風の氏族の末娘は、冒険者を知らない   作:ほてぽて

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30話後編 還る場所

 

 

 女性エルフが再び姿を見せる。

 

 そして、こちらへ手を向けた。

 

 招かれている。

 

 そう理解するまで、少し時間がかかった。

 

 大きな葉を重ねたような暖簾。

 

 風が吹けば揺れる、それだけの簡素な入口。

 けれど、その向こう側には確かに生活がある。

 

 私はガルドの後ろについて、その中へ足を踏み入れた。

 

 屋内は思っていたより暗かった。

 

 けれど、不思議と息苦しさはない。

 

 壁をくり抜いて作られた窓から、木漏れ日が差し込んでいる。

 

 光は柔らかく、室内の木の色を照らしていた。

 

 もっと原始的な暮らしを想像していた。

 森の民。

 自然と共に生きる者。

 

 だから、もっと簡素で、最低限のものしかないと思っていた。

 

 けれど、違った。

 

 棚には乾燥させた薬草。

 瓶に詰められた木の実。

 丁寧に折り畳まれた布。

 

 壁には織物が掛けられ、木を削って作られた道具が並んでいる。

 

 生活だった。

 

 当たり前のように、誰かがここで暮らしている。

 

 視線を動かす。

 

 部屋の隅。

 

 火を扱う場所があった。

 

 泥を固め、焼いたものだろうか。

 

 人間の家で見る竈と似ている。

 

 灰が残り、炭の匂いがする。

 

 ふと、上を見る。

 

 天井は煤で黒くなっていた。

 

 火を使っている証拠。

 煙はどこかへ逃がしているのだろう。

 

 風の流れ。

 空気の流れ。

 

 この家は、ただ木の中に作られているだけではない。

 ちゃんと、人が暮らすために作られている。

 

 保存食だろうか。

 

 干された野菜。

 川魚。

 燻製されたもの。

 

 そして。

 視線の先に、見覚えのあるものがあった。

 

 少し驚いた。

 感心した、と言った方が近いかもしれない。

 

 そこにあったのは、人間でも使われている道具。

 

 金属製の小さな鍋。

 刃を研ぐための砥石。

 簡素な楔や留め具。

 

 木と石だけの暮らしだと思っていた場所に、人間が作った技術が混ざっている。

 

「……もっと、古代的な暮らしなのかと思っていました」

 

 思わず口に出た。

 

 ガルドは聞こえたのか、聞こえていないのか。

 

 いつものように反応を薄くしたまま、案内されるまま歩いていく。

 

 私は置いて行かれないようについていく。

 

 エルフの家。

 エルフの生活。

 

 目に入るもの全てが新鮮だった。

 

 煤の匂い。

 乾燥した薬草の香り。

 木材の匂い。

 そこに暮らす者の気配。

 

 知らない世界だった。

 でも、不思議と怖くはなかった。

 

 むしろ、もっと知りたいと思った。

 

 ふと、兄様のことを思い出す。

 兄様も、こんな風に歩いていたのだろうか。

 

 知らない土地へ行って。

 知らない人に会って。

 知らないものを見て。

 それを持ち帰って、誰かに話す。

 

 昔、土産話として聞いていたもの。

 

 でも今は違う。

 

 私は今、自分で見ている。

 自分で歩いている。

 それが、少し嬉しかった。

 

 気付けば、歩幅が大きくなっていた。

 小走りになっていた。

 

 奥の部屋へ案内される。

 

 そこには若いエルフの男性がいた。

 椅子に腰掛け、こちらを見る。

 

 彼は女性エルフに何かを伝えると、女性は動いた。

 

 すれ違う。

 

 その後、アルヴァンに促されるように、私たちは椅子へ座った。

 

 彼が向かいのエルフへ話しかける。

 

「ズィラオ? レイアリンルァ セイエン」

 

 変わらず、意味は分からない。

 けれど、声の響きで分かる。

 

 挨拶。

 確認。

 

 そういうものなのだろう。

 

 返事が返る。

 

「ドゥライア タ レンメイア ホシュ ガルド ナ リン」

 

