風の氏族の末娘は、冒険者を知らない   作:ほてぽて

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26話中編 濡れなかった理由

 

 

 ザァザァ、と雨音が街全体を覆っていた。

 

 屋根から落ちる水が、ポタポタと規則的な音を刻む。

 石畳を叩く雨粒は細かく弾け、どこか遠くでまとまった水が流れ落ちる音も混ざっていた。

 

 そして、頭上。

 外套に降り注ぐ水滴が、ボタボタと鈍く響く。

 

 それらすべてが、奇妙な静けさの中にあった。

 

 喧騒ではない。

 かといって、無音でもない。

 

 ただ、均一に満ちた音だけがある。

 

 ――静かだ。

 

 足を踏み出す。

 パシャン、と水溜りを踏み抜いた。

 

 石畳の隙間には水が溜まり、細い流れとなって道の低い方へと流れていく。ところどころにできた水溜りは、空を映しながら揺れていた。

 

 気にはならなかった。

 

 レザーブーツの中に水が染み込むこともない。

 むしろ、泥で汚れていた靴の表面が洗い流されていくのを、どこか都合よく感じていた。

 

 もう一歩、踏み込む。

 パシャン、と水を蹴る。

 

 今の自分は、濡れない。

 おばさんから借りた一枚の外套。中におばさんの匂いが、わずかに残っている。

 それだけで、雨の中を歩くことが問題にならない。

 

 その事実が、ほんの少しの余裕を生んでいた。

 

 そして――

 

 どこかで、楽しいとさえ思っている自分がいる。

 

 無邪気な感覚だった。

 雨は、本来なら外に出るものではない。

 

 出られないわけではない。

 ただ、昔から語られてきたものがある。

 

「雨に直接触れる子には、邪気がつく」

 

 誰もが口にする言葉だった。

 

 母も、そう言っていた。

 

 小さい頃の記憶が、ふと浮かぶ。

 

 あのとき、自分はその言いつけを守らなかった。

 

 雨の中へ出た。

 濡れた。

 それでも――何も起きなかった。

 

 少なくとも、その瞬間には。

 

 むしろ、楽しかった。

 

 雨が肌に当たる感覚。

 服が水を吸って、体にぴったりと張り付くあの感じ。

 

 湯浴みとも、水浴びとも違う。

 ただ冷たいだけではない、不思議な心地よさがあった。

 

 何もかもが新しくて、ただはしゃいでいた。

 

 けれど、姉に見つかった。

 すぐに母に知られて、捕まった。

 

 傘を差して駆けてきた母の顔は、どこか心配そうで、でも少しだけ厳しかった。

 

 手を引かれて、屋内へ戻る。

 

 そのときの温度差を、今でも覚えている。

 

 外の冷たさと、内のぬくもり。

 部屋に入ると、冬用に使うぬいぐるみが出された。

 中に湯たんぽを入れるものだった。

 

 それを抱かされる。

 

 母の腕の中に収まる。

 

 じんわりと、体の内側に熱が広がっていく。

 

 遊んだ疲れもあったのだろう。

 そのまま、強い眠気に引き込まれていった。

 

 お手伝いの人が、甘くて温かいスープを持ってきてくれた。

 

 口に運ばれるそれを、ぼんやりとした意識の中で飲んでいた。

 

 そのとき、母は言った。

 

「言いつけを守れない子は、ひどい罰が返ってきますよ」

 

 その言葉の意味が、分からなかった。

 

「かあさまは、わたしになにかするんですか?」

 

 そう聞いた。

 

 母は、小さく首を振った。

「私は、何もしませんよ」

 

 分からなかった。

 

 罰なんて、なかった。

 けれど、その言葉だけが少し怖かった。

 

 その時は優しくされて、温かくされて、ただ眠っただけだった。

 

 けれど。

 

 次の日、体調を崩した。

 

 体は熱を持ち、動くこともできなかった。

 頭がぼんやりとして、ひどく辛かった。

 

 誰かがそばにいないと、不安で仕方なかった。

 母も、姉も、お手伝いの人も、何度も様子を見に来てくれた。

 

 その中で、姉が言った。

 

「雨に濡れて罰が当たったんだよ、リア」

 

 その言葉を、今でも覚えている。

 

 パシャン、と足音が響き。

 現実に戻る。

 

 ギルドへ向かう道を歩いている。

 

 雨は変わらず降り続いている。

 

 でも今は――濡れていない。

 外套が、すべてを弾いている。

 

 雨は、触れてこない。

 

 あのときとは違う。

 罰は、来ないのだろうか。

 

 そう思って、すぐに考えをやめる。

 

 分からないことを考えても仕方がない。

 

 足を進めると、ギルドの建物が見えてくる。

 

 扉の前で、一度だけ立ち止まる。

 外套の端から滴る水が、石畳に落ちて小さな音を立てた。

 

 手を伸ばす。

 濡れた指先で、扉に触れる。

 

 そのまま押し開けた。

 外の音が一瞬だけ強くなり、次の瞬間、遮断される。

 

 内側の空気が、わずかに温かかった。

 

 ギルドの扉を押し開けた瞬間、鼻につく独特の匂いが流れ込んできた。酒と汗と革と鉄の混ざった、いつもの空気。けれど今日は、そこにわずかな湿り気が混じっている。外の雨が、そのまま染み込んできたようだった。

 

 室内は魔石灯に照らされている。昼のはずなのに、厚い雲が光を遮っているせいで、どこか薄暗い。光はあるのに、晴れた日のような開けた感じはない。ぼんやりとした明るさの中で、人影がゆっくりと動いている。

 

 人は少なかった。

 

 動く気がないのか、それとも外に出る気がないのか。椅子に腰を下ろしたまま、酒をあおる者、机に肘をついてぼんやりしている者。どこか全体が沈んでいる。

 

