ゴブリン。
スライム。
オーク。
悪い魔物たち。
知らないわけじゃない。
私は、知っている。
絵本で読んだ。
本で読んだ。
冒険者になる前から、何度も目にしてきた名前だ。
けれど――実際に見るそれらの姿は、私の知っているものとは少し違っていた。
似ているところはある。
形も、呼び名も、特徴も。
それでも、どこか違う。
生きている、という違い。
呼吸をして、匂いを持ち、こちらを認識しているという、決定的な違い。
……でも。
それでも。
私の魔法で倒せるなら、みんな同じだ。
倒して、動かなくなってしまえば。
それはもう、弱い魔物なんだから。
七匹目のスライムが、天井から落ちてきた。
ぬちゃり、と湿った音を立てて地面を這い、蠢く。
遅い。
逃げない。
私は一歩踏み込み、杖を前に突き出した。
「――ウインドブラスト」
風が弾ける。
パンッ、という乾いた音と共に、スライムの体が霧散した。
粘液は形を失い、塵のように消える。
その勢いで、核もどこかへ飛んでいった。
一瞬、視線を走らせたけれど、見つからない。
胸の奥がちくりとした。
でも、依頼は達成できる。そう思って、その感覚を振り払った。
……まあ、いい。
それよりも。
私の魔法を、見てほしかった。
「おいおい、加減しろよ」
ロニオが笑いながら言う。
「だが、すごいな」
「魔力は温存だ。スライム相手に使い切るもんじゃない」
バルクも、軽くそう付け加えた。
感心している。
ちゃんと、冒険者として見てくれている。
胸が、少しだけ高鳴った。
これが、私の実力だ。
胸を張る。
杖を握る手に、自然と力が入る。
私だって、冒険者なんだから。
戦うんだ。
スライムだけじゃない。
ジャイアントバットも。
オークも。
私の魔法で、倒すんだ。
結局、私が倒したスライムは、その一匹だけだった。
核は失くしたけれど、依頼分の数は揃った。
スライムの核は、10個。
ロニオが袋を縛り、軽く振る。
中で、石同士がぶつかる音がした。
「よし、これで完了だな」
達成感が、胸に広がる。
やれた。
ちゃんと、やれた。
私はダンジョンの奥を見据えた。
次は、もっと強い魔物だ。
次は、もっと派手に。
そのまま、私たちは奥へと進んだ。
僅かな音が、空洞の奥で反響していた。
足音。
松明の火がはぜる音。
装備が擦れる、金属の乾いた音。
それらが混ざり合い、重なって、ダンジョンの空気に溶けていく。
私の足取りは、自然と早くなっていた。
二人に追いつくために。
置いていかれるのが怖いわけじゃない。
ただ――私も、戦いたかった。
役に立ちたかった。
一緒に前に立って、倒して、進みたかった。
だから、足が前に出る。
その時だった。
ロニオが、突然腕を伸ばした。
胸元に、どん、と何かが当たる。
遮るように押し返され、私は思わずよろけた。
「うぁ……なに……?」
声を上げるより早く、低い声が落ちてくる。
「止まれ」
短い一言。
その言葉に、バルクも即座に足を止めた。
「どうした」
低く、短く問う。
ロニオは答えず、松明を持つ手をわずかに下げた。
「静かに。……耳を澄ませろ。聞こえるか?」
音……?
松明の火が、ぱち、と弾ける音。
私たちの呼吸。
それ以外の――
バサッ。
バサッ。
空気を切るような、重たい羽音。
流れてくる風に乗って、確かに聞こえる。
上からだ。
喉が、ひくりと鳴る。
「……何体倒す?」
ロニオが、視線を上に向けたまま問いかける。
バルクは、迷いなく答えた。
「群れてる。全員だ。まとめて倒す。討伐証は後で、ゆっくり剥ぎ取ればいい」
それが当たり前だ、と言う口調。
「ああ、わかった」
ロニオも頷き、ロングソードを抜いた。
片手で握り、ゆっくりと呼吸を整える。
二人の間で、会話はそれだけで終わった。
――準備が、整った。
私は一拍遅れて口を開く。
「あの……私は、魔法で倒せばいいですよね?」
その瞬間、バルクの視線が私を捉えた。
スライムの時とは違う。
値踏みするような、据わった目。
ロニオが、代わりに答える。
「……ギルドに納品する討伐証が要る。
できるだけ、翼を狙ってくれないか?」
「……わかりました」
翼。
翼を狙う。
飛んでいるものの、動いている翼を?
