妹に撃たれない方法   作:Brooks

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第10話 まだ公国ではない朝に

 

父が育毛剤を使い始めると、家の中には新しい種類の沈黙が生まれる。

 

その朝、食堂に入った瞬間、私はそれを理解した。香りがしたのだ。薬品と柑橘と、あと少しだけ無理をしている希望の匂いが。宇宙世紀の政治はたいてい鉄と紙の匂いでできているが、たまにこうして個人的すぎる匂いが国家運営に割り込んでくる。

 

デギン・ソド・ザビは、何事もなかったような顔で席についていた。髪そのものに劇的な変化は見られない。少なくとも現時点では。だが頭頂部の周辺だけ、空気が妙に整っていた。たぶんそれが、育毛剤グレイトグロウの第一段階なのだろう。毛髪より先に、期待が立ち上がる。

 

ガルマが最初に気づいた。

 

「父上、何か変えました?」

 

私は心の中で、やめろ、と思った。善意はいつも最短距離を選ぶ。しかもガルマの善意は、障害物を避ける機能が壊れている。

 

父はナイフを置いて、穏やかな顔をした。

 

「そう見えるか」

 

「はい。なんだか……」

 

「なんだか?」とキシリアが言った。「頭部の未来に投資した感じ?」

 

ドズルが咳き込み、私はコーヒーを飲んだ。飲まないと笑うからだ。しかもかなり悪い形で。

 

父はキシリアを見た。

 

「お前は朝から感じが悪いな」

 

「家族ですもの」とキシリアは言った。「変化には敏感よ」

 

ガルマが慌てて言った。

 

「でも、いいと思います。若々しいです」

 

私は内心で天を仰いだ。父の頭頂部に対して「若々しい」という評価を与えるのは、かなり高度な外交ミスだった。しかも本人は褒めているつもりだから始末が悪い。

 

そこへアサクラが書類を持って入ってきた。タイミングが最悪に良い。こいつはそういう男だ。

 

「閣下、本日午前の評議会動線の再確認を――」

 

彼はそこで父を見て、一瞬だけ止まった。本当に一瞬だけだったが、私は見逃さなかった。そしてそのあと、いつもよりわずかに深い敬礼をした。

 

「本日は……大変、張りのあるご様子であります」

 

食堂の空気が止まった。

 

キシリアが顔を伏せた。笑いを隠している。ドズルは耐えられていない。ガルマは「それでいいのか」と思っている顔だ。父だけが、しばらく考えてからうなずいた。

 

「そうか」

 

「はい」とアサクラは真顔で言った。「増勢の兆しは、士気にも影響します」

 

私はそこでとうとうカップを置いた。この男は、本当にこういうときだけ無駄に勇敢だ。

 

「アサクラ」と私は言った。

 

「はい」

 

「朝食中だ。余計な分析はやめろ」

 

「承知であります」

 

セシリアだけは最後まで何も言わなかった。あの女は本当にこういう場に強い。強いというより、そもそも父の頭頂部を政治案件として認識しない力がある。

 

その日の予定は、評議会での保安再編案の説明と、港湾区画の視察だった。月面便の件で、港の管理系統と治安権限の整理が急務になっている。私としては退屈な事務仕事で済ませたかったが、父が現場も見ろと言った。こういうときの父は、たいてい誰かを試している。今回は私か、港湾局か、あるいはその両方だろう。

 

評議会棟へ向かう車の中で、セシリアが静かに言った。

 

「本日の動線ですが、西側回廊は避けるべきです」

 

「理由は」と私は訊いた。

 

「追悼集会の許可が出ています。規模は小さいはずですが、今の空気だと『はず』が一番危険です」

 

アサクラが補った。

 

「港湾局は静穏と書いていますが、保全部の付記には発声の可能性ありとあります」

 

「発声の可能性」と私は言った。「ずいぶん上品な書き方だな」

 

「暴徒化の手前までを、役所はたいてい美しく言い換えます」とアサクラ。「その方が上の機嫌を損ねません」

 

「お前は本当に、その手のことだけよく知っている」

 

