明くる日。
私は桶に入った水で、顔を洗った。
冷たい水が、頬を打つ。
昨日流した涙の跡が、まだ残っている気がして、何度も手ですくっては流す。
水面に映る自分の顔は、少し情けなかった。
目の周りが赤くて、どこか幼い。
――取り戻さなきゃ。
その言葉だけが、胸の奥に残っていた。
言ったならやる。
思ったなら動く。
風は、成るように成る。
風の氏族の家訓。
子どもの頃から、何度も聞かされてきた言葉だ。
意味なんて、ちゃんと分かっていたわけじゃない。
でも今は、これしか縋れるものがなかった。
動かなきゃ。
何もしなければ、何も変わらない。
だから私は、杖を取り戻すために金貨を集めなきゃいけない。
ギルドで依頼を受けて。
たくさん働いて。
報酬を積み上げて。
大金貨七枚。
頭の中で、貨幣の計算をなぞる。
銅貨十枚で銀貨一枚。
銀貨十枚で金貨一枚。
金貨十枚で大金貨一枚。
つまり、金貨70枚分。
昨日、あの店員は言っていた。
私の手持ちは、金貨46枚分だと。
指を折って数える。
すぐに答えは出る。
足りないのは、金貨24枚。
……遠い。
昨日、ミアレから分けてもらった報酬を思い出す。
銀貨三枚。
手のひらに乗せて、ぎゅっと握る。
その銀貨は、擦れ合って小さな音を立て、指の隙間から滑り落ちた。
ちゃりん。
床に落ちて、虚しく響く音。
たった、それだけ。
――到底、足りない。
胸の奥が、じわじわと重くなる。
私一人で、もっと強い魔物を倒せたら。
Eランクでも、危険な依頼を受けられたら。
そんなことを考えるけれど、すぐに現実に引き戻される。
無理だ。
今の私には、まだできない。
おぼつかない足取りで、桶を持ったまま宿の廊下を歩く。
カウンターにいた宿のおばさんに、それを返した。
「ありがとうございます」
おばさんは、私の顔を見て少しだけ眉を下げる。
「元気が出ないなら、ゆっくり休むんだよ」
優しい声だった。
「……大丈夫です」
私はそう答えた。
本当は、大丈夫じゃない。
胸の中は、ぐちゃぐちゃだ。
でも、弱っている自分を認めるより、気丈に振る舞う方が楽だった。
テーブル席で突伏しているポーションのおじさん。
相変わらず、昼間から酒を飲んでいた。
その姿を横目に見ながら、私は扉に向かう。
「……行ってきます」
誰にともなく呟く。
チリン、と音が鳴り、扉が閉まる。
朝の空気が、少し冷たい。
それでも。
――それが、まだそこにあるならば。
私には取り戻す理由がある。
私は、歩き出す。
考えに整理がつかないままギルドへ足を踏み入れ、気づけば依頼掲示板の前に私は立っていた。
木製の板一面に、紙が隙間なく貼られている。
街の人々、ギルド、役人。
誰かの困りごとが、文字になって並んでいた。
まず目に入るのは、ランクEの依頼。
スライム討伐。
森オオカミ。
大ネズミ。
家畜被害による討伐。
被害抑制のための調査。
素材の回収。
報酬は、銅貨ばかり。
その下には、採集依頼。
薬草、薬草、また薬草。
……どれも、名前すら分からない。
鉱物の納品もあったけれど、鉱石の見分けなんてできるはずもなかった。
自然と、視線はその上へ移る。
ランクD。
ゴブリン。
ジャイアントバット。
森熊。
ダンジョンの簡易調査。
行商の護衛。
内容は一気に危険になる。
その分、報酬も少しだけ良い。
――でも。
私は、その依頼を受けられない。
自分のランクに合ったもの。
もしくは、それより下。
それが、冒険者ギルドのルール。
分かっている。
分かっているのに、目が離れなかった。
掲示板を見上げながら、無意識に一歩、後ろへ下がる。
ドンッ。
「あ……」
誰かにぶつかった。
「ごめんなさい」
反射的に言葉が口からこぼれる。
「いいよ。次は気をつけなよ」
肩を掴まれ、軽く前へ押し出された。
振り返る。
そこに立っていたのは、二人の男の冒険者だった。
