森を抜けて現れた人物を、私は思わず見つめていた。
初めて見た。
本で読んだことはある。
挿絵でその姿を見た。
話に聞いたこともある。
森に住む長命種。
魔法に長けた民。
そのエルフが今、目の前にいる。
けれど実際に会うのは初めてだった。
長い耳。
人間より少し細身の体。
森の色に溶け込むような薄茶の髪。
腰には短剣と短杖。
背には短弓と矢筒。
そして手には、先ほど聞こえた鈴と同じものが握られていた。
――エルフ。
ガルドの言っていた森の奥の住人とは、おそらく彼らのことなのだろう。
隣を見る。
ガルドは青年の姿を認めると、軽く片手を上げた。
それは親しい相手への挨拶というより、顔見知りへの気軽な合図のように見えた。
「見ない顔だな……」
誰に向けるでもない呟き。
それを拾うように青年が笑った。
「よそ者ですからね」
自然な発音だった。
聞き取りやすい。
人間の言葉だ。
「……話せるのか?」
「元々、人間と接する機会が多かったので発語は可能です」
「幸先が良いな」
ガルドはそう言うと、相手の耳へ視線を向けた。
「耳が短いな。ジャーニーか?」
「はい」
二人だけで話が進んでいく。
意味が分からない。
私は思わず口を挟んだ。
「ジャーニーさん……ですか?」
二人の視線が同時にこちらへ向いた。
ガルドが「ああ」と小さく頷く。
「そうか。お前は知らねぇか」
青年は少しだけ苦笑した。
「申し遅れました」
胸に手を当てる。
「私はアルヴァンと申します」
柔らかな笑み。
どこか人間に近い印象を受ける。
私は慌てて頭を下げた。
「リュシアです」
挨拶を返してから、もう一度ガルドを見る。
結局、ジャーニーが何なのか分からない。
そんな私の顔を見て察したのか、ガルドが説明する。
「ジャーニーってのは、人間が勝手に呼んでる種族名みたいなもんだ」
「種族名……?」
「ジャーニーエルフ。街エルフ。旅エルフ。呼び方はいろいろある」
ガルドは顎で青年を示した。
「森の外に出る連中だな」
なるほど。
旅をするエルフ。
だからよそ者と言ったのか。
私は改めて青年の耳を見る。
確かに長い。
けれど本で見た絵より少し短い気もする。
「特徴ってのは、上向きで短めの耳だとか覚えとけ」
そう言われると、アルヴァンは自分の耳へ手を添えた。
見やすいように。
少し照れたように笑いながら。
私は思わず身を乗り出した。
「じゃあエルフって一種類じゃないんですか?」
好奇心が先に出た。
「個体差じゃなくて、本当に違う種類がいるんですか?」
聞いた瞬間。
ガルドは面倒そうに頭を掻いた。
「逆に聞くが」
「人間は一種類か?」
「え?」
「北の奴も南の奴もいる。街で生まれた奴もいりゃ、山ん中で暮らしてる奴もいる」
そう言いながら顎でアルヴァンを示す。
「耳が長いからって全部同じと思うな」
「……」
「お前だって、魔法使いの連中と街のパン屋を同じ人種だから同じだとは思わねぇだろ」
言われて少し考える。
確かにそうだった。
同じ人間でも違う。
違って当たり前だった。
「あんまり聞くな」
私は顔を向ける。
ガルドは面倒そうに頭を掻いていた。
「嫌でもこの先で見る」
「……」
「自分で見た方が早い」
それだけ言って歩き出す。
アルヴァンは苦笑した。
「その通りですね」
それから少し真面目な顔になる。
「奥の集落まで案内します」
「合図を知っている方は客人として迎えるよう言われていますので」
客人。
その言葉が少しだけ耳に残った。
私はガルドを見る。
ガルドは特に気にした様子もなく頷いた。
「ああ。頼む」
それだけだった。
まるで何度も来ているかのような態度。
不思議だった。
私はずっと、森の奥へ勝手に踏み込んでいるのだと思っていた。
けれど違うらしい。
ベルを鳴らした。
返事が返ってきた。
迎えが来た。
そうして今、案内されている。
まるで誰かの家へ招かれたように。
アルヴァンの後ろを歩き始める。
森の奥へ。
エルフの集落へ。
胸の奥が少しだけ高鳴る。
本でしか知らなかった場所。
見たことのない人々。
知らない文化。
知らない景色。
