扉を押し開け、外へ出た。
石造りの通路。人気はない。
けれど、静寂ではなかった。
ずっと奥の方から、熱のようなざわめきが流れ込んでくる。
歓声。期待。興奮。
人の熱気だけが、壁の向こうから滲み出していた。
一歩、また一歩。その音へ向かって歩く。
落ち着かせるように前髪をかき上げ、こめかみを指でなぞる。流した髪を耳へ掛けた。
ふわりと、自分の匂いがした。
古い布の匂い。埃。そして、微かに焦げた魔力の残り香。
自然と視線が落ちる。
左手に握った短杖。擦れた木肌。削れた持ち手。
見栄えなんてしない。
肩を揺らすようにローブを払う。帽子についた埃がぱらりと落ちた。
そして、光の差し込む出口へ足を踏み出す。
――瞬間。
「ワァアアアアアアアッ!!」
歓声が叩きつけられた。
空気が震える。
曇天。分厚い雲。
空は灰色なのに、熱だけがそこにあった。
円形の広場。砂の敷き詰められた演武場。階段状に囲む観客席。
そこを埋め尽くす人、人、人。
さらに上段。ひときわ豪奢な席。
国の重鎮たち。氏族。王家関係者。軍関係者。
見られている。
いつ見ても、気味が悪い。
視線というものは、どうしてこうも粘つくのだろう。
ゆっくりと正面を見る。
そこに、一人の男が立っていた。
赤髪。
宮廷より支給された赤黒いローブ。装飾杖。胸元の紋章。
火の氏族、宮廷魔術師。
ヴァルドリック。
視線が合う。
その瞬間だった。
拡声魔術で増幅された声が、演武場全体へ響き渡る。
「これより、式典の余興として――宮廷魔術師同士による魔導演武を執り行います!」
歓声。
「宮廷魔術師、セレナ様!」
さらに歓声。
「宮廷魔術師、ヴァルドリック様!」
拍手。
「御二方、準備はよろしいですね?」
形式的な確認。
別に答える必要もない。
こういうものは、最初から始まっている。
表向きは国の安寧を祝う式典。
だが実際は違う。
派閥争い。牽制。品定め。王家への誇示。
誰が有能か。誰が使えるか。誰が上か。
その確認作業。
「銅鑼を!」
――ガァァァン。
重たい金属音が広場を震わせた。
開始の合図。
私は軽く杖を持ち上げる。
相手も同じように杖を傾けた。
一礼。
魔術学院で嫌というほど叩き込まれる礼儀作法。
礼儀、格式、作法。
そういうものを学院では美しく教える。
魔術師は高貴であれ。優雅であれ。誇り高くあれ。
だが、こんなものは最初だけだ。
始まってしまえば、礼儀など消え、最後に残るのは、火力と反応速度だけだ。
どれだけ美辞麗句を並べても、人は死ぬ時は醜い。
だから、この手の演武は嫌いだった。
皆、戦いを知らない顔で拍手をする。
距離がある。
会話もない。
やることは単純だった。
――先に見せた方が勝つ。
ヴァルドリックの杖が振られる。
次の瞬間、火が噴き上がった。
巨大な火球。
空気を焦がしながら一直線に迫る。
大きい。
人一人、簡単に飲み込める規模。
歓声が上がる。
私は杖を軽く振った。
「押せ」
風が巻き起こる。
爆ぜるような衝突音。
ボォン――ッ!!
火球と暴風が正面から噛み合う。
熱風。逆巻く圧力。
髪とローブが激しく揺れる。帽子を押さえる。
火球が押し潰され、弾け飛ぶ。
「ストームシフト」
巻き散った火の破片を、風で巻き上げる。
火種が空へ吸い込まれる。
「散れ」
パァァン――。
上空で火が炸裂した。
赤。橙。金。
花火のように散る炎。
そして、儚く消える。
観客席から感嘆が漏れた。
「おぉ……」
綺麗。
なんて、皮肉な芸なのかしら。
人を焼く力を、美しいと言って見上げる。
視線を戻す。
ヴァルドリックがこちらを睨んでいた。
なるほど。
やっと理解した顔。
試せる相手だと認識したのだろう。
……いいよ。
付き合ってあげる。
少なくとも、退屈な余興よりはマシだ。
再び、火が踊る。
赤い炎。橙の炎。青白い炎。
複数の火球が円を描きながら宙を巡る。
火球は必要以上に大きく、必要以上に鮮やかだった。
観客席の方へ熱が流れるよう、わざと軌道を調整している。
歓声が上がるたび、炎はさらに派手になる。
ああ。
見せている。
戦うためではない。
拍手を貰うための火だ。
王侯貴族は、ああいうものを好む。
舞台装飾のようだった。
杖を優雅に回す仕草。
見せる魔術。
まるで言っている。
――どうだ、美しいだろう、と。
火が地面を這う。
私を囲む。
円環。
逃げ場を潰す炎の檻。
近距離へ持ち込むつもりらしい。
距離があれば反応される。
ならば反応できない距離まで踏み込む。
単純な話。
ヴァルドリックが口を開く。
「魔法とは、本来こういうものだ」
周囲に聞かせる声。
