ヴァルドリックの声が、広場に響く。
「おい! 仕掛けてこいよ! 楽しくなってきたじゃねぇか」
その言葉に返す必要はなかった。
返す理由も、意味も見当たらない。
ただ、静かに杖を持つ手をわずかに持ち上げ、掌を差し出すようにして示す。
どうぞ、と。
その所作だけで十分だった。
「じゃあ、心置きなくさせてもらう」
ヴァルドリックの周囲に漂っていた火球が、ゆっくりと変質を始める。
個別に散っていた炎が、溶け合うように一つへと収束していく。
周囲を巡っていた火の粉も、逃げ道を塞ぐように配置された火の輪も、すべてが彼のそばへと吸い寄せられていく。
やがてそれは、一つの巨大な火球へと姿を変えた。
ただ眺める。
爆風で頬を叩いた、髪が跳ねている。
それを片手で掻き上げ、何事もないようにこめかみを撫でて耳へと流す。
熱が空間ごと塗り替えられていく。
残り火が引き寄せられ、視界の端で空気が歪む。
杖を握り直し、視線を上げる。
その火球の中で、何かが形を持ちはじめていた。
翼。
嘴のように尖った頭部。
そして全体を包む、鳥のような輪郭。
まるで卵から生まれ出る瞬間を再現するかのように、巨大な火の鳥が姿を成していく。
「鳥、か」
思わず、心の中でだけそう呟く。
猛獣のような荒々しさを選ぶかと思っていた。
だが彼は、より見せることを選んだ。
宮廷魔術師としては正しい。
むしろ完成度が高いと言っていい。
火の鳥は羽ばたくたびに、熱と光と歓声を撒き散らす。
そして、闘技場の石畳がパキパキと乾いた音を立ててひび割れる。
前列の観客が思わず顔を庇い、熱に耐えるように身を引いた。
空気が重い。
呼吸をする度に肺の奥が焼けるようだった。
観客席が沸き立ち、空気そのものが興奮に染まっていく。
歓声は頂点へ向かって積み上がっていた。
セレナはその全てを横目で観測する。
魔力の注ぎ込み方、制御の密度、持続性。
いずれもこれまでとは比べ物にならない。
単独制御。
完全な自己完結型の魔術構築。
風で逸らすだけでは足りない。
上昇する熱流を利用している以上、単純な干渉では崩れない。
物理的に叩き落とすには密度が足りず、部分破壊では再構築される。
つまり、これは――
壊すこと前提で成立している魔法。
それでもなお。
私の中に焦りはない。
ただ、評価が一つ増えるだけだ。
過剰火力。
過剰演出。
そして、過剰な自己表現。
(追い込んだ、というより……勝手に追い込まれているだけ)
火の鳥が視線を持ったように見えた瞬間、こちらへ飛びかかる。
迫る赤。橙。黄色。
視界が火で埋まる。
セレナは杖を構える。
「ウインドシア」
振り下ろしは一度。
それだけで、空気が変わった。
ふゅぉおお、と低く歪んだ風音。
上空から押し潰すような圧力が落ちる。
火の鳥の飛翔軌道が歪み、その巨体が地面へ叩き落とされる。
さらに追撃のように、風の塊が圧となり分割され降り注ぐ。
「なっ……!!」
ヴァルドリックの声が途切れる。
地面に落ちた火の鳥は爆ぜることもなく、崩れるように熱の塊へ戻り、ゆっくりと散っていった。
「おわりね」
それだけを告げ、炎の残滓を眺める。
崩れた炎は、結局ただの火に戻っていく。
……やっぱり、最後はそうなる。
ほんの少しだけ、息を吐いた。
観客席が一拍遅れて爆発するように沸き上がる。
拍手。歓声。叫び。
「すげぇ!」
「火の鳥を落としたぞ!」
「あれが宮廷魔術師……!」
飛び交う歓声。
けれど、そのどれもが妙に遠かった。
誰も、あの魔法がどう崩されたのかを見ていない。
見えているのは、ただ派手な結果だけ。
「素晴らしい魔法の応酬でした! 両名の魔術の妙技に、盛大な拍手を!」
式典の進行役の声が場を締める。
「セレナ様、ヴァルドリック様。両名の御活躍により、この国の安寧は示されました。魔術の力は、今もなお我らの象徴であります!」
観客の熱は収まらない。
称賛も、興奮も、理解も混ざらないまま渦を巻いている。
セレナは観客へ向けて、小さく手を振る。
