風の氏族の末娘は、冒険者を知らない   作:ほてぽて

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27話後編 冒険者の価値

 

 

 

 その目は、まっすぐに私を映していた。

 

 逃げ場を探すように揺れていた視線が、そこで止まる。

 

「では、私はこれで失礼しますね」

 

 背後からした声に振り返る。

 受付のお姉さんは、柔らかな笑みだけを残して部屋を出ていった。

 

 扉が閉まる。

 パタン、と。

 また静かになる。

 

 雨の音だけが遠くから響いていた。

 

 私は何も言わず、その閉じられた扉を見ていた。

 それから、ゆっくりと視線を戻す。

 

 向かい側。

 

 椅子に腰掛けたままのおじさん――ガルドを見る。

 

「あの……私に、何か」

 

 喉が少し硬い。

 

 てっきり、ギルド職員が来るものだと思っていた。

 

 何か言われる。責められる。確認される。

 そんなことばかり考えていたから。

 

「あぁ、大したことを言いに来たわけじゃねぇ。そう身構えんな」

 

 ガルドは肩を竦めるようにして、テーブルに肘をついた。

 

 気の抜けたような姿勢。

 

「全然関係ない話だがな。俺は冒険者のハズなんだが、こうしてギルド職員みてぇな真似をさせられることがある」

 

 ぼやくような声。

 

「まぁ、冒険者の中には、そのままギルド職員になる奴だっている」

 

 そこで一度、鼻を鳴らす。

 

「だとしても、普通ならギルド長とか、もっと偉い奴がここに座ってるもんだがな」

 

 そう言いながら、小袋を取り出した。

 

 ジャラ、と硬貨の擦れる音。

 

 中から取り出されたものが、ランプの光を反射する。

 

 思わず目を向けた。

 

 金貨。

 

 ――いや、少し違う。

 

 一回り、大きい。

 

「大金貨だ」

 

 ガルドはそれをテーブルの上へ置く。

 

 カツン、と重みのある音。

 

 さらに金貨を二枚。

 

 指先で押し、私の方へ滑らせてくる。

 

「ゴブリンの頭目を倒した報酬だ」

 

 さらりと言う。

 

「正式に依頼で受けてりゃ、もうちょい割り増しで貰えただろうがな」

 

 言葉が、すぐには入ってこない。

 

 私はただ、その金貨を見ていた。

 

 ゆっくりと手を伸ばす。

 指先で触れる。

 

 冷たい。

 

 けれど、ほんの少しだけ重い。

 大金貨と金貨二枚。

 

 金貨より縁が広く、厚みもわずかにある。

 

 触れた感触も違った。

 細かな凹凸。擦れ具合。

 大金貨の方が、指にしっかり引っかかる。

 

 そして何より、色が違う。

 

 少しくすみの少ない、深い金色。

 私はそれを摘まみ上げ、光へ透かす。

 

 ランプの灯りを受けて、きらりと輝いた。

 

 綺麗だった。

 

 その輝きに、一瞬だけ見入る。

 

 でも。

 

 すぐに、違和感が追いつく。

 

 私は討伐証を持っていない。

 

 受付で話しただけだ。

 

 それなのに――。

 

「あの……これ、私……話しただけで、討伐証も持ってませんでした。なのに、どうして……」

 

 ガルドは、しばらく私の手元を見ていた。

 金貨を眺める私を。

 

 それから視線を上げる。

 

「あぁ、見に行ったからな」

 

 一瞬、呼吸が止まった。

 

「え……」

 

「午後だったし、時間があったからな」

 

 ガルドは気怠そうに続ける。

 

「死んだ奴らの先輩か、世話んなった奴を見かけて引っ掛けてな。場所聞いて、見に行った」

 

 淡々としている。

 

 まるで、いつもの仕事みたいに。

 

「行くだけなら簡単だが、一人じゃ限界があるからな」

 

 そこで少しだけ顔をしかめた。

 

「それに血の匂いに当てられて、普段出ねぇ奴が寄ってくることもある」

 

 私は黙って聞いていた。

 

 胸の奥が、少しずつ冷えていく。

 

「それを見越して行ったわけだ」

 

 小さく息を吐く。

 

「まぁ……見たのは、俺も口にしたくねぇもんだったな」

 

 視線が、わずかに逸れる。

 

「そこら中、真っ赤になったスライムだらけだった。その中に、例の赤いゴブリンもいた」

 

 頭の中に、一瞬だけ景色が蘇る。

 

