風の氏族の末娘は、冒険者を知らない   作:ほてぽて

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8話後編 今日を生き延びた証

 

 

 出口が近づくにつれて、空気が変わっていくのがわかった。

 

 湿った石の匂いは薄れ、代わりに風に揺れる木の葉の擦れる音や、どこか高いところで鳴く鳥のさえずりが耳に届きはじめる。

 

 闇の奥では聞こえなかった音たちが、少しずつ、少しずつ、私の周りに戻ってくる。

 

 

 けれど、光の先はまだ見えない。

 

 それでも足は自然と早くなっていた。

 

 洞窟を抜けた瞬間、強い日差しに思わず手をかざす。

 

 目を細めると、眩しさの向こうに広がる青空が滲んだ。

 

 重たく沈んでいた呼吸が、するりと軽くなる。意識せずとも大きく息を吸い込んでいた。

 

 鼻の奥にこびりついていた血なまぐさい匂いが、風にさらわれていく。

 

 代わりに届くのは、乾いた土の匂いと、草の青い香り。胸の奥まで空気が満ちていくのが心地よかった。

 

 前を歩く二人も同じだったらしい。

 

 肩がゆっくり上下し、深く息を吐く様子が見える。誰も言葉にはしないけれど、そこにあるのは確かな安堵だった。

 

 一安心。

 そう思えた、その時だった。

 

 今になって、手首がズキズキと脈打つように痛みはじめる。

 

 ジャイアントバットに掴まれたところだ。

 

 手袋越しに確認しても、腫れている様子はない。大きな怪我ではないのだろう。

 

 平気だと自分に言い聞かせる。けれど、背負った荷の重みがさっきより増した気がした。

 

 空を見上げると、太陽はすでに傾きはじめている。

 

 長く潜っていたのだと、そこでようやく実感した。疲労のせいか、バルクもロニオも口数は少ない。足音だけが、乾いた道に淡々と刻まれていく。

 

 今の私は、冒険者。

 

 兄様や姉様がこの姿を見たら、どう思うだろう。ちゃんと、立派に見えるだろうか。

 

 そんなことを考えると、自然と頬が緩んだ。

 誰に見せるわけでもない、小さな妄想。それだけで、少しだけ元気が湧いてくる。

 

 帰り道は見晴らしがよかった。片側にはなだらかな平原、もう片側には濃い緑をたたえた森が続いている。

 

 その境目をなぞるように、私たちは歩いていた。

 

 振り返れば、暗い洞窟の入口はもう遠い。

 

 考えてみれば、ダンジョンに潜っていた時間より、こうして移動している時間の方が長かったのかもしれない。

 

 冒険とは、戦いだけではなく、この長い道のりも含めてなのだと、今さらながら思い知る。

 

 しばらく歩いた頃だろうか。街との距離がちょうど半分ほどになったあたりで、ロニオがぽつりと呟いた。

 

「ここで焼くか」

 

「お、待ってたぜ」

 

 バルクがすぐに反応する。

 

 

 焼く――その言葉の意味は、聞かなくてもわかっていた。背負っているこの重み。オークの肉。それしかない。けれど、あえて口に出して確認する。

 

「何を焼くつもりですか?」

 

「オークの肉に決まってるだろ」

 

 

 バルクがにかっと笑う。

 

 私の思考が一瞬止まった。

 

 今からギルドへ持っていく素材を自分たちで食べる?それでいいのだろうか。

 

 

 これを引き渡してお金になるのなら、手をつけてはいけない気がする。けれど、正解がわからない。

 

 

「考えすぎんなよ。全部は食えねえし、俺たちが頑張ったご褒美みたいなもんだ」

 

 軽い調子で言われる。

 ロニオも近くの岩を見つけて腰を下ろし、続けた。

 

「これはまだ、僕たちのものだ。後でギルドや依頼主に検品してもらって初めて、正式な納品になる。それまでに無事に持ち帰れるかどうかの方が問題だからな。少し食べた程度で評価は変わらない」