……どうやって?
疑問が浮かぶ前に、声が落ちてくる。
「行くぞ」
バルクが一歩踏み出す。
ロニオも、それに続く。
考える間は、なかった。
私は小走りで、その背中を追った。
進むたびに、音がはっきりしていく。
風を叩く、重たい羽音。
キーキーと甲高く喚く鳴き声が、複数重なって空洞に反響する。
数が、いる。
「……何か、様子がおかしい」
そう言ったのはロニオだった。
何がどうおかしいのか、私には分からない。
ただ、その声色が、今までと違うことだけは伝わってくる。
松明に照らされた天井に、大きな影がひとつ浮かんだ。
影は私たちの頭上を追い抜き、羽音を残して闇へと消える。
――あれが、ジャイアントバット。
輪郭はぼやけているのに、大きいことだけははっきり分かった。
私は駆け足気味に、二人の後ろを追う。
そのまま――
止まったロニオの背中に、ぶつかった。
「んぶ……!」
短く息が詰まる。
慌てて身を引き、彼の背中越しに前を見る。
杖を握り直した。
忙しなく動く翼。
複数のジャイアントバットが、円を描くように空間を取り囲んでいる。
私の目にも分かる。
明らかに、興奮している。
――そして。
その中心に、影があった。
丸く、うずくまった……人影のようなもの。
ジャイアントバット以外の、別の音が混じる。
パキ。
ゴリ。
グチャ。
骨を砕き、肉を潰す音。
噛み砕き、咀嚼する、生々しい響き。
喉の奥が、ひゅっと縮む。
あれは――
人じゃない。
「……オークだ」
バルクが低く言う。
「もっと奥にいると思ってたがな。
食事の真っ最中らしい」
影が、ゆらりと動いた。
巨漢のような体が起き上がる。
その手には、腸がむき出しになったジャイアントバットがぶら下がっていた。
私は、ゆっくりと杖を構える。
胸の奥が、ざわつく。
「ロニオ、どうする」
バルクが視線を切らさずに問う。
「ジャイアントバットとオークを同時は無理だぞ」
「一旦引く」
即座にロニオが答えた。
「オークを引きつけて、ジャイアントバットから引き離す。それから、オークを先に倒す」
「ああ、わかった」
二人の判断は、迷いがない。
私は、遅れて状況を整理する。
残っている依頼。
ジャイアントバットの討伐。
オークの素材。
そして――金貨。
杖の値段。
昨日、掴めなかった……。
――倒さなきゃ。
私の中で、その言葉だけが残った。
考える前に、声が出た。
「――ウインドブラスト!」
短い詠唱。
迷いはなかった。
それは、オークに向かって放たれた。
ウインドブラスト。
風の塊が、薄暗い視界の奥――オークの影へ一直線に走る。
避ける素振りも、防ぐ動作もなかった。
圧縮された風が腹部に直撃し、次の瞬間、爆ぜるような衝撃音が洞窟内に反響する。
オークの巨体が、風に押し潰されるように宙を舞い、闇の奥へと吹き飛ばされた。
――重い。
鈍い音。
地面を引きずられる感触だけが、足裏を通して伝わってくる。
手応えは、確かにあった。
けれど――どうなったかは、見えない。
確認しないと。
そう思った瞬間。
洞窟内の空気が、ぴたりと止まった。
視線。
数えきれないほどの視線が、一斉にこちらへ向けられている。
甲高い叫び声。
ジャイアントバットの群れが、私を見ていた。
獲物を見る目で。
「……っ」
心臓が、嫌な音を立てて跳ねる。
この感覚。
ゴブリンに追い詰められたときと、同じだ。
私は反射的に杖を握り直した。
風を叩く音が、迫ってくる。
ジャイアントバットが、鉤爪を前に突き出しながら突進してくる。