どちらも剣を携えている。
年は、私より少し上だろうか。
「もしかして、今ひとりか?」
片方の男が、親しげに声をかけてくる。
「一緒にパーティー組まないか? 魔法使いが一人いるだけで、全然違う」
隣の男に向かって、わざとらしく肩をすくめる。
「だよなぁ、魔法使い様は貴重だからな」
二人は名乗った。
「俺はバルク」
「こっちはロニオだ」
どちらも、腰にはロングソード。
「……私は、リュシアです。風魔法が得意です」
そう答えると、二人は顔を見合わせた。
「ああ、知ってる」
あっさりとした返事。
「試験で派手にやった子だろ?」
胸が、少しだけ跳ねた。
知られている。
それが、少し誇らしくもあった。
「俺たちはDランクだ」
バルクが言う。
「Dランクの付き添いなら、Eランクのお前も一緒に依頼を受けられる。知ってるよな?」
私は、頷いた。
講習で聞いた。
ランクが上の冒険者がいれば、下の者も同行できる。
「じゃあ決まりだな」
そう言って、彼は依頼掲示板に向き直る。
周囲を見渡したけれど、ミアレの姿はなかった。
少し悩んだが特に気にも留めず、私は二人が手に取る依頼を見る。
ジャイアントバットの討伐。
オークの素材回収。
一人一枚ずつ、依頼を剥がしていく。
「君もEランクの依頼を何か一つ取るといい」
ロニオが言った。
「一人ずつ依頼を受けて、まとめて達成する方が稼ぎになるんだ」
なるほど、と頷きながら、私は掲示板に目を戻す。
Eランクの依頼。
どれも、やっぱり報酬は少ない。
その時、横から手が伸びた。
一枚の依頼書が、私の前から剥がされる。
「これがいい」
差し出された紙。
スライムの素材回収。
スライムの核、十個。
報酬は、銅貨六枚。
「……これですか」
「簡単だし、安全だ」
そう言って、半ば当然のように手渡される。
私は、それを受け取った。
そして、三人それぞれがギルドの受付へ向かう。
受付のお姉さんに依頼書を差し出し、手続きを済ませる。
問題はなかった。
そうして、私たちはそのままギルドを出立し、ダンジョンへ行く。
地図は大まかで、街から離れた場所にあるらしい。
詳しい道順は彼らが知っている。だから私は、後ろをついていけばいい。
それだけのことだ。
歩きながら交わされる会話は、軽いものだった。
天気のこと、最近の依頼のこと、酒場の噂。
けれど私は、そこに踏み込めずにいた。
話を聞いてはいるけれど、相槌を打つタイミングが一拍遅れる。
歩く速さも、足音の間隔も、微妙に合っていない。
疎外されているわけじゃない。
でも、完全に並んでもいない。
そんな曖昧な距離のまま、視界の先にそれが見えた。
ダンジョンの入口。
大きな洞穴のように口を開け、奥は暗く、空気が冷たい。
外の光が、そこから先で吸い込まれていくようだった。
「広いよは」
「夜になるとジャイアントバットが飛び出すらしい。だから、こうなる」
二人の会話を背中越しに聞きながら、私は杖を両手で抱えた。
胸に引き寄せるようにして、入口へと続く下り坂を進む。
中は、すぐに暗くなった。
一人が松明に火を灯す。
揺れる炎が壁を照らし、影が大きく歪む。
私は腰のランタンに指を伸ばし、火を起こした。
控えめな光が足元を照らす。
「それ、ランタンだったのか?」
声をかけられて、私は少しだけ驚いた。
腰のそれを指で軽くつつくと、光が小さく揺れた。
「光、弱いけどな」
「はは、でも松明は手が塞がるからな」
ロニオが気さくに笑う。
「いいの持ってるな。大事にしろよ」
その言葉に、私は小さく頷いた。
褒められたようで、でもどこか借り物のような気分だった。
バルクがロングソードを抜き、先頭に立つ。
足取りは、外よりもずっと遅い。
ゴブリンのいたダンジョンとは違う。
ここは、広い。
空洞のように天井が高く、空気が流れているのが分かる。
見上げると、松明の光に照らされて、尖った岩肌がむき出しになっていた。