 

 包みをほどきながら、彼は一言だけ付け加える。

 

「真面目なのは、いいことだ」

 

 

 

 その言葉に、胸の奥の引っかかりが少しだけほどけた。

 そういうものなのだと、自分の中で納得する。バルクも私も、ロニオのそばに荷を下ろした。

 

「バルク、火を頼む。リュシアは水を汲んできてくれ。僕は肉を切り分ける」

 

 

 短い指示に従い、それぞれが動き出す。

 私は水筒を受け取り、小さく頷いた。

 

 

 歩き出した瞬間、急に空腹に気づく。

 

 宿で食べた塩辛くて硬いベーコンの味が蘇った。あれから何も口にしていない。胃の奥がきゅうと鳴る。

 

 近くを流れる小川へ向かいながら、私は少しだけ足取りを軽くした。

 

 

 冷たい水の音が、木々の隙間から聞こえてくる。血と鉄の匂いに満ちていた洞窟とは違う、澄んだ空気の中で、私は水筒を握りしめた。

 

 

 冒険者の一日がようやく終わりに近づいている。

 そう思うと、胸の奥に、じんわりと温かいものが灯った。

 

 水筒を満たして戻ると、焚き火はもう立ち上がっていた。

 

 パチリ、と焚き火が小さく弾けた。

 

 乾いた枝が火を食んで音を立て、橙色の火の粉が舞い上がる。四方に置かれた石の上に薄い鉄板が据えられ、その表面がじわじわと熱を帯びていくのが遠目にもわかった。

 

 ロニオの脇には、切り分けられたオークの肉が並んでいる。

 

 ステーキのように分厚い切り身と薄く削がれたもの。血の気は拭われているものの、生々しさはまだ残っていて、それがかえって「成果」なのだと実感させた。

 

 

 

 バルクが鉄板に手をかざし、指先で一瞬触れてすぐに引っ込める。

 

 

「あ〜、腹減った!なぁ、もういいんじゃないか?」

 

 その声を合図に、ロニオは脂身を一片つまみ、鉄板に擦りつけた。

 

 ジュッ、と小気味よい音が鳴り、白い煙が立ち上る。香りが一気に広がり、鼻の奥をくすぐった。

 

 

 ロニオは手際よく肉を三等分し、私とバルクへ差し出す。

 

 

 二人は慣れた様子でナイフを肉に突き立て、鉄板へ並べていく。

 

 

 私はそれを、ただ見つめていた。

 

 肉が焼ける音。

 

 

 じゅう、と脂が弾ける音と、香ばしい匂い。空腹を直接揺さぶるような刺激に、喉が自然と鳴る。

 

 生きているから、お腹が空く。

 

 当たり前のことなのに、今日ほどはっきりと実感したことはなかった。

 

 

「焼かねぇのか?」

 

 バルクが私を見る。

 

 

「ほら、これ貸すよ。お前の分だから、自分で焼けよ」

 

 半ば強引にナイフを握らされる。

 ナイフの重さを確かめるように握りしめた。

 

 

 私はぎこちなく肉を刺した。調理など、家でもほとんどしたことがない。

 

 二人の動きを見よう見まねで、そっと鉄板に乗せる。

 

 同じように、じゅう、と音が鳴った。それだけで少し嬉しくなる。

 

 

 もう一枚、さらにもう一枚と並べていく。

 

 

「おい、バルク!ちゃんと焼けてないだろ、それ。腹壊したら次の依頼受けられないぞ」

 

 

「ハグッ……んぐ……いーだろ、俺の肉なんだから。腹減ってんだよ」

 

 半ば生焼けの肉にかぶりつくバルクを見て、ロニオが呆れた声を出す。

 そのやり取りに、思わず口元が緩んだ。

 

 

 私はロニオが肉を転がすのを真似して、慎重に焼き色を確かめる。

 

 もういいのだろうか。バルクのは参考にならない。必然的にロニオの焼き具合ばかりを見比べることになる。

 