距離は――ある。
けれど。
数が、多い。
「ウインドブラスト!」
即射。
一発、二発。
風が翼を打ち抜き、二匹が空中でバランスを失い、錐揉み回転しながら地面へ落ちる。
――これなら。
怯えて、引くはず。
そう思った。
けれど。
止まらない。
「……あ」
声にならない音が、喉から漏れた。
ダメだ。
鉤爪が、真っ直ぐこちらに――。
避けられない。
咄嗟に腕を上げ、防御の姿勢を取る。
次の瞬間、衝撃。
ジャイアントバットの足が、レザーの手袋を掴み取った。
「――ッ!」
貫通はしていない。
けれど、食い込む。
痛い。
強い。
離す気配がない。
力加減など、最初から存在しない。
手首が、今にも握り潰されそうだった。
見上げる。
闇の中、ジャイアントバットが私を見下ろしている。
大きく開いた口。
鋭利な牙。
鈍い光を反射して、はっきりと見えた。
叫び声が鼓膜を打ち、視界が揺れる。
その瞬間。
重い衝撃が、腹部に叩き込まれた。
別の一匹が、勢いのまま飛びかかってきたのだ。
「――っ、……!」
肺の空気が、一気に抜ける。
息ができない。
体勢が崩れ、地面に倒れ込む。
掴む力は、まだ緩まない。
抵抗できない。
――あ。
死ぬ。
そう思った。
次の瞬間。
「――おらっ!!」
鋭い金属音。
バルクのロングソードが、私に馬乗りになっていたジャイアントバットの翼を切り上げ、両断する。
血と肉が飛び散り、剣の勢いのまま蹴り飛ばされる。
続けざまに、もう一体。
斬り伏せ、蹴り上げる。
私は、地面に這いつくばったまま、息を吸おうとして、むせた。
「聞いてるか、ロニオ。作戦変更だ」
「……ああ、分かってる」
バルクはロングソードを振り、張り付いた血糊を勢いよく払う。
その背中は、私を一度も振り返らない。
「おい、Eランク。立て」
荒い声。
けれど、命令だった。
「休むんなら、ここを出てからにしろ」
周囲では、まだ羽音が飛び交っている。
私は、乱れた息を整えながら、ゆっくりと立ち上がった。
手首が痛い。
腹部も、鈍く痛む。
手で軽く擦る。
「……ありがとうございます」
そう言って、バルクを見る。
けれど、彼は振り向かない。
「感謝はあとだ」
低く、前を見据えたまま、言い放つ。
「オークが死んだかは分かんねぇ。だが――」
剣を構え直す。
「ここからは狩りの時間だ」
甲高い鳴き声が、再び洞窟を満たす。
「来いよ、コウモリ野郎」
よろめきながら、なんとか立ち上がる。
視界の端で、二人が動いているのが見えた。
ロニオとバルクは私のすぐ近くでロングソードを構え、飛びかかるジャイアントバットの爪を躱し、迷いなく翼を断つ。
確実な一撃。
地に伏せたそれは、片方の翼だけをばたつかせ、醜く藻掻く。
その動きを止めるように踏みつけ、首元へ剣を突き立てる。短い抵抗のあと、動きは止まった。
――強い。
そう思った。
でも、見ている余裕はそれだけだった。
二人が動いている。
それでも、ジャイアントバットたちの視線は、私から外れなかった。
わからない。
理由はわからないけれど、確かに――
私の周囲を囲むように、闇の中を飛んでいる。
近づいては消え、また現れる。
数は掴めない。松明の光が届かない位置で、羽音だけが増えていく。
(……私、だ)
三人の中で一番背が低い。
鎧も薄い。動きも遅い。
狩りやすい対象だと、そう判断された。
理由はそれだけで十分だった。
一匹が、叫声とともに鈎爪をこちらへ向けて飛びかかる。
私は杖を強く握りしめる。
――殴る?
