瞼の裏は暗くて、何も見えない。
何も見えないはずなのに、夢はそこに何かを映し出すものだ。
楽しい夢も、悲しい夢も、誰かが出てくる夢も。
けれど、その夜は違った。
スープを飲んだあとの、体の奥に残る熱。
ベッドの布に包まれた感触。
その中にも、わずかに残る柔らかな温もり。
それだけを感じたまま、意識は落ちていた。
このまま眠れば、朝が来る。
そうすればきっと、いつも通りの朝が来る。
そんなふうに思っていた。
――夢はなかった。
気づけば、時間だけが抜け落ちている。
眠ったはずなのに、眠った実感がない。
それでも体は、勝手に起きようとしている。
ゆっくりと目を開けると、窓の向こうから薄暗い光が差し込んでいた。
ボタボタ、と音がする。
水が落ちるような音。
叩きつけるような、細かく連なる音。
ザァザァと続くその音を聞いていると、不思議と気持ちが静かになる。
……雨だ。
少し考えてから、ベッドを降りる。
冷えた床を踏みしめながら窓へ歩み寄り、外を覗き込む。
空は重たく、雲は低く垂れ込めている。
雨は細かく降り続き、景色全体が白くぼやけて見えた。
風にあおられた水滴が窓ガラスに当たり、張り付いていく。
その水滴は、周りの滴を巻き込みながら大きくなり、ゆっくりと下へ流れていく。
端まで辿り着くと、見えなくなる。
その繰り返しを、しばらく眺めていた。
朝に聞きたかった音ではない。
けれど、これも悪くはない――そう思えた。
……ほんの一瞬だけ。
「ああ、そうだ」
小さく息を吐く。
これでは外に出られない。
冒険も、依頼もできない。
冷たい雨の中をずぶ濡れで動くのは無茶だ。
そんなことをして体調を崩したら、本末転倒だ。
それは、あまりにも馬鹿馬鹿しい。
ため息がこぼれる。
視線を落とすと、服が目に入った。
おばさんの服。
着れないからと言っていたあれを、そのままもらっていいのだろうか。
そんなことを、ふと思う。
自分の服もあるけれど、今はおばさんに渡したままだ。
ならば、もう一度聞けばいい。
それだけのことだ。
身支度を始める。
今日は街の外へ出るわけではない。
レザー装備に手を伸ばしかけて、止まる。
……必要ない気がした。
冒険者になるために必要だと思って、手に入れたもの。
それなのに、それを着ないという選択をしている。
少しだけ、違和感があった。
まるで、自分ではないような感覚。
「……ギルドに行くだけ」
小さく呟く。
「エルネに、会うだけ」
それだけだ。
ポーチを身につける。
雨は強いが、軒先を伝えば濡れずに移動できるはずだ。
そう思いながら、部屋の中に視線を巡らせる。
壁に立てかけられた杖が目に入る。
手を伸ばし、それを掴み上げようとして止まる。
自分のものではない杖。
一瞬、胸の奥に重たいものがよぎる。
けれど、すぐに頭を振った。
違う。
今は関係ない。
考える必要はない。
部屋を出る。
雨音は、どこにいてもついてくる。
廊下を歩く音も、扉の軋む音も、どこか小さく感じる。
そのままカウンターの方へ足を進めると、おばさんがいた。
いつもと変わらない様子で、そこにいる。
「あの、この服着ててもいいですか?」
声をかけると、おばさんは顔を上げてこちらを見る。
「ああ、良いよ。他にもあるよ。可愛いんだから、小洒落た服を着ておめかししなよ」
笑顔だった。
お洒落。
その言葉が、少しだけ引っかかる。
冒険者に、お洒落。
それは何か違うような気がする。
「こんな格好で冒険は、無理があると思います」
自然と口から出る。
「長いスカートは動きやすいですけど、走るときや急な動作に足を引っ掛けてしまいます」
おばさんはそれを聞いて、ふっと笑った。
肩を軽くすくめる。
「冒険の話なんてしてないよ」
その言葉は、あまりにもあっさりしていた。
まるで最初から、噛み合っていなかったかのように。
おばさんの視線がこちらを見る。
足元から頭の先までをゆっくりと見た。
「ずっと戦ってるわけじゃないだろう? 街にいる間くらい、普通の格好しなって言ってるのさ」
少しだけ近づいてきて、髪の毛先を指で整える。