「実務でありますので」

 

私は窓の外を見た。サイド3の人工朝は、今日もよくできた無表情だった。光は平等に差し、空調はひとしく回り、誰もがいつもどおりの顔をしている。こういう朝ほど、どこかで少しずつ面倒が育っている。

 

評議会の説明自体は、予想よりましだった。父は父で、髪の話を完全になかったことにして堂々としていたし、キシリアは発言のたびに人を二人ずつ黙らせ、ガルマは必要以上に穏当で、ドズルは静かにしている努力だけは見せた。問題は、そのあとだった。

 

評議会棟から港湾区画へ抜ける連絡通路の手前で、まず音がした。

 

怒号ではない。怒号の一歩手前の、人が何かを決める前のざわめきだ。ざわめきは数が増えると、自分で自分を煽る。波と同じだ。誰か一人が強く怒っているより、十人が少しずつ興奮している方が危ない。

 

セシリアが言った。

 

「西側です」

 

私は足を止めた。護衛も止まる。アサクラは足を止めたまま、出口と非常扉と天井の点検口を見た。あの男は本当に、風向きと逃げ道だけは嗅ぎ分ける。

 

「西を切れ」と私は言った。「東回廊で港へ出る」

 

だが、遅かった。

 

東回廊側から、数人の職員が走ってきた。顔色が悪い。そのうちの一人が叫んだ。

 

「港湾連絡橋で封鎖です! 追悼集会の一部が流れ込み、さらに――」

 

彼は言葉を最後まで言えなかった。どこかでガラスの割れる音がして、次の瞬間、照明が一度だけ明滅した。

 

偶発ではない。私はそう思った。こういう揺れ方は、誰かが意図的に事故に見せたいときの揺れ方だ。

 

「護衛を分けるな」と私は言った。「散ると潰される。塊で動け」

 

キシリアが横で言った。

 

「兄上、今日は少し格好いいわね」

 

「黙って歩け」

 

「そういうところよ」

 

ざわめきはすぐ前まで来ていた。通路の向こうから、人の波が押してくる。まだ完全な暴徒ではない。だが、押し返し方を一歩間違えると、数分でそうなる顔だった。中に追悼の札を持っている者もいれば、最初から石を握っている者もいる。混ざっている。混ざっている集団がいちばん面倒だ。

 

護衛が前に出た。出たが、出方がよくない。若い。緊張で肩が上がっている。こういうときの若さは美徳ではなく、可燃物だ。

 

その瞬間、別の声が飛んだ。

 

「前列、盾を下げろ! 目線を上げるな、相手を見るな! 右二列、通路を半分空けろ! 押し返すな、流せ!」

 

低く、よく通る声だった。怒鳴っているのに、怒鳴り声に聞こえない。命令の形がすでに完成している声だった。

 

私は振り向いた。

 

そこにいた男を見た瞬間、私は内心で、ごく静かに思った。

 

ああ、もうこの顔か。

 

禿頭。鋭い目。髭。若くはない。むしろ最初から、年季の入った信念だけが制服を着て歩いているような男だった。エギーユ・デラーズ。

 

私にとっては二度目の出会いだ。だが、その目を見た瞬間、時間のずれなど意味をなさなくなった。まだ何も始まっていないはずなのに、もうデラーズだった。こういう男がいるから、歴史は簡単に腐らず、そして簡単には止まらない。

 

彼は私を一瞥しただけで、すぐに現場へ意識を戻した。

 

「後列、負傷者を引け! 警棒を抜くな! 抜けば相手に理由を与える!」

 

私はその声でようやく、護衛たちの動きが落ち着くのを見た。うまい。大声ではなく、秩序を持ち込む声だ。しかも、ただ荒事に強いのではない。群衆のどこがまだ引き返せるかを読んでいる。

 

だが次の瞬間、通路上部の整備灯がもう一度明滅した。同時に、右手の点検扉が半開きになった。

 

私は見た。点検扉の陰に、人がいる。石でも旗でもない、もっと小さく、もっと悪意のあるものを持って。

 

