サイド7の朝は、昔より少しだけ早く動くようになっていた。
まだ照明の色が夜の名残を引いている時間から、荷捌き場の奥ではもうモビルワーカーが腕を動かしている。鉄骨、保安材、壁材、配線束、補修用のユニット箱。以前は一山ずつ片づけていた荷が、今ではいくつもの流れに分かれていた。
黒猫ルシファー・ロジスティクス商会の看板は、まだ新しい。
けれど、その看板の前を行き来する人間の足は、もう迷っていなかった。
「三番車、先に回して」
エドワウが言う。
「そっちは昼までに医務区画へ入る。工区便に混ぜるな」
伝票を持った若い作業員が頷く。
「はい」
「札も付け直せ。赤線二本じゃなくて一本だ」
「危険物扱いじゃないんですね」
「精密機材だ。落とすな、でも怖がるな」
作業員は慌てて走っていった。
その横で、セイラが帳面に赤鉛筆を走らせている。
「三番車、医務区画直行」
小さく読み上げてから、顔を上げた。
「朝一番で精密機材、二便目で保安用品、昼前に補修材。今日も詰めすぎじゃない?」
「詰めてるんじゃない。切れなくなった」
エドワウはそう言いながら、荷札の束を指先で揃えた。
少し前までなら、来た仕事を順番に片づけていけばよかった。
今は違う。
ヤシマ建設の定常便があり、居住区画の小口搬送があり、工区の横持ちがあり、臨時のシャトル便がある。その間に、別の会社から割り込む補修案件や保安案件が入る。どれか一つが遅れると、後ろで二つ三つ詰まるようになっていた。
人も増えた。荷も増えた。
けれど、本当に増えたのは、待ってくれない流れの方だった。
「兄さん」
セイラが言う。
「朝ごはん、ちゃんと食べた?」
「食べた」
「嘘」
「半分は食べた」
「それは食べたって言わないの」
セイラは帳面を閉じた。
「あとでちゃんと持っていくから、今度は逃げないで」
「逃げてない」
「いつも歩きながら食べるでしょう」
エドワウは少しだけ笑った。
「分かった」
「分かってない顔してる」
その時、荷捌き場の入口の方で人の流れが少しだけ変わった。
作業員たちが、誰かに気づいて道を空ける。
ミライだった。
以前より現場へ来る回数が増えている。服も前ほど“娘さん”の格好ではなくなっていた。きちんとしているのに、足元はちゃんと動きやすい靴だ。髪も邪魔にならないようにまとめている。
ただし、それでも周囲の景色の中では少しだけ綺麗すぎる。
ミライは荷の流れを一度見渡してから、まっすぐこちらへ来た。
「忙しい?」
「今さら聞くなよ」
「一応聞いたの」
少しだけ肩をすくめる。
「父が呼んでる」
エドワウが手を止めた。
その言い方で分かる。
ただの進捗確認ではない。
「今すぐ?」
「うん。手が空いたら、じゃなくて、今」
セイラが兄を見た。
「行ってきて。こっちは私が見てる」
「悪い」
「悪いと思うなら朝ごはん食べて」
「それは後で」
「ほら」
セイラはもう笑っていた。
エドワウは伝票束を机へ置き、上着についた埃を軽く払ってからミライの横に並んだ。
歩き出すと、ミライが小さな声で言う。
「大きめの話だと思う」
「顔に出てる?」
「少し」
「お前もだよ」
「私?」
「呼びに来る時、いつもより早かった」
ミライは一瞬だけ口をつぐみ、それから前を向いた。
「……走ったのは見てたのね」
「見えるよ、そのくらい」
ミライは少しだけ不満そうな顔をしたが、何も言い返さなかった。
ヤシマ側の事務室は、いつ来ても整っていた。
乱雑ではない。だが冷たすぎる整頓でもない。机の上の紙も棚の箱も、人が使う順番に置かれている。シュウ・ヤシマの仕事場らしい部屋だった。
その本人は窓際の机の前に座っていた。
「来たか」
「はい」
エドワウが頭を下げる。
シュウはすぐに本題へ入らなかった。机の上の書類を一枚閉じ、眼鏡を外し、それから座れと手で示した。
「朝から悪いな」
「いえ」
「忙しいだろう」
「ええ、まあ」
「顔に出るようになったな」
少しだけ笑う。
「最初の頃は、忙しくても平気な顔をしようとしていた」
エドワウは少しだけ肩をすくめた。