 赤い溜まり。潰れた肉塊。肉から飛び出した骨。

 

 喉が詰まる。

 

「……それだけだ」

 

 ガルドは言った。

 

「だから、これはお前に渡す。誰がどう言おうが、ギルドの取り決めだ」

 

「はい……」

 

 声が小さくなる。

 

「胸張って受け取れ」

 

 私はポーチを開いた。

 金貨袋の中へ、大金貨と金貨を入れる。

 

 キン、と金属のぶつかる音。

 それが、妙に現実感を持って響いた。

 

 袋を閉じる。

 

 ガルドはそれを確認して、小さく頷いた。

 

「あぁ、あともう一個。いや、二個か。どっちでもいい」

 

 そう言って、ポケットへ手を入れる。

 

「お前、こいつ知ってるか?」

 

 取り出されたのは、小さな金属板だった。

 

 テーブルへ置かれる。

 カチャ、と乾いた音。

 

 視線が吸い寄せられる。

 見覚えがあった。

 

 冒険者証。

 

「手に取って、よく見てみろ」

 

 言われるままに、手を伸ばす。

 指先へ伝わる、生温い金属の感触。

 

 誰かの体温が、まだ残っているみたいだった。

 

 名前を見る。

 

 新しいプレート。

 刻まれた名前の部分に、細い傷が走っている。

 

 そこに刻まれていた文字。

 

 ――エルネ・フェルミア。

 

 呼吸が止まる。

 

 エルネ。

 

 その名前が、確かにそこにあった。

 

 ジッと、見つめた。

 

 指先で表面を擦る。ゆっくりと、一文字ずつ確かめるように。

 

 ざらり、と傷の入った金属の感触。

 擦れた刻印。浅く削れた文字。

 

 滲みはない。歪んでもいない。

 そこに刻まれた名前は、確かに読めた。

 

 エルネ。

 

 エルネ・フェルミア。

 

 喉が、小さく動く。

 

「あの、これは……」

 

 声が、自分でも驚くほど落ち着いていた。

 

 誰だろう、と思った。

 

 このエルネという人物は。自分の知っているエルネとは、別の誰かなんじゃないかとさえ思えた。

 

 私の知っているエルネは、二日前、「ホーンラビットを狩ってくる」と意気込んで、その翌日には森へ向かったはず。

 

 一人前になるんだと。私と同じEランクの冒険者として、胸を張って。

 

 その別れる日の背中を見送った。

 

 ――それが最後だった。

 

 それなのに、今。ここにあるのは冒険者証だけ。

 

 頭では、分かっている。

 これが何を意味するのか。ここまで来て、理解できないほど子供じゃない。

 

 それでも、自分でも恐ろしいほど実感が湧かなかった。

 

「どうして……ガルドさんが、持ってるんですか……?」

 

 ただ、そう聞いた。

 

 まだ森にいる気がしてならなかった。

 帰ってきていないだけ。どこかで雨宿りしているだけ。そう頭のどこかが言っている。

 

「……冒険者の人達、言ってました」

 

 視線を落としたまま言う。

 

「ガルドさんは、新人を助けるって」

 

 ガルドは頬杖をついたまま、こちらを見る。

 

「あぁ……連中は、言うな。俺は新人を助けるって」

 

「そうだな」

 

「私を、助けました」

 

「ああ」

 

「冒険者の人を、ソリみたいなもので運んでるのも見ました」

 

「そんなこともあったな」

 

 淡々としている。

 だから余計に、怖かった。

 

「じゃあ……どうして……」

 

 喉が引っかかる。

 

「どうして、これが……エルネのものが、ここにあるんですか……?」

 

 顔を上げる。

 

 疲れ切ったような。何かを見過ぎた人の目。

 その瞳は、真っ直ぐこちらを見ていた。

 

「俺が助けられるのは、死にに行くやつだけだ」

 

 言葉の意味が、一瞬わからなかった。

 

「……死にに行く人って、何ですか」

 

「あぁ、お前がそれを聞くのか?」

 

 ガルドは小さく息を吐き、片手で顔を覆う。

 

「そうだな……」

 

 指を折るように、言葉を並べた。

 

「プライドが高い。向こう見ず。自分は強いと思ってる。周りを置き去りにする。感情を押し殺す。虚勢を張る。恐れを知らねぇ」

 

 淡々と。

 

「挙げりゃ、いくらでも出てくる」

 

 その言葉が、胸に引っかかる。

 

 どこかで聞いたような気がしたけれど、何も言えなかった。

 

「逆に、死なねぇやつはな」

 