形式としての動作。意味はない。
視線を巡らせると、貴族席の一角に目が留まる。
宮廷魔術師ローレンス。
重要な場面であるはずなのに、老人はうたた寝をしている。
その隣には馭者のエドガー。
場違いなほど軽く、こちらへ手を振っていた。
(まぁ、いつものこと)
この場は、王の意向とローレンスの気まぐれが混ざった見せ場だった。
そのために呼ばれ、そのために立っている。
杖を収める。
ふと視線を戻すと、ヴァルドリックがまだこちらを見ていた。
その目だけが、まだ戦いの続きのように残っていた。
演武が終わった後も、会場の熱はまだ死んでいなかった。
石畳に残る焦げ跡。
焼けた空気。
舞い上がった砂埃。
興奮冷めやらぬ観客たちの声。
勝敗を語る貴族たち。
派手だった魔法を誇張して話す学生たち。
宮廷魔術師の技量を称賛する声。
歓声は未だ渦を巻き、会場の中心では司会者が余韻を引き延ばすように声を張っている。
けれど、そのどれもが遠かった。
まるで厚い膜を一枚隔てた向こう側。
焼けた空気の流れを、僅かに風が押し流していく。
火の残滓がまだ鼻についた。
聞こえてはいる。
けれど意味を持たない。
会場裏の通路を静かに歩いていた。
宮廷魔術師の帽子を被り直し、短杖を腰へ戻す。
長く息を吐く。
疲労感はない。
ただ――面倒だった。
演武そのものは大した問題ではない。
あれくらい、別に難しくもない。
問題なのは、その後だ。
視線。
評価。
探り。
媚び。
警戒。
強い者には、必ず人が寄ってくる。
憧れ、恐れ、利用価値を測りながら。
それが嫌いだった。
通路の窓から夕焼けが差し込む。
石壁が赤く染まり、細く長い影を床へ落としていた。
早く席へ戻ろう。
そう思った時だった。
「あー、待て待て」
後ろから声。
熱の残った男の声だった。
聞き覚えがある。
振り返る前から、誰なのか分かっていた。
「……何?」
億劫そうに返すと、背後で笑う気配。
「随分つれねぇな」
ヴァルドリックだった。
帽子を片手で外し、乱暴に赤髪を掻き上げながら近付いてくる。
演武直後だというのに、不思議と機嫌が良さそうだった。
敗者の顔ではない。
悔しさはあるのだろう。
だがそれ以上に――面白がっている。
ようやく退屈を壊す何かを見つけた人間の顔。
「いやぁ、参ったわ。あそこまで綺麗に落とされるとは思わなかった」
「そう?」
「そう?、で終わらせるなよ。少しは会話しろ」
「必要?」
「ねぇな」
即答だった。
私は少しだけ目を細め、可笑しいと思った。
この男は妙に正直だ。
打算を隠そうとしない。
自信を隠そうとしない。
敵意すら半分見せたまま話す。
だから逆に読みやすい。
彼は前へ回り込み、通路の壁へ肩を預けた。
進路を塞ぐ形。
「……お前、いつもそんな感じなのか?」
「そんな感じって?」
「人を見てんのか見てねぇのかわからねぇ感じ」
「見てるわよ」
「怖ぇこと言うな」
軽口だった。
けれど、その目だけは違った。
演武中と同じ目。
熱を帯びた獣のような目ではない。
今はもっと静かだ。
測っている。
こちらの輪郭を。
深さを。
どこまで踏み込めるかを。
面倒だな、と思う。
こういう人間は勘がいい。
「エドガーから聞いた」
唐突に、彼の口から放たれる。
その瞬間だけ、足が止まる。
「……何を?」
「妹がいるんだろ」
空気が静かに冷えた。
ほんの一瞬。
眉間に微かな皺が寄る。
指先が止まり、帽子の鍔へ触れていた手が、わずかに力を込めた。
呼吸が一拍だけ遅れる。
それだけ。
それだけの変化だった。
「やっと反応したな」
「エドガー、余計なことを……」
小さく吐き捨てる。
あの馭者は妙なところで口が軽い。
「別に悪ぃ話じゃねぇよ」
ヴァルドリックは肩を竦めた。
「俺にも妹がいる。魔術学院にな。年も近い。たしか……お前の妹の一つ下くらいだったか」
返事をしなかった。
だがヴァルドリックは気にせず続ける。
「学院の出だ。まぁ出来も悪くねぇ。少しませてるが、自信家でな。お前と違って愛想はある」