「せっかく顔立ちも悪くないんだしね。隠しとくのはもったいない」
怪訝そうな顔になる。思わず、眉を寄せた。
「隠しているつもりはありません」
「だろうねぇ」
おばさんはくすりと笑う。
「だから言ってるんだよ。あんたは分かってないんだ」
分かっていない。
その言葉に、少しだけ引っかかる。
何をだろう。
「何を、ですか?」
「男の目」
あっさりと言われた。
瞬きをひとつする。
意味は分かる。
言葉としては理解できる。
けれど――それが何を指しているのかが、はっきりしない。
「必要なこと、ですか?」
素直にそう返す。
おばさんは一瞬きょとんとして、それから小さく吹き出した。
「必要かどうかで考えるあたりが、あんたらしいねぇ」
腰に手を当てて、少し考えるように視線を上げる。
「そうだねぇ……まぁ、なくても生きてはいけるさ」
少しだけ声の調子が変わる。
「まぁ、それがあると、楽になることもある」
思わず、首をかしげた。
楽になる。
それは、どういう意味だろう。
「助けてもらいやすくなるとか、優しくしてもらえるとか。そういうのさ」
「……お金と同じですか?」
すぐに出た言葉だった。
おばさんは一瞬だけ黙ってから、苦笑した。
「似てるようで、ちょっと違うね」
完全には否定しない。
「金は分かりやすいだろう? 払えば終わり」
「でも、そっちはね……終わらないことが多い」
顔を傾げ、おばさんを見る。
終わらない。
その言葉が、少しだけ残る。
意味は分かるはずなのに、
どこで終わるのかが分からないものを、
どう扱えばいいのかが分からない。
…。
「なら、関わらないほうがいいです」
即答した。
おばさんは、少しだけ笑みを引っ込めた。
「……まぁ、そう思うよねぇ」
否定はしない。
「私も若い頃はそうだったよ」
ぽつりと言う。
「でもね」
少しだけ視線を逸らす。
「関わらないで済むなら、誰も苦労しないんだよ」
また私を見る。
「気づいたら、関わってるもんさ」
それから、少しだけ優しい目になる。
「あんたみたいなのはさ」
言葉を選ぶように、ゆっくりと続ける。
「変なとこで損するんだよ」
「損ですか?」
「そう」
指先で額を軽くつつかれる。
特に何とも思わなかった。
「それでも、面倒だからって全部避けてたらさ」
「気づいたときには、何も残ってないかもしれないよ」
その言葉をそのまま受け取る。
「……必要なら、覚えます」
「使えるなら、使います」
おばさんは少しだけ目を細め、それから、ため息のように息を吐く。
「そういうもんじゃないんだけどねぇ」
小さく笑う。
「まぁいいさ。今はそれで」
おばさんに手を引かれて、裏手に連れられる。
そこで、棚からもう一着、服を取り出す。
少し柔らかい色合いのものだった。
「ほら、着てみな。似合うかどうかくらいは、見てやるよ」
差し出された。
柔らかな手触りと少しだけ軽い、その布の感触。
それを確かめるように受け取る。
どう見ても、機能性は低そうに見える。
けれど。
――さっきのスープと同じで。
理由の分からないまま、拒む理由もなかった。
「……分かりました」
そう言って、小さく頷いた。
服を受け取って、しばらく見つめる。
布は柔らかくて、軽い。
色も、今まで着ていたものより少し明るい。
「裏で着替えておいで」
言われて、頷く。
言われるままに、奥へ回る。
人目のないところで、今の服を脱いでいく。
少しだけ冷える空気。
包帯の巻かれた部分に触れないように、ゆっくりと腕を通す。
――軽い。
思っていたよりも、ずっと。
袖は少し長くて、手の甲にかかる。
裾口も少し広がっていて、動くたびに布が揺れる。
鏡のようなものはない。
けれど、感覚だけでも分かる。
今までと違う。
襟元が少し開いていて、首元がスウスウとする。
動くと、胸元の布がわずかに遅れてついてくる。
なんだろう……落ち着かない。
手で軽く押さえる。
スカートに視線を落とす。
膝が出ている。
動けば、もっと上がるだろう。
少しだけ、足を閉じる。
無意識だった。
――昔。
もっと飾られた服を着せられていたことを思い出す。
