士官学校の朝は、まだ紫が残っていた。
窓に結ばれた布、腕章、応急処置所の目印、校庭の簡易標識。
夜明けに広がった紫は、蜂起の色というより、徹夜のまま朝を迎えた若者たちの色になっていた。
ガルマは校舎の廊下を歩いていた。
眠っていない目だったが、足取りは止まっていない。
「負傷者の名簿はここまでか」
医務室前で学生が頷く。
「はい。軽傷が三十二、重傷が七。死亡は……なしです」
その言葉で、ガルマは少しだけ息を吐いた。
「よく抑えた」
学生は誇らしげに胸を張りかけて、すぐに顔を引き締めた。
「まだ終わってません」
「分かっている」
ガルマは名簿を受け取り、目を通す。
名前、学年、負傷箇所、処置。
戦場の報告書ではない。だが、もう子供の学校の書類でもなかった。
廊下の向こうからマレーネが歩いてくる。
彼女は遺族連絡の紙束を抱えていた。
「港湾側の遺族会、午後に来ます」
「分かった。応接室じゃなく、講堂の小室を使おう」
「ええ。あまり“歓迎”の形にはしない方がいい」
ガルマは頷いた。
「学生の解散は?」
「武装解除は完了。紫布は校内だけ残して、外は回収させています」
「……そうか」
少しだけ、二人とも黙った。
昨夜まで、紫は旗だった。
今朝からは、片づける布になっている。
「写真が撮られているわ」
マレーネが静かに言う。
「たくさん」
「だろうな」
「昨日のも、今朝のも」
「だろう」
ガルマは特に驚かなかった。
「なら、逃げない方がいい」
そう言って、医務室の中を見回した。
「ここにいる」
「逃げない」
マレーネは少しだけ笑った。
「ええ。逃げない方がいいわ」
その時、廊下の向こうから重い足音が聞こえた。
振り返るまでもない。
ドズル・ザビだった。
校舎の廊下が、急に狭くなったように見える。
護衛も何人かいるが、誰も声を出さない。
ドズルはまっすぐガルマの前まで来て止まった。
「……無事か」
「はい」
それだけだった。
次の瞬間、ドズルの拳が壁に叩きつけられた。
廊下の壁板が鳴る。
「馬鹿者が」
声は怒鳴り声ではなかった。
低く、押し殺した声だった。
「死んだらどうする」
ガルマは何も言わない。
「勝手に前へ出るな」
まだ何も言わない。
「次は許さん」
そこでガルマが口を開いた。
「でも」
一度言葉を切る。
「僕が出なければ、もっとひどくなっていました」
ドズルの目が細くなる。
しばらく何も言わない。
廊下の向こうで、誰かが足音を止める。
空気が止まる。
ドズルはゆっくりガルマを見た。
立ち方。
視線。
声の出し方。
昔の末弟ではない。
「……ラルか」
ガルマは少しだけ笑った。
「はい」
ドズルは深く息を吐いた。
「……あの男め」
怒っているのか、感謝しているのか、自分でも分からない顔だった。
その横にゼナが立っていた。
昨夜、ドズルを止めた女だ。
ドズルはゼナを一瞬だけ見て、何も言わずに視線を戻した。
「学生はどうした」
「武装解除、解散整理、負傷者対応、校内警備の再編までやっています」
「……そうか」
ドズルはもう怒鳴らなかった。
「勝手に動いた件は、あとでまとめて怒る」
「はい」
「だが」
少しだけ間を置く。
「よく死なずに済ませた」
それだけ言って、ドズルは踵を返した。
去り際、ゼナの横で少しだけ足を止める。
「……後で話がある」
ゼナは静かに頷いた。
廊下の向こうへ去るドズルの背中を、ガルマはしばらく見ていた。
「怒ってるな」
「ええ」
「でも、少し違う」
マレーネが言う。
「前より怖くない」
「……そうか?」
「ええ」
ガルマは少しだけ笑った。
場面はズムシティへ移る。
小さな会議室。
ギレン、キシリア、ギリアムが机を挟んで座っている。