 その中に。

 

 聞き覚えのある名前があった。

 

 ガルド。

 私は横を見る。

 

 しかし本人は、いつも通りだった。

 

「あの、おじさんの名前出てます」

 

「ああ?」

 

「今、ガルドって」

 

「ああ……そうか」

 

「分かんねぇ」

 

 あっさり言った。

 

「……分からないのに、分かるんですか?」

 

 思わず聞いていた。

 

 ガルドは少し考える。

 

「あ?」

 

「今、話の内容は分からないって言いましたよね」

 

「言ったな」

 

「でも、話は進んでいます」

 

 ガルドは肩をすくめる。

 

「全部分かる必要なんてねぇだろ」

 

「必要なことだけ拾えばいい」

 

「相手が怒ってるか、困ってるか、助けを求めてるか」

 

「それぐらい分かりゃ、だいたい何とかなる」

 

 ……。

 

 本当に分かっていないのか。

 

 それとも、本当に分かっている部分だけ拾っているのか。

 判断できなかった。

 

 でも、一つだけ分かった。

 

 ガルドは、この場所を初めて訪れたわけではない。

 

 名前を知られている。

 警戒されていない。

 アルヴィンがいるから話が進んでいるのではない。

 

 ガルド自身が、ここに来た時間がある。

 積み重ねがある。

 

「ワラ センエ キョウル」

 

「ジュクア タ ドウリン」

 

 言葉が交わされる。

 

 私は聞くが、理解できない。

 けれど、何かが進んでいる。

 

 考えてみれば、今までの依頼とは違う。

 

 ある時は杖を無くしたり壊れたり。

 薬草探しでは場所が分からず。

 ホーンラビットは魔物に取られ、調理で丸焦げにしたり。

 

 失敗ばかりだった。

 でも今回は、自分が知らない間に話が進んでいる。

 

 不思議な感覚だった。

 

 向かいのエルフが何かを尋ねる。

 

 アルヴァンがこちらを見る。

 

「ガルドさん。依頼はいつ頃に出ますか?」

 

「決行は明日の朝だな」

 

 ガルドは迷わず答えた。

 

「その前に周辺確認。痕跡と糞を見る。出没場所と範囲を確認する」

 

 それを聞いて、彼はが伝える。

 

「アサルゥシュ キョウリン ミ コンセキ ニン」

 

 男性エルフは頷いた。

 

「ニンア カァクメイ キュウライ リン ジュ」

 

 そう言って男は立ち上がり、去っていく。

 

 知らない間に終わった。

 話についていけていない。

 

 でも、ガルドは分かっている。

 その様子を見て、ようやく気付いた。

 

「……」

 

「ガルドさん」

 

「なんだ」

 

「熊討伐の依頼って……」

 

「エルフからの依頼だったんですか?」

 

 ガルドは少し間を置いた。

 

 そして。

 

「嫌でも気付くだろ」

 

「そんなことで、わざわざ騒ぐな」

 

「……」

 

 腹が立つ。

 でも、否定できない。

 

 その時。

 

 女性エルフが木彫りのコップを差し出した。

 

 慌てて両手で受け取る。

 

「ありがとうございます」

 

 中には緑色の液体。

 薬草の香り。

 恐る恐る口をつける。

 

 苦い。

 強烈に苦い。

 

「……うぇ」

 

 思わず顔が歪んだ。

 

「表情がコロコロ変わって忙しい奴だな」

 

 ガルドはそう言って、自分も同じものを飲む。

 

 ゴクリ。

 

 ……。

 

 ガルドは何も言わない。

 ただ普通に飲んでいる。

 

「……本当に平気なんですか」

 

「何が」

 

「それ」

 

「昔から飲んでる」

 

「昔から?」

 

 聞き返すと、ガルドは少しだけ目を逸らした。

 

「昔、怪我した時にな」

 

 それ以上は言わなかった。

 

 顔色が変わらない。

 

 けれど内心、絶対に我慢していると思った。

 

 ガルドは、少しだけ笑う。

 