一瞬、そんな考えが浮かんだ。
これ、魔法使いの戦い方だっけ。
でも、そんなことを考えている余裕はない。
「やっ……!」
振りかぶった杖を、全身の勢いで叩きつける。
鈍い感触が、手のひらから腕へ伝わった。
骨か、肉か、判断できない。ジャイアントバットはそのまま地面へ叩き落とされる。
仰向けになり、翼をばたつかせ、足が宙を掻く。
逃がさない。
もう一度、杖を振りかぶる。
加減なんて、できなかった。
さっきまでの恐怖と、痛みと、息の詰まる感覚が、そのまま力になる。
叩きつける。
嫌な音がした。
骨が砕け、肉と内臓が潰れる、生々しい感触。
ジャイアントバットの断末魔が一つ、洞窟に吸い込まれて消える。
動かなくなった。
腰のランタンの光が、その死骸を照らす。
……倒した。
息を整える暇もなく、周囲を見る。
杖を握り直す。指が、わずかに震えている。
「ウインドブラスト!」
即射。
一体。
もう一体。
翼を狙い撃ち、空から叩き落とす。
それでも、止まらない。
飛びかかってくる個体は、魔法を待たずに杖で殴り倒す。
倒して、殴って、動かなくなるまで、何度も。
必死だった。
助けを呼ぶ、という発想は浮かばなかった。
振り向けば、隙になる気がした。
剣の音は聞こえる。
仲間がいることも、わかっている。
それでも――
まるで、私だけが狙われているみたいだった。
私が弱いから。
私が、一番簡単だから。
そんな考えが、頭から離れなかった。
ドカ、ゴッ。
ガッ、ゴキッ。
骨が砕ける音だけが耳の奥で響いていた。
私は必死に杖を振り下ろしていた。何度も、何度も。同じ場所を叩き続ける。動かなくなるまで、潰さないといけない。倒さないと私が危ない。そう思うと腕が勝手に動いた。
風を叩く羽音も、鳴き声も、もう聞こえない。世界は目の前の黒い塊と、鈍い衝撃の感触だけになる。
手のひらが痺れている。震えているのに、止まらない。
もう一度、確かめるように杖を振り上げた。
その瞬間、肩を強く掴まれる。
体が反射的に跳ねた。誰かに触れられた恐怖で、私はそのまま杖を振りかぶる。
バルクが片手でそれを受け止めていた。
「もう終わってるぞ」
低い声。
その言葉で、ようやく音が戻ってくる。
自分の荒い呼吸。松明のはぜる音。遠くで滴る水音。
握っていた力が一気に抜けた。杖が手から滑り落ちそうになる。膝が崩れて、その場に尻餅をついた。
息を吐く。吸う。うまく入らない。
視界が白く滲んでいたのが、少しずつ輪郭を取り戻す。
「何度も声かけたんだぜ。でも全然聞こえてなかったろ」
ロニオの声が近くでする。
「こいつの声、至近で聞くと頭がやられる。パニック起こすんだよ。普通はまともに立ってられねぇ」
パニック。
その言葉が頭の中で反響する。さっきの叫び声を思い出した瞬間、こめかみの奥がズキッと痛んだ。思わず頭を押さえる。
視線を落とすと、足元にジャイアントバットの残骸があった。何度も叩き潰された肉塊。形を留めていない。
胃の奥がひっくり返りそうになって、私はにじるように距離を取る。
バルクは無言で杖を拾い上げ、血を振り払ってから投げてよこした。
「ほら、返すよ」
慌てて両手で受け取る。胸に抱えるようにしてうずくまり、呼吸を整える。
私はパニックを起こしていたらしい。声も、仲間の姿も、全部消えていた。だから一人で戦うしかなかった。
……いや。
本当に一人だった?
思考が一瞬だけ引っかかる。でもすぐに振り払う。
逃げるなんて、助けを求めるなんて、らしくない。
言ったならやる。
思ったなら動く。
止まるなんて、風の氏族じゃない。
ゆっくり立ち上がると、バルクが一瞬だけこちらを見た。何か言いたげな目。でもすぐに前へ戻る。
「あの、私……もう大丈夫です」
ロニオが討伐証を剥ぎ取りながら顔を上げる。
「ああ。無理すんなよ。少し休め」
「……はい」
膝をついて座る。まだ心臓が速い。指先が微かに震えている。怖かったはずなのに、頭のどこかは妙に澄んでいる。
殴った感触。魔法の手応え。敵の数が減っていく視覚。
全部、ちゃんと覚えている。
孤独な戦いだった。
……でも、勝った。
他の人から見たら、すごいのかもしれない。
だとしたら――
私は、やっぱり強い。
そう思った瞬間、胸の奥で何かが小さく軋んだ気がした。けれど、その音はすぐに消えた。
私は杖を握り直した。