肩を掴まれたまま、体が引かれる。
外套の男と、向き合う形になる。
私は振り返る。
誰なのかを確かめるよりも先に、ただ――そこにいる何かを見続けていた。
「もう一度言う、離せ」
低い声だった。
怒鳴るでもなく、ただ押し通すような声音。
「先に言っておくが、そいつのパーティーの先約は俺の方にある。知らないなら、本人から確認してみたらどうだ?」
男同士の視線が重なるような間。
「どうした? 離してやるのがそんなに都合が悪いのか?」
外套のフードが、ゆっくりと下ろされる。
現れた顔を見て――思考が、一瞬止まった。
ロニオ。
バルクと組んでいる、あのもう一人の男。
その表情は、いつもと変わらない。
淡々としていて、感情の輪郭が薄い。
けれど、その視線はまっすぐに、私を抱えている男へ向いていた。
「俺達は今決めたんだよ」
抱えている男が、鼻で笑う。
「先約だかなんだか知らねぇけどな。残念だったな」
腕の力が、ぐっと強くなる。
肋骨が押し潰されるような圧迫。
「先のこと? 決定事項じゃねぇことを待ってられるか? 待ってる方が損だろ?」
息が、うまく吸えない。
「日銭を稼ぐんなら、すぐ依頼をこなせる体制の方がいい。だろ? 冒険者なんだろ?」
――正しい。
その言葉が、一瞬だけ頭に引っかかる。
合理的。
効率的。
間違っていない。
だからこそ――余計に気持ち悪い。
「誰が誰とパーティを組もうが勝手だ」
ロニオの視線が、私に向いた。
――違う。
見ているのは顔じゃない。
口元。喉。呼吸。
「……」
何かを言おうとしているのに、言えていない。
言葉が、挟まれて、潰されていて。
男たちの声が重なる。
上から覆いかぶさるように。
ロニオは小さく息を吐いた。
「なるほどな」
誰にともなく呟く。
「会話になってない」
もう一人の男が構わず続ける。
「あ、あとから割り込んでパーティーメンバーを掻っ攫おうとするのもどうなんだ?」
また、笑う。
「図々しいだろ? 何様だ?」
言葉が、重なる。
押し付けられる。
理解はできる。
でも、納得は――できない。
周囲がざわつき始める。
「お、なんだなんだ喧嘩か?」
「やれやれー!」
「殴れ殴れ!」
笑い声。
酒の匂い。
視線。
――誰も止めない。
ただ、見ているだけ。
ロニオは、一歩引いた。
「……ああ、そうだな」
静かに言う。
「お前らの言い分は確かにだ」
え?
思わず、視線を向ける。
「既にパーティーを結成したと言うなら仕方ない。誰がどうこう言うことでもない。理解できる」
引く。
離れて、距離が開く。
「お前たちの意見を尊重しよう」
頭が、追いつかない。
――あれ?
胸の奥が、すっと冷える。
助けに来た、わけじゃない?
助からない。
男が、にやりと笑う。
口の端から湿った音が、耳に残る。
「分かればいいんだよ」
体が引かれる。
一歩。
二歩。
止まらない。
「どこに行く?」
ロニオの声。
「話は終わってないぞ。俺はお前らの意見を聞いただけだ」
一歩、踏み込む気配。
「もう一人の声を聞いていない」
「……チッ、しつこいな」
苛立ちが混じる声。
「お前ら」
「さっきから一方的だ」
男たちが顔をしかめる。
「本人が何も言えてないだろう」
一瞬、間。
誰も答えない。
答える気がない。
「……話をする気がないなら」
踏み込む。
「通すしかないな」
「ぐだぐだ面倒くせぇことを――」
その瞬間だった。
踏み込み。
風を切る音。
ドッ――
鈍い衝撃が、身体越しに伝わる。
ゴッ、と骨を打つ音。
支えが消える。
そのまま、流れるように床へ叩き落とされた。
息が詰まる。
視界が揺れる。
「おぉー!!」
「やったな!」
「今のは効いたぞ!」
歓声。
笑い。
まるで見世物。
倒れた男は、動かない。
顔が歪み、口から血が滲む。
腕の力は、もうない。
私は、這うようにして離れた。
無意識に、ロニオの方へと。
「話をさせる気がないなら、こうするしかない」
ロニオは、自分の拳を軽くさする。
「まったく合理性に欠ける」
その言葉は、どこか本気でそう思っているようだった。
