ジャブローの会議室は、朝だというのに空気が湿っていた。
地上の空気そのものが悪いわけではない。閉め切った部屋に、一晩で何本も吸い殻と報告書が積み上がると、どこの空気でも重くなる。それだけのことだ。
レビルは入室してすぐ、机の中央に積まれた書類の山を見た。
ルグラン号臨検事件の事故報告。
委託検査会社の業務記録。
各サイドの追悼集会と鎮圧記録。
士官学校蜂起の経過報告。
そして写真。
数は多い。だが、言っていることは一つだった。
連邦は続けてしくじった。
それだけだ。
席にはもう何人か着いていた。ゴップは最初から眉間に皺を寄せ、ジャミトフは手元の写真を裏返したり戻したりしている。コリニーは徹夜明けらしく顔色が悪い。文官たちは視線を合わせない。
誰も口火を切りたくない朝だった。
レビルは椅子に座り、書類に手を伸ばさないまま言った。
「士官学校の件からだ」
報告役の士官が立ち上がる。
「はっ。サイド3士官学校では、夜明け前に通信室、武器庫、車両庫への導線が押さえられました。駐屯軍側は翌朝予定していた市内治安出動を実施できず、校内への再進入にも失敗。結果として武装解除と撤退を強いられております」
部屋の空気がもう一段悪くなる。
レビルは報告役を見た。
「撃ったのか」
「局地的な発砲はありましたが、組織的な交戦には至っておりません」
「押し返されたのだな」
「……はい」
その一言で十分だった。
治安維持に出るはずの軍が、学生に押し返された。言葉を足せば足すほどみっともなくなる話だ。
ゴップが鼻の奥で短く息を鳴らした。
「各サイドの反応は」
別の文官が紙をめくった。
「追悼集会の映像と、士官学校蜂起の写真が結びついて広がっています。サイド1、2、5で類似集会の呼びかけが確認されています。港湾労組と学生組織の接触も増えています」
「増えています、で済ませるな」
ゴップの声は静かだったが、机の上の水差しまで少し止まったように見えた。
「いつからだ」
「……ルグラン号事件の生還者証言が出てからです」
「つまり最初からだ」
誰も反論しない。
情報分析官が、机の中央へ一枚の紙を置いた。線と矢印だけの簡単な図だった。
ルグラン号。
死者。
追悼集会。
鎮圧と負傷者。
士官学校蜂起。
駐屯軍撤退。
写真拡散。
ゴップがそれを見て言う。
「誰が作った」
「情報局です。起きた順に並べただけです」
ジャミトフが少し身を乗り出した。
「船を止めた」
「人が死んだ」
「葬式が開かれた」
「そこでまた血が出た」
「今度は学生が立った」
「軍が押し返された」
指先で順に追う。
「こちらは毎回、別の案件のつもりで処理している」
「だが向こうから見れば、一つの話です」
コリニーも低く続けた。
「港の連中は、船で人が死んだ話しかしていない」
「遺族は、葬式で殴られた話しかしていない」
「学生は、軍が学校へ来た話しかしていない」
そこで一度言葉を切る。
「だが、あいつらの中じゃ全部つながっている」
レビルは黙ったまま、その図を見た。
それが一番腹立たしかった。
線で書けば簡単だ。だが、この一本の線が出来るまでに、どれだけこちらが手を貸したか分からない。
情報分析官が、今度は写真を一枚滑らせた。
校舎前に立つガルマ・ザビだった。紫の識別布が見える。若い。まだ顔の輪郭にも甘さが残っている。
ジャミトフが口元だけで笑った。
「末弟ですか」
コリニーが言う。
「神輿だな」
ゴップも頷いた。
「これだけなら、まだ若造を担いだ騒ぎで済む」
「これだけなら、です」
分析官がもう一枚出した。
同じ場面を少し引いた角度から撮った写真だった。ガルマの後ろに数人の学生が立っている。その中に、一人だけ妙にはっきり顔の見える少女がいた。
「身元が出ました」
分析官は手元の資料を見た。
「ダイクン派の重鎮、マハラジャ・カーンの娘」
「マレーネ・カーンです」
そこで初めて、ジャミトフの手が止まった。
「……カーン家か」
写真を引き寄せる。
「前じゃない。横でもない」
「真後ろだ」
分析官が続ける。
「同時間帯の別角度写真でも、ほぼ同じ位置にいます。偶然映り込んだのではなく、意図的にその位置を取っていた可能性が高いと考えています」
ジャミトフは写真の上に指を置いた。
「ガルマ・ザビだけなら、まだ若造を担いだ学生騒ぎで片づきます」
今度は少女の方を示す。
「だが、その後ろにいるのが、ただの学生じゃない」
「マハラジャ・カーンの娘だ」
部屋を見回した。
「カーン家の娘が、ザビ家の末弟の後ろに立っている」
「これを見た連中は、もうザビ家の内輪もめとは思わないでしょう」
ゴップは腕を組んだまま、写真から目を離さない。
ジャミトフは続けた。
「ダイクン派の家も乗った、と受け取る」
「学生も乗っている」
「遺族も港の連中も、その後ろへ並び始める」
「そうなると厄介です」
「誰か一人を引きずり下ろして終わる話ではなくなる」