 まるで「子供だな」と言われている気がした。

 そう思って、ムッとする。

 

 残りを一気に飲み干した。

 

 苦かった。

 

 ものすごく苦かった。

 

 

 その苦さを引きずったまま、私たちは再び森の中を歩いていた。

 

 先ほどまで見ていた景色とは違う。

 

 木々は変わらない。

 土の匂いも、風の感触も同じはずなのに、今はどこか違って見えた。

 

 ここには、誰かがいる。

 ただ自然があるのではなく。

 この森の中で生きている者たちがいる。

 

 アルヴィンの後ろを歩きながら、私は周囲を見回していた。

 

 先ほど案内された家。

 そこで聞いた話をアルヴィンが話してくれた。

 それを頭の中で整理する。

 

 空き家がある。

 そこを借りていい。

 熊討伐に向かう際には、村の守人が同行する。

 

「……」

 

 聞き慣れない言葉があった。

 

「アルヴィンさん」

 

 呼びかけると、彼は振り返る。

 

「還守(かんしゅ)って、何ですか?」

 

 ここに来てから、私は何度、質問をしただろう。

 

 見たことのないもの。

 知らないもの。

 理解できないもの。

 

 それが目の前にあると、考えるより先に口から出ていた。

 

 アルヴィンは少しだけ考えるように間を置いた。

 

「そうですね」

 

「あなた方人間で言うなら……冒険者、でしょうか」

 

「少し違いますが、近いものとして考えるなら」

 

 冒険者。

 そう聞くと、なんとなく分かる気がした。

 

「死も、狩りも、魔物も、森も」

 

 アルヴィンは静かに続ける。

 

「全ては同じ循環の中にあります」

 

「それを担う者を、還守と呼びます」

 

 循環。

 その言葉が残った。

 

 冒険者なら、依頼を受ける。

 魔物を倒す。

 報酬を得る。

 

 でも彼らにとっては、それだけではないらしい。

 

 アルヴィンは森の奥を見るように視線を向けた。

 

「例えば、獣がここへ時。私たちはすぐに殺すことはしません」

 

「追い返すんですか?」

 

「はい。森へ戻れるならば」

 

 少し間を置く。

 

「ですが、戻れないものもいます」

 

「戻れない、ですか?」

 

 彼は頷いた。

 

「森の中で生きるはずだったものが、人の暮らしを覚えることがあります」

 

 アルヴィンは静かに続ける。

 

「人間の方々は獣を狩り、肉を食べる文化があります。それ自体が悪いことではありません。ただ、森の外にあるものを知ってしまった獣は、以前とは違う行動を取ることがあります」

 

「……」

 

「一度、村の近くまで来るようになった個体がいました。追い返しても、また戻ってくる。やがて他の獣にも影響が出ました」

 

「それで……」

 

「溢れたものが、森の外へ流れていく前に戻す。それが還守の役目です」

 

 アルヴィンは淡々と言った。

 

「倒すためではありません。元の場所へ還すためです」

 

「無事に還ること」

 

 アルヴィンは言う。

 

「それが、私たちにとってはとても大切なことです」

 

「どこに……ですか?」

 

 自然と聞いていた。

 

 アルヴィンは迷いなく答える。

 

「大樹に」

 

 大樹。

 

 聞いたことがある。

 けれど、名前だけ知っていて意味は知らない。

 

 確か、大樹信仰。

 本で読んだ程度の知識。

 

「私たちは皆、大樹と共に生まれ、大樹へ還る」

 

「ジャーニーエルフである私も同じです」

 

「一度、故郷の大樹から離れていたとしても……最後に還る場所は変わりません」

 

 淡々としていた。

 

 死を恐れていないようにも聞こえた。

 

 長く生きる者たちは、人間とは違う時間を見ているのだろうか。

 

 そう思った。

 

 視線を動かす。

 

 子供のエルフがいた。

 小さな体。

 上向きの耳。

 アルヴィンとは少し違う、淡い髪色。

 

 同じエルフでも、違いがある。

 

 それが気になった。

 