 視線がこちらへ向く。

 

「ちゃんと怖がるやつだ。臆病で、小心者で、みっともなく逃げるやつ。仲間を置いてでも、生きて帰る腰抜けだ」

 

 納得なんて、できなかった。

 そんな言い方。

 

 誰かの努力も。踏ん張りも。勇気も。

 全部、馬鹿にしているみたいだった。

 

 エルネは違う。

 よく笑って。困って。怖がって。

 

 私が危ない時には、「帰ろう」と言ってくれた。

 

 エルネは違う。

 そう思った。

 

 けれど。

 

 私は――。

 

 私の脳裏に浮かぶのは、別の記憶だった。

 帰ろうと言われた時。

 

 私は。

 

 私は、前へ進もうとしていた。

 

「納得いかねぇ顔してんな」

 

 ガルドの目が、私の手元を見ていた。

 冒険者証を握る指。

 

 知らないうちに、強く掴みすぎていたのかも。

 指先が白くなっている。

 

「……」

 

 その視線が、嫌に落ち着かなかった。

 まるで、何を考えているか見透かされているみたいで。

 

 ため息を一つ吐く。

 

「俺も、全部見分けられるわけじゃねぇ」

 

 ガルドが吐き捨てるように言う。

 

「例外なんざ、いくらでもある。なにより冒険者は死ぬ。珍しくもねぇ」

 

 静かな声だった。

 

「お前のせいじゃない」

 

 言葉が落ちる。

 けれど。

 

「……だがな」

 

 少しだけ視線が下がる。

 

「初心者ってのは、いつだって誰かの後ろを歩いてる」

 

 ゆっくりと、こちらを見る。

 

「前を見てる」

 

 指先が、私の持つ冒険者証を指した。

 

「コイツは、お前を見てた」

 

 言葉の意味が、すぐには入ってこなかった。

 

 見ていた? 誰を? 私を?

 

 森の中で後ろから、小走りで付いてくる足音。

 

「先輩、待ってください」

 

 ホーンラビットを見つけた時も。

 魔法を撃った時も。

 

「すごい……」

 

 と、後ろから声がしていた。

 振り返れば、エルネはいつも少し後ろにいた。

 それを、当たり前みたいに思っていた。

 

 ドクン、と胸が跳ねた。

 

 痛い。

 胸の奥に、刃物を差し込まれたみたいに。

 

「人間ってのはな。教わって一回できると、次もできると思う」

 

 ガルドの声が続く。

 

「覚えがいいのは悪いことじゃねぇ。だが、簡単にできすぎると失敗を考えなくなる」

 

 コツン。

 

 指先がテーブルを叩く。

 

「今回もできた。次もできる。慣れだ。繰り返しだ。感覚が麻痺してくる」

 

 その声は静かだった。

 

 怒っているわけでもない。

 責めているわけでもない。

 

 どうしてこんなに痛いんだろう。

 

 だから、逃げられなかった。

 

「そこから綻びが出る」

 

 間。

 

「極端に言えば」

 

 遠くから聞こえる雨音。

 

「死ぬか、死なないか」

 

 それだけだ。

 私は言葉を失った。

 

「普通のやつは、死にかけて助けられた後、どうすると思う?」

 

 問いが落ちる。

 答えられなかった。

 

「……どうするんですか」

 

 本当なら。私なら続けると言うべきだった。

 なのに、その言葉が出てこない。

 

「辞める」

 

 即答だった。

 

 静かな声。

 

「冒険者を辞める。死にかけて、初めて自分の命が惜しくなる」

 

 視線が、こちらに向く。

 

「自分の命の価値に気付く」

 

 その目は、逃がさない。

 

「お前はどうだ」

 

 息が詰まる。

 

「続けてる。そういうやつはな、死ななきゃ気付けねぇ」

 

「だから、俺はお前を試験で落とした」

 

 私は顔を上げる。

 

「理由を教えるほど、俺は優しくねぇ」

 

 ガルドは頬杖を崩し、小さく肩を回した。

 

「ここまで歩いてきたなら、自分で答え合わせしろ。その時のお前に、教えてやれ」

 

 沈黙の中、雨音だけが響く。

 

「……説教臭くなっちまったな」

 

 ガルドは小さく笑った。

 

「あぁ、もう一度、言っとく」

 

「冒険者ってのは、こういうもんだ」

 

 視線が、こちらを見る。

 

「お前のせいじゃねぇ」

 

 疲れたような声で、そう言った。

 

