私は杖を抱えたまま、体を丸めてうずくまっていた。
まだ心臓が早い。息を整えようとすると、胸の奥が小さく痛んだ。
すぐ近くで、ロニオが倒れたジャイアントバットの鼻先を短剣で削ぎ落としている。ぬめる音と、袋に放り込む鈍い音。
討伐証――それが冒険者の仕事の「証拠」になるのだと、頭ではわかっているのに、視界の端で揺れるそれはどうしても生々しかった。
最初、バルクは翼を持ち帰ろうと言っていた。けれど、思いのほかかさばるとロニオに指摘され、結局はあの豚のような鼻が討伐証になったらしい。特徴的で、数もわかりやすいからだという。
一体、何個必要なんだろう。
これはDランクの依頼。
私はEランク。――私がやらなくても、いいのかな。
そう思った瞬間、森オオカミの尻尾を剥ぎ取っていた自分の姿が頭に浮かんだ。ミアレと並んで、ぎこちない手つきでナイフを握っていたあの時間。あれも同じだった。報酬をもらうための証拠。冒険者の仕事。
やっぱり、強くないとだめだ。
無意識に杖を抱く腕に力が入る。
「ジャイアントバット、十九体か。何匹か逃げたが……まぁ、ここまでやるつもりなかったけどな」
バルクがロングソードを肩に担ぎ、小袋をロニオへ放る。中で討伐証がぶつかり、湿った音がした。
「こんなにいらねぇよ。受付嬢に気味悪がられるぞ」
「ははっ、違いねぇ。俺だって触りたくねぇもん」
ついさっきまで命のやり取りをしていたとは思えないほど、軽い会話だった。その余裕が、少しだけ羨ましくなる。
私は深く息を吸った。
血の鉄臭さと湿った土の匂いが混ざっている。ふと、別のことを思い出した。
――魔石。
ゆっくり立ち上がる。
足元の死骸に杖を当て、ずらす。魔力の反射する場所を探るように、意識を集中させる。暗い中で、かすかな違和感が指先に触れた。
ここだ。
「あの……ここに、魔石があると思います」
二人が同時に振り向いた。怪訝そうな顔。ロニオが一歩近づく。
「やんのか? 血、浴びるぞ」
「アンチドーテあるしな。……リュシア、どこだ?」
私は杖の先で腹部を指す。
ロニオが短剣を入れると、ぬめりと共に小さな石が姿を見せた。森オオカミのときより、さらに小さい。
「魔石だ。確かに……小さいが」
「塵も積もれば、だろ。まとめりゃ金になる。魔法使いって便利なもんだな」
バルクが肩をすくめる。
「俺たちは捌いてる時に偶然見つかるくらいだしな。ギルドも量がなきゃ買ってくれねぇし」
二人の視線が私に向き、目が合う。
バルクが軽く肩を叩いた。
「すげぇな。頼むわ」
頼られている。
その事実が、胸の奥で静かに温かく広がる。さっきまでの重さが、ほんの少しだけ軽くなるのを感じた。視界が、わずかに開ける。
「死体、集めるぞ」
バルクがジャイアントバットを一箇所に放り投げ、ロニオが苦笑する。
「おい、もうちょい丁寧にな」
私はそのそばで、ひとつ、またひとつと魔力の反応を探った。見つけるたびに指し示し、ロニオが切り開いて石を取り出す。
小さな石。小さな証明。
それは金になるかもしれない。けれどそれ以上に、私がここにいる理由を形にしてくれる気がした。
洞窟の暗がりの中で、私は杖を握り直す。
手の中の重みが、ほんの少しだけ誇らしかった。
魔石を取り出し終えたあと、私は杖を握り直し、ダンジョンの奥へと視線を向けた。
音はない。
聞こえるのは、松明の火がはぜる小さな音と、私たち三人の足音、そして自分の呼吸だけだった。
松明と腰のランタンの明かりでは、闇の先までは届かない。
その奥に、私の放ったウインドブラストで吹き飛んだオークがいる。
