湿った空気が、ゆっくりと肺に入り込む。
椅子に座ったまま、視線を落とした。
「お前、一人か?」
声が降ってきた。
顔を上げると、目の前に男が二人。いつの間にか、テーブルの向かい側に座っていた。
もう一人は、椅子を引いて横に回り込むように腰を下ろす。
「なぁ、一緒に組まないか?」
軽い口調。
けれど、視線が違う。
顔ではなく――外套の奥。輪郭。体つき。
値踏みするように、ゆっくりと這う。
「結構です。待っている人がいるんです」
即答する。
フードを少し深く被り直す。
「へぇ?誰だよ」
「女か?」
小さく笑い合う声。
そのやり取りが、妙に近い。
「……ほかを当たってください」
短く言う。
それで終わるはずだった。
「そんなつれないこと言うなって」
片方の男が、身を乗り出す。
もう一人が、興味を持ったように手を伸ばした。
「顔くらい見せろよ」
フードに触れる指先。
――止めるより先に。
ひらり、と持ち上げられる。
空気が変わった。
「あ」
男の声が、わずかに止まる。
「……お前、昨日の」
視線が絡む。
「リュシア、だろ?」
その名前が、空気に落ちる。
周囲のざわめきは、止まらなかった。
誰かが椅子を引く音。笑い声。酒の入ったコップが机に当たる音。
一瞬だけ、こちらを見る視線があった。
けれど、それだけだった。
すぐに、何もなかったように戻っていく。
一瞬、思考が止まる。
「……違います」
反射的に否定する。
けれど、遅かった。
「いやいや、見りゃ分かるって」
「昨日、騒ぎになってたやつだろ」
笑いながら、距離を詰めてくる。
「パーティー、全滅したんだってな」
その言葉が、静かに刺さる。
「大変だったなぁ」
「そりゃショックだよな」
慰めるような声音。
けれど、その目は――優しくない。
「まぁでもさ」
声の調子が、少しだけ変わる。
「正直、ああいうの見た後だとさ」
片方の男が、肘をテーブルにつく。
「他のやつら、お前と組みたがらねぇと思うぞ」
…。
「問題児ってやつだ」
「見捨てるやつと組んだら、次に死ぬのは自分だからな」
――問題児ってやつだ。
その言葉が、胸の奥に沈む。
……違う。
そう思う。
でも、――本当に?
ほんの一瞬だけ、言葉が引っかかった。
否定しきれない何かが、そこに残る。
胸の奥がざわつく。
「だからさ」
椅子が、ギ、と鳴り、二人がさらに近づく。
左右から。
「かわいそうだから、組んでやるって言ってんだよ」
視線が、這う。
首元。
胸元。
足元。
「条件は悪くねぇぞ?」
「ちゃんと守ってやるし」
笑っている。
でも、息が荒い。
距離が近い。
言葉を探す。
何を言えばいいのか。
どう言えば、止まるのか。
分からない。
分からないまま、口を開く。
「……離れてください」
声が、細い。
自分でも驚くほど。
片方の男が手を伸ばし、手首を掴む。
強い。
指が骨に当たる。
脈の上を押さえつけられて、心臓の音がそこに集まるような感覚。
……熱い。
おばさんの手や触れた温かさとは違う。
外側から押しつけられる、逃げ場のない熱。
思わず、指先に力が入る。
「じゃ、早速行こうぜ」
引かれる。
「ここじゃなくてさ、外で飯でも食いながら話そうや」
「待ってる人が――」
「あとで入れてやるって」
言葉を、遮られる。
聞いていない。
通じていない。
手を引いた。
けれど、離れない。
握られた手は強い。
「今日は雨だしな」
「親睦深めるだけだって」
心臓の音が、うるさい。
ドク、ドク、と思考が追いつかない。
「……やめて」
声が出ない。
掴まれた手首が痛い。
さらに引かれる。
立たされる。
足が、勝手に前に出る。
後ろから――肩を掴まれる。
もう一人。
逃げ場がない。
「いいからいいから」
肩を押されて、体が前に出る。
……逆らうのは、よくない。
ふと、そんな言葉がよぎる。
誰に言われたのかも分からない。
ただ、昔から知っているような感覚だけが残っている。
足が、止まらない。
「何もしねぇって」
背筋に、触れる手。
ぞわり、とした悪寒。
体が、拒否する。
思考より先に。
触れられるのが嫌で嫌で、体を揺さぶって、肩を強く振る。
掴む手が一瞬緩む。
椅子を蹴る。
音が鳴る。
それでも、誰も動かない。
手は引かれ離れない。
その瞬間。手首を強く引かれた。
――ぶつかる。
前にいる男に。
ドク、ドク、と音がする。
近い。
遠い。
どちらか分からない。
視界の端が滲む。
男の顔だけが、妙に近くて、はっきりしている。
それ以外が、ぼやける。
「おっと」
腕の中に、収まっていた。
逃げるつもりで暴れたはずなのに。
囲まれて、距離が無くなる。
「あぶねぇな」
男の笑う声。