「そう」
「年近いなら知り合いになるのも悪くねぇだろ。妹経由ならお前とも多少話しやすくなる」
そこで少し笑う。
「……で、妹さんはどんなやつなんだ?」
黙って彼を見る。
怒っているわけではない。
値踏みしているわけでもない。
ただ見ている。
この男が、どこまで踏み込むつもりなのか。
「あなたに何の関係があるの?」
「警戒しすぎだろ」
「質問に答えて」
少し間。
ヴァルドリックは小さく息を吐いた。
「……ただの興味だ」
「嘘ね」
即答。
彼は苦笑しながら両手を上げた。
「まぁ、打算込みだ。お前、宮廷でも浮いてるだろ。敵に回すより、多少繋がり持っといた方が利口だ」
「正直でよろしい」
「だろ?」
薄暗い夕焼けが通路へ差し込む。
赤い光が石壁を染め、二人の影を長く引き延ばしていた。
窓へ視線を向ける。
「……妹は学院には行ってない」
「学院には行かせなかったのか?」
ヴァルドリックが何気なく聞く。
少しだけ黙った。
「……行かせたくなかったのよ」
「あの子、昔から冒険者に憧れてたわ。兄さんの影響でね」
小さく息を吐く。
「止めても無駄だと思った」
あれは憧れではない。
もっと厄介なものだ。
一度行くと決めたら、自分で傷付いてでも進む。
誰に似たのか。
……考えるまでもない。
「だから事前に調べたの」
ローデニカ。
大都市から離れた農業街。
荒れすぎてもいない。平和すぎもしない。
冒険者が生きるには、まだ現実的な場所。
「兄さんからも話を聞いていたわ。もし"冒険者になるなら、ある男のところへ行け"って」
ヴァルドリックが少し眉を上げる。
「男?」
「ええ。ローデニカの冒険者」
セレナは淡々と続ける。
「万年Dランク。愛想もない。金にも夢にも執着が薄い」
そこまで言ってから、ほんの少しだけ視線を伏せた。
「……でも、そうね。死ぬべき場所を知ってる人」
通路に沈黙が落ちる。
「兄さんは、あの人なら最低限、"無茶を止める側"には回るって言ってた」
遠く、夕焼けの向こう。
ローデニカの街並みを思い出すように。
「だから行かせた」
諦めと最低限生き残ってほしいという願い。
「……まぁ、あの子の場合。安全なんて意味を持たないけれど」
彼は少し意外そうに眉を上げた。
そうだろう。
宮廷魔術師の妹。
当然、学院側の人間だと思っての価値。
そういう計算をする人間の顔。
ゆっくり彼を見る。
「先に言っておくけど」
声が、ほんの少し低くなる。
「余計なことを考えないで」
ヴァルドリックが目を細める。
「余計ってのは?」
「街。ギルド。冒険者」
一拍。
「あの子に敵意を向けるなら」
そこで言葉を切る。
空気が止まる。
「容赦はしない」
淡々とした声で、怒気もない。威圧もない。
脅しのつもりで言ったわけでもない。
その言葉にヴァルドリックは反射的に息を止めたようだった。
数秒遅れてから、ヴァルドリックはようやく乾いた笑みを浮かべた。
「……怖ぇ姉貴だな」
答えない。
「ただの妹自慢じゃ済まねぇか」
「済ませる気もないわ」
「なるほどなぁ……」
ヴァルドリックは頭を掻きながら天井を見上げた。
そして小さく笑う。
「ますます、わけわかんねぇ女だ」
「褒め言葉として受け取っておくわ」
「褒めてねぇよ」
短い沈黙。
やがてヴァルドリックは壁から身体を起こした。
「……まぁ安心しろ。別に喧嘩売る気はねぇ」
そう言いながら、口元だけ少し笑う。
「むしろ逆だ。お前の妹、ちょっと興味出てきた」
「やめておきなさい」
「なんでだ?」
少しだけ目を伏せた。
本当に、ほんの少し。
だが確かに。
そこには微かな疲労が滲んでいた。
「……あの子、あなたが思ってるより面倒だから」
その言葉だけを残して、歩き出す。
夕焼けの通路。
赤黒く染まる石壁。
遠くから響く歓声。
その背中を、ヴァルドリックは黙って見送っていた。
「面倒、ねぇ……」
小さく呟く。
その声音は、どこか楽しそうだった。
まるで。
危険だと知りながら、火へ近付こうとする人間のように。