……何か、ある。
点のような影。
ただの岩か、それとも――。
その瞬間だった。
足元から、
チュー
という、甲高い鳴き声がした。
「キャ!」
思わず跳ねた。
心臓が喉までせり上がり、冷や汗が背中を流れる。
慌てて一歩、後ずさる。
見えたのは、小さな影。
ネズミ。
小鼠。
ただの、小鼠。
――なんだ。
そう思った瞬間、自分がひどく情けなくなった。
こんなものに驚くなんて。
私の声に、二人が振り返って駆け寄ってくる。
「大丈夫か?」
「何があった?」
「……だ、大丈夫です。その……ネズミに、驚いて……」
言い訳のような言葉だった。
息を整えようとした、そのとき。
ボトリ
何かが、落ちてきた。
次の瞬間、
ビチャリ
と、顔に冷たい水滴がかかる。
一瞬、何が起きたのか分からなかった。
反射的に袖で顔を拭い、手に残ったものを見る。
ぬるり、とした感触。
冷たく、粘つく。
緑色の――粘液。
塊。
それは、地面で形を崩しながら、
さっきのネズミを、ゆっくりと包み込んでいた。
取り込まれる、小さな影。
……あ。
理解が追いついたとき、
喉の奥が、ひくりと鳴った。
ネズミなんて、どうでもよかった。
本当に怖いものは、最初から、上にいた。
バルクのロングソードが、迷いなく粘液の塊へと突き込まれた。
一瞬、刃が沈み込んだように見え、次の瞬間、横へと大きく薙がれる。
切っ先から緑色の飛沫が弧を描いて飛び散り、岩肌にべったりと張り付いた。
――けれど。
それでも、粘液の塊は止まらなかった。
切り裂かれたはずの部分が、ぬるりと歪み、時間をかけてゆっくりと塞がっていく。
まるで傷という概念を知らない生き物のように。
「知らないか? こいつがスライムだよ」
ロニオの声は落ち着いていた。
説明する相手が、怯えていることも、驚いていることも、全部織り込み済みの声音だった。
私は無意識に、杖を強く握り直していた。
魔物だ。
頭では分かっている。
けれど、体はそれを脅威として認識している。
ロニオは松明を高く掲げ、その炎をスライムへと近づけた。
すると、粘液の塊はまるで嫌悪するように、ぐにゃりと形を歪ませ、後ずさる。
「動きは遅い。危険もそれほどじゃない」
そう前置きしてから、続ける。
「ただし、触れ続けると溶解液で何でも溶かす。皮膚も、革も、運が悪けりゃ骨までな」
喉がひくりと鳴った。
それを聞いても、ロニオの表情は変わらない。
「それで、こいつの核を集めるのが今回の依頼だ」
私は杖を片手に持ち替え、腰の依頼書に視線を落とす。
薄暗いダンジョンの中では文字が滲んで見え、指でなぞってようやく読めた。
「……スライムの核が、10個」
声に出すと、数字が急に現実味を帯びる。
「だな」
バルクが短く答えた。
次の瞬間、彼は再び剣を突き立て、今度は迷いなく中央部を抉る。
粘液の奥に、赤く淡く光るものが見えた。
剣先で器用に絡め取られ、取り出される。
小さく、冷たい核。
森オオカミから魔石を取り出した時の光景が、一瞬だけ脳裏をよぎった。
「まず一個目だ」
ロニオがそれを受け取り、小袋に放り込む。
布越しに、かすかな音がした。
「こいつらは体温や匂いに反応して落ちてくる。特に――」
一瞬、私の方を見る。
「顔にな」
「……あんまり言いたくねぇが、そんな死に方だけはごめんだな」
バルクが乾いた声で笑った。
核を失ったスライムは、もはや形を保てず、どろりと広がっていく。
水溜まりのように、そこに残るだけの存在。
最初は、確かに怖かった。
けれど、ゴブリンのように襲いかかってくることもない。
群れを成すことも、叫び声を上げることもない。
――これは、弱い魔物。
2人は余裕そうに、次の天井を見上げている。
私は、遅れて同じように上を見た。
暗闇の奥。
松明の光が届かない場所。
スライムの核を10個。
袋の中には、今ひとつ。
残り、9個。