 しばらく歩いてから、私はガルドの袖を引いた。

 

「ん?」

 

「ずっと気になっていたんですけど」

 

「ここのエルフさん達……アルヴィンさんと見た目が違います」

 

「なんていうエルフなんですか?」

 

 ガルドは一度、深いため息を吐いた。

 

「前に話してくれる奴がいるだろうが……」

 

 呆れたような声。

 

 そして。

 

「ハイエルフだ」

 

 短く答えた。

 

「気難しくて頑固な連中だ」

 

「癇癪に触ったら、暴れまわるくらいにわがままな連中だ」

 

 ガルドはそう言った。

 

 けれど、その言葉は妙に慣れていた。

 初めて聞いた名前を説明する人の言い方ではなかった。

 

「……」

 

「なんですか」

 

「いや」

 

 ガルドは前を向いたまま答える。

 

「昔から変わらねぇなと思っただけだ」

 

「昔、ですか?」

 

 聞き返すと、一瞬だけ間が空いた。

 

「長生きする連中だ。俺らより、昔の話を覚えてるだけだ」

 

 それ以上は言わなかった。

 

「……おじさん」

 

「なんだ」

 

「エルフの人達に変なこと言いました?」

 

 聞くと、ガルドは一瞬だけ目を細めた。

 そして鼻で笑う。

 

「へっ」

 

「……?」

 

「言葉が通じねぇから好きなように言える」

 

 その意味を考える。

 

 少しして、気付いた。

 ガルドはハイエルフの話をしていたんじゃない。

 

「じゃあ……」

 

 私は少し迷ってから聞いた。

 

「ガルドさんは、本当はハイエルフのこと嫌いなんですか?」

 

 足が止まった。

 

 ほんの一瞬、ガルドは黙る。

 

「……いや」

 

 短い返答。

 

「嫌いじゃねぇよ」

 

「でも、気難しいって」

 

「人間にもいるだろ」

 

 前を向いたまま言う。

 

「気難しい奴」

 

「面倒な奴」

 

「優しい奴」

 

「馬鹿な奴」

 

「人間だって色々いる」

 

「種族で決めた方が楽なだけだ」

 

 その言葉は静かだった。

 

「怖い相手だと思えば、近づかなくて済む」

 

「面倒な相手だと思えば、理解しなくて済む」

 

「そういうもんだ」

 

 私は先ほど見たエルフの子供を見る。

 

 試しに手を振った。

 すると、少し首を傾げられただけだった。

 

 そのまま走っていく。

 

 ……。

 

 長い時間を生きる彼らは、人間とは違う。

 でも、違うから怖い。

 それだけではないのかもしれない。

 

 私はガルドを見る。

 

 この人なら、知っていると思っていた。

 

 エルフのことも。森のことも。冒険者のことも。

 分からないと言いながら、いつも必要なところでは迷わないように感じた。

 

 だから、きっと、聞けば答えてくれると思っていた。

 

 でも。

 

「……」

 

 ガルドは答えない。

 

「おじさん」

 

「なんだ」

 

「なんで、全部教えてくれないんですか」

 

 口に出してから、自分でも少し驚いた。

 責めるつもりではなかった。

 ただ、知りたかった。

 

 兄様なら。

 知らない場所の話を、もっと楽しそうにしてくれた気がした。

 

「全部知ってるわけじゃねぇ」

 

「それに」

 

 ガルドは振り返らない。

 

「先に答えを聞いたら、お前は自分で見た時に考えなくなる」

 

「……」

 

 そう言われて、黙った。

 少し考える。

 

「……じゃあ」

 

 私は聞いた。

 

「ガルドさんも、ハイエルフのことをよく知らないんですか?」

 

 沈黙。

 

 少し長い沈黙。

 

「お前」

 

 ガルドが呆れたように言う。

 

「たまに変なところ突くな」

 

 次の瞬間。

 

 ぐしゃ。

 頭を掴まれた。

 

「ちょ、何してるんですか!」

 

 髪を乱される。

 子供をあやすように。

 

 いや、からかうように。

 