「右だ!」と私は言った。

 

ほぼ同時にデラーズも動いた。速さではなく、判断の方が速い。彼は前列の一人を突き飛ばすように庇い、右手側へ身体を入れた。小さな破裂音。金属片が壁を叩く。護衛の一人が肩を押さえて崩れた。

 

銃ではない。簡易発射器か、仕込みのボルト。雑だが、雑だからこそ群衆の混乱に紛れる。

 

「狙撃ではない!」とデラーズが吠えた。「暗器だ! 群衆を撃つな、扉を押さえろ!」

 

その一言で、若い護衛が引き金から指を離した。私はそこで、少しだけ安堵した。群衆の中へ発砲でもしたら、今この場で歴史が三段階くらい悪くなるところだった。

 

点検扉の方へ走ろうとする者がいた。私はそれを見て叫んだ。

 

「追うな! 出口を押さえろ、死者を増やすな!」

 

自分でも驚くほど声が通った。たぶん前世で死ぬほど怒鳴った経験が、こういうところに残っているのだろう。人間の成長とは、だいたい嫌な形で現れる。

 

デラーズが一瞬だけこちらを見た。その目に、何かが走った。評価ではまだない。確認だ。この男は、危機の中で主君候補を測っている。

 

数分後、騒ぎはひとまず収まった。群衆は完全に散ったわけではないが、暴徒へ変質する手前で流れを切られた。負傷者は数名、死者はなし。点検扉の向こうの実行犯は一人逃げ、一人が確保された。かなりましな結果だった。かなりまし、というのはこの時代においてだが。

 

デラーズはようやくこちらへ来た。近くで見ると、やはり若くない。最初から軍人の重さを背負っている顔だった。しかも、重いだけではない。重さを自分で選んで背負っている顔だ。

 

「ご無事で」と彼は言った。

 

「おかげでな」と私は答えた。

 

「礼には及びません。現場の処置であります」

 

「そういうものほど礼を言うべきだ」

 

彼は少しだけ黙った。この男は、軽い賛辞では動かない。軽い賛辞で動くのは、たいていアサクラの方だ。

 

「エギーユ・デラーズ」と彼は名乗った。「自治共和国国防隊、港湾警備指揮の任にあります」

 

「ギレン・ザビだ」

 

「存じております」

 

「そうだろうな」

 

私たちは少しのあいだ、互いを見た。彼にとっては最初の出会いだ。私にとっては二度目。その非対称が、妙に可笑しく、少しだけ重かった。

 

デラーズが言った。

 

「危険です。別経路へお下がりください」

 

私はすぐにはうなずかなかった。まだ、やるべきことが残っていたからだ。

 

「負傷者の確認を先だ。群衆は追うな。引き立てるな。名前だけ取れ。実行犯は生かしておけ。今日は事故にしてはいけない」

 

デラーズの目が、はっきりと変わった。そこにあったのは驚きではない。納得に近いものだった。

 

「承知しました」と彼は言った。その声は先ほどまでより、ほんの少しだけ深かった。一度、自分の中で何かが決まった男の声だった。

 

キシリアが私の後ろで、小さく言った。

 

「兄上」

 

「何だ」

 

「今の、かなり効いたわよ」

 

「何がだ」

 

「ほら、あの人」

 

私はデラーズを見た。彼はすでに負傷者の方へ動いている。動きに迷いがない。そして、その背中には、もう半歩だけ忠義が増していた。

 

「そう見えるか」と私は言った。

 

「ええ」とキシリア。「まっすぐすぎて面倒そう」

 

「同感だ」

 

アサクラが横でぼそりと言った。

 

「風向きでは動かないタイプでありますね」

 

「お前と逆だな」と私は言った。

 

「閣下、それは大変正確なご評価で」

 

そのとき、セシリアが冷静に割って入った。

 

「お二人とも、後でお願いします。今は医務室の受け入れ先を確保しないと、本当に死者が出ます」

 

私はうなずいた。セシリアはこういう場面で一番強い。情緒を挟まず、しかし冷たく見えない。できる女というのは、だいたい人を疲れさせるが、必要なときには本当に助かる。

 