色のついた布。
重たい装飾。
動くたびに揺れるドレスのようもの。
綺麗だったと思う。
でも、それは――
自分で選んだものではなかった。
誰かに整えられて、
誰かに見られるための形にされていた。
そのときの、あの感じ。
少し、似ている。
こそばゆいような。
落ち着かないような。
どこに手を置いていいか分からない感覚。
服を、軽く引っ張る。
裾を下げるように。
意味はないと分かっているのに。
足を揃えて、少しだけ内股になる。
それも、意識していない動きだった。
――これで、いいのだろうか。
外に出る前に、少しだけ迷う。
でも、言われたから。
そのまま戻る。
おばさんは、振り返って私を見る。
一瞬、目を丸くしたと思えば、にやりと笑う。
「ほら見な、やっぱり似合うじゃないか」
私は少しだけ視線を逸らす。
「……動きにくいです」
「戦う格好じゃないって言ったろう?」
くるりと一周するように手で促される。
一瞬、ためらって。
でも、そのまま、ぎこちなく回る。
裾が、遅れて揺れてくる。
その感覚が、少しだけ変だった。
「いいねぇ」
おばさんは満足そうに頷く。
「これなら、そこらの男も放っておかないよ」
その言葉に、動きが止まる。
「あの、それはどういう意味ですか?」
振り返ったまま、聞く。
「そのまんまの意味さ」
「可愛いってことだよ」
可愛い。
また、その言葉。
それが、今の自分に向けられている理由が分からない。
それは、誰かに向ける言葉のはずで、自分に向けられるものではない気がした。
「これも、必要、ですか?」
また同じ言葉が出てしまう。
「ま〜た、それかい」
少しだけ、近づいてくる。
「必要かどうかで言えば、これも別にいらないさ」
肩を軽く叩く。
「そうやって見られるってことはさ、何かしら、引っかかってるってことだ」
黙る。
考えるけれど、わからない。
さっきよりも少しだけ、落ち着かない気がして視線が、自分に向く。
そういうことを言っているのだと、なんとなく分かる。
――それは。
いいことなのか。
悪いことなのか。
これもわからない。
胸元を、もう一度軽く押さえる。
「……」
言葉が出ない。
おばさんは、その様子を見て少しだけ柔らかく笑った。
「まぁ、今は分からなくていいよ」
手をひらひらと振る。
「そのうち嫌でも分かる」
「ほら、気に入らないなら着替えてもいいさ」
そんなふうに言った。
少しだけ、間。
服を見下ろした。
悪くはない。
むしろ――
少しだけ、楽しいと感じている。
動くたびに揺れる布。
軽さ。
違う自分になったような感覚。
でも、胸の奥に残る、引っかかり。
視線。
意味の分からない可愛い。
それが、落ち着かない。
このままでもいい気がした。
でも、このままでいる理由が分からなかった。
私は言われた通り裏に戻って、服を脱ぐ。
さっきよりも、少しだけ早く。
元の着ていたおばさんの服に袖を通す。
重さ。
硬さ。
それが――落ち着く。
さっきの服を畳む。
少しだけ丁寧に。
理由は分からない。
戻ると、おばさんがちらりと見る。
何も言わない。
ただ少しだけ、口元が緩んでいた。
そんなやり取りをしているあいだも、雨は止む気配を見せなかった。
カウンターの前に戻り、ポーチに手を入れる。中の重さを確かめるように軽く揺らし、指先で硬貨袋の感触をなぞる。ナイフもある。柄の感触が指に伝わった。
それだけで十分だと思った。
準備を終え、扉の方へ視線を向ける。
その背中に、声がかかる。
「こんな雨降りなのに出かけるのかい?」
振り返る。
「街の外には行きません。ギルドに、エルネがいるかもしれないので、会っておきたいんです」
自分で言いながら、考える。
こんな雨の中だ。いるとは限らない。むしろ、いない可能性の方が高いだろう。行かなくてもいい理由ならいくつも思い浮かぶ。
それでも。
それは、行かない理由にはならなかった。
「ちょっと待ってな」
おばさんはそう言って、小さくため息をつくと、裏へ引っ込んでいった。
言われた通り、その場で待つ。
