「ウィンドブラスト!」
圧縮された風が正面へ走った。
鈍い衝突音。
ゴブリンの身体がまとめて吹き飛ぶ。
「ギャァァァ!」
悲鳴。
うめき声。
木々の隙間から差し込む光の中で、緑色の肌と赤い血が入り混じった。
吹き飛ばされた一体が地面を転がる。
まだ生きている。
逃げるように立ち上がった。
逃がす理由はなかった。
杖を向ける。
風が生まれる。
背中へ直撃した。
肉が弾ける。
血が飛ぶ。
転がる。
動かなくなり、森が静かになった。
視界の中で動くものはいない。
ゴブリンを倒した。
胸が上下する。
息が荒い。
けれど、傷はない。
生きている。
その事実だけが妙に現実感を持っていた。
「急に飛び出しやがって」
後ろから声が飛ぶ。
ガルドだった。
「前に出るなって言っただろ」
振り返る。
言い返そうとして言葉が詰まる。
少しだけ視線を逸らした。
「……すみません」
それでも続ける。
「でも、全員倒せました」
言葉にした瞬間、自分でも少し期待していた。
褒められるかもしれない。
認められるかもしれない。
そんな期待だった。
ガルドは死体を見てから、私を見る。
そして、
「運が良かったな」
それだけ言った。
私は思わず眉を寄せる。
「それだけですか……?」
「十分だろ」
吐き捨てるように返す。
ナイフを抜いて死体へ向かう。
蹴る。
転がす。
「運が悪かった奴は感想を言えねぇ」
森に沈むような声だった。
返す言葉が見つからない。
私は黙ってゴブリンへ近付いた。
死体を見下ろす。
もう動かない。
死んでいる。
死んでいるはずなのに。
杖を握る手に力が入った。
黄ばんだ歯。
汚れた爪。
小さな目。
囲まれた時の光景が脳裏に浮かぶ。
ジャイアントバット。
ゴブリンロード。
ラウドたち。
自分の失敗。
自分の無力。
全部が混ざる。
ぐるぐると頭の中を回る。
気付けば杖を向けていた。
ドン。
風が死体を叩く。
肉が飛ぶ。
骨が砕ける。
もう一度。
ドン。
さらにもう一度。
ドンッ。
気付けば。
そこにゴブリンの形は残っていなかった。
肉片だけが散らばっている。
「あ……」
何をしているんだろう。
恨みだろうか。
怒りだろうか。
憎しみだろうか。
違う気がした。
もっと別のもの。
もっと近い場所にあるもの。
自分自身へ向けた何か。
「おい」
声がした。
顔を上げる。
ガルドがこちらを見ていた。
「そいつもう死んでるぞ」
少しだけ。
本当に少しだけ。
私を見ていた。
怒っているわけでもない。呆れているわけでもない。
ただ、何かを確かめるように。
私が何に腹を立てているのか。
それを見ているようだった。
視線を落とす。
確かに死んでいる。
「もうやめとけ」
少しだけ間を置いて、
「死んでるやつは八つ当たりしても反省してくれねぇ」
そう言われて。
ようやく杖が下がった。
息を吐く。
血の臭い。
獣臭。
鉄のような匂い。
気持ち悪くなって顔をしかめる。
その場から離れた。
彼の方へ向いた。
「……何してるんですか?」
ガルドを見る。
彼は死体を調べていた。
魔石を探しているようには見えない。
「ああ」
ナイフを動かしながら答える。
「ちょっとな」
「面白いもんが見れる」
そう言ってゴブリンの顎を持ち上げた。
口を開く。
黄ばんだ歯が並ぶ。
「顔寄せろ」
嫌だった。
でも従う。
隣へしゃがみ込む。
「歯の隙間見ろ」
言われて見る。
確かに何か挟まっている。
「種だな」
ガルドは言う。
「植物繊維もある」
ナイフの先が腹へ向く。
「痩せてる」
「植物食中心だ」
「狩りが下手な奴らだな」
私は首を傾げた。
「分かるんですか?」
「慣れだ」
そう言って肩を竦める。
「こいつが成体だ」
「大人ってことですか?」
「ああ」
ガルドは頷く。
「季節が変わる頃にはここまで育つ」
「二つ三つ季節が過ぎりゃ繁殖する」
思った以上に早い。
だから増える。
だから厄介なのだろう。
ガルドは続けた。
「逆に気を付けるのは太ったゴブリンだ」
「肉を食い始めたやつだ」
そこで少しだけ表情が変わる。
「特にゴブリンロードな」
私は思わず口を開く。
「前に戦ったやつ……」
「ああ」
ガルドは頷いた。
「そいつだ」
洞窟で見たあの赤いゴブリン。
嫌でも思い出す。
「ああいうのがいると周りが変わる」
ナイフで地面を指す。
「群れをまとめる」
「生き物を狩り尽くす」
「人間も襲う」
「増える」
静かに聞く。
森の空気が少し重くなる。
「だから兆候を見る」
ガルドは立ち上がった。
「ゴブリンだけじゃねぇ」
「どんな魔物にもサインがある」
「痩せてる」
「増えてる」
「減ってる」
「逃げてる」
「集まってる」
「全部理由がある」
私は死体を見る。
さっきまでただ気持ち悪いだけだった。
今は少し違う。
そこに情報がある。
意味がある。
「そういうのはな」
ガルドはナイフをしまう。
「気付ければ見える」
少し笑う。
「まぁ、最初から気付けたら苦労しねぇがな」
