ザァザァ、と雨音が街全体を覆っていた。
屋根から落ちる水が、ポタポタと規則的な音を刻む。
石畳を叩く雨粒は細かく弾け、どこか遠くでまとまった水が流れ落ちる音も混ざっていた。
そして、頭上。
外套に降り注ぐ水滴が、ボタボタと鈍く響く。
それらすべてが、奇妙な静けさの中にあった。
喧騒ではない。
かといって、無音でもない。
ただ、均一に満ちた音だけがある。
――静かだ。
足を踏み出す。
パシャン、と水溜りを踏み抜いた。
石畳の隙間には水が溜まり、細い流れとなって道の低い方へと流れていく。ところどころにできた水溜りは、空を映しながら揺れていた。
気にはならなかった。
レザーブーツの中に水が染み込むこともない。
むしろ、泥で汚れていた靴の表面が洗い流されていくのを、どこか都合よく感じていた。
もう一歩、踏み込む。
パシャン、と水を蹴る。
今の自分は、濡れない。
おばさんから借りた一枚の外套。中におばさんの匂いが、わずかに残っている。
それだけで、雨の中を歩くことが問題にならない。
その事実が、ほんの少しの余裕を生んでいた。
そして――
どこかで、楽しいとさえ思っている自分がいる。
無邪気な感覚だった。
雨は、本来なら外に出るものではない。
出られないわけではない。
ただ、昔から語られてきたものがある。
「雨に直接触れる子には、邪気がつく」
誰もが口にする言葉だった。
母も、そう言っていた。
小さい頃の記憶が、ふと浮かぶ。
あのとき、自分はその言いつけを守らなかった。
雨の中へ出た。
濡れた。
それでも――何も起きなかった。
少なくとも、その瞬間には。
むしろ、楽しかった。
雨が肌に当たる感覚。
服が水を吸って、体にぴったりと張り付くあの感じ。
湯浴みとも、水浴びとも違う。
ただ冷たいだけではない、不思議な心地よさがあった。
何もかもが新しくて、ただはしゃいでいた。
けれど、姉に見つかった。
すぐに母に知られて、捕まった。
傘を差して駆けてきた母の顔は、どこか心配そうで、でも少しだけ厳しかった。
手を引かれて、屋内へ戻る。
そのときの温度差を、今でも覚えている。
外の冷たさと、内のぬくもり。
部屋に入ると、冬用に使うぬいぐるみが出された。
中に湯たんぽを入れるものだった。
それを抱かされる。
母の腕の中に収まる。
じんわりと、体の内側に熱が広がっていく。
遊んだ疲れもあったのだろう。
そのまま、強い眠気に引き込まれていった。
お手伝いの人が、甘くて温かいスープを持ってきてくれた。
口に運ばれるそれを、ぼんやりとした意識の中で飲んでいた。
そのとき、母は言った。
「言いつけを守れない子は、ひどい罰が返ってきますよ」
その言葉の意味が、分からなかった。
「かあさまは、わたしになにかするんですか?」
そう聞いた。
母は、小さく首を振った。
「私は、何もしませんよ」
分からなかった。
罰なんて、なかった。
けれど、その言葉だけが少し怖かった。
その時は優しくされて、温かくされて、ただ眠っただけだった。
けれど。
次の日、体調を崩した。
体は熱を持ち、動くこともできなかった。
頭がぼんやりとして、ひどく辛かった。
誰かがそばにいないと、不安で仕方なかった。
母も、姉も、お手伝いの人も、何度も様子を見に来てくれた。
その中で、姉が言った。
「雨に濡れて罰が当たったんだよ、リア」
その言葉を、今でも覚えている。
パシャン、と足音が響き。
現実に戻る。
ギルドへ向かう道を歩いている。
雨は変わらず降り続いている。
でも今は――濡れていない。
外套が、すべてを弾いている。
雨は、触れてこない。
あのときとは違う。
罰は、来ないのだろうか。
そう思って、すぐに考えをやめる。
分からないことを考えても仕方がない。
足を進めると、ギルドの建物が見えてくる。
扉の前で、一度だけ立ち止まる。
外套の端から滴る水が、石畳に落ちて小さな音を立てた。
手を伸ばす。
濡れた指先で、扉に触れる。
そのまま押し開けた。
外の音が一瞬だけ強くなり、次の瞬間、遮断される。
内側の空気が、わずかに温かかった。
ギルドの扉を押し開けた瞬間、鼻につく独特の匂いが流れ込んできた。酒と汗と革と鉄の混ざった、いつもの空気。けれど今日は、そこにわずかな湿り気が混じっている。外の雨が、そのまま染み込んできたようだった。
室内は魔石灯に照らされている。昼のはずなのに、厚い雲が光を遮っているせいで、どこか薄暗い。光はあるのに、晴れた日のような開けた感じはない。ぼんやりとした明るさの中で、人影がゆっくりと動いている。
人は少なかった。
動く気がないのか、それとも外に出る気がないのか。椅子に腰を下ろしたまま、酒をあおる者、机に肘をついてぼんやりしている者。どこか全体が沈んでいる。