雨音が、変わらず屋根や窓を叩いている。一定のリズムで続くその音は、どこか落ち着くようでもあり、同時に外へ出ることを拒んでいるようでもあった。
やがて、おばさんは戻ってきた。
その手には、見慣れない外套があった。
黒く、まだら模様のあるそれは、濡れた革のような光沢を帯びていて、わずかに光を弾いている。
思わず首を傾げる。
また、さっきのような服かと思った。けれど違う。これは、着飾るためのものではない。
それに——どこか、見覚えがある。
「これを羽織ってお行き」
有無を言わせない調子で差し出される。
断る理由が思い浮かばず、自然と手が伸びた。
触れた。
外側は滑らかで、水を弾くような手触り。内側は少しざらついていて、布とは違う、どこか引っかかる感触があった。
二度、三度と撫でる。
初めて触ったはずなのに、妙な既視感がある。記憶に、まだ新しい感触。
「スライムドレイクって知ってるかい?」
おばさんが軽く言う。
「水の中にいる小さなドラゴンの皮で出来たものだよ。水は弾くし、丈夫だ。それを上に羽織っていけば、雨なんかへっちゃらだよ」
スライムドレイク。
その言葉で、はっきりと思い出す。
沼沢地。濁った水。腕を掴まれ、引きずり込まれそうになったあの感触。噛みつかれた痛み。
あのトカゲだ。
それが、これ。
肉なら食べられると思っていた。けれど、こうして別の形になるとは考えたこともなかった。
指先で外套を撫でる。
――なんて、ザマァないこと。
あんなことをしたのだから、こうなって当然だ。
自分に噛みついた個体ではないと分かっていても、そう思った。
広げてみる。
膝丈ほどまである大きさ。頭を覆うフードもついている。
大きい。
少し息を呑んだ。
「大きい……こんな大きいトカゲ、いるんですか……?」
おばさんは少しおかしそうに笑った。
「そりゃあ、あんた。数匹の皮を継ぎ接ぎにしてるんだよ。そんなでっかいのが一匹でいるわけないだろう?」
なるほど、と納得する。
考えすぎだ。
ただ、あの時の感覚が少し残っているだけだ。
情けない。
外套をもう一度見て、それから口を開く。
「あの、これは、いくらですか?」
自然と出た言葉だった。
おばさんは軽く肩をすくめる。
「貸しとくよ」
あっさりとした言い方だった。
「返したい時に、また返してくれればいいさ」
まただ。
雑貨屋の袋の時と、同じで終わりがない。
その言葉が一瞬、頭をよぎる。
返す。
何を返せばいいのか、考える。
金貨か、それとも別の何かか。
思い浮かんだのは、違う言葉だった。
――ありがとう。
エルネが、あのとき言っていた言葉。
おじさんに向かって、私に向かって、言わせようとしていた言葉。
言葉が、喉に引っかかる。
それでも、押し出すように言った。
ゆっくりと、口にする。
「ありがとう、おばさん」
言った瞬間、胸の中に小さな変化があった。
何かが少しだけ、ほどけるような感覚。
それだけで、何か返せたような気がした。
外套に袖を通す。
肩から背中、そして頭まで包まれていく。
軽い。
思っていたよりもずっと、動きやすい。
おばさんが近づいてきて、前を閉じる紐を結ぶ。慣れた手つきだった。
その動きに、ふと別の記憶が重なる。
家で、服を整えてくれていた人。
名前を思い出しかけて、やめる。
元気にしているだろうか、とだけ思った。
すっぽりと外套に包まれる。
袖口は少し大きく、指先が少しだけ顔を出している。
少しだけ、大きい。
「おばさん、行ってきます」
そう言って、扉の方へ駆け出す。
扉を開けるとチリン、と呼び鈴が鳴った。
「いってらっしゃい」
背中にかかる声は、やわらかかった。
ゆっくりと扉が閉じていく。
暖かな空気が、向こう側に残る。
パタン、と音がして、それは遮られた。
外に出る。
雨は変わらず降っていた。
外套に当たる音が、少し違う。
肩に当たる雨の感触が、ない。
その代わりに、柔らかく弾く音だけが残る。
冷たいはずの雨は、直接は触れてこない。
濡れていない。
それだけのはずなのに。
少しだけ、違って感じた。
それでも。
雨は、いつまでも変わらず降り続いていた。