コリニーが低く言った。
「ガルマ一人なら、まだ末弟で済んだ」
「マレーネ一人なら、まだダイクン派の名残で済んだ」
「だが二人が同じ画面にいる」
ゴップがそこで引き取る。
「各サイドの連中は、こちらの理屈で物を見ない」
「ザビ家の坊やの後ろに、カーン家の娘が立っている」
「それで十分だ」
誰も、その通りだと言いたくなかった。だが否定も出来なかった。
レビルがようやく口を開いた。
「誰が、あの船をあの場所で止めた」
文官が少し肩を震わせる。
「人員不足で、検査業務の一部を――」
「規定の話をしているのではない」
レビルの声は低かった。
「誰が、何を、どう間違えたかを聞いている」
文官は口を閉じた。
レビルは机の上の報告書を指で押さえた。
「サイド3への警戒は必要だった」
「監視も必要だった」
そこまでは誰も反論しない。
「だが、お前たちはそれを食い物にした」
その一言で、部屋の空気が刺々しく固まる。
「委託に流し、現場に丸投げし、問題が起きれば現場の責任にする」
「その結果がこれだ」
レビルはガルマとマレーネの写真を指した。
「船で人を死なせ、葬式で血を流し、最後に向こうへ絵まで渡した」
ゴップが静かに口を挟む。
「怒鳴って済む段階ではないぞ、レビル」
「分かっている」
「なら次だ」
ゴップは文官たちを見た。
「何を切る」
軍監督部門の文官が渋い顔で言う。
「ルグラン号に関わった委託検査会社の現場責任者を更迭」
「加えて港湾監督局側の担当二名を異動」
「公式には、検査手順の不備と安全配慮不足として処理できます」
「そこまでだな」
ゴップが言う。
文官は答えない。答えなくても分かるからだ。そこから上を掘れば、議員筋も退役軍人の口利きも、軍監督部門の顔も出る。
ゴップは吐き捨てるように言った。
「いい。尻尾は切れ」
「全部掘るな。今は燃え広がる」
今度はレビルが言う。
「民間船臨検は見直す」
「危険宙域での強制停船は禁止だ」
「委託会社の権限も削れ」
コリニーが頷く。
「駐屯軍も配置を替えます」
「挑発に乗りやすい部隊を外す」
「治安出動時の権限を一本化し、現場判断を絞る」
「次にまた同じ命令が飛べば、同じことを繰り返します」
ジャミトフがそこで口を開いた。
「表では引く、ですか」
誰もすぐには答えない。
ジャミトフは続けた。
「なら裏でやるしかない」
視線が集まる。
「遺族会、学生組織、港湾労組、士官学校関係者、記者、教師」
「全部名簿化するべきです」
ゴップが眉をひそめる。
「今やれば、また向こうへ材料を渡す」
「表からはやりません」
ジャミトフの声は落ち着いていた。
「ザビ家とダイクン派が本当に一つかどうかも分からない」
「なら、疑わせればいい」
机の上の写真を見た。
「マレーネ・カーンは利用されている」
「ガルマ・ザビは担がれているだけだ」
「そういう話は作れます」
レビルが睨んだ。
「今また、向こうに絵を渡す気か」
「絵を壊すんです」
ジャミトフは引かない。
「軍を前に出せないなら、綺麗に見えるものから崩すしかない」
ゴップが低く言う。
「急ぐな」
「今は写真が強すぎる」
「刺すなら、向こうの熱が少し下がってからだ」
コリニーが小さく息を吐いた。
「現場はもう怯えています」
「次にまた追悼集会が起きれば、命令を出しても動きが鈍る」
「今のままでは、軍は引いても前に出てもまずい」
レビルは、それを聞いて目を閉じた。
分かっていた。
正しい危機感はあった。サイド3は放っておけば危険だ。そこまでは間違っていない。
だが、軍が自分で汚れずに済むやり方を選び、現場は実績欲しさに危ない場所で船を止め、葬式を殴った。その一つ一つが全部つながって、最後にあの写真になった。
会議は長引いたが、きれいな結論は出なかった。
表向きは、委託検査会社の責任者更迭。
民間船臨検手順の見直し。
追悼集会への武装駐屯軍の正面介入は縮小。
各サイドの穏健派へ、資金と便宜でつなぎを入れる。
裏では、名簿を作る。
マレーネ・カーンの監視を強める。
ガルマ・ザビの実像を洗う。
ザビ家とダイクン派の間に噂を流す準備をする。
正面から殴って失敗したから、次は笑った顔で首を絞める。
そういう方針だけが残った。
人が出ていき、会議室にはレビルだけが少し残った。
机の上には、裏返しのまま放っておかれた写真が一枚ある。
レビルはそれを表へ返した。
士官学校の朝。
紫の腕章。
若い学生たち。
中央に立つガルマ・ザビ。
そのすぐ後ろに、マレーネ・カーン。
末弟一人なら、若造の騒ぎで済んだ。
カーン家の娘一人なら、ダイクン派の名残で済んだ。
だが二人が同じ場所に立っている。
これを見た者は、もう別の話だと思うだろう。
レビルは写真を机に伏せ、ゆっくり立ち上がった。
「……これは、軍の仕事じゃないな」
言ってから、自分で少しだけ口元を歪めた。
軍の仕事ではない。だが軍が作った。
そういう話が、一番始末が悪い。