妹に撃たれない方法   作:Brooks

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第102話 紫の残り火

 

 士官学校の朝は、まだ紫が残っていた。

 

 窓に結ばれた布、腕章、応急処置所の目印、校庭の簡易標識。

 夜明けに広がった紫は、蜂起の色というより、徹夜のまま朝を迎えた若者たちの色になっていた。

 

 ガルマは校舎の廊下を歩いていた。

 眠っていない目だったが、足取りは止まっていない。

 

「負傷者の名簿はここまでか」

 

 医務室前で学生が頷く。

 

「はい。軽傷が三十二、重傷が七。死亡は……なしです」

 

 その言葉で、ガルマは少しだけ息を吐いた。

 

「よく抑えた」

 

 学生は誇らしげに胸を張りかけて、すぐに顔を引き締めた。

 

「まだ終わってません」

 

「分かっている」

 

 ガルマは名簿を受け取り、目を通す。

 名前、学年、負傷箇所、処置。

 戦場の報告書ではない。だが、もう子供の学校の書類でもなかった。

 

 廊下の向こうからマレーネが歩いてくる。

 彼女は遺族連絡の紙束を抱えていた。

 

「港湾側の遺族会、午後に来ます」

 

「分かった。応接室じゃなく、講堂の小室を使おう」

 

「ええ。あまり“歓迎”の形にはしない方がいい」

 

 ガルマは頷いた。

 

「学生の解散は?」

 

「武装解除は完了。紫布は校内だけ残して、外は回収させています」

 

「……そうか」

 

 少しだけ、二人とも黙った。

 

 昨夜まで、紫は旗だった。

 今朝からは、片づける布になっている。

 

「写真が撮られているわ」

 

 マレーネが静かに言う。

 

「たくさん」

 

「だろうな」

 

「昨日のも、今朝のも」

 

「だろう」

 

 ガルマは特に驚かなかった。

 

「なら、逃げない方がいい」

 

 そう言って、医務室の中を見回した。

 

「ここにいる」

 

「逃げない」

 

 マレーネは少しだけ笑った。

 

「ええ。逃げない方がいいわ」

 

 その時、廊下の向こうから重い足音が聞こえた。

 

 振り返るまでもない。

 

 ドズル・ザビだった。

 

 校舎の廊下が、急に狭くなったように見える。

 護衛も何人かいるが、誰も声を出さない。

 ドズルはまっすぐガルマの前まで来て止まった。

 

「……無事か」

 

「はい」

 

 それだけだった。

 

 次の瞬間、ドズルの拳が壁に叩きつけられた。

 廊下の壁板が鳴る。

 

「馬鹿者が」

 

 声は怒鳴り声ではなかった。

 低く、押し殺した声だった。

 

「死んだらどうする」

 

 ガルマは何も言わない。

 

「勝手に前へ出るな」

 

 まだ何も言わない。

 

「次は許さん」

 

 そこでガルマが口を開いた。

 

「でも」

 

 一度言葉を切る。

 

「僕が出なければ、もっとひどくなっていました」

 

 ドズルの目が細くなる。

 

 しばらく何も言わない。

 

 廊下の向こうで、誰かが足音を止める。

 空気が止まる。

 

 ドズルはゆっくりガルマを見た。

 

 立ち方。

 視線。

 声の出し方。

 昔の末弟ではない。

 

「……ラルか」

 

 ガルマは少しだけ笑った。

 

「はい」

 

 ドズルは深く息を吐いた。

 

「……あの男め」

 

 怒っているのか、感謝しているのか、自分でも分からない顔だった。

 

 その横にゼナが立っていた。

 昨夜、ドズルを止めた女だ。

 

 ドズルはゼナを一瞬だけ見て、何も言わずに視線を戻した。

 

「学生はどうした」

 

「武装解除、解散整理、負傷者対応、校内警備の再編までやっています」

 

「……そうか」

 

 ドズルはもう怒鳴らなかった。

 

「勝手に動いた件は、あとでまとめて怒る」

 

「はい」

 

「だが」

 

 少しだけ間を置く。

 

「よく死なずに済ませた」

 

 それだけ言って、ドズルは踵を返した。

 

 去り際、ゼナの横で少しだけ足を止める。

 

「……後で話がある」

 

 ゼナは静かに頷いた。

 

 廊下の向こうへ去るドズルの背中を、ガルマはしばらく見ていた。

 

「怒ってるな」

 

「ええ」

 

「でも、少し違う」

 

 マレーネが言う。

 

「前より怖くない」

 

「……そうか?」

 

「ええ」

 

 ガルマは少しだけ笑った。

 

 場面はズムシティへ移る。

 

 小さな会議室。

 ギレン、キシリア、ギリアムが机を挟んで座っている。

 

