風の氏族の末娘は、冒険者を知らない   作:ほてぽて

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25話後編 たたそこにいたから 

 

 

 夜だった。

 

 静かすぎる夜だった。

 

 目を開けたとき、最初に感じたのは暗さではなく――音の無さだった。

 

 そっと、左肩に触れる。服の上から撫でると、じん、と遅れて痛みが滲んだ。

 

 動かすと、沁みるように広がる。

 

 生きている、という感覚だけが、そこにあった。

 

 ……いつの間に、寝ていたのだろう。

 

 ぼんやりとした意識が、ゆっくりと浮上してくる。水の底から上がるように、思考が一つずつ形を取り戻していく。

 

 ベッドの上だった。

 

 体を起こすと、ふわりと匂いがした。髪か、布か、分からない。ただ、自分の匂いだった。

 

 落ち着かない。

 

 理由の分からない違和感だけが、胸の奥に引っかかっている。

 

 ベッドの脇に落ちていたポーチを拾い上げる。無意識に手を入れ、取り出したのはポーションだった。

 

 蓋を開けて、一気に飲み干す。

 

 どろりとした液体が喉を通る。苦味が舌に残る。

 

 ……持っていた。

 ずっと、持っていたのに。

 

 使うことも、存在すらも、頭から抜け落ちていた。

 

 今になって思う。

 あのとき、これを使っていれば――

 

 そんなもしもが、遅れて浮かんでくる。

 

 約束も……全部、忘れていた。

 

 いや、違う。

 

 忘れたのではなく、考える余地がなかった。

 

 奪われていた。

 

 思考も、感情も。

 

 あのときの私は、それどころじゃなかった。

 

 エルネに、謝らないと。

 

 夢の中で勝手に約束を使って、一緒に食べたなんて言ったら――きっと怒る。

 

 でも。

 

 そのあと、笑う気もした。

 くだらないって。

 そんなことで、笑い合えるような。

 

 ――そのはずなのに。

 

 そこで、思考が止まる。

 

 違和感。

 

 もう一つ。

 

 目が覚めたとき、聞こえなかった。

 

 あの音が。

 

 扉を叩く、遠慮のない、あの音が。

 

 夜だから……?

 

 いや、それでも、おかしい。

 

 それが、言葉になる。

 

「エルネが、いない?」

 

 確証はない。

 けれど、分かる。

 

 これまでの彼女を思えば、分かる。

 

 あの子は来る。

 必ず、来る。

 私のところへ。

 

 だから――

 いないのは、おかしい。

 

 ひどく落ち着かないような。

 胸の奥がぽっかりと穴のあいたような……。

 

 考えすぎたもしれない。

 静かすぎて思考が悪い方へと考える。

 

 いいや、誰も来ない夜は、こういうものだったかもしれない。

 

 ランタンに火を灯す。淡い光が部屋を照らす。

 

 その光の中で、自分の身体を見下ろす。

 

 ……違う。

 着ている服が。

 

 見覚えがない。

 

 少し大きい。袖が長く、スカートも余っている。

 

 おばさんのものだろうか。

 

 血まみれだったはずだ。

 

 洗うために着替えさせてくれたのかも知れない。

 

 記憶がない。

 

 抱きしめられて――

 そのあとが、ない。

 

 まるで、そこだけ切り取られたみたいに。

 

 空白。

 

 氏族の者が泣くなんて知られたら、笑われる。

 情けないと。

 

 恥だと。

 

 そう思うのに。

 何も、軽くならない。

 

 むしろ、重いままだ。

 

 それでも、体は動く。

 考えるより先に。

 

 ポーチとランタンだけを持つ。

 

 杖には手を伸ばさなかった。

 ……今は、持たなくていい気がした。

 

 持つ理由が、思いつかなかった。

 

 ナイフも持たないまま、部屋を出た。

 

 廊下は静かだった。

 

 カウンターの方にだけ、明かりがある。

 