「おしゃべりな口はこうやって閉じてやるといいって聞いてな」

 

「そんなこと誰が言ったんですか!?」

 

 振りほどく。

 アルヴィンを見ると、彼は小さく笑っていた。

 

「仲がよろしいですね」

 

「違います!」

 

 思わず言い返す。

 

 ガルドは前を向いたまま歩く。

 

「さぁ、誰だったか」

 

 小さく呟いた。

 

 その背中を見ながら思う。

 

 この人は、本当に何も知らない人なのだろうか。

 

 それとも、知っているけれど、必要なことだけを見ている人なのだろうか。

 

 まだ、分からなかった。

 

 やがて、アルヴァンが足を止めた。

 

 アルヴァンに案内された家は、先ほど見たものとよく似ていた。

 

 木々の間に寄り添うように建てられた家。

 

 壁というより、森の一部を利用して形にしたような造りだった。

 

 木の柱。

 蔦で補強された部分。

 葉や樹皮を重ねた屋根。

 けれど、不思議と不安定には見えない。

 

 長い時間をかけて、この森の中で生きるために作られてきた形。

 

「こちらの家になります。ご自由にお使いください」

 

「……」

 

 ガルドは返事をするより早く、入り口へ向かう。

 

 扉代わりの布を軽く持ち上げ、中を覗き込む。

 

 警戒しているようにも見えたし、ただ確認しているだけにも見えた。

 

 いつものおじさんだった。

 

「では、私はこれで」

 

 アルヴィンが言う。

 

「後ほど、還守の方がこちらへ来ます」

 

「……え?」

 

 思わず声が漏れた。

 

 アルヴィンは首を傾げる。

 

「あの……アルヴァンさんは……」

 

「はい?」

 

「ここで、お別れなんですか?」

 

 自分でも少し変なことを聞いていると思った。

 でも、自然と口から出ていた。

 

 ここに来てから、彼はずっとそばにいた。

 

 分からない言葉を訳してくれて。

 知らない文化を教えてくれて。

 だから、勝手に思っていた。

 

 この先もいるものだと。

 

 彼は少しだけ耳を動かす。

 

「はい。私は持ち場へ戻ります」

 

 そう言って、腰につけたベルを取り出した。

 

 小さく揺らす。

 

 チリン。

 

 森に響く、静かな音。

 

「外から来るものがありますから」

 

「見張りに戻ります」

 

「あなた達は客人ですから問題ありません」

 

 少し間を置く。

 

「ですが、そうではないものもあります」

 

「迷い込んだものを追い払うことも、私の役目です」

 

「あ……」

 

 そうだ。

 当たり前のことだった。

 

 アルヴァンは私たちのために存在しているわけではない。

 

 彼には彼の役割がある。

 

 私が勝手に期待していただけだった。

 

「それでは」

 

 アルヴァンは微笑む。

 

「また後ほど」

 

 そう言って森へ戻っていった。

 

 私はその背中を、しばらく見ていた。

 

 少しだけ。

 本当に少しだけ、寂しいと思った。

 

「……」

 

 ガルドは何も言わない。

 もう分かっているのだろうか。

 

 エルフ語が分からないと言いながら、こういう流れは理解している。

 

 そういうところが、少し不思議だった。

 仕方なく、私も家の中へ入る。

 

 中は先ほど見たエルフの家より、さらに簡素だった。

 

 家具は少ない。

 棚もほとんどない。

 

 荒削りの机。

 簡素な椅子。

 

 必要なものだけが置かれている。

 

 ガルドは竈の前にしゃがみ込む。

 

 泥を固めて作られたものだろう。

 その中へ、持っていた薪を放り込む。

 

 次に枯れ枝を掴み、薪の下へ差し込んだ。

 

「……何してるんですか?」

 

 返事はない。

 代わりに、ナイフと短い鉄棒を取り出す。

 

 カッ。

 

 金属を擦る音。

 一瞬だけ、小さな火花が散った。

 

 もう一度。

 もう一度。

 

 やがて、小さな火が枯葉へ移る。

 

 ゆっくりと炎が広がり、薪を包んでいく。

 