戦っている間も、討伐証を剥ぎ取っている間も、あの巨体は姿を見せなかった。
倒したのか、逃げたのか。呻き声一つ聞こえなかった。
けれど私は、倒せていると確信していた。
ゴブリンも、スライムも、風の一撃で弾け飛び、即座に動かなくなった。あの魔法は、確実に命を断つ力がある。そう思っていた。
「後はオークの素材だ。奥へ進むか?」
ロニオが低い声で言う。
「そのために来てんだろ」
バルクが短く返し、私も小さく頷いた。
「さすがに一発でくたばるとは思えねぇ。弱って逃げてるなら、今がチャンスだ」
「だな」
三人で歩き出す。
足取りはゆっくりだ。風だけが先へ先へと流れていく。松明の炎が揺れ、その影が岩肌に伸び縮みする。
やがて、闇の中にぼんやりと横たわる巨体が見えた。
オークだ。間違いない。側には、弾け飛んだジャイアントバットだった肉塊も転がっている。
それを目にして、私は杖を握り直す。
「死んでるか?」
「いや……生きてる。息がある」
二人は声を潜めて確認する。
オークの荒い呼吸が、微かに漏れていた。腹部には異様な凹みと、黒ずんだ変色。私の魔法が直撃した跡だった。
「じゃ、とどめ刺すか」
「ああ」
ロニオが足でオークの頭をずらし、急所を晒す。
バルクがロングソードを握り、首筋へと切っ先を突き立てた。
音はほとんどしなかった。
剣は、まるで吸い込まれるように深く沈み込む。
次の瞬間、野太い断末魔が洞窟に響き、巨体がわずかに痙攣して、やがて動かなくなった。
バルクは肩に足をかけ、ゆっくりと剣を引き抜く。
刃から滴る血が、石床に落ちて小さな音を立てた。振り払われた血糊が弧を描き、闇に消える。
私は、その一連の流れをただ見ていた。
魔物を倒した。
ただ、それだけのこと。
「オークの素材って、どこですか?」
確認のつもりで尋ねると、バルクが肩越しに答えた。
「肉だよ、肉。大抵はな。グルメな奴は肝とか睾丸とか言うが……変わってるよな」
目が合う。
「それよりよ、リュシアだったか。お前、すげぇな。あの魔法一発でこれだぞ。見てたよな、ロニオ」
「ああ、見てた」
胸の奥が、ふわりと軽くなる。
認められた。私の強さを、誰かが見てくれていた。
「俺達だけなら三十分はかかる。傷つけて、血を流させて、失血を待つ。オークの皮膚は分厚いから、ロングソードじゃ致命傷になりにくいんだ……だが一撃か」
ロニオはそう言いながら、ナイフを取り出す。
「あの、だったら……さっきみたいに突き刺せばいいんじゃないですか?」
斬ってだめなら、刺せばいい。
単純な疑問だった。
ロニオが吹き出す。
「くははっ、バルク。よかったな」
「うるせぇ。あの時はそれが早かったんだよ」
何の話かわからないまま、二人を見比べる。
「首に刺して、抜くとこ見てたか?」
「……?」
ただ、刺して抜いただけに見えた。
「刺したら、抜けなくなるんだよ。特にオークはな。筋肉が締め付けて、剣が噛まれる」
バルクが目線を落とし、ぼそりと言う。
「前それやって、剣が刺さったまま戦う羽目になったんだよな。死ぬかと思った」
「今なら笑い話だがな」
「笑えねぇっての」
軽口を叩きながらも、二人の手は止まらない。
「まぁいいや。そろそろ血も抜けた頃だろ」
床に置かれた松明が、赤々と揺れる。
二人はオークの皮を剥ぎ始め、洞窟に生暖かい血の匂いが広がっていく。
私は少し離れて、その様子を見ていた。
強い一撃だけでは終わらない。
倒すということは、斬ることでも、刺すことでもなく、その後の手間も含めて"仕事"なのだと。
ナイフが擦れる音が、湿った空間に細く響いていた。