 おばさんは、起きているはずだ。

 

 ……でも。

 

 足は、そちらへ向かなかった。

 

 エルネの部屋の前で止まる。

 

 扉の前。

 

 手を上げる。

 

 止まる。

 

 今日は、来ていないのかもしれない。

 

 珍しい、とは思う。

 

 けれど、ずっと一緒にいるわけでもない。

 

 狩りに出て、そのまま家に戻る日だってあるはずだ。

 

 いや、それでもいい。

 

 コンコン。

 乾いた音が、二つ。

 

 返事はない。

 気配も、ない。

 

 手が、勝手に動く。

 

 扉を開ける。

 ギィ、と軋む音。

 

 暗い部屋。

 誰もいない。

 

 ベッドに膨らみもない。

 荷物もない。

 

 空室。

 

 ただの、空いた部屋。

 

 ……いない。

 いない。

 エルネは、いない。

 

 ……やっぱり、帰ったんだ。

 

 今日は遅かったんだ、疲れていたはずだ。

 

 わざわざ私のところに来る理由もない。

 

 そう思うと、少しだけ安心する。

 

 扉を閉める。

 

 中を、もう一度だけ見ることはしなかった。

 

 思考が離れる。

 

 昼のことから。

 

 逃げるように。

 

 カウンターへ向かう。

 

 ギシ、と床が鳴る。

 

 ランタンを消す。

 

 明かりの中に入る。

 

 足取りが、少しだけ慎重になる。

 

 理由は分からない。

 

 恥ずかしいのかもしれない。

 

 居心地が悪いのかもしれない。

 

 自分でも分からない。

 

 もう一歩。

 

 視線を向ける。

 

 ――いない。

 いない。

 

 ……少しだけ、ほっとした。

 

 今は、誰とも話さなくていい。

 

 少し待つ。

 

 椅子に座る。

 

 静寂。

 

 奥から、わずかな物音。

 

 それだけ。

 

 窓の外を見る。

 

 夜。

 

 誰もいない。

 

 いつもいるはずの人影もない。

 

 静かすぎる。

 

「もう大丈夫なのかい?」

 

 声。

 

 振り返る。

 

 おばさんが立っていた。

 

 布巾で手を拭きながら。

 

「はい。もう平気です」

 

 言ってから、自分で思う。

 

 本当に?

 

 分からない。

 

「あの、服をありがとうございます」

 

「いーよ、そんなの。昔のやつだしね。もう着れないし」

 

 軽く笑う。

 

 それを見て、自分の格好を見る。

 

 少しおしゃれで、場違いで。

 

 袖が余る。

 

 子供みたいだ。

 

 ……あの場所にいたのも、この腕だった。

 

 無意識に袖をまくる。

 

 その動作が、やけに小さく感じた。

 

「あの、エルネさんは宿に来ましたか?」

 

 確認だった。

 部屋を見れば、いないことは分かっている。

 それでも、口に出さずにはいられなかった。

 

「今日は見てないよ? 昨日は一度も会わなかったのかい」

 

 一度も、会っていない。

 

 その言葉は、胸の奥に静かに沈んでいった。

 波も立たず、ただ重く、底に落ちていくように。

 

 今日会えなかっただけなら、ミアレとすれ違う日と同じだ。

 けれど、それとは違う。

 

 約束をしていた。

 それを、自分が守れなかった。

 

 それが、引っかかっている。

 

「会えてないです」

 

 少しだけ、声が遅れる。

 

「私が約束の場所に行けなかったから……きっと、今頃、エルネさんは怒っていると思います」

 

 おばさんは、はぁ、と小さくため息をついた。

 手を腰に当てて、少しだけ呆れたように笑う。

 

「そういう時はね、ごめんなさいって謝るんだよ」

 当たり前のことを、当たり前に言う。

「今日はもう遅い。明日にしな。それより、お腹は空いてないかい?」

 

 お腹。

 

 ……空いていない。

 