耳のすぐそばに息がかかる。
「そんな焦んなよ」
――これが、普通なのだろうか。
分からない。
ただ、分からないまま。
心臓の音だけが、やけに大きかった。
知らない男の腕の中にいた。
それだけで、もう十分におかしかった。
居心地が悪い、という言葉では足りない。
肌に触れている布の感触も、骨の硬さも、全部が異物だった。
鼻に刺さる、汗の匂い。
わずかに酸味を帯びた、湿った体臭。
思わず息を止める。
けれど、止めたところで状況は変わらない。
胸が苦しい。
押し返そうと、両腕を男の胸板に当てる。
硬い。びくともしない。
「……んぅ、……やめて」
声が出た。
出たはずなのに、それはあまりにも小さくて、かすれていて。
自分でも、情けないと思った。
押した。
離れた――ように思えた。
けれど次の瞬間、背中に回された腕がぐっと締まる。
強く。
逃がさないように。
体が、また引き寄せられ、胸元へ押し戻される。
近い。
近すぎる。
男の体温が、服越しに伝わってくる。
――勝てない。
その事実だけが、やけに鮮明だった。
息が、うまくできない。
吸っているはずなのに、入ってこない。
吐いているはずなのに、出ていかない。
胸の奥で、何かが詰まっているみたいだ。
「こらこら、大人しくしなよ。周りに変に見られるだろ?」
軽い口調。
まるでこちらが悪いみたいな言い方。
――周りに、変に見られる。
一瞬だけ、思う。
確かに、そうかもしれない。
こんなふうに暴れたら、余計に目立つ。
……だから。
少しだけ、力を抜きかけた。
その瞬間だった。
腕が、さらに強く締まる。
逃がさないように。
ああ、違う。
違う。
これは。
そういう話じゃない。
気づいたときには、もう遅かった。
息が、浅くなる。
早くなる。
どこで吸えばいいのか分からない。
喉が閉じているみたいで、声が通らない。
どうして、出ない。
言わなきゃいけないのに。
離してください。
そう言えばいいだけなのに。
簡単な言葉なのに。
出し方が、分からない。
頬を掴まれる。
指が食い込む。
逃げようとしても、逃げられない。
無理やり顔を上げさせられる。
「お?よく見ると、可愛いな」
ぞわりとした。
「冒険者してるには勿体ないな」
理解できない。
言葉は分かるのに、意味が頭に入ってこない。
せめて――睨む。
それしか出来なかった。
「おぉ、怖い怖い」
笑う。
「かわいい顔が台無しだぞ」
その笑い方が、ひどく気味が悪かった。
まるで、人を見ているようで。
見ていない。
持ち物でも見るような、視線。
抱えられたまま、足が揃わない。
引きずられるように動かされる。
歩いているのは自分の足のはずなのに、意思がない。
もう一人の声がする。
「なぁ、こいつ魔法使うんじゃなかったか?杖が見当たらないが?」
視線が落ちる。
確かに、杖はない。
宿に置いてきたからだ。
「無いんなら、好都合だろ」
その言葉。
意味が――分からない。
分からないのに。
嫌な感じだけは、分かる。
胸の奥が、ざわつく。
昨日のことが、浮かぶ。
ミアレ。
パーティー。
あの時の、崩れた光景。
断片だけが、浮かんで、消えて。
繋がらない。
頭の中が、ずっと、ぐちゃぐちゃしている。
なのに。
体は、ここにある。
腕の中に、閉じ込められている。
どうして。
どうして、こんなことになっている?
私は――
エルネに、会いに来ただけなのに。
違う。
違う。
そう思うのに。
息が詰まる。
吸えない。
吐けない。
胸が、動かない。
声が、出ない。
離してください。
離してください。
言おうとする。
けれど、喉が閉じたみたいに動かない。
心臓の音だけが、やけに大きい。
ドクドクと、耳の奥で鳴っている。
考えが、追いつかない。
目の前が、少し歪む。
視界が揺れる。
それでも、男の腕ははっきりと分かる。
背中に回された腕。
手首を締める力。
じわじわと、骨に近いところが押される。
脈が、そこで止められているみたいに、鈍く響く。
強くて。
重くて。
離れない。
痛い。
――逃げないと。
一瞬だけ、そう思った。
でも。
どうやって?
足は動かされている。
腕は押さえられている。
声も出ない。
逃げ方が、分からない。
そのまま引かれていく。
連れていかれる。
どこへ?
分からない。
考えられない。
そのときだった。
「おい」
別の声。
低くて、はっきりした声。
誰かの手が肩に、手がかかり、しっかりと掴まれる。
男の体が、わずかに引かれる。
「離してやれよ」
一瞬、力が緩む。
「……ッち、誰だよお前。邪魔すんな」
苛立った声、男は振り返る。
けれど。
声をかけてきた男のフードの奥は、見えない。
顔が分からない。