その全てが、この先にある。
「勝手にはぐれんなよ」
前を歩くガルドが振り返る。
私はむっとした。
「……子供扱いしないでください」
「じゃあ俺の言うこと守れ」
即答だった。
「難しいことじゃねぇだろ」
反論できない。
少しだけ唇を尖らせる。
けれど気分は悪くなかった。
むしろ逆だった。
初めて見るエルフ。
初めて行くエルフの集落。
その期待の方が大きかった。
私は少しだけ歩幅を広げる。
アルヴィンの後ろ姿を追うように。
そして森の奥へ続く道を見つめながら、小さく胸を躍らせていた。
森の中を進む。
先ほど通った森とは、まるで別の場所だった。
鳥の声。
風に揺れる葉の音。
木々の隙間から差し込む陽の光。
足元には柔らかな草が広がり、湿った土の匂いの中にも、生き物の気配がある。
ここには、命がある。
そんな風に感じた。
少し前に通った森は違った。
大きく太い木々。
空を覆うほど伸びた枝。
差し込む光は少なく、空気は重かった。
虫の音も、鳥の声も聞こえない。
生きているはずなのに、生きている感じがしない森。
あそこには何かがいるような気配だけがあった。
……でも。
何も起きなかった。
おじさんも、足を止めることはなかった。
気にしている様子もなかった。
だから私も、深く考えることはしなかった。
何もないなら、何もない。
そういうことなのだと思った。
けれど、今思えば違ったのかもしれない。
何もいなかったのではない。
何かがいる場所だからこそ、生き物が近づかなかった。
あの森は、静かだったのではなく。
静かにする必要がある場所だったのかもしれない。
そう考えると、ガルドが何も気にせず進んでいたことが少し不思議に思えた。
彼は、見えていないのではなく。
私には見えていないものを、見ていたのかもしれない。
前を歩くのはアルヴァン。
その隣にガルド。
私は少し後ろを歩いていた。
「村長はいるのか?」
ガルドが尋ねる。
「今は動ける状態ではありません」
アルヴィァンは落ち着いた声で答える。
「もう長いこと、その状態が続いています」
「そうか」
ガルドは短く返す。
「じゃあ、他に話ができる奴はいるか?」
「……?」
「俺たちが勝手に動いて、後から気に入らねぇって言われても面倒だからな」
ガルドの視線がアルヴァンへ向く。
「先に顔を出しておきたい」
その言葉に、彼は少しだけ笑った。
「案内しますよ」
「客人として来られた以上、皆さんも話は聞いてくれると思います」
客人。
その言葉が少し引っかかった。
私たちは依頼を受けて、ここに来ただけだと思っていた。
でも、エルフたちから見れば違うのかもしれない。
エルフ。
本で読んだ。
物語で聞いた。
人間より長く生き、知恵を持つ存在。
気高く。
美しく。
そして、人間をどこか見下しているような存在。
私の中では、そんな印象だった。
でも、目の前にいるアルヴァンは違った。
出会った時。
彼は私が見ていることに気付いても、不快そうな顔をしなかった。
むしろ、「珍しいですよね」とでも言うように、自分から見せてくれた。
自分にとって当たり前のものを、相手にとっては知らないものだと理解している。
距離が近く、人懐っこい。
少なくとも、私の知っている物語のエルフとは違う。
……この人だけなのかもしれない。
そう思った。
でも、ガルドが自然に会話しているところを見ると、きっと彼が特別なのではなく。
人間と関わってきた経験があるからなのだろう。
人間社会を知っている。
そして、エルフの中でもこういう役割を任されている。
私の予測でしかないけれど。
「……」
ふと視線を感じた。
前を見る。
ガルドが振り返っていた。
まるで、子供がちゃんとついてきているか確認する親のように。
「なんですか」
聞く。
しかし、おじさんは何も言わなかった。
ただ、片手を軽く上げる。
それが返事らしい。
……本当に、この人はよく分からない。
歩きながら、アルヴァンの装備を見る。
ナイフ。
弓。
そして杖。
ふと疑問が浮かんだ。
「あの」
「どうして、弓と一緒に杖を持っているんですか?」