「慣れました」
「慣れたか」
シュウは頷いた。
「いいことだ」
机の上には、何件かの書類が広げてある。サイド7工区の図面、搬送予定表、資材一覧。その端に、色の違う封筒が一つだけ置かれていた。
エドワウがそちらへ一度視線をやったのを、シュウは見逃さなかった。
「目ざといな」
「見えるところに置いてありますから」
「見せるつもりで置いた」
それで少しだけ空気が変わる。
シュウはまず、いつもの仕事の話から始めた。
「居住区画の補修便は、このままお前のところで回してくれ」
「はい」
「工区四番の保安材は前倒しになった。来週のつもりでいたが、二日縮む」
「人は出せます」
「助かる」
「それと、北側の医務区画だが、資材の入りが遅れている。別口で取れそうか?」
「一つ当たりがあります」
「ならそっちを使え。値は少し上がっても構わん」
やり取りは短い。だが、前とは違っていた。
指示を受けるだけではない。
現場でどう回すかを前提に話している。
シュウはそれを一つひとつ確かめるように進めていた。
ひと通り通常案件の話が終わると、シュウは机の端に置いてあった色違いの封筒へ手を伸ばした。
「もう一つある」
その言い方は、柔らかかった。
重い話の前にわざと柔らかくした、というより、話す相手を少し気づかっている時の声だった。
エドワウは黙って待つ。
シュウは封筒から書類を出し、机の上で向きをそろえてから言った。
「地球へ行けるか」
エドワウは一瞬だけ止まった。
「地球、ですか」
「ああ」
「急ぎですか」
「急ぎだ。だが急がせるだけの話じゃない」
シュウは書類をエドワウの前へ滑らせた。
行き先は、ジャブロー方面。
表向きの品目は建設補給材、換気系統の補修部材、保安隔壁の制御ユニット、精密機材。武器ではない。だが、どれも雑に扱えない荷だった。
「地下施設向けの案件だ」
シュウが言う。
「受け渡しが少し面倒でな。途中で数量も品目も変わるかもしれん」
「現地判断が要る」
「そういうことだ」
ミライは部屋の隅に立ったまま、黙って聞いている。
シュウは机に肘をつかず、まっすぐエドワウを見た。
「荷そのものより、途中で変わる話の方が厄介だ」
「地球の荷は、宇宙みたいに紙の通りには流れん」
エドワウは書類をめくった。
確かに少し面倒だった。積み替え候補地、現地調整、受け取り責任者未定。普通なら、ベテランの番頭か大手の専任を出す案件だ。
「俺ですか」
聞くと、シュウは頷いた。
「お前だ」
「どうしてです」
シュウは少し考え、それから言った。
「お前は運転が出来る」
「現場も見られる」
「人の顔も見られる」
そこで少しだけ笑った。
「それに、荷を物だけだと思わん」
その言い方が、どこか温かかった。
褒めるために褒めているのではない。今まで見てきたことを、そのまま口にしただけの声だった。
エドワウは返事をせずに書類を見ていた。
地球。
ジャブロー方面。
嫌な感じがする、と言えばそうだった。理由までは自分でも分からない。ただ、心の奥のどこかで、行きたくないと行かなければならないが同時に動いていた。
黙ったままのエドワウを見て、シュウは言い足した。
「断ってもいい」
ミライがそちらを向く。
シュウは続ける。
「無理を押しつけるつもりで呼んだんじゃない」
「お前に任せたいと思ったから呼んだ」
「そこは間違えるな」
その言い方が、少しだけ父親めいていた。
テアボロとは違う。
けれど、年上の男が若い者へ仕事を渡す時の、変な押しつけがましさのない温かさがあった。
エドワウはようやく顔を上げた。
「行きます」
短く言う。
ミライが少しだけ息を止める気配がした。
シュウは頷いた。
「そうか」
それだけだった。
だが、その一言に変な重みはなかった。受けると分かっていたのに黙っていた、というより、返事を待ってくれていた感じが強い。
「出せるのは三日後だ」
「分かりました」
「大気圏突入型シャトルを使う」
「俺が乗ります」
「そのつもりで話している」
シュウは書類をもう一枚、手前へ寄せた。