外套を羽織ったままの私は、その中に紛れ込むように立っていた。
……少しだけ、安心する。
昨日、ここで騒ぎを起こしたのは自分だ。あれだけ目立てば、顔を覚えられていてもおかしくない。けれど今は、この外套がある。フードを深くかぶれば、顔も輪郭も曖昧になる。
裾を軽く引き、視界を狭めるようにかぶり直す。
隠れている。
そう思えた。
――その分、誰も見ていない気もした。
何人かの視線がこちらに向いたが、それはすぐに逸れていく。興味を持たれるほどでもない。雨の日の、ただの外套姿のひとり。
その事実に、小さく息をついた。
肩から水滴を払う。ぱらぱらと床に落ちる音が、やけに静かに響いた。
歩き出し、空いている椅子を選ぶ。誰とも隣り合わない場所。自然と、そういう席を選んでいた。
腰を下ろす。
外套の中にこもった熱が、じわりと肌にまとわりつく。思っていたよりも暖かい。胸元から湿った空気が立ちのぼる。
指先で布を摘んで、ぱたぱたと揺らす。空気を逃がす。
もう一度、周囲を見渡した。
冒険者たち。若い者もいれば、年を重ねた者もいる。朝から酒を飲んでいる者。笑っている者。黙っている者。
女の子も、いる。
自分と同じくらいの年頃に見える者も。
けれど――
ミアレも、エルネも、いなかった。
視線を止めたまま、少しだけ間が空く。
……ミアレ。
あのとき、どうして。
頭の中で、言葉が浮かんでは消える。
避けられた。
そう思えば、それで終わる。処理としては簡単だ。
嫌われた。
それでいいはずなのに。
――なぜ?
その一点だけが、引っかかる。
あれほど一緒にと、これからもと、言葉を重ねてきたのに。寄り添うように話していたのに。それが、あんなふうに途切れる。
「次も一緒に行こうね」
その言葉だけが、やけに残っていた。
それも、あっけなく。
まるで最初からなかったみたいに。
頭の中で、今まで聞いてきた言葉がゆっくりと繰り返される。反芻される。どれも同じ声で、同じ温度で、同じ形のまま。
それなのに。
全部、嘘のように思えてしまう。
……本当は、何だったのか。
聞けばいい。
そうすれば分かる。
けれど。
どうやって?
何を、どう言えばいい?
嫌われているかもしれない相手に、声をかける理由はあるのか。
――ない。
胸の奥に、細い棘のような痛みが走る。
チクチクと、消えない。
……割り切ればいい。
これはそういうものだ。
冒険者は、パーティーを組む。報酬のために。成功のために。効率のために。誰と組もうが、関係ない。
知らない相手と組むのも普通だ。
それが当たり前。
そう、頭では分かる。
それでいいはずだった。
――そう思えないから、困っている。
胸の奥に、小さな穴が空いたような感覚が残る。
息が、少しだけ詰まる。
……構わない。
そう言い聞かせる。
私には、エルネがいる。
私を見て、ついてくる後輩がいる。
それでいい。
それだけでいい。
そう思わないと、引きずる。
だから、考えるのをやめた。
両手を強く握りしめる。
外套の布がぐしゃりと音を立てる。
まだ何もしていない。
ここに来てから、何も。
望んでいたような景色は見ていない。何かを成したわけでもない。
このまま帰る?
そんなこと、できるはずがない。
何もせずに帰れば、何も残らない。
兄さまの話していた武勇伝も、土産話も、ひとつも語れない。
姉さまに笑われる。
父さまに叱られる。
氏族の者として、何も成せなかった未熟者だと。
……そして。
きっと、姉さまも言われる。
「リュシアは最初から魔術学院に行かせていればよかった」
父さまの言葉が、自然に浮かんだ。
父さまはそういう人だ。理屈と結果で物を言う。結果があれば黙る。なければ切り捨てる。
だから、姉さまは上を目指した。結果を出すために。
そのおかげで、今の自由がある。
なら。
私は、何をする?
視線を上げる。
音が戻ってくる。
ざわめき。雨音。足音。椅子の軋み。
その中に、二人分の足音が近づいてきた。
視界の端に影が入る。
気づいたときには、向かいの席に二人の男が座っていた。
躊躇もなく。
「お前、一人か?」
片方がこちらを覗き込むように言う。
「なぁ、一緒に組まないか?」
少しだけ間を置く。
フードを深くかぶり直す。
視線を合わせないまま、答えた。
「結構です。待っている人がいるので」
淡々と。
それ以上は言わない。
「ほかを当たってください」
二人は顔を見合わせる。
少しだけ身を引き、声を潜める。
「……女か?」
「だな……」
小さな囁き。
聞こえている。
けれど、何も言わない。
視線が、外套の奥を探るような。
外套の奥で指を少しだけ握り直した。