大気圏へ入る直前、機体がひとつ大きく震えた。
操縦席の前で、計器の針がわずかに揺れる。熱の表示、姿勢制御、推力配分。どれも許容の内側だった。
「入ります」
エドワウが言うと、後ろの席にいた整備員が短く返した。
「了解」
仕事の声だった。
荷もある。受領印の要る箱も、途中で積み替え予定のない精密機材も、全部きちんと固定してある。帳面の上では、ただの地球便だ。
だが、窓の外に広がる色だけは、帳面の上にはない。
雲の下に、濃い緑が見えた。川が白く光を返し、その周りを埋める色が、どこまで行っても続いている。
地球は初めてではなかった。
乾いた風、白い壁、日差しの強い石畳。アンダルシアの空は、もっと遠くまで抜けていた。
今、眼下にある地球は違う。
湿っている。
重い。
同じ地球だと分かっているのに、別の生き物の背へ降りていくように見えた。
機体がもう一度揺れた。
後ろから声が飛ぶ。
「大丈夫ですか」
「少し暑いだけです」
「まだ外へも出てませんよ」
「見てるだけで分かる」
整備員が笑った。
「着いたら、もっとひどいですね」
「だろうな」
そう返しながら、エドワウは自分の喉が少し乾いているのを感じていた。
降り立ったのは、マナウス近郊の補給拠点だった。
滑走区画は簡素だったが、忙しさだけは宇宙の工区と変わらない。いや、匂いと音のせいで、こちらの方が騒がしく感じる。湿った熱気、燃料の臭い、土と水の匂い、どこか遠くの虫の声、怒鳴るような鳥の鳴き声。
ハッチが開いた瞬間、熱が一枚の布みたいにまとわりついてきた。
「……重いな」
思わず口に出る。
後ろで整備員が苦笑した。
「空気ですか」
「空気も、匂いも、全部」
タラップを降りると、靴底の感触まで違った。乾いた地面ではない。きちんと舗装されているのに、熱の向こう側に湿りがある。
出迎えに来たのは、ヤシマ側の腕章を付けた現地担当だった。日に焼けている。笑うと歯が妙に白い。
「黒猫ルシファーの便だな」
「はい」
男はエドワウを一度見て、少しだけ笑った。
「若いな」
「そう見えますか」
「見える」
それで挨拶は終わりだった。
すぐに仕事へ入る。
受領確認。箱の状態確認。搬入順の擦り合わせ。現地側の人員不足。地下搬送便の遅れ。予定していた三番荷が後ろへ回り、代わりに保安隔壁の制御ユニットを先に通せと言われる。
紙の上の順番と、現場の順番が違う。
シュウ・ヤシマの言葉が、そのままだった。
地球の荷は紙の通りには流れない。
「この箱は先じゃない」
現地担当が言う。
「地下三層じゃなく、一層で受ける」
「受領印は三層側の名義です」
「三層は今、人が足りん。荷が詰まってる」
エドワウはすぐに言い直した。
「なら一層で仮受けします」
「三層の便が空いたら回す」
「印は後で取り直します」
現地担当は少し目を細めた。
「分かるのか」
「分からないと困るので」
男は短く笑った。
「若いのに、荷の詰まり方を見ただけで順番を直せる顔だ」
「誉め言葉として受け取っておきます」
「そうしとけ。ここじゃ、そういう奴が一番助かる」
午前の荷は、それでなんとか流れた。
汗が背中に張りつく。水もいつもより早く減る。宇宙での仕事の疲れとは違う。空気そのものが体力を持っていく。
だが、忙しい方が助かった。
手を動かしている間は、胸の奥のざわつきに意識を向けなくて済む。
昼過ぎ、ようやく待ち時間ができた。
次の受け渡し先からの連絡がまだ来ない。現地担当が端末を閉じて言う。
「早くて二時間、下手すりゃ夕方だ」
「そんなにですか」
「向こうの荷捌きが止まってる」
「ここで座って待ってても、呼びに来るのは同じだ」
男は汗を拭った。
「腹に何か入れておけ」
「この辺で食える場所、ありますか」
「ある」
少し間を置いてから、苦笑する。
「まともな飯屋より、話の早い場所がな」
「話の早い場所?」
「作業員も、運び屋も、現場の雑用係も、暇になるとそこへ流れる」
「顔を出しておけば、待ってる間に余計な話も拾える」
エドワウは少し考えた。
「酒場ですか」
「似たようなもんだ」
男は顎で奥を示した。
「新しく出来た賭場だ」
エドワウはすぐには頷かなかった。
「俺はここで待っていても」
「そう言うと思った」
男は笑う。
「だが、荷の受け手が遅れてる時ほど、先に顔を売っといた方が後で揉めない」
「この街は、帳面より口が先に動く」
その言い方は、少しだけサイド7に似ていた。
きれいな規則より、誰がどこで何を言ったかが先に効く現場。
「……分かりました」
「そうこなくちゃな」
補給拠点から少し離れたマナウスの街は、雑多だった。
港町とも違う。工区の町とも違う。作業員、兵、商人、運び屋、地元の子ども、酒場の呼び込み、見慣れない果物の匂い、水気を含んだ布、雨の残り香。人の流れに、宇宙のコロニーにはない“生き物の雑音”が混じっている。
エドワウは現地担当と並んで歩いた。