 机の上には写真が何枚も並んでいた。

 

 紫布の学生隊。

 校門前の車両。

 武器を持つ学生。

 そして、今朝の写真。

 

 医務室前で名簿を持つガルマ。

 その横に立つマレーネ。

 奥に負傷者。

 

 ギレンはその写真を指で押さえた。

 

「これを使う」

 

 ギリアムが頷く。

 

「武器の写真ではなく、こちらを」

 

「そうだ」

 

 キシリアが写真を見て言う。

 

「連邦は紫の写真を見ている」

 

「なら次は、花と包帯の写真を見せる」

 

 ギレンは椅子に背を預けた。

 

「“紫暁”の呼び名は拾う」

 

「だが武装蜂起とは言わせない」

 

「追悼から始まった自衛行動、そこまでだ」

 

 ギリアムがメモを取る。

 

「ガルマ様の扱いは」

 

「英雄にはするな」

 

 ギレンは即答した。

 

「殉教者にもするな」

 

「負傷者を見舞い、遺族に会い、学校を立て直す」

 

「若い指導者、それで十分だ」

 

 キシリアが口を挟む。

 

「前に出しすぎると、今度はあの子が狙われる」

 

「分かっている」

 

「だから象徴にする」

 

「旗ではなく、顔だ」

 

 少し沈黙が流れる。

 

 キシリアは別の写真を手に取った。

 ガルマの後ろに立つマレーネの写真だった。

 

「この子はどうします」

 

 ギレンは少し考えた。

 

「隠さない」

 

「だがしゃべらせすぎない」

 

「遺族と学生の橋に置く」

 

 キシリアは頷いた。

 

「連邦は必ず分断を仕掛ける」

 

「ザビ家とダイクン派を割るか、学生を過激派に見せるか、どちらか」

 

「だから先にこちらで形を作る」

 

 ギレンは静かに言った。

 

「紫暁は事件で終わらせない」

 

「制度に変える」

 

「遺族補償、港湾安全委員会、輸送保険」

 

「全部、今回の名で始める」

 

 ギリアムが顔を上げた。

 

「つまり」

 

「怒りを制度に変える」

 

「そうだ」

 

 そこでギレンはふと窓の外を見た。

 

 そしてキシリアに言った。

 

「戦争に勝ったあとだ」

 

 キシリアは何も言わない。

 

「内紛を防ぐためなら、ガルマをダイクン派へ渡してもいいと私は思っている」

 

 キシリアの目が少し細くなる。

 

 ギレンは続けた。

 

「末弟は柔らかい」

 

「柔らかい者は、勝った後の割れ目を埋める」

 

「縁でも象徴でもいい」

 

「ザビ家だけの末弟ではなく、国家の継ぎ目に置く」

 

 一拍。

 

「お前はどう思う」

 

 キシリアはすぐには答えなかった。

 

 机の上の、医務室前の写真を見ている。

 

 包帯、名簿、疲れた顔の若者たち。

 そしてその中央に立つ末弟。

 

「戦争に勝つ前から、勝った後の子どもの置き場所を決めるのは、兄上らしいわ」

 

 静かに言う。

 

「理屈は分かります」

 

「でも」

 

 写真を指で軽く叩く。

 

「もう軽い駒ではありませんよ、あの子は」

 

 ギレンは少しだけ笑った。

 

「それでも駒は駒だ」

 

「そうかしら」

 

 キシリアは写真から目を離さない。

 

「駒だと思って動かしたものに、後ろから刺されるのが、一番困るのよ」

 

 短い沈黙が落ちた。

 

 その頃、士官学校の夕方。

 

 荷物をまとめたドズルが校舎裏に立っていた。

 校長としての部屋はもう空だ。

 

 ゼナが来る。

 

「本当に辞めるのですか」

 

「ああ」

 

「責任だ」

 

「でも、学生はあなたを――」

 

「学生は学生だ」

 

 ドズルは空を見た。

 

「俺は大人だ」

 

 少し黙る。

 

「昨日、お前が止めなければ、俺は校門を破っていた」

 

 ゼナは何も言わない。

 

「そうなれば、ガルマも学生も、全部潰していた」

 

 ドズルは拳を握った。

 

「俺は不器用だ」

 

 一拍。

 

「だが、お前がいなければ、もっとひどいことになっていた」

 

 さらに少し黙ってから、ゼナの方を向く。

 

「俺と来てくれ」

 

 ゼナが目を見開く。

 

「俺、ドズル・ザビの子を産んではくれまいか」

 

 校舎の向こうでは、学生たちがまだ紫布を外している。

 

 夜明けに広がった紫は、もう旗ではなくなっていた。

 

 だが、その紫を片づける手つきの中に、今日一日で変わってしまったものだけは、まだ残っていた。

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