「人を魅せ、畏れられる力」
火が揺れる。
「それに比べ、風魔法だと?」
嘲笑が混じる。
「宴会芸にもならん。煙すら残らない」
歓声が静まる。
観客が言葉を待っている。
「風魔法が宮廷魔術師とはな」
沈黙。
露骨な挑発。
私は、しばらく彼を見つめた。
風は残らない。
火みたいに焦げ跡もない。雷みたいに音もない。
見えない。
だから、人は軽く見る。
けれど。
見えないということは、理解した時には遅いということでもある。
風は、人を吹き飛ばす。息を奪う。骨を折る。
ただ、それだけ、そこに美しさなんて要らない。
そして。
ほんの少しだけ首を傾げる。
「……そう?」
静かに、そう返した。
場の空気が変わっていく。
目に見えるほどではない。けれど確かに、この闘技場の中心は彼へと傾き始めていた。
熱。
漂う火球。
地面を走る残火。
逃げ場を塞ぐように広がる炎。
彼が立っているだけで、この空間そのものが彼に都合よく組み替えられていく。
――制圧。
盤面を作る魔術師。
そういう類だ。
大方の魔法使いなら、ここまで整えられた時点で終わる。
炎に囲まれ、動線を制限され、距離を支配される。
あとは追い込まれるだけ。
だから普通は、ここまで組み上がる前に崩す。
牽制。妨害。詠唱阻害。
相手に盤面を作らせない。
魔術戦の基本。
じわり、と頬を撫でる熱。
気温そのものが上がっている。
観客席から歓声が響く。火は人を興奮させる。派手で、分かりやすく、美しい。
……本当に、趣味が悪い。
セレナは背後を横目で見る。
揺らめく炎の壁。
杖を軽く振る。
風が流れる。
ボゥ、と火が散る。
炎の壁が一瞬だけ崩れ、熱が逃げた。
だが、すぐに繋がる。
火は再び輪郭を取り戻し、逃げ場のないリングを形成した。
なるほど。
範囲維持。
制御は持続と包囲に寄っている。
「おいおい、余所見してんなぁ!」
男の声。
同時に、周囲を漂っていた火球が動き出す。
一つ。
二つ。
三つ。
途中で数えるのが面倒になった。
セレナは杖を向ける。
「──逸らせ」
風が走る。
ウインドフロウ。
迫る火球に風が触れた瞬間、軌道が僅かに歪む。
ボォオオンッ!!
地面へ逸れた火球が炸裂する。
砂が舞い、熱風が広がり、火の粉が散る。
一発。
二発。
三発。
次々と地面へ叩き落される。
砂地に残火が燃え広がる。
歓声が上がる。
炎が弾けるたび、貴族席の方から拍手が混じる。
セレナはその様子を静かに見ていた。
……粗い。
方向制御が甘い。
威力は悪くない。
だが、先程の火球も風圧だけで不安定化していた。
打ち勝つ火ではない。
押し切るための火でもない。
相手を動かすための火。
追い込むための火。
だが。
詠唱速度は速い。
放った直後には次の魔術を構築している。
視線も切らない。
本来なら息をつく暇すら与えない。
そして。
セレナの視線が地面へ落ちる。
燃え残り。
散った火。
リング状の炎。
詰められた距離。
逃げ道。
……ああ。
なんとなく見えた。
これは、狩りだ。
囲い込み。
逃走阻止。
狼の群れが獲物を追い立てる構図と同じ。
制御精度が多少粗くてもいい。
逃げ場を消し続ければ、人は勝手に追い詰められる。
その一点に特化している。
相手が自分でなければ、成立していただろう。
視線を上げる。
彼は既に次を完成させていた。
無数の火。
細い針。
赤熱する線。
一点貫通。
密度制御。
あれは当たれば刺さる。
ただでは済まない。
セレナは小さく息を吐いた。
「逃げられねぇぞ!」
火の針が、一斉に放たれる。
雨のように、殺到する。
──けれど。
「……?」
正面だけ?
違和感。
ここまで積み上げて、それだけ?
そんな単純な話ではない。
セレナは何も言わず、杖を振り上げた。
「ウインドシア」
風が広がる。
迫る火針が直前で軌道を変える。
空へ。
上へ。
流される。
その瞬間だった。
時間が緩やかになる。
側面。
火の壁。
風の流れに、違和感。
視線がゆっくり動く。
炎の壁が膨らむ。
せり出す。
形を持つ。
巨大な熱量。
火球。
隠していた本命。
「ああ」
思わず、小さく呟く。
なるほど。
予想通り。
火針で正面に意識を向けさせ、側面から押し潰す。
悪くない。
もし。
あれがリュシアのウインドブラストなら、危なかった。
反応が遅れていただろう。
けれど。
これは火だ。
見える。
流れる。
読める。
杖を握る腕を横へ払う。
風。
流れ。
巨大火球の進行方向が歪む。
そのまま。
返る。
「なっ──!?」
ヴァルドリックの顔色が変わる。
直後。
ボォオオオオンッ!!
