込んでいた私に、かけてくれた言葉。
どうして、今。
こんな形で。
「えへへ、ありがとうございます」
エルネは満足そうに笑った。
「ワイバーン倒して、おっきな魔石持って帰ってきたりして、一気に有名になったりして!」
夢が、次々と溢れてくる。
大きくて、明るくて。
現実なんてまだ触れていない夢。
それが、まぶしい。
本当に、まぶしい。
「エルネさん」
気づけば、口を開いていた。
「私、エルネさんの夢を一つだけ叶えてあげます」
言葉が、自分でも意外だった。
「なんでもいいです。ひとつだけ」
「いいの!?」
顔が近づく。
目が輝いている。
「私にできる範囲で、ですけど」
「じゃあ……!」
少し考えて。
すぐに、あふれ出す。
「いろんなところに行きたい! この街だけじゃなくて、山も、海も、高いところからの景色も!」
両手を広げる。
「光が差して、空があって……いろんな景色を見たいです。先輩と!」
その言葉に、少し遅れて頷いた。
……今、なんて返すのが正しかったんだろう。
「あ! あと、いろんなもの食べたいです!」
……ひとつじゃない。
思わず、吹き出した。
「一つだけって言いましたよね」
「えへへ」
笑う。
つられて、私も笑う。
何がおかしいのか分からないまま。
ただ、笑った。
笑っているのに、胸の奥がじくじくと痛んだ。
息を吸うたびに、少しだけ引っかかる。
苦しいわけじゃない。
でも、楽でもなかった。
ひとしきり笑ったあと。
エルネは焚き火へと視線を戻した。
「先輩、串、回してください」
立ち上がる。
言われるままに、串を持つ。
焼けた肉。
皮はなく、頭もない。
ただの肉。
脂が垂れ、炎に落ちる。
バチッ、と弾ける音。
その火の粉が。
肩に触れた。
――痛い。
その感覚だけが、やけに鮮明だった。
ここにいれば、
何も失っていないままでいられる。
彼女みたいに、無邪気なままで。
戻らなくてもいい。
――戻りたくない。
そう思った瞬間、
目が開いた。
息を吸う。
体を起こす。
暗い。
見慣れた天井。
宿の、自分の部屋だった。
静寂。
焚き火の音は、もうどこにもなかった。