皮が削がれ、肉が裂かれ、骨に刃が触れる鈍い音が伝わるたび、洞窟の空気はわずかに震える。
松明の火が揺れ、影が伸び縮みするたびに、そこに横たわるオークの巨体は、もはや魔物というより巨大な素材の塊へと変わっていった。
血と肉と骨。
鼻腔を刺す鉄の匂いに、私はほんの少しだけ肩を強張らせる。
掌にじっとりと汗が滲むのがわかった。
嫌悪感ではない。
ただ、これが冒険者の現実なのだと、ゆっくりと身体に染み込ませるように受け入れているだけだった。
ミアレと森オオカミを捌いた時にも見た光景。けれど、目の前のそれは規模も迫力も、何もかもが違っていた。
「内臓がぐちゃぐちゃになってるな……」
ロニオが胸部を切り開き、内部を覗き込む。
私は思わず視線を逸らしそうになったが、ぐっと堪えた。
「持って帰ろうと思ったのか?」
バルクが気のない調子で問う。
「いや、そのつもりはない。ただ……それだけの威力がある魔法だと思ってな。少し、怖くなっただけだ」
怖い。
その言葉の意味が、私にはすぐには理解できなかった。
頼もしい、ではなく、怖い。
自分の魔法が誰かにそう映ることがあるのだと、その時になってようやく知る。自分の手を見て、その言葉は胸のどこかに引っかかり、静かに沈んでいった。
作業は手際よく進み、オークの形はみるみる崩れていく。
首と腕が落とされ、内臓が抜かれ、残った胴体はただの大きな肉塊となった。
膝下を落とされた腿。
分厚い二の腕。
ロニオとバルクは慣れた手つきでそれらを布に包み、背負えるように紐を結んでいく。
私は二の腕の塊を手渡された。
人の太ももほどもある太さ。ずっしりとした重量が肩にのしかかる。布越しに伝わる生温かい湿り気が、遅れて嫌悪感を呼び起こした。けれど、それを表に出すことはしなかった。これは仕事だ。これもまた、冒険者の一部なのだと、自分に言い聞かせる。
「じゃあ、帰るか」
「ああ、すぐ動こう」
短いやり取りの後、ロニオは残った腕先や足先、そしてオークの頭部を、帰路とは別の方向へ次々と投げ捨てていく。
私は思わずその軌道を目で追った。
「捨てるんですか?」
問いかけると、バルクは口の端を上げる。
「まぁ、見てろって」
答えはすぐに現れた。
どこからともなく、空気を叩く羽音が近づいてくる。洞窟の天井を掠めるような、あの不快な振動音。私は反射的に身構え、杖を握りしめた。
だが、ジャイアントバットたちは私たちには向かわなかった。
散らばったオークの肉片へと群がり、足で掴み、噛みちぎり、互いに威嚇し合いながら奪い合う。数は多くない。それでも、あの羽音が耳に届くだけで、胸の奥がざわついた。
「解体してる時に血の匂いで寄ってきたんだよ。全部は持って帰れねぇ。おこぼれを分けないと、今度は俺たちが襲われる」
バルクはそう言い残し、踵を返して歩き出す。
合理的で、現実的で、そして容赦がない判断だった。
心臓の鼓動が速くなる。
さっき襲われた瞬間の記憶が、鮮明に蘇る。牙、翼、鋭い鳴き声。喉の奥がひゅっと詰まり、息が浅くなる。私は小走りに足を動かし、二人の背中を追った。
背後では、肉を引き裂く音と羽ばたきが混ざり合っている。
振り返らない。振り返ってはいけない気がした。
揺れる松明の灯りが、足元の影を揺らす。
背負った肉の重みと、金具が小さく触れ合う乾いた音だけが、私がまだここにいることを教えてくれる。
これが冒険者の帰り道。
血の匂いと、わずかな達成感と、拭いきれない緊張を抱えたまま進む、暗くて細い道。
それでも私は歩く。
振り返らず、足を止めず、灯りの届く方へと。