遠距離から攻撃するなら、どちらか一つでもいい気がした。
アルヴァンは振り返る。
「ああ、これはですね」
「村の皆さんが持っているように、と渡してくれたものです」
つまり、お節介。
自分ではよそ者と言っていたのに。
それでも受け入れられている。
信頼されているということなのだろうか。
「弓は追い払うためのものです」
アルヴァンが続ける。
「当てるためではありません」
「獣や侵入者に対して、ここにいると知らせるためのものです」
「魔法では、理解できない相手もいますから」
その言葉に、ガルドがアルヴァンの腰を見る。
「杖を使ってんのか?」
「はい」
アルヴァンは頷く。
すると。
「?」
少しだけ違和感があった。
「ガルドさん」
「魔法を使うには杖が必要です」
「魔力はそのままだと形にならないんです。杖を通して、使える形に変えるんです」
少し誇らしげに杖を握る。
「それで魔法になります」
それを聞いて、ガルドは頭を掻いた。
「ああ……」
「まぁ、俺ぁ魔法に関しちゃ素人だからな」
その返答が妙に自然だった。
知らないことを、知ったふりをしない。
それもまた、この人らしい気がした。
アルヴァンは杖を見る。
「人間の作る道具は便利です」
「だから、私も使います」
その言葉は、どこか嬉しそうだった。
エルフなのに、人間の道具を使う。
それは、私が勝手に作っていたエルフ像とは違っていた。
「もう少しです」
アルヴァンが言う。
香りの強い木々の間を抜ける。
その言葉を聞いて、少しだけ胸が高鳴った。
その時、前を歩いていたガルドが、こちらを見ずに言った。
「リュシア」
「はい?」
「珍しいものを見る時ほど、近づきすぎるな」
「……?」
また変な言い方。
意味が分からず、首を傾げる。
「ただ、足元だけは見失うな」
それだけ言って、また前を向いた。
やがて、木々の間から光が差し込んだ。
道と呼べるものはない。
切り開かれた場所も、外敵を防ぐような柵も見当たらない。
それなのに。
そこには確かに、人が暮らしている場所があった。
木々の間に、自然に溶け込むように家がある。
木に沿って作られた家。
いや、家が木に合わせて作られている。
太い幹は柱のようにそのまま残され、屋根や壁の一部から枝が伸びている。
石と木材で組まれた土台。
絡み合う枝と蔦は補強材のように使われ、葉や樹皮を重ねた屋根が光を柔らかく遮っている。
人が森を削って住む場所を作ったのではない。
森の中に、生活する場所を置いている。
そんな印象だった。
村。
そう呼ぶには少し違和感がある。
建物が集まっているというより、森そのものが住居になっている。
視線を動かす。
小さな影が走った。
エルフの子供だった。
少年と少女。
走るたびに、上向きに伸びた耳が揺れる。
こちらに気付いた瞬間、ぴたりと足を止めた。
じっと見る。
向こうも。
こちらも。
ただ見ているだけだった。
手を振るわけでもない。
声をかけるわけでもない。
珍しいものを見る目。
それはきっと、私も同じ顔をしている。
知らないもの。
知らない種族。
本の中でしか知らなかった存在。
私はガルドの背中を追いながら、視線だけを周囲へ向けた。
アルヴァンは腰に付けた鈴を取り出した。
チリン。
小さく鳴らす。
チリン。
もう一度。
村に来客を知らせる音なのだろう。
すると、視線が集まった。
家の中からエルフたちが姿を見せる。
女性。
男性。
子供。
皆、同じように尖った耳を持っている。
けれど。
よく見ると違った。
アルヴィンより耳が長い者。
髪色も様々だった。
銀。
淡い金。
青みがかった色。
緑がかった色。
光の当たり方で印象すら変わる。
人間にも色々いる。
それと同じなのかもしれない。
そう思った。
一人の女性エルフを見る。
その手の甲には、小さな宝石が埋め込まれていた。
木漏れ日を受けて、澄んだ光を返している。
綺麗。
思わず、少しだけ近づいて見そうになった。
どんな素材なのだろう。
触ったらどんな感触なのだろう。
魔石とは違うのだろうか。
気になる。
でも、流石に初対面で触らせてくださいと言うほど子供ではない。
