次の日は、晴れていた。
昨日まで降り続いていた雨の名残が、まだ街のあちこちに残っている。
湿った石畳。
軒先から落ちる水滴。
水溜まりを揺らす、小さな波紋。
ぽちゃん。
ぽちゃん。
どこかで、水の落ちる音が響いていた。
朝はまだ早い。
街も完全には起ききっていない。
荷運びの音。
パンを焼く匂い。
遠くで誰かが桶をひっくり返した音。
静かな朝だった。
私はいつもの服へ袖を通し、レザー装備を身につける。
おばさんから借りた服じゃない。
雑貨屋で買った間に合わせでもない。
腰のポーチ。
短剣。
杖。
少し擦れた革の感触。
ちゃんと、自分のものだった。
ギルド前へ辿り着く。
昨日、おじさんが言っていた通り。
晴れた朝。
そこには、大きなキャリッジが停まっていた。
二頭立て。
……けれど、馬じゃない。
思わず立ち止まる。
大きい。
見上げるほど背が高い。
羽毛に覆われた身体。
鋭い黄色の嘴。
鷲のような顔つき。
けれど鷲より遥かに大きい。
その生き物が、荷車を引いていた。
「お嬢ちゃんも待ち人かい?」
不意に声を掛けられる。
振り向くと、キャリッジ脇に立っていた男性がこちらを見ていた。
日に焼けた肌。
無精髭。
どこか陽気そうな顔。
この人が馭者だろうか。
「はい」
「もしかして、ガルドさん待ちか?」
一瞬、返事に詰まる。
どうして分かったんだろう。
「……どうして、分かったんですか?」
男は笑う。
「そりゃ簡単だ。俺もガルドさん待ちだからな」
そう言って、大きな鳥の首筋を撫でた。
「俺はレイブン」
「リュシア、です。Eランクの冒険者の……」
最後だけ、少し声が小さくなる。
けれど、ちゃんと言えた。
レイブンは特に気にした様子もなく頷く。
「じゃあ、ガルドさん来るまで俺達は待ちぼうけだな」
彼はキャリッジの方を親指で示した。
「良かったら客室で待っててもいいぞ?」
私はキャビンを見る。
森へ向かう足。
たぶん、これを使うんだろう。
一歩、前へ出る。
けれど。
そこで足が止まった。
もし。
乗った瞬間に走り出したら。
もし。
中に誰か隠れていたら。
もし。
扉を閉められたら。
背中を冷たいものが這う。
彼の声は自然だった。
笑顔も自然だった。
不自然なくらいに。
キャビンを覗く。
人影はない。
荷物も少ない。
隠れている様子もない。
けれど。
信用していいかは別だった。
私は曖昧に視線を逸らす。
「……大丈夫です」
「そうか?」
レイブンは特に気分を害した様子もなく肩を竦めた。
その時だった。
ふと、視線が鳥へ向く。
大きな羽毛。
爪。
筋肉の盛り上がった脚。
見たことのない生き物。
そちらの方が、少し気になった。
私はゆっくり近付く。
「お前さん、こいつ気になるのか?」
「……魔物、ですか?」
「まぁな」
「こういうのって、普通は馬とかじゃないんですか?」
一瞬。
レイブンがぽかんとしたあと。
「普通だぁ!? ハハハハッ!」
大きく笑った。
私は少し困る。
何か変なことを言ったんだろうか。
「いや悪ぃ悪ぃ。まぁ、そうだな。運搬なんざ、走れて運べりゃ何でもいい。馬力があって頑丈で病気知らずならなおさらだ」
彼は鳥の首を軽く叩く。
その度に羽毛が揺れた。
「触ってもいいんですか?」
気付けば聞いていた。
彼はニヤリと笑う。
「ああ、いいぞ。ただし気を付けろよ」
「……?」
「そのまま触ると急に怒り出して、頭かち割って脳をすすり始める」
思わず手が引っ込む。
「えっ」
レイブンが吹き出した。
「冗談だよ冗談。まぁ嘴で突かれるのは本当だ」
怖い。
本当なのか冗談なのか分からない。
「こいつらな、自分で触らせる相手選ぶんだ。妙にプライド高ぇから」
鳥はこちらを見ていた。
鋭い眼。
獲物を見るみたいな目。
「知らないやつに急に触られたら嫌だろ?」
その言葉。
その瞬間だった。
昨日の感触が脳裏を掠める。
男の手。
強引に引き寄せられた身体。
抱き締められた感触。
ドクン、と心臓が鳴る。
「あ……」
違う。
そんな意味じゃ。
レイブンは少しだけ目を細めた。
けれど、それ以上は何も聞かなかった。
「まぁ安心しろ。ちゃんと挨拶すりゃ、こいつら案外気がいい」
彼は手招きする。
「前に立ってみな」
私は恐る恐る鳥の前へ立つ。
近い。
大きい。
視線が合う。
黄色い嘴。
鋭い瞳。
僅かに揺れる羽毛。
後ろから声を掛ける。
「ゆっくり頭下げろ。腰からだ」
私は言われた通りにする。