巨大な火球が彼の眼前で炸裂した。
爆風。
熱風。
歓声。
悲鳴。
揺れる炎。
吹き荒れる風。
その様子を静かに帽子を押さえて眺めた。
なんて、退屈な余興。
そう思った。
爆ぜた火球の余韻が、闘技場に残っていた。
熱。
焼けた砂の匂い。
飛び散った火花が、黒煙の中で赤く明滅している。
爆発の衝撃で舞い上がった砂塵が、薄く空気を濁らせていた。
周囲ではまだ火が燃えている。
地面に散った残火が風に揺れ、小さく音を立てる。
……本来、この場は勝敗を決める場所ではない。
王家へ向けた演武。
形式。
見せるための魔術。
互いの技量を示し合うだけの場。
けれど。
手練と対峙した時、人はどうしても確かめたくなる。
どこまで通じるのか。
どこまで届くのか。
そして――どちらが上なのかを。
私は手袋の裾を軽く引いた。
白い布地を整えながら、指先の感覚を確かめる。
熱はない。
痺れもない。
もう片方も同じように直し、ゆっくりと手を開閉する。
それから杖を握った。
視線を前へ向ける。
瞬間。
黒煙の奥から火球が飛んだ。
速い。
だが単調。
杖を払う。
風が流れ、火球の軌道が逸れる。
一つ。
二つ。
三つ。
連続。
けれど規則性がある。
杖で弾くように風を当て続ける。
逸れた火球は地面へ着弾し、砂利を抉って火を散らした。
単純な速射。
威力より速度を優先した牽制。
芸はない。
だが、こういう単純な術ほど狙いが見えやすい。
視線を誘導するため。
考える時間を削るため。
つまり――本命は別。
黒煙。
あの中で何かを組み立てている。
なら、そろそろ。
火球を捌いている最中、不意に地面へ視線が落ちた。
火。
地を這うように赤い線が走る。
先ほどの火壁と同じ術式。
けれど速度は遅い。
むしろ露骨なほどに。
真っ直ぐこちらへ向かってくる。
火球を逸らす。
一歩横へ動けば避けられる。
簡単な処理。
簡単すぎる。
……誘導。
そう思った。
火走りへ注意を向けさせ、その隙を狙う。
視線を戻す。
正面。
迫る火球。
少し大きい。
けれど、それだけ。
――違う。
勘だった。
説明のつかない違和感。
火走りを避けるついでに半歩ずれる。
同時に、風を流した。
火球の進行を加速させるように。
そして。
すれ違う、その瞬間。
私は火球を見た。
鮮やかだった。
まるで硝子細工みたいに、歪に煌めいている。
次の瞬間。
ボォオオン――!!
爆音。
火炎が膨れ上がる。
爆ぜた熱風が正面から押し寄せる。
ローブの裾が揺れ、帽子が浮き上がりかける。
けれど、その流れだけが不自然に裂けた。
正面から叩きつけるはずの爆風が、彼女の身体を避けるように左右へ流れていく。
足元の砂だけが薄く舞い、熱は後方へ抜けていった。
熱風が闘技場を揺らし、観客席から歓声が沸き起こった。
「おおおおっ!!」
「決まったか!?」
「今のは入っただろ!」
歓声が上がる。
期待。
誰もが爆炎を見つめる。
けれど、その声のほとんどは爆発の派手さへ向けられたものだった。
今の一瞬で何が起きたのか。
どちらが誘導し、どちらが読み切ったのか。
理解できている者は、この場にはほとんどいない。
その中心。
黒煙がゆっくりと漂う。
そこへ風が生まれた。
渦を巻くように煙が裂け、押し流され、視界が開く。
私はそこに立っていた。
帽子を片手で押さえながら。
爆発の至近距離。
にも関わらず、ローブの乱れさえ少ない。
静寂。
ヴァルドリックがこちらを見る。
彼の周囲には既に次の火球が浮かんでいた。
焦り。
熱。
闘争心。
それらを隠しきれない目。
私は頬についた土埃を指で払った。
「今のが駄目なのかよ」
黒煙の奥。
火の揺らぎの中で、彼の口元が吊り上がっていた。
悔しさではない。
怒りでもない。
獲物を見つけた獣みたいな笑い方だった。
目が熱を帯びている。
宮廷魔術師としてではなく、一人の魔法使いとして高揚しているのが分かった。
その顔を見て、理解する。
……本命は正面だった。
芸を捨てた。
魅せるためではなく、勝つための魔法。
焦っている。
手札が減ってきている。
それでも押し切ろうとしている。
私は小さく息を吐いた。
「風魔法相手に爆風は、ないんじゃない?」
淡々と告げる。
「それとも、効くと思ったの?」
ヴァルドリックは口元を歪めた。
怒ってはいない。
むしろ、満足そうだった。
「いーや」
杖を構えたまま、彼は笑う。
「やっと一歩、動いてくれたな」
その言葉と共に。
周囲の火が、わずかに揺れた。