視線が、こちらに向く。
「これでやっと、話になる」
ロニオは倒れた男を一瞥してから、視線をこちらに戻す。
「さっきの続きだ」
「リュシア」
名前を呼ばれる。
身体が、びくりと揺れる。
「お前の意思はどうだ」
淡々と。
逃げ場を与えない問い。
「先約通りに俺と組めるか」
――助けた意味があるか。
言葉の奥に、それがある。
心臓の音がうるさい。
何かを掴まないと、立っていられない。
胸元の服を、強く握る。
考える余裕は、ない。
でも――
ここに残るよりは。
このまま連れていかれるよりは。
喉が引っかかる。
さっきまで出なかった声。
押し潰されていたものが、少しだけ動く。
周りの音が遠くなる。
誰も遮らない。
誰も被せてこない。
――言っていい。
そう思った瞬間、息が通った。
「……はい」
かすれた声だった。
それでも、言葉になった。
ロニオは小さく頷いた。
「それでいい」
一瞬だけ、視線が外れる。
「本人が決めたなら、それで成立だ」
それ以上は何も言わない。
もう一人の男は、舌打ちをした。
倒れた仲間を抱え上げる。
引きずるように、扉へ向かう。
ギルドの扉が開く。
雨音が流れ込む。
そのまま、二人は外へ消えた。
騒ぎは、終わっていた。
さっきまで飛び交っていた怒鳴り声も、囃し立てる笑いも、今はもう遠い。
ギルドの空気にはまだ熱が残っているのに、不思議と静かだった。
受付嬢が慌てて駆け寄ってくる頃には、男たちはもういない。
床に残った椅子の擦れた跡と、湿った血の匂いだけが、さっきの騒ぎを証明していた。
ロニオがこちらを見た。
「歩けるか」
短い言葉。
私は小さく頷いた。
それ以上は何も言われない。
ただ、ロニオは歩き出す。
私は、その後ろを追った。
足音。濡れた床。外套の擦れる音。
少し前を歩く背中を見る。
視線が、揺れる袖に向いた。
その瞬間。
ふっと、手が伸びかけた。
――昔。
姉さまの後ろを歩くとき、よくやっていた。
歩幅が合わない。置いていかれる。曲がり角で見失う。
それが嫌で、袖を掴んでいた。
ギュッと握れば、ちゃんとそこにいると分かるから。
不意に、後ろを振り返る。
誰か来ていないか。また掴まれないか。また腕を引かれないか。
人の視線が、まだ皮膚に残っている気がした。
胸の奥が落ち着かない。
前を向く。
ロニオがこちらを見ていた。
何かを言うわけでもなく、ただ静かに。
私は視線を下ろした。
そこでようやく気づく。
自分の手が、前へ伸びていた。
ロニオの袖を掴んでいる。
理解するまで、一瞬かかった。
「あっ……」
喉から小さな音が漏れる。
慌てて手を離した。
「ち、違うんです。手が勝手に……」
自分でも意味が分からなかった。
ロニオは振り返る。
それから淡々と言った。
「妹みたいな癖だな」
それだけ。
笑いもしない。
からかいもしない。
ただ事実を確認するみたいに言った。
指に握った感覚が残る。
そのまま壁際の長椅子へ向かい、腰を下ろす。
私は少し迷ってから、その隣へ座った。
雨音が聞こえる。
屋根を叩く音。窓を打つ音。
ギルドのざわめきもあるのに、その間だけが妙に静かだった。
しばらくして、ロニオが口を開く。
「見ないうちに、しおらしくなったな」
横目だけこちらへ向く。
「ああいうのは、喚き散らすかと思ってた」
胸が少しだけ詰まった。
出来たはずだった。
いや、出来るべきだった。
怒鳴って。突っぱねて。魔法でも何でも使って。
そうするべきだったのに。
なのに、出来なかった。
「……言ったんです」
掠れた声。
「あの人たち、私のことを……」
喉が痛い。
「パーティーが全滅したって」
言葉にするたび、胸の奥を引っ掻かれる。
「私は誰とも組むべきじゃないって……問題児だって……見捨てる奴だって……かわいそうだって……」
息が上がる。
思い出したくなかった。
考えないようにしていた。
「……思い出さないように、してたのに」
悔しい。
苦しい。
情けない。
静かな声なのに、自分でも分かるくらい感情が滲んでいた。
ロニオは、少しだけ間を置いた。