机の上には写真が何枚も並んでいた。
紫布の学生隊。
校門前の車両。
武器を持つ学生。
そして、今朝の写真。
医務室前で名簿を持つガルマ。
その横に立つマレーネ。
奥に負傷者。
ギレンはその写真を指で押さえた。
「これを使う」
ギリアムが頷く。
「武器の写真ではなく、こちらを」
「そうだ」
キシリアが写真を見て言う。
「連邦は紫の写真を見ている」
「なら次は、花と包帯の写真を見せる」
ギレンは椅子に背を預けた。
「“紫暁”の呼び名は拾う」
「だが武装蜂起とは言わせない」
「追悼から始まった自衛行動、そこまでだ」
ギリアムがメモを取る。
「ガルマ様の扱いは」
「英雄にはするな」
ギレンは即答した。
「殉教者にもするな」
「負傷者を見舞い、遺族に会い、学校を立て直す」
「若い指導者、それで十分だ」
キシリアが口を挟む。
「前に出しすぎると、今度はあの子が狙われる」
「分かっている」
「だから象徴にする」
「旗ではなく、顔だ」
少し沈黙が流れる。
キシリアは別の写真を手に取った。
ガルマの後ろに立つマレーネの写真だった。
「この子はどうします」
ギレンは少し考えた。
「隠さない」
「だがしゃべらせすぎない」
「遺族と学生の橋に置く」
キシリアは頷いた。
「連邦は必ず分断を仕掛ける」
「ザビ家とダイクン派を割るか、学生を過激派に見せるか、どちらか」
「だから先にこちらで形を作る」
ギレンは静かに言った。
「紫暁は事件で終わらせない」
「制度に変える」
「遺族補償、港湾安全委員会、輸送保険」
「全部、今回の名で始める」
ギリアムが顔を上げた。
「つまり」
「怒りを制度に変える」
「そうだ」
そこでギレンはふと窓の外を見た。
そしてキシリアに言った。
「戦争に勝ったあとだ」
キシリアは何も言わない。
「内紛を防ぐためなら、ガルマをダイクン派へ渡してもいいと私は思っている」
キシリアの目が少し細くなる。
ギレンは続けた。
「末弟は柔らかい」
「柔らかい者は、勝った後の割れ目を埋める」
「縁でも象徴でもいい」
「ザビ家だけの末弟ではなく、国家の継ぎ目に置く」
一拍。
「お前はどう思う」
キシリアはすぐには答えなかった。
机の上の、医務室前の写真を見ている。
包帯、名簿、疲れた顔の若者たち。
そしてその中央に立つ末弟。
「戦争に勝つ前から、勝った後の子どもの置き場所を決めるのは、兄上らしいわ」
静かに言う。
「理屈は分かります」
「でも」
写真を指で軽く叩く。
「もう軽い駒ではありませんよ、あの子は」
ギレンは少しだけ笑った。
「それでも駒は駒だ」
「そうかしら」
キシリアは写真から目を離さない。
「駒だと思って動かしたものに、後ろから刺されるのが、一番困るのよ」
短い沈黙が落ちた。
その頃、士官学校の夕方。
荷物をまとめたドズルが校舎裏に立っていた。
校長としての部屋はもう空だ。
ゼナが来る。
「本当に辞めるのですか」
「ああ」
「責任だ」
「でも、学生はあなたを――」
「学生は学生だ」
ドズルは空を見た。
「俺は大人だ」
少し黙る。
「昨日、お前が止めなければ、俺は校門を破っていた」
ゼナは何も言わない。
「そうなれば、ガルマも学生も、全部潰していた」
ドズルは拳を握った。
「俺は不器用だ」
一拍。
「だが、お前がいなければ、もっとひどいことになっていた」
さらに少し黙ってから、ゼナの方を向く。
「俺と来てくれ」
ゼナが目を見開く。
「俺、ドズル・ザビの子を産んではくれまいか」
校舎の向こうでは、学生たちがまだ紫布を外している。
夜明けに広がった紫は、もう旗ではなくなっていた。
だが、その紫を片づける手つきの中に、今日一日で変わってしまったものだけは、まだ残っていた。