 正確には、食欲がない。

 

「食欲がないです」

 

「今日はいいです。結構です。ありがとうございます」

 

 そう答えると、おばさんは少しだけ眉を下げた。

 

「そうかい」

 

 無理には勧めない。

 けれど、引くわけでもない。

 その距離が、少しだけ居心地が悪かった。

 

 おばさんは、優しい。

 

 なぜだろう。

 

 優しくされる理由が分からない。

 

 私が、誰かも、何をしに来たのかも知らない。

 それでも、ここに置いてくれる。

 

 理由が、あるはずだ。

 

 ――ああ。

 

 お金だ。

 

 最初に渡した金貨。

 それが、理由。

 

 なぜだろう。

 

 理由がないものは、あとで何かを求められる。

 そのはずだ。

 

 先に払ってしまえばいい。

 そうすれば、これは支払い済みになる。

 

 ミアレも、エルネも、

 杖を拾って売った冒険者も、

 バルクもロニオも、酒を飲んでいる男たちも、

 癒し手も、調合師も。

 

 みんな。

 

 お金だ。

 

 それが価値で、基準で、理由。

 

 私は黙ってポーチに手を入れる。

 中から硬貨袋を取り出し、金貨を四枚、取り出した。

 

 四枚。

 

 この四枚は、できれば手放したかった。

 

「あの、これで……もう少し泊まれますか? エルネの分も一緒に、宿代にできますか?」

 

 差し出すと、おばさんは一瞬だけ目を丸くした。

 けれどすぐに、いつもの調子で頷く。

 

「エルネちゃんの分もかい? 太っ腹だねぇ。いいよ、日数は延ばしておくから。会ったら伝えとくよ」

 

 それでいい。

 

 誰かの優しさも、怒りも、悲しみも。

 全部、その裏にあるのは、お金。

 

 そう思えば、納得できる。

 

 四枚の金貨。

 それが何の価値なのかは、はっきりしない。

 

 人の命か、オークの価値か。

 どちらにせよ、重いものだ。

 

 それを手放すと、少しだけ楽になった気がした。

 

 けれど――消えたわけではない。

 

 記憶として。

 重しとして。

 そのまま残る。

 

「ちょっと待ってなさい。そこで座ってなさい」

 

 言われるまま、椅子に座る。

 

 ポーチの口を開けて、閉じて。

 指先で中を探る。

 それだけで、少しだけ時間が進む。

 

 やがて、おばさんが戻ってきた。

 

 手には、木彫りのカップ。

 見覚えのある、無骨なもの。

 

 中には、白く濁ったスープ。

 湯気が、ゆらりと立ち上っている。

 

「ポタージュだよ。これくらいは食べな」

 

 スプーンをこちらに向けてくる。

 

 食欲は、ない。

 

 けれど、断る理由もなかった。

 

 差し出されたものを拒む方が、後悔しそうだった。

 

 スプーンを持ち、一口すくう。

 

 とろりとした質感。

 それを、口に運ぶ。

 

 芋の味。

 塩気は、ベーコンだろうか。

 

 ――食べられる。

 

 家で食べていたスープの方が、ずっと美味しかった。

 濃くて、甘くて、口に残る味。

 

 それと比べれば、これは薄い。

 

 美味しいはともかく、食べられる。

 

 それだけのはずだった。

 

 なのに、喉を通るたびに残るのは味ではなく、温かさ。

 味はすぐに消えるのに、それだけが体の中に残っていく。

 

 ……エルネは、まだ怒っているだろうか。

 

 もしここにいたら、このスープをどう思うだろう。

 

 そんなことを考えて、すぐに打ち消す。

 今は関係ない。

 

 顔を上げる。

 

 おばさんの目と合う。

 

 優しい目。

 

 それを見て、視線を逸らした。

 

 一口。

 また一口。

 

 ……あたたかい。

 

 それだけが、確かだった。

 

 手が止まる。

 