それから、静かに言う。
「そういう奴らがいることを覚えておけ」
淡々とした声だった。
「そういう言葉で、人の心に隙を作る奴がいる」
視線は前を向いたまま。
「レッテルを貼る。弱らせる。価値を依存させる」
「そうして、自分の欲望のために骨の髄までしゃぶり尽くす」
思わず、黙る。
「人を平気で傷つけるくせに、自分は誰より傷つくのを恐れてる」
そこで初めて、ロニオがこちらを見た。
「……君は違うだろ、リュシア」
その言葉に、呼吸が止まりそうになった。
「夢のために、一人でここまで来たんだろう」
「その魔法で、一人でも戦おうとしてた」
否定できない。
「真っ直ぐで、素直で、不器用だ」
そこで少しだけ目を細める。
「誰かの弱みを握って利用するような真似、お前はしない」
そんなに長く一緒にいたわけじゃない。
なのに。
その言葉は、ちゃんと私を見てくれている人の声だった。
胸の奥が少し熱くなる。
「……ありがとう、ございます」
小さく言った。
ロニオは黙る。
少ししてから、ため息みたいに息を吐いた。
「感謝は別にいらない」
淡々と返す。
「僕も君を利用しようとした。いや、するだろう」
思わず顔を上げる。
ロニオは変わらない口調のまま続けた。
「でも、それとこれとは別だ」
「助けられたから従う、恩があるから逆らえない」
「そういうものじゃない」
静かだった。
静かなのに、言葉だけが妙にはっきり残る。
「君は、君自身で判断して声を出すべきだ」
視線が合う。
「自分を守るためにも」
「誰かのためにも」
その言葉の意味を考える。
分かるようで、分からない。
でも――
自分を後回しにしていいわけじゃない。
そう言われている気がした。
私は、自分の手を見る。
さっきまで誰かの袖を掴んでいた手。
小さく、握る。
静かになる。
騒ぎは続いているのに、そこだけが切り取られたように遠い。
私は、ただ立っていて、さっきまで出なかった声が今は残っている。
でも――
安心とは、少し違う。
守られたわけではない。
ただ、通された。
それだけ。
息を整えるように胸元を握った。
ザァザァと、絶え間なく雨音がギルドの外壁を叩いていた。
さっきまで胸の奥を締めつけていた鼓動も、今は少しだけ落ち着いている。
けれど、完全ではない。
まだ、身体の奥に残っている。
掴まれた腕の感触。
押し込まれた胸板。
息の詰まるような圧迫感。
考えないようにしても、時々ふっと蘇る。
私は外套の胸元を軽く握り、それを誤魔化すように視線を逸らした。
「今日は一人で何をしに来たんだ。こんな雨の日だ。まさか依頼じゃないだろう?」
ロニオの声だった。
私はそちらを見る。
淡々とした顔で、感情が見えない。
「エルネに会いたくて。ここで待っていれば、会えるかと思って」
言いながら、自分でも曖昧だと思った。
こんな雨の日だから、必ず来る保証なんてない。
そもそも家を知らない。
だから、こうして待つしかなかった。
ロニオは何も言わず、一度ゆっくり息を吐いた。
間。
すぐに返事をしない。
何かを選ぶような沈黙だった。
「あんまり長居しない方がいい」
低く言う。
「昨日、色々あったんだろ。なら尚更だ。気持ちの整理がつくまで安静にした方がいい」
私は少しだけ視線を下げた。
整理。
そんなもの、どうやってつければいいのだろう。
考えようとすると、胸の奥がざわつく。
ロニオはそのまま立ち上がった。
「ロニオさんは、どうしてギルドに?」
「情報集めだ」
短く返る。
「良い情報も悪い情報もな。こういう日は依頼より、そっちの方が価値がある」
外套の裾を整えながら、彼は続ける。
「ところで、赤いゴブリンを倒したそうだな」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。
「え……? あ、はい……」
「ゴブリンロードだ。Cランク相当の依頼対象だな」
見下ろされる形になる。
「報告してるなら、依頼を受けてなくても報酬が出る可能性がある。ギルドに確認しろ」
そんなものなのか。