「火を起こしてるんですよね」

 

「見りゃ分かるだろ」

 

「これから出るんじゃなかったんですか?」

 

 ガルドは薪を眺めながら答えた。

 

「ああ」

 

「だから、その前に部屋を燻す」

 

「燻す?」

 

 天井を見る。

 

 黒く染まった木。

 

 煤の跡。

 

「虫避けだ」

 

「虫……」

 

 森。

 そう言われれば当たり前だった。

 

 蜘蛛。

 蟻。

 羽虫。

 

 夜になれば、もっと出てくる。

 

 寝ている間に這い寄るもの。

 血を吸うもの。

 知らないうちに身体へ入り込むもの。

 

 想像して少し身震いする。

 

 ガルドは荷物を隅へ置き、椅子へ座った。

 

「冒険ってのはな」

 

「魔物だけ相手にしてりゃいいもんじゃねぇ」

 

 そう言って、干し肉を取り出す。

 

「いるか?」

 

 差し出されたそれを受け取る。

 

 硬い。

 けれど噛んでいると、じわりと肉の味が広がる。

 

 素朴だけど、悪くない。

 

「美味しい……」

 

「そうか」

 

 ガルドは自分の分を噛みながら、遠くを見る。

 

「こんなことか、って顔してるな」

 

「え?」

 

「薬草拾って」

 

「荷物運んで」

 

「浅い森で魔物避けて」

 

「たまに小銭稼ぐ」

 

 淡々と言う。

 

「冒険者って呼ぶには地味だろ」

 

 少し間。

 

「でもな」

 

「明日も同じことができるってのは、案外難しい」

 

 私は黙って聞いていた。

 

「でも……ずっとDランクですよね」

 

「そうだな」

 

 あまりにもあっさり認めた。

 

「二十年やってDランクだ」

 

「笑えるだろ」

 

「普通なら辞める」

 

 でも。

 

 その顔には悔しさも、恥もなかった。

 

「俺は別に、Aランクになりたくて冒険者やってるわけじゃねぇ」

 

「飯が食えて」

 

「寝る場所があって」

 

「明日も歩ける」

 

「それで十分だ」

 

「……」

 

「昔は違ったけどな」

 

 その一言だけが、妙に残った。

 

「じゃあ」

 

 私は聞いた。

 

「今からでもいいんじゃないですか」

 

「何がだ」

 

「上を目指すことです」

 

「Cランクでも」

 

「もっと上でも」

 

 ガルドは少し黙った。

 

 そして。

 

「……お前は面白いこと言うな」

 

「え?」

 

「いや」

 

 煙の流れを見る。

 

「昔の俺なら、たぶん同じこと言ってた」

 

 私は干し肉を握ったまま言う。

 

「諦めたみたいに言うのは違うと思います」

 

 ガルドは少しだけ目を細めた。

 

「……そういうところだな」

 

「人間はな」

 

「何かを諦めたんじゃなくて、別のものを選んでる時もある」

 

「……」

 

「なれるかどうかなら、まだなれるかもしれん」

 

「ただな」

 

 炎を見る。

 

「Cランクになるってことは」

 

「今まで帰れた場所から、出るってことだ」

 

 静かな声だった。

 

「危険な場所に行く」

 

「失敗した時、戻れなくなる場所に近づく」

 

 そして。

 

「それに」

 

 少しだけ笑う。

 

「俺が欲しかったものは、もう手に入れた」

 

「何ですか?」

 

 聞く。

 

 ガルドは当たり前のように答えた。

 

「今日も飯が食えることだ」

 

 炎が揺れる。

 

 煙が天井へ昇っていく。

 

 ……不思議だった。

 

 この人は、本当にただのDランク冒険者なのだろうか。

 

 強い魔法を使うわけでもない。

 特別な武器を持っているわけでもない。

 

 なのに、何故か、ずっと生き残ってきた人のように見えた。

 

 理由は分からない。

 おじさん自身も、きっと全部は話さない。

 

 でも、私が知らない何かを、この人は知っている気がした。

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