「運が悪かっただけだ」

 

 私はただ、冒険者証を見つめていた。

 

「そいつを持っててもいい。要らないなら、今ここで返したっていい」

 

 おじさん――ガルドが言う。

 

 視線を落とす。

 指で、もう一度、表面を撫でた。

 

 硬い。金属の感触が、じっとりと手に残る。

 長く握っていたせいで、自分の体温が移って、生温くなっていた。

 

 エルネ・フェルミア。

 

 その文字だけが、現実みたいに、そこにあった。

 

「……もらいます」

 

 小さく答える。

 

「ああ、好きにしろ」

 

 それだけだった。

 無理に慰めるわけでもない。返せとも言わない。

 

 ただ、私が決めることだと、そう言われた気がした。

 

 沈黙が落ちる。

 

 さっきから言われたことが、頭の中で何度も反芻されていた。

 

 冒険者はこういうもの。

 

 私のせいじゃない。

 

 エルネは私を見ていた。

 

 ……でも。

 だったら、誰のせいなんだろう。

 

 エルネは、私の後ろを歩いていた。

 私を見て。私の真似をして。私みたいになろうとして。

 

 だから死んだ。

 

 だったら、原因は私じゃないのか。

 責められるべきなのは。断罪されるべきなのは。

 

 本当は、私の方じゃないのか。

 

 エルネの家族が知ったら、きっと許さない。

 

 お前が殺したんだと。どうして止めなかったんだと。そう言われる方が、ずっと自然なはずだった。

 

 なのに。

 

 ガルドは、責めない。

 曖昧にする。

 

「運が悪かった」

 

 そう言って終わらせようとする。

 

 ……なのに。

 皮肉なことに、安心している自分がいた。

 

 怒鳴られなかったことに。

 責め立てられなかったことに。

 胸の奥のどこかが、ほっとしてしまっている。

 

 そんな自分が、気持ち悪かった。

 

 でも。

 

 事実は、手の中にある。

 

 エルネの冒険者証。

 

 硬い金属の重み。

 これだけは、絶対に覆らない。

 

 それでも、頭のどこかでは、まだ思っていた。

 

 明日になれば。

 宿の扉を叩いて。

「開けろー!」って騒ぎながら。

 

 エルネがひょっこり帰ってくるんじゃないかと。

 

 おばさんが安心した顔をして。

 また三人で話をして。

 

 そのうちDランクになって。

 

 一緒にワイバーンを倒して。

 

 ――そんな未来が、まだどこかに残っている気がした。

 

「まだ、もう一つある」

 

 ガルドの声が、思考を断ち切った。

 

 顔を上げる。

 

 おじさんは椅子にもたれながら、面倒そうに頭を掻く。

 

「まぁ、なんだ。俺一人じゃ手に余る依頼があってな。そいつに付き合ってもらいたい」

 

「……え?」

 

 理解が、少し遅れる。

 

「誰でも受けられる依頼じゃねぇ。ギルド直々の変わった依頼だ」

 

 その言葉が、ゆっくり輪郭を持つ。

 

 ああ。

 

 これ。

 

 誘われてるんだ。

 

 パーティーに。

 

 その瞬間、反射みたいに言葉が出た。

 

「私は……パーティーを全滅させました」

 

 ガルドは黙っている。

 

「問題児で……平気で人を見捨てます。酷い人間なんです。私と組まない方がいいです」

 

 言いながら、自分でも変だと思った。

 まるで、自分から自分の価値を下げているみたいだった。

 

 先に嫌われようとしている。

 先に見捨てられようとしている。

 

 ガルドは、鼻で笑った。

 

「お、奇遇だな」

 

 口の端を少しだけ上げる。

 

「似た者同士ってわけだ」

 

 その瞬間。

 

 頭に浮かんだ言葉があった。

 

 死体漁りのガルド。

 

 宿のポーションおじさんが彼をそう呼ぶ名前。

 

 ……私も。

 私も、あの時、何をした?

 

 死体漁り。

 

 指先が、じわりと冷える。

 あの時。

 私は震える手で、倒れた仲間の身体を探った。

 

 冒険者証。討伐証。

 

 元々、魔物から回収するためのものだったのかもしれない。でも結果として、私は仲間の死体から持ち去った。

 

 ポーションが残っていたら? 必要なら装備だって持っただろう。

 

 生きるために必要だった。

 

 でも。

 それは。

 死んだ人の持ち物を漁ったという事実と、何が違う?