「おばさんは、どうして……私に優しくするんですか?」

 

 言葉が、出た。

 

「みんな、お金が欲しくて関わってくるんですか?」

 

 視線を上げる。

 

 自分が何を言っているのか、分かっている。

 

 おばさんはすぐには答えなかった。

 

 布巾を畳み、手を拭き、

 それから、こちらを見る。

 

「……半分は、そうだね」

 

 否定しなかった。

 

「うちは宿屋だよ。部屋も出すし、ご飯も出す。そりゃあ、お金はもらうさ。もらわなきゃ続かない」

 

 当たり前のことを、当たり前に言う。

 でも、その声は少しだけ柔らかかった。

 

「優しくしてるように見えるのも、まぁ……商売のうちって言われたら、そういう面もあるかもしれないね」

 

 少しだけ肩をすくめる。

 

「愛想が悪い宿より、感じのいい宿の方が人は来るからさ」

 

 そこで一度、言葉が切れる。

 

「でもね」

 

 ほんの少しだけ、声の温度が変わる。

 

「それだけじゃ、やってられないんだよ」

 

 少しだけ、声が変わる。

 視線が、私の包帯に落ちる。

 

「お金のためだけなら、あんたみたいな子は放っておくさ」

 

 少しだけ苦笑する。

 

「血まみれで帰ってきて、泣きもせずに立ってるような子なんてね」

 

「そういうの見て、はい、金貨もらったから終わりです、なんてさ」

 

 首を横に振る。

 

「できる人もいるかもしれないけど、私は無理だね」

 

 少しだけの、間。

 

「……見ちゃったらさ」

 

 短い言葉のあと、少しだけ視線を外した。

 

「放っとく方が、あとで面倒なんだよ」

 

 軽く言う。でも、その声は誤魔化しきれていないような感じがしていた。

 

「寝る前に思い出すし、顔も浮かぶし、あのままでよかったのかねって考える」

 

 軽い言い方。

 でも、少しだけ、重い。

 

「寝る前に思い出すしね。あれでよかったのかって」

 

「そういうのが、ずっと残るくらいならさ」

 

 一度、リュシアを見る。

 

「ちょっと世話焼いて、あんたがちゃんと寝て、朝起きて、まぁ生きてるかって顔してくれた方が、よっぽど楽なんだよ」

 

 小さく笑う。

 

「結局、自分のため」

 

「……それに、ここはそういうの、何度も見てきてる場所だからさ」

 

「全部に手は出せないよ。助けきれないのも山ほどある」

 

 淡々とした言い方で続ける。

 

「でも、手が届くとこくらいはね」

 

 ふっと息を吐く。

 

「見なかったことにするほど、器用でもないし」

 

 リュシアの方へ、ほんの少しだけ顎を引く。

 

「だからさ」

 

「なんで優しくするのか、なんて、そんな大層な理由はないよ」

 

「そこにあんたがいたからだよ」

 

 ――その言葉を聞いたとき。

 

 手が、止まっていた。

 

 スープをすくう。

 口に運ぶ。

 

 あたたかい。

 

 それだけ。

 

 もう一度、すくおうとして。

 手元が、少しずれる。

 

 カツ、と小さな音。

 それが、やけに大きく響く。

 

 息を吸う。

 

 うまく、吸えない。

 

 喉が、引っかかる。

 

 視界が、滲む。

 おばさんの背中が、歪んで見えた。

 

 ……おかしい。

 

 熱い。

 顔に当たる湯気のせいかと思った。

 

 でも違う。

 それは外側からじゃない。

 

 内側から、にじんでいる。

 

 目を閉じて、開く。

 

 変わらない。

 

 手に力を込める。

 震えてはいない。

 

 ただ、うまく動かない。

 

 もう一口。

 ゆっくり、運ぶ。

 

 飲み込む。

 

 ……あたたかい。

 

 そのまま受け取ってしまうことが、

 どうしてか、苦しかった。

 

 

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