一通りの初動が済んだあと、臨時指揮室に集まった。

 

父もすぐに来た。しかも、こういうときに限ってグレイトグロウの香りが妙に鮮明だった。政治危機の最中に、希望の育毛剤の匂いだけがしっかりしているというのは、宇宙世紀でも相当へんな絵だと思う。

 

「無事か」と父が言った。

 

「今のところは」と私は答えた。

 

父はデラーズを見た。

 

「お前が動いたのか」

 

「はい」とデラーズ。

 

「被害を最小限に止めました」とセシリアが補足した。「群衆側への発砲もありません」

 

父はゆっくりとうなずいた。それから、なぜか自分の頭を一瞬だけ撫でた。無意識だろう。キシリアがそれを見ていた。私は見ないふりをした。

 

「見事だ」と父は言った。「名前は」

 

「エギーユ・デラーズであります」

 

「覚えておこう」

 

私はその場で口を挟んだ。

 

「父上」

 

「何だ」

 

「この男を、港湾だけに置いておくのはもったいない」

 

デラーズが一瞬だけこちらを見た。父も私を見た。アサクラはたぶん内心で風向きを測り直し、キシリアは面白がり、セシリアだけが表情を変えなかった。

 

「ほう」と父は言った。「気に入ったか」

 

「現場での判断がいい。少なくとも、口頭指示だけで子どもを外縁ドックへ連れてくる善意よりは、ずっと使いやすい」

 

ガルマがいない場でそれを言えたことに、私は少しだけ救われた。

 

父は短く笑った。

 

「そうか」

 

キシリアが静かに言った。

 

「兄上に褒められるのは、案外重いのよ」

 

デラーズはそれに答えず、ただ私を見た。そして言った。

 

「閣下」

 

「何だ」

 

「本日、あなたは群衆を撃たせなかった。自らを狙った者より、混乱全体の収拾を優先された。あれは……」

 

彼はそこで言葉を選んだ。この男は軽々しく心を差し出さない。その代わり、一度言葉にしたら重い。

 

「軍務に値する判断でありました」

 

私は少しだけ笑った。

 

「それは褒めているのか」

 

「はい」

 

「珍しいな。私は今日、何人かに嫌われたと思っていた」

 

「それもあるでしょう」

 

「正直だな」

 

「軍人でありますので」

 

その返しが、あまりにもデラーズだった。私はほんの少しだけ、懐かしさに似た重みを感じた。時間が巻き戻っても、この男はこうなのだ。風では動かない。書類でも動かない。自分の秤でしか人を測らない。そして一度測り終えたら、最後まで重い。

 

指揮室を出たあと、キシリアが横で言った。

 

「兄上」

 

「何だ」

 

「また面倒な忠臣を拾ったわね」

 

「拾ったんじゃない」と私は言った。「向こうから来た」

 

「余計にたちが悪い」

 

「そうだな」

 

「でも今回は、風見鶏じゃない」

 

「知っている」

 

「だから危ない」

 

私は少し考えてから、うなずいた。危ない。確かにその通りだった。アサクラみたいな男は、小さいぶん管理しやすい。だがデラーズみたいな男は違う。大きくて、重くて、しかも自分の信じたもののために真っ直ぐ落ちていく。

 

だから私は知っている。この男は役に立つ。そしてきっと、あとで世界をさらに厄介にする。

 

その夜、私は机のメモに新しい一行を足した。

 

風向きで動かぬ男は、風向きを変える。

 

その下に、もう一行。

 

父の育毛剤は、今のところ毛髪より空気に効いている。

 

書いてから、私は少し笑った。笑わなければ、たぶん疲れすぎて眠れなかった。

 

外では、サイド3の人工夜が静かに広がっていた。まだ公国ではない。まだ戦争も始まっていない。だがその手前で、私はすでに知っている男たちと二度目に会い、まだ何も知らない男たちは私を一度目として見ている。

 

歴史というのは案外、そういう温度差でできているのかもしれなかった。

 

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