そう言って歩き出した。
私はもう一度だけ死体を見た。
さっきまでの怒りは少し薄れていた。
おじさんが見ていたものを探している自分がいた。
このゴブリンは何を食べていたのか。
どこから来たのか。
群れはどれくらいいるのか。
そんなことを考えている。
……少しだけ。
冒険者らしい考え方なのかもしれなかった。
その背中を追いながら、足を踏み出した。
何も言わない時間だった。
ただ歩く時間。
それだけのはずなのに、妙に長く感じる。
ガルドは半歩前を歩いていた。
その背中を見るでもなく、横顔を見るでもなく、私は時折その様子を盗み見ていた。
眠そうだった。
欠伸を噛み殺すように口を開き、半分閉じたまぶたのまま歩いている。
やる気があるようには見えない。
今朝の出発から変わらない。
いつも、ギルドで椅子に座っていた時も。
怪我人を運んでいた時も。
ゴブリンを見つけた時も。
いつも同じだった。
焦らない。
慌てない。
驚かない。
起きたことを確認して、それについて一言だけ言う。
『運が良かったな』
それだけ。
褒めることもしない。
大袈裟に叱ることもしない。
姉のように強い言葉で諭すこともない。
かといって無関心というわけでもない。
妙な距離感だった。
近いようで遠い。
遠いようで、ちゃんと見ている。
それが何なのか、まだ上手く言葉にできなかった。
視線を森へ向ける。
いつの間にか景色が変わっていた。
木々が太い。
背が高い。
最初はちらほら混じる程度だった大木が、今では辺り一面を埋め尽くしている。
根が盛り上がり、地面を押し上げる。
絡み合った根が自然の柵のようになり、進路を塞ぐ。
避けて進み、跨ぎ、乗り越える。
ふと上を見る。
木々の葉が空を覆っていた。
重なり合う枝葉が巨大な天井のようになっている。
その隙間から差し込む光だけが、揺れていた。
風が吹くたびに木漏れ日が形を変える。
影が流れる。
地面が呼吸しているようだった。
背の高い草は少ない。
苔。
藻。
低い草。
どこか湿っぽい。
風は通るはずなのに空気が淀んでいる。
鼻をつく湿った土の匂い。
昨日の雨のせいだろうか。
靴が少し沈む。
ぬかるみとまではいかない。
だが確かに湿っている。
鳥の声も遠かった。
小動物の気配も少ない。
生き物が隠れそうな茂みもない。
妙だった。
静かすぎる。
少しだけ不気味だ。
だからだろうか。
無意識に杖を握り直していた。
その時だった。
風が吹いた。
そよ風。
ほんの僅かな風。
頬を撫でる。
髪が揺れる。
湿った空気が流される。
それだけ。
それだけなのに。
違和感が残った。
私は思わず口を開く。
「……あの、今の魔法ですか?」
「ん?」
ガルドが振り返る。
「何だ急に」
言われてから気付く。
確証があったわけじゃない。
ただ。
何かを感じただけだった。
「……何でもないです」
視線を逸らす。
聞く相手を間違えた。
魔力の機微なんて、この人に聞いても仕方がない。
そう思った。
やがて前方が明るくなる。
光だ。
森が終わる。
洞窟から出る時のような感覚だった。
思わず手をかざす。
森を抜けた先には、小さな開けた場所があった。
空が見える。
風が通る。
鳥の声が戻ってくる。
生き物の気配がある。
閉じられた空間から解放されたような感覚。
ガルドが立ち止まった。
「ここだな」
呟く。
そして。
「ここで動くなよ」
「……はい?」
「じっとしてろ」
言われるまま立ち止まる。
ガルドは荷物を探り、小さなベルを取り出した。
鈴だった。
それを鳴らす。
リン。
リン。
リン。
リン。
四回。
少し間を置く。
そして最後に。
リン。
一回だけ鳴らした。
私は首を傾げる。
「何をしてるんですか?」
「挨拶だ」
「挨拶?」
「ああ」
それだけだった。
意味は説明してくれない。
だから待つ。
しばらくして。
森の奥から音が返ってきた。
リン。
リン。
リン。
リン。
同じ回数。
同じ間隔。
そして。
リン。
最後の一回。
まるでやまびこだ。
だが。
もう一度だけ。
リン。
余計な音が鳴った。
ガルドが深く息を吐く。
「はぁ……」
面倒そうだった。
それからもう一度。
リン。
リン。
リン。
リン。
四回鳴らす。
今度は最後の一回を鳴らさない。
そのままベルの振り子を紐で固定し、荷物へ戻した。
そして待つ。
何も言わず。
ただ待つ。
私はその様子を見ながら考える。
挨拶。
バッククリフの時もそうだった。
知らない相手に近付く前に。
まず知らせる。
敵じゃないと伝える。
そういうことだろうか。
だとすれば。
この先には誰かがいる。
あるいは、何かが。
木々の向こうへ視線を向ける。
しばらくして。
人影が現れた。
木陰の奥からゆっくり歩いてくる。
腰には短剣。
短杖。
ベル。
背には短弓。
襷掛けの矢筒。
森を歩くための装備。
そして。
人より長い耳。
薄茶色の髪。
気さくそうな笑顔。
こちらへ手を振る姿。
私は目を瞬かせた。
エルフだった。