あれはただの飾りだろうか。
そう思ったけれど、よく見ると同じようなものを身につけている人が何人もいる。
手の甲。
額。
首元。
位置も形も違う。
装飾品というには、少しだけ違和感があった。
まるで、自分自身を示す何かのようにも見える。
エルフにしか分からない意味があるのか。
聞いてみたい。でも、今はまだ聞くタイミングではない気がした。
そう思った時だった。
「……あんまり、ジロジロ見るな」
ガルドが小さく言った。
「見るのは悪いことじゃねぇ」
「知らねぇものを知ろうとするのは必要だ」
ガルドはエルフたちを見る。
「見られてる側がどう思うかも考えろ」
「珍しいから見る、ってのは簡単だ」
「けど向こうからすりゃ、こっちだって珍しいもんだ」
そう言って、また前を見る。
「同じことされて嫌なら、相手にもするな」
「……」
少し反抗したくなる。
見られているから見ているだけだ。
私だけが珍しがっているわけではない。
そう思った。
でも言い返す前に、ガルドはもう前を向いていた。
そのままアルヴァンに案内され、村の奥へ進む。
一つの家の前で、彼は足を止めた。
「村長の孫がおられます」
「村長本人じゃないんですか?」
思わず聞いた。
アルヴァンは少し考える。
「先程も言いましたが村長は今、外とのやり取りをする状態ではありません」
「ですが、判断を任される者はいます」
「長く生きる者が、いつでも先頭に立つとは限りません」
その言葉が少し印象に残った。
そして、アルヴィンはエルフの言葉を口にした。
「カァク シァ トココ レン エイ」
聞き取れない。
意味も分からない。
私は隣を見る。
ガルドはというと、あくびを一つした。
「……」
「何を言ってるのか分かるんですか?」
思わず聞く。
「あ?」
あくびの途中で、気の抜けた返事。
「分かんねぇ」
「……」
頼りない。
本当に大丈夫なのだろうか。
そんな不安が顔に出たのか。
ガルドはこちらを見る。
「ここに住むわけじゃねぇ」
「最低限の意思疎通ができりゃいい」
「最低限?」
「肯定と否定」
そう言って少し考える。
「トゥアが肯定。トゥッが否定だったはずだ」
「トゥ……?」
発音すら合っているか分からない。
「細かいことは向こうが合わせる。全部理解しようとすんな」
「でも……」
「全部分かろうとすると、分からねぇことに引っかかる」
ガルドはそう言った。
その時、家の奥で物音がする。
女性のエルフが姿を現した。
「ラァイア シン カンゲイオ」
アルヴィンが返す。
「チョウシァ シソンア トココユウ?」
短い会話。
意味は分からない。
けれど、不思議と険悪な空気ではないことだけは分かる。
言葉なのに、不思議だった。
人間の会話なら、もっと区切りがある。
誰が。
何を。
どうする。
そういう順番で聞こえる。
でも、アルヴァンの言葉は違った。
音が続いている。
一つ一つの単語というより、いくつもの意味が重なったものをそのまま渡しているような。
文章というより、状況そのものを伝えているように聞こえた。
言葉が分からなくても。
表情や間で伝わるものがある。
女性エルフが一言。
「ユウア」
アルヴィンが続ける。
「カァクシァ トココ タイワモゾア ユウガイエ カイショウモゾ カァクシァ」
そして返答。
「ハンアユウ タイキア ズィモドア イィキョ」
最後に。
アルヴィンが頷く。
「ニンア トゥア」
女性エルフは奥へ向かった。
「話せる方がいるようです」
アルヴィンが振り返る。
「彼女が戻ってきたら案内します」
「ああ、助かる」
ガルドは短く答えた。
その横顔を見る。
この人は。
分からないものを分からないまま進んでいる。
それなのに、不思議と迷っていない。
森のことも。
魔物のことも。
人のことも。
全部知っているわけじゃない。
ただ。
知らないものと出会った時に、どう向き合えばいいのかを知っている。
そんな気がした。
私はもう一度、森を見る。
木々の間にある家。
そこに暮らすエルフたち。
目の前で生活している。
少しだけ、胸が高鳴っていた。