頭を下げる。
視界から鳥が消える。
息を呑んだ。
今なら頭を突かれるかもしれない。
脳を啜られるかもしれない。
心臓の音だけが耳に響いた。
「……もういいぞ」
ゆっくり顔を上げる。
その先。
鳥が、こちらへ頭を下げていた。
「これで挨拶終わりだ」
彼が笑う。
「もう触っても平気だぞ」
私は恐る恐る手を伸ばす。
嘴へ触れる。
ひやりとして、滑らかだった。
ツルツルしている。
その瞬間。
ぱくり。
「ひゃっ!?」
嘴に手を咥えられ、尻もちをつく。
レイブンが腹を抱えて笑った。
「ハハハ! 気に入られたな!」
鳥は頭を下げて、こちらへ擦り寄せてくる。
「驚かせて悪かったってよ」
本当にそうなのかは分からない。
けれど。
どこか、そんな風にも見えた。
私はもう一度近付く。
すると鳥は身体を寄せてきた。
ぐい、と押される。
「あ、えっ……」
頭を擦りつけてくる。
温かい。
羽毛が頬へ触れる。
柔らかい。
獣の匂い。
熱。
生き物の体温。
私は恐る恐る両腕を回した。
抱きつく。
ふわりと羽毛が沈む。
柔らかかった。
安心する。
包まれるみたいだった。
「あの……この鳥、なんて名前なんですか?」
レイブンは笑う。
「バッククリフだ」
鳥は満足そうに鼻を鳴らした。
「心地良いだろ?」
……うん。
少しだけ。
本当に。
そうしているうちに、ギルドの扉が軋みながら開いた。
朝の湿った空気が流れ、それと同時に、聞き慣れた男の声が響く。
「なんだ、もう集まってたのか」
ガルドだった。
寝起きのように頭を掻きながら、大きくあくびをしている。
緊張感なんて欠片もない。
まるで近所へ散歩にでも行くみたいな顔だった。
レイブンが御者席から振り返る。
「お疲れさまです。いつでも出れますよ。すぐ出るかい?」
「じゃあ頼む」
ガルドはそう言うと、こちらへ視線を向けた。
「ほら、じゃれ合ってないで乗れ乗れ」
私は少しだけ名残惜しく、バッククリフの羽毛から身体を離した。
柔らかかった。
温かかった。
あの大きな鳥の体温が、まだ腕に残っている気がした。
ガルドはキャビンの扉を開けたまま待っている。
「お嬢さんは、キャビン乗るのに手ぇ繋いだほうがいいか?」
「……平気です。要らないです」
即答して、手を掛けて乗り込む。
「じゃ、さっさと乗れ」
ぶっきらぼうに言いながら、自分も後から荷物を持って乗り込んできた。
ギッ、と椅子が軋む。
ガルドは足を広げ、背もたれへ深く身体を預けた。
「まぁ、気張るな。気楽にな」
そう言った直後だった。
ガタン、と揺れが来る。
キャリッジが動き出した。
石畳を転がる車輪の音。
バッククリフの足音。
時折鳴る金具の擦れる音。
窓の外を、街並みがゆっくり流れていく。
私は窓へ寄り、外を眺めた。
人々。
店。
濡れた石畳。
朝の市場。
まだ完全には目覚めきっていない街。
ここへ来た時も、こうして外を見ていた。
あの時は、胸が高鳴っていた。
冒険者になる。
冒険が始まる。
物語が始まる。
本気で、そう思っていた。
でも実際はどうだった。
仮の冒険者証を受け取り、ダンジョンへ行き。
依頼も受けず。
ゴブリンに囲まれて。
死にかけた。
窓へ頭を預ける。
エルネの顔が浮かぶ。
あの時。
もし、ほんの少し違っていたら。
私は、そこで終わっていたんじゃないかと思う。
『運が良かったな』
ガルドはそう言った。
それだけだった。
慰めでもなく。
説教でもなく。
ただ、事実みたいに。
グゴゴ……。
奇妙な音が隣から聞こえた。
視線を向ける。
ガルドが眠っていた。
顔を上へ向け、口を少し開けている。
今から依頼へ向かう人間とは思えない。
(……大丈夫なの、この人)
不安になる。
けれど、あの時助けてくれたのも、この人だった。
キャリッジは街を抜け、平原へ出る。
遠くまで伸びる草原。
風に揺れる木々。
時折見える冒険者たちの姿。
さらに進むと、森へ入った。
街道を外れた瞬間、揺れが大きくなり、ガタガタと身体が跳ねる。
いつの間にか、鳥の鳴き声が減っていた。
街道沿いでは聞こえていた羽音も、小動物の気配も薄い。
木々が増えるたびに、空気が重くなる。
湿っているのに、妙に乾いた匂い。
窓の外を流れる森は、どこも同じように見えた。
なのに。
奥へ進むほど、何かに見られているような感覚だけが残る。
私は無意識に窓から顔を離した。
その瞬間だった。
前方のバッククリフが、小さく喉を鳴らした。
レイブンが手綱を軽く引く。