 

 嫌悪していた。

 死体漁りなんて最低だと思っていた。

 

 なのに。

 あの時の私は、迷わなかった。

 

 胸の奥が、静かに冷えていく。

 

 吐き気とも違う。後悔とも違う。

 自分が、自分の思っていた人間ではなかった感覚。

 

 でも、不思議と吐き気はなかった。

 

 悔しさすら、湧かなかった。

 

「お前、強いんだろ?」

 

 ガルドが言う。

 

「魔法でドカンと一撃だ」

 

「手っ取り早く片付くんなら、お前ほど適任はいねぇ。どうする?」

 

 少し考えるように顎を搔く。

 

「そうだな。報酬は一対九でどうだ」

 

「……え?」

 

 理解が追いつかない。

 

「私が……九割ですか?」

 

 思わず、言葉が止まった。

 九割。

 そんな条件、聞いたことがない。

 

 胸の奥が、じわりと嫌な熱を持つ。

 ――都合が良すぎる。

 

 ついさっきまで。

 優しい言葉を使いながら、私を連れて行こうとした男たちがいた。

「かわいそう」「組んでやる」「助けてやる」

 

 あの湿った声が、一瞬だけ頭の奥を掠める。

 条件がいい。優しい。

 だからこそ、勘ぐってしまう。

 

 指先が、無意識に冒険者証を握りしめる。

 

「ああ。不満か?」

 

 違う。

 

 不満じゃない。

 おかしい。

 

 条件が良すぎる。

 都合が良すぎる。

 

「……変です。それ、不公平です」

 

 思わず口に出る。

 

「ガルドさんは一割でいいんですか? 何か、裏があるんですか?」

 

 人を疑った。

 少し前までの私なら、こんな言葉は出なかった。

 

 ガルドは、それを面白がるみたいに笑った。

 

「俺はな、今日明日生きる日銭がありゃ十分だ」

 

「普段は薬草採取だの、誰もやりたがらねぇ渋い依頼で食ってる」

 

 そこまで言って、一度考える。

 

「あぁ……いや、少し違うか」

 

 頬を掻く仕草。

 

「まぁ、交渉だな」

 

 指を一本立てる。

 

「実力ある奴を確保するための保険だ。そいつがいれば死なねぇ。助かる。だったら、他に持ってかれねぇよう好条件を出す」

 

「まぁ、それが本当か嘘か。見抜くのは相手次第だがな」

 

「……もし、ガルドさんが嘘をついてたら」

 

 そこまで言うと。

 

 ガルドは少しだけ笑みを深くした。

 

「そういう奴は、もう冒険者として終わりだ」

 

「この狭い世界で信用失ったら、何も残らねぇ」

 

 淡々としていた。

 

「誰かを死なせたよりタチが悪い、見捨てたより、もっとな」

 

 でも、その言葉だけは妙に重かった。

 

 誰かを死なせるより。

 見捨てるより。

 信用を失う方が終わりだと。

 

 この男は、本気でそう思っている。

 

 沈黙。

 

 この人は。

 本当に日銭だけで生きてる。

 

 そして、私を保険として九割提示した。

 

 もし嘘なら。

 ギルドの信用も、冒険者達の信用も失う。

 それは、この人にとって致命的なんだろう。

 

 私は、ゆっくり口を開く。

 

「……私で、いいんですか?」

 

 ガルドは即答した。

 

「ああ」

 

 それだけだった。

 迷いもなく。

 

「決まりだな」

 

 おじさんは立ち上がる。

 

 椅子が軋む。

 

「ああ、そうだ。ついでだ。次の昇格試験、受付通しとけ」

 

「晴れた日の朝。ギルド前集合だ」

 

 扉へ向かいながら、気怠そうに言う。

 

「討伐目標は熊一頭。Dランク依頼だ」

 

 足を止めず。

 

「ああ、場所は森の奥な」

 

 振り返りもしない。

 

「いいな?」

 

「……わかりました」

 

 返事をすると、ガルドは小さく欠伸をした。

 そのまま扉を開ける。

 

 パタン。

 

 閉まる音。

 私は、一人取り残された。

 

 静かだった。

 雨の音だけが、遠くで鳴っている。

 

 依頼。昇格試験。パーティー。

 さっきまで、もう冒険者として終わるんじゃないかと思っていたのに。

 

 気付けば、次の話をしている。

 前へ進んでいる。

 

 なのに、どうしてだろう。

 少しも、安心できなかった。

 

 手の中の冒険者証が、生温い。

 その事実だけが、静かに、膝の上へ落ち続けていた。

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