 

 意を決して、一切れをナイフに刺して口へ運んだ。

 

 

 最初は熱さで味がわからなかった。

 けれど、次の瞬間、はっきりとわかった。

 

 噛むと同時に、肉汁が溢れ出す。

 舌の上で弾けるように広がり、口の中いっぱいに旨味が満ちる。思わず目を見開いた。

 

 

 

 美味しい。

 

 何度も噛む。

 

 噛むたびに肉がほぐれ、じゅわりと汁が滲み出る。飲み込む瞬間、喉の奥まで温かさが落ちていく。

 

 これが、冒険者のご褒美。

 そう思うと、胸の奥がじんわりと熱くなる。

 

 姉様がこの食べ方を見たら、きっと眉をひそめるだろう。

 「はしたない」と言われるに違いない。

 

 ふふ、と小さく笑みがこぼれた。

 リュシアは悪い子です、なんて心の中で呟いてみる。

 

 

 そんなことを考えていると、

 

 

「おい、肉焦げてんぞ?リュシア、お前もしかして焼くの下手か?これもカリカリで美味いけどな」

 

 バルクの声に、はっと鉄板を見る。

 

 

「え? あ、私のお肉……あ、あぁ、わたしの……」

 

 

 情けない声が出た。

 本当に情けない。けれど、その焦げかけた肉に、私たちの頑張りや、今日一日の重みが詰まっている気がして、惜しくて仕方なかった。

 

 

 ロニオが苦笑しながら言う。

 

「厚いのは先に焼いた方がいい。焦げる前に中まで火が通るからな」

 

 言われた通り、分厚い肉を先に並べる。

 

 今度は焦がさないように、じっと見守る。そして、焼けたそばから小さくかじった。

 

 

 暖かい。

 

 三人で囲む焚き火。鉄板の上で焼ける肉。口に運ぶたびに、胃も心も満たされていく。

 

 それは豪華な食卓ではない。

 

 

 皿も、調味料も、上品な作法もない。けれど、今日を生き延びた証のような食事だった。

 

 

 煙の匂いと、肉の香ばしさと、仲間の笑い声。

 

 その全部が混ざり合って、胸の奥に小さな充実感を灯す。

 

 

 ――ああ、私は今、ちゃんと冒険者をしている。

 

 

 そう思えた。

 焚き火の揺れる光の中で、私はもう一口、肉をかじった。

 

 

 

 陽は傾き、空はゆっくりと色を変えていく。

 

 

 そんな賑わいもあっという間にだった。

 3人の中で一番遅く、食事を終えた私は焚き火から少し離れて草原を見つめていた。

 

 

 澄んだ青は橙に飲み込まれ、遠くの雲は燃えるように染まりながら静かに流れていた。

 

 

 

 

 毎日訪れるはずの夕暮れなのに、今日はどこか違って見える。

 

 胸の奥に小さな熱が残っているからだろうか。風が頬を撫で、髪の先を揺らすたび、今日一日の出来事が頭の中で何度も反芻された。

 

 

 

 背後で、ぱきり、と乾いた音がした。

 

 振り返ると、灰になった焚き火をバルクが靴底で踏みつけている。

 

「それじゃあ、行くか」

 

「ああ、早くしないとギルドが閉まる」

 

 ロニオが短く答える。

 

 私は両手で包むように持っていた白湯の入った木のコップを飲み干した。

 

 樹を削り出しただけの無骨な作り。

 お椀にも見えなくはない形だが、手に馴染む温もりが心地よい。装飾も磨きもないそれが、かえって冒険者らしくて気に入っていた。

 

 バルクに返すと、彼は顎で地面を指す。

 

「杖忘れんなよ。そこのオークの肉もな」

 

「はい」

 

 返事をして荷を背負う。

 小走りで二人に追いつき、横に並んだ。夕日の光が長い影を引き伸ばし、三人の歩幅を一つにする。

 

 ロニオがふとこちらを見る。

 