「……あんまり奥は好きじゃないんだよな、こいつら」
「魔物がいるからですか?」
「いや」
レイブンは少しだけ笑った。
「森が嫌いなんだよ」
意味が分からなかった。
そして、しばらくして。
キャリッジが止まった。
ガルドはまだ寝ていた。
私は少し迷ってから、杖の先で彼の頬を押す。
「おじさん。止まりました」
「んが……あ?」
「着いたみたいです」
「ああ……」
呻き声みたいな返事をして、ガルドは身体を起こした。
扉が開く。
レイブンだった。
「ここまでですね。ギルドに言われたのはここまでです。帰りは自分の足でお願いします」
「ああ、助かった」
ガルドは片手を軽く上げる。
私も少し迷ってから口を開いた。
「……ありがとうございます」
これで合っているはずだった。
レイブンは笑う。
「どういたしまして。またバッククリフと仲良くしてやってくれ」
「はい」
扉が閉まる。
バッククリフが向きを変え、キャリッジがゆっくりと戻っていく。
その後ろ姿を見送った。
「じゃあ行くか」
ガルドが森の奥を見ながら言う。
「どこまで行くんですか?」
「もっと奥だ」
短い返事。
「ギルドが立ち入り制限してる場所がある。そこまでだな」
思わず眉を寄せた。
「……そこまで奥なら、人に被害出ないんじゃないですか?」
「ん? ああ……」
一度だけこちらを見る。
「この奥にも住んでる奴らがいる」
「会えば分かる」
もったいぶるような言い方だった。
(言ってくれればいいのに……)
そんなことを思っていると、ガルドが足を止めた。
「そうだ。言っとかなきゃならねぇことがあった」
横目でこちらを見る。
「この依頼、俺がリーダーだ」
少しだけ空気が変わる。
「五つ、俺の言うことを聞け」
条件。
そう言われた瞬間、不思議と少し安心してしまった。
命令なら従えばいい。
全部自分で決めて、失敗するよりは。
「一つ目。森に入ったら俺より前に出るな」
反射的に口を開きかけて、閉じた。
前に出るな。
つまり。
「前に出た奴から死ぬ」
その言葉のあとだけだった。
ガルドの目が、こちらを見ていなかった。
もっと遠く。
今ここじゃない何かを見るみたいに、暗い森の奥へ視線を向けている。
ただ脅しているわけじゃない。
本当に、前に出て死んだ誰かを見てきたような目だった。
私は無意識に喉を鳴らしていた。
軽く言っているはずなのに。
冗談みたいに聞こえない。
「二つ目。最初に逃げ道を作れ」
討伐なのに?
疑問は浮かぶ。
でも、口には出さなかった。
逃げ場を失って、周りが見えなくなった。
あの時みたいに。
(……逃げる準備から始める戦い)
姉さまから教わった事には、そんな考え方はなかった。
「三つ目。一撃で仕留めようとするな」
違う。
そうじゃない。
心のどこかで、そう思ってしまった。
強い人は、一撃で終わらせる。
姉さまも。
私が憧れてきたものは、全部そうだ。
速く。
綺麗で。
圧倒的で。
だからこそ、ガルドの言葉が理解しきれなかった。
決められる時に決めないなんて、
そんな戦い方で、本当に強くなれるんだろうか。
――でも。
ゴブリンに囲まれた時の光景が脳裏を過ぎる。
杖を握る手へ、じわりと汗が滲んだ。
胸がちくりと痛む。
図星だった。
私はいつも、決めたくなる。
ここだと思った瞬間、全部を賭けたくなる。
「新人がよく死ぬ理由だ」
背中が冷える。
何も言えなかった。
「四つ目。俺が引くぞって言ったら理由を聞くな」
逃げる。
それを恥だと思っていた。
「死ぬのが負けだ」
その言葉だけが、胸へ深く残る。
負けたくない。
でも。
死にたくない。
その順番を、私は間違えていたのかもしれない。
「五つ目」
ガルドは少しだけ振り返った。
「自分が強いと思うな」
心臓を掴まれた気がした。
ドクン、と胸が鳴る。
「運が良かった日と、本当に強くなった日は――」
その続きを、聞くのが怖かった。
私は杖を握る。
「……全部、守ります」
気づけば、そう言っていた。
約束というより。
すがるみたいに。
「守れ」
ガルドは前を向く。
「ただ、生きて帰れるかどうかだ」
その背中が森の奥へ入っていく。
「守れたら、帰り道で六つ目を教えてやる」
六つ目。
それが何なのか。
今はまだ、聞いてはいけない気がした。
私はその背中を追う。
湿った森の匂い。
揺れる木々。
薄暗い獣道。
(……生きて帰る)
それだけを胸の中で繰り返しながら、私は森へ足を踏み入れた。