「ジャブロー向けの荷は、いつもこんな感じですか」
「いつもじゃない」
「じゃあ今日は外れですか」
「いや」
男は少しだけ笑った。
「今日はまだ、ましな方だ」
通りの奥に、新しい建物が見えた。まだ外壁の塗りが若く、周囲の古い酒場や倉庫から少し浮いている。
「あれですか」
「ああ」
男が言う。
「新しく出来た箱だ」
「成金、作業員、運の悪い奴。そういうのを一緒くたに飲み込む」
「ずいぶんな言い方ですね」
「違うか?」
違わない気がした。
中へ入ると、外の湿気に酒と香水と人の熱が混じる。笑い声。怒号。カードの擦れる音。球の跳ねる音。安い音楽。
派手すぎる場所ではない。だが、金の流れる匂いはした。
エドワウは最初、周囲を一度見渡して、それから止まった。
勝っている男がいた。
卓の前に座り、札を積んでいる。顔は凡庸だ。だが妙に落ち着いている。
いや、落ち着いているのはその男ではない。
隣に立つ少女の方だった。
歳はまだ若い。場に似合わないほど静かで、視線だけが深い。周囲の騒ぎから少し浮いている。逃げているのではない。全部見えているような目だった。
その目が、エドワウを捉えた。
胸の奥で何かが止まった。
知らない。
知らないはずだ。
だが、目をそらすのが遅れた。身体の方が、先に何かを知っているみたいに。
「どうした」
現地担当が聞く。
「いや……」
言葉が少し遅れる。
「なんでもない」
なんでもないはずがなかった。
少女は、少しだけ首を傾けた。そして卓の男の方ではなく、まっすぐこちらへ歩いてきた。
現地担当が小さく舌を鳴らす。
「おいおい」
「知り合いですか」
「知らん」
それでも止めなかった。
少女はエドワウの前まで来て、そこで立ち止まった。
近くで見ると、なおさら妙だった。幼いとか綺麗だとか、その前に“静かすぎる”が来る。
「あなた、遠いところから来た人」
最初の言葉は、それだった。
エドワウは一拍遅れて答える。
「そうだね」
「遠いだけじゃない」
少女は言う。
「もっと遠い」
胸の奥がざわつく。
意味は分からない。だが聞き流せない。
「君は」
ようやくそれだけ言う。
「ララァ」
その名を聞いた瞬間、頭の奥で何かが白く弾けた。
光。
赤。
暗い宇宙。
誰かを呼ぶ声。
熱。
白い何か。
息が一瞬詰まり、視界の端が揺れる。
「おい」
現地担当が手を伸ばしかける。
エドワウはかろうじて踏みとどまった。倒れるほどではない。だが膝の裏が少し冷たい。
「大丈夫ですか」
担当の声が遠い。
少女は少しだけ近づいた。
「まだ、全部は戻ってない」
エドワウは顔を上げた。
「……何が」
すぐには答えない。
「思い出したら、苦しいよ」
それだけ言う。
「でも、思い出さないままでも苦しい」
意味が分からない。
なのに、胸の奥のどこかだけが、それを知っている気がした。
卓の向こうで、苛立った声が上がる。少女を呼ぶ声だった。どうやら一人でここにいるわけではないらしい。
それでも目は離さない。
「また来る?」
その問いに、エドワウはすぐ答えられなかった。
来ないと言えば切れる気がした。
来ると言うには意味が重すぎた。
「……仕事が終わったら」
やっとそれだけ言う。
少女は小さく頷いた。
「うん」
「待ってる」
それだけ言って、ようやく振り返った。
元の卓へ戻っていく後ろ姿を見ている間、エドワウは指先に力を入れていた。そうしていないと、自分が今ここに立っている感じが薄れそうだった。
「お前」
現地担当が横で言う。
「顔が真っ白だぞ」
「……暑いせいです」
「今のでか」
「多分」
「多分じゃないだろ」
だが、それ以上は聞かなかった。聞いても答えが出ない顔をしているのが分かったのだろう。
補給拠点へ戻ったあとも、エドワウは仕事をした。
荷の積み替え先を直し、受領印を二つ取り直し、地下搬送便の遅れに合わせて順番を組み替える。手は動く。声も出る。ミスはしない。
だが、時々ほんの少しだけ、手が止まる。
あの名。
遠いところ。
もっと遠い。
赤い光。
白い何か。
思い出したら苦しい。
思い出さないままでも苦しい。
現地担当が最後の伝票へ印を押しながら言った。
「今日は休め」
「まだ終わってません」
「終わらせた顔をしてる」
「そんな顔ですか」
「してる」
それでエドワウは、ようやく自分がいつもより黙っていたことに気づいた。
夜、簡易宿舎の狭い部屋に戻る。
窓の外は黒い。宇宙の夜とも、アンダルシアの夜とも違う。湿った闇だった。遠くで虫が鳴いている。空気は重く、じっとしていても肌にまとわりつく。
一人になると、昼の言葉が静かに戻ってくる。
ベッドに腰を下ろす。目を閉じる。すると、すぐに断片が来た。
赤。
警報。
暗い宇宙。
白い機体。
そして、自分が誰かの名を呼んでいる声。
そこで目を開けた。
息が少し荒くなっている。
まだ、何も思い出してはいない。
だが、思い出す前の痛みだけは、もう胸の奥に入り込んでいた。