「向こうで受ける人間は、悪い連中じゃない。だが忙しい」
「話は途中で変わると思って行け」
「はい」
「それと――」
少しだけ言いよどむ。
「無茶はするな」
エドワウはそこで、ほんの少しだけ目を細めた。
「はい」
ミライが、今度は露骨に父を見た。
シュウは気づかないふりをしていた。
「じゃあ、準備に入れ」
「はい」
部屋を出る時、ミライも一緒についてきた。
廊下に出ると、少しだけ静かになる。
「父に聞いた」
ミライが言う。
「口が早いな」
「隠されるよりいい」
エドワウは少しだけ笑った。
「まあな」
「地球なんでしょ」
「ああ」
「どこまで」
「ジャブロー方面」
それを聞いて、ミライは一度黙った。
言葉を探している沈黙だった。
「……無茶しないで」
「荷を運びに行くだけだ」
ミライは少しだけ眉を寄せる。
「そういう言い方する人ほど、変なもの拾ってくる」
その台詞に、エドワウは一瞬だけ言葉を失った。
何でもない冗談のようでいて、妙に引っかかる。変なもの。そうかもしれない、という感じが胸の奥でほんの少しだけ動いた。
「拾わないように気をつける」
「ほんとに?」
「多分」
「多分じゃ駄目」
ミライはため息をつくように笑った。
「帰ってきたら、ちゃんと報告して」
「仕事の?」
「……仕事のも、そうじゃないのも」
それだけ言って、先に歩き出した。
後ろ姿は、前より少しだけ大人びて見えた。けれど足取りのどこかに、まだ父の背を追っていた娘の癖が残っている。
事務室へ戻ると、セイラはもう次の帳面を広げていた。
「やっぱり地球?」
「うん」
「どこまで」
「ジャブロー方面」
セイラの指が一瞬だけ止まる。
地球という言葉だけで、兄妹の間にはいくつかの風景が勝手に浮かぶ。逃げた道。見上げた空。失った名前。誰かの死んだ場所ではなくても、地球にはそういう重さがある。
「いつ出るの」
「三日後」
「じゃあ、それまでに帳面全部合わせる」
セイラはそう言って、もう次の紙へ手を伸ばした。
「危険物の札は整理し直す。帰ってきてから混乱したら嫌だもの」
「助かる」
「あと、乗る前に食事」
「分かった」
「今の顔、分かってない」
エドワウは少し笑って、荷捌き場の方を見た。
仕事はまだ動いている。自分がいなくても三日は回るようにしておかないといけない。そういうことを考えていると、地球という言葉の重さが少し薄れる。
それでも、胸の奥には何かが残っていた。
夜。
格納区画では、地球行きのシャトルが照明の下に静かに置かれていた。
大気圏突入型。今では会社にとっても大きな資産の一つだ。外板の傷、補修痕、磨き上げられた計器まわり。新品ではないが、仕事を重ねて信頼できる顔になっている。
エドワウは自分で点検に回った。
固定具。
燃料。
気密。
搭載荷。
予備工具。
受領印。
一つずつ手で確かめる。
後ろでは作業員たちが、いつもより少しだけ静かに動いていた。社長が自分で乗って行く時の現場は、だいたいこういう静けさになる。
セイラが最後の帳面を持ってくる。
「受領確認、ここ」
「うん」
「向こうで品目変更が出たら、この頁を使って」
「分かった」
「あと、帰り便の空きは二案あるけど、どっちにしても連絡は入れて」
「分かった」
セイラは帳面を閉じた。
「本当に分かってる?」
「今度は本当に分かってる」
「そう」
ミライは少し離れた場所に立って、それを見ていた。声をかけには来ない。ただ、見ている。
シュウも最後に一度だけ格納区画へ顔を出した。
「荷は任せた」
「はい」
「無理はするな」
「はい」
そのやり取りは短い。だが、送り出す側と受ける側の間に、もう余計な飾りはなかった。
翌朝、発進前のコクピットへ乗り込む時、エドワウは一度だけ振り返った。
サイド7の人工の空。
格納区画。
人影。
看板。
今の暮らし。
地球へ降りる便は、帳面の上ではただの仕事だった。
だが、その荷の先で何を拾うことになるのかを、この時のエドワウはまだ知らなかった。
せっかくいい雰囲気に持っていったミライさんなのに。。。