 外套を羽織ったままの私は、その中に紛れ込むように立っていた。

 

 ……少しだけ、安心する。

 

 昨日、ここで騒ぎを起こしたのは自分だ。あれだけ目立てば、顔を覚えられていてもおかしくない。けれど今は、この外套がある。フードを深くかぶれば、顔も輪郭も曖昧になる。

 

 裾を軽く引き、視界を狭めるようにかぶり直す。

 

 隠れている。

 

 そう思えた。

 

 ――その分、誰も見ていない気もした。

 

 何人かの視線がこちらに向いたが、それはすぐに逸れていく。興味を持たれるほどでもない。雨の日の、ただの外套姿のひとり。

 

 その事実に、小さく息をついた。

 

 肩から水滴を払う。ぱらぱらと床に落ちる音が、やけに静かに響いた。

 

 歩き出し、空いている椅子を選ぶ。誰とも隣り合わない場所。自然と、そういう席を選んでいた。

 

 腰を下ろす。

 

 外套の中にこもった熱が、じわりと肌にまとわりつく。思っていたよりも暖かい。胸元から湿った空気が立ちのぼる。

 

 指先で布を摘んで、ぱたぱたと揺らす。空気を逃がす。

 

 もう一度、周囲を見渡した。

 

 冒険者たち。若い者もいれば、年を重ねた者もいる。朝から酒を飲んでいる者。笑っている者。黙っている者。

 

 女の子も、いる。

 

 自分と同じくらいの年頃に見える者も。

 

 けれど――

 

 ミアレも、エルネも、いなかった。

 

 視線を止めたまま、少しだけ間が空く。

 

 ……ミアレ。

 

 あのとき、どうして。

 

 頭の中で、言葉が浮かんでは消える。

 

 避けられた。

 

 そう思えば、それで終わる。処理としては簡単だ。

 

 嫌われた。

 

 それでいいはずなのに。

 

 ――なぜ?

 

 その一点だけが、引っかかる。

 

 あれほど一緒にと、これからもと、言葉を重ねてきたのに。寄り添うように話していたのに。それが、あんなふうに途切れる。

 

「次も一緒に行こうね」

 

 その言葉だけが、やけに残っていた。

 

 それも、あっけなく。

 

 まるで最初からなかったみたいに。

 

 頭の中で、今まで聞いてきた言葉がゆっくりと繰り返される。反芻される。どれも同じ声で、同じ温度で、同じ形のまま。

 

 それなのに。

 

 全部、嘘のように思えてしまう。

 

 ……本当は、何だったのか。

 

 聞けばいい。

 

 そうすれば分かる。

 

 けれど。

 

 どうやって?

 

 何を、どう言えばいい?

 

 嫌われているかもしれない相手に、声をかける理由はあるのか。

 

 ――ない。

 

 胸の奥に、細い棘のような痛みが走る。

 

 チクチクと、消えない。

 

 ……割り切ればいい。

 

 これはそういうものだ。

 

 冒険者は、パーティーを組む。報酬のために。成功のために。効率のために。誰と組もうが、関係ない。

 

 知らない相手と組むのも普通だ。

 

 それが当たり前。

 

 そう、頭では分かる。

 それでいいはずだった。

 

 ――そう思えないから、困っている。

 

 胸の奥に、小さな穴が空いたような感覚が残る。

 

 息が、少しだけ詰まる。

 

 ……構わない。

 

 そう言い聞かせる。

 

 私には、エルネがいる。

 

 私を見て、ついてくる後輩がいる。

 

 それでいい。

 

 それだけでいい。

 

 そう思わないと、引きずる。

 

 だから、考えるのをやめた。

 

 両手を強く握りしめる。

 

 外套の布がぐしゃりと音を立てる。

 

 まだ何もしていない。

 

 ここに来てから、何も。

 

 望んでいたような景色は見ていない。何かを成したわけでもない。

 

 このまま帰る?

 

 そんなこと、できるはずがない。

 

 何もせずに帰れば、何も残らない。

 

 兄さまの話していた武勇伝も、土産話も、ひとつも語れない。

 

 姉さまに笑われる。

 

 父さまに叱られる。

 

 氏族の者として、何も成せなかった未熟者だと。

 

 ……そして。

 

 きっと、姉さまも言われる。

 

「リュシアは最初から魔術学院に行かせていればよかった」

 

 父さまの言葉が、自然に浮かんだ。

 

 父さまはそういう人だ。理屈と結果で物を言う。結果があれば黙る。なければ切り捨てる。

 

 だから、姉さまは上を目指した。結果を出すために。

 

 そのおかげで、今の自由がある。

 

 なら。

 

 私は、何をする?

 

 視線を上げる。

 

 音が戻ってくる。

 

 ざわめき。雨音。足音。椅子の軋み。

 

 その中に、二人分の足音が近づいてきた。

 

 視界の端に影が入る。

 

 気づいたときには、向かいの席に二人の男が座っていた。

 

 躊躇もなく。

 

「お前、一人か?」

 

 片方がこちらを覗き込むように言う。

 

「なぁ、一緒に組まないか?」

 

 少しだけ間を置く。

 

 フードを深くかぶり直す。

 

 視線を合わせないまま、答えた。

 

「結構です。待っている人がいるので」

 

 淡々と。

 

 それ以上は言わない。

 

「ほかを当たってください」

 

 二人は顔を見合わせる。

 

 少しだけ身を引き、声を潜める。

 

「……女か?」

 

「だな……」

 

 小さな囁き。

 

 聞こえている。

 

 けれど、何も言わない。

 

 視線が、外套の奥を探るような。

 

 外套の奥で指を少しだけ握り直した。

 

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