少し驚いた。
あの赤いゴブリン。
周りのゴブリンを動かしていた、だけ。
ただ、立ち尽くして私の魔法が当たった。
避けられもしなかった。
一撃。
むしろ問題だったのは、周囲のゴブリンの群れ。
数。
囲まれること。
そっちの方が、ずっと厄介だ。
空中を掴くように手が動く。
杖がない。
何も握っていない感覚だけが残り、胸の奥が少しだけ重くなる。
ロニオは外套を被る。
「俺は行く」
そして少しだけこちらを見た。
「次はちゃんと声を出すんだ」
それだけ言って、歩き出す。
私は思わず彼の背中を見た。
何かをはぐらかされたような気がした。
けれど、それが何なのか分からない。
ギルドの扉が開く。
雨音が入り込む。
そして、閉じた。
私はしばらくその扉を見ていた。
……報酬。
その言葉が頭に残る。
良いことのはずだった。
少なくとも損ではない。
自然と立ち上がる。
受付の方へ向かったが、周囲の視線が気になる。
けれど、誰もこちらを見ていなかった。
さっきまであれほど怖かったのに。
誰も気にしていない。
それが少しだけ、不思議だった。
「あの、…赤いゴブリンの報酬って……あるんですか?」
受付嬢へ声をかける。
彼女は一瞬目を丸くして、それから慌てたように頷いた。
「あ、少しお待ちください」
裏へ回る。
小さな話し声。
ヒソヒソと確認する声が聞こえる。
やがて戻ってきた。
「リュシアさんですね? 待合室で待つようにと言伝を受けています」
「……待合室?」
「案内しますのでこちらへ」
私は頷いて、その後ろをついていく。
廊下。
木の床。
二人分の足音。
途中、裏手の稽古場が見えた。
薄暗い空。
雨に打たれる丸太の打ち込み台。
誰もいない。
ただ濡れているだけ。
受付嬢の後ろを歩くたび、甘い香りが微かに鼻を掠めた。
不思議と、それが妙に落ち着く。
「こちらです」
小さな個室だった。
テーブルと椅子。
話し合いをするには丁度いい広さ。
受付嬢はランタンをランプへ近づける。
コツン、と触れる音。
魔石灯が淡く反応し、部屋が明るくなった。
「椅子に座って、楽に待っていてくださいね」
そう言って彼女は出ていき、パタン、と扉が閉じた。
静寂。
雨音だけが響く。
私はゆっくり椅子へ腰掛けた。
……何を言われるんだろう。
頭の中で考える。
赤いゴブリンの件?
凄いことだった?
そう思いたかった。
けれど、浮かぶのは別のことばかりだった。
問題児。
パーティ全滅。
逃げた。
見捨てた。
悪い言葉ばかりが浮かぶ。
胸が重くなる。
私は両腕をテーブルへ置き、そのまま顔を埋めた。
――冒険者失格。
――お前は冒険者じゃない。
そんなことを言われるのだろうか。
考えたくない。
気が遠くなりそうだった。
雨音が、ずっと続いている。
ザァザァという音。
屋根を叩く音。
遠くで誰かが歩く音。
それが全部、少しずつ遠くなる。
腕の中に、自分の呼吸だけがこもっていた。
……エルネは、来るだろうか。
もし来たら。
ちゃんと、話せるだろうか。
ミアレのこと。
パーティーのこと。
逃げたこと。
……。
そこまで考えたところで、思考が、途切れた。
暗い。
温かい。
ぼんやりする。
……
……。
身体が揺れた。
背中に手の感触。
――捕まる。
そう思った。
肩が跳ねる。
息が止まり、身体が強張る。
また、腕を掴まれる。
また、連れていかれる。
そう思った瞬間、途切れていた意識が一気に浮かび上がった。
反射的に顔を上げ、背に触れる手の主を確認した。
受付のお姉さんだった。
私の勢いに少したじろぎ、それでも穏やかに言う。
「面会相手が来てますよ」
私は振り返った。
椅子に座る男。
見覚えがある。
くたびれた空気。
疲れた目。
でも、その姿を見た瞬間、何故か胸の奥が少しだけ軽くなった。
死体漁りと呼ばれる男。
新人を助けるDランク冒険者。
ガルド。
「よぉ」
彼は片手を軽く上げる。
「よく眠れたか?」
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