「今日は助かった。いちばんの功労者はリュシア、君だ」

 

「だな。おかげでオークとまともにやり合わずに済んだ」

 

 見上げると、二人とも真面目な顔をしていた。

 胸の奥がくすぐったくなり、思わず杖をぎゅっと握りしめる。

 

「えへへ……」

 

 誇らしい。

 気持ちが口から零れ落ちる。

 

 

「私、強い、ですよね!」

 

 言った瞬間、自分でも少し恥ずかしくなった。けれど止められなかった。心が軽く、浮き上がるようだったから。

 

「オークを一撃であそこまで追い込めるなら十分だ」

 

 ロニオの言葉は淡々としているのに、重みがあった。

 認められたのだ、と素直に思える。

 

 

「そーだよ。次も一緒に組もうぜ。依頼をやりまくって、金をガッポリ集めて贅沢しよう。それが一番だ」

 

 

 バルクが笑う。

 

 お金。

 その言葉に、頭の奥で小さく鐘が鳴る。

 

 

 私の杖を買わなければならない。今のままでは足りない。けれど、今日みたいに依頼をこなしていけば――きっと、取り戻せる。

 

 

「バルクが勝手に言ってるだけだ。気にするな。まだEランクだろ。DがEをこき使ってるなんて噂になったら面倒だ」

 

 

「そーだった。お前、まだEだったな。試験は筆記だけだから実感ねぇんだよ」

 

 

「まぁ、正直、ランク差があるかと言われるとな……」

 

 

「でも経験の差はあるだろ?」

 

 二人は歩きながら話し込む。

 

 私は自分の手を見た。ぐっと握り、開く。もう一度握る。

 

 

 今日の私は、何でも倒せそうな気がしていた。強い。そう思える自分が嬉しかった。

 

 

 街へ戻る頃には、空はすっかり夜の色に変わっていた。

 

 それでもギルドの灯りはまだ消えていない。扉を開けると、酒と革と鉄の匂いが混じった空気が流れ込んできた。ロニオとバルクは顔見知りに軽く手を挙げ、受付へ向かう。

 

 見渡したが、ミアレの姿はない。

 

 少しだけ寂しくなりながら、私は二人の後ろに並んだ。

 

 依頼書、討伐証、納品物が並べられる。

 スライムの核の袋。ジャイアントバットの鼻の袋。オークの肉。

 

「今から確認しますね」

 

 受付嬢は手袋をはめ、裏手へ持っていく。戻ってきた彼女は事務的に告げた。

 

「確認しました。報酬金は只今お渡しします。オークの肉は依頼主に引き渡してから追加分がありますので、後日お越しください」

 

 血のついた手袋を外し、新しいものに替える。その表情には、わずかな苦笑が浮かんでいた。

 ジャイアントバットの鼻。確かに、好きな人はいないだろう。私だって嫌いだ。とても嫌いだ。

 

 

「オークの肉、綺麗だったろ? ちゃんと良い値で言ってくれよ。足元見たら次は質の悪いの持ってくるぞ」

 

 

 バルクが冗談めかして言う。

 

 

「ギルドの信用に関わりますのでやめてくださいね」

 

 受付嬢は微笑んだまま返す。

 続けてロニオが言った。

 

 

「報酬は三等分でお願いします」

 

 

「はい」

 

 そして、硬貨が並べられる。

 銀貨九枚、銅貨五枚。手のひらに乗せると、ずしりとした重みが伝わった。実質、金貨一枚相当。

 

 

 すごい。

 思わず二人の顔を見る。

 

 ロニオが余った銅貨を指で弾き、私の方へ滑らせた。

 

「功労者に、銅貨一枚多めだ」

 

「ありがとう」

 

 それをポーチの中へ押し込む。

 金属が触れ合う小さな音が、胸の奥で弾けた。

 

 この調子で続ければ、きっとすぐに貯まる。

 私の杖も、もっと先のものも。

 

 私は踵を返し、軽い足取りで駆け出した。

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