妹に撃たれない方法   作:Brooks

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第104話 湿った街

 

 大気圏へ入る直前、機体がひとつ大きく震えた。

 

 操縦席の前で、計器の針がわずかに揺れる。熱の表示、姿勢制御、推力配分。どれも許容の内側だった。

 

「入ります」

 

 エドワウが言うと、後ろの席にいた整備員が短く返した。

 

「了解」

 

 仕事の声だった。

 

 荷もある。受領印の要る箱も、途中で積み替え予定のない精密機材も、全部きちんと固定してある。帳面の上では、ただの地球便だ。

 

 だが、窓の外に広がる色だけは、帳面の上にはない。

 

 雲の下に、濃い緑が見えた。川が白く光を返し、その周りを埋める色が、どこまで行っても続いている。

 

 地球は初めてではなかった。

 

 乾いた風、白い壁、日差しの強い石畳。アンダルシアの空は、もっと遠くまで抜けていた。

 

 今、眼下にある地球は違う。

 

 湿っている。

 

 重い。

 

 同じ地球だと分かっているのに、別の生き物の背へ降りていくように見えた。

 

 機体がもう一度揺れた。

 

 後ろから声が飛ぶ。

 

「大丈夫ですか」

 

「少し暑いだけです」

 

「まだ外へも出てませんよ」

 

「見てるだけで分かる」

 

 整備員が笑った。

 

「着いたら、もっとひどいですね」

 

「だろうな」

 

 そう返しながら、エドワウは自分の喉が少し乾いているのを感じていた。

 

 降り立ったのは、マナウス近郊の補給拠点だった。

 

 滑走区画は簡素だったが、忙しさだけは宇宙の工区と変わらない。いや、匂いと音のせいで、こちらの方が騒がしく感じる。湿った熱気、燃料の臭い、土と水の匂い、どこか遠くの虫の声、怒鳴るような鳥の鳴き声。

 

 ハッチが開いた瞬間、熱が一枚の布みたいにまとわりついてきた。

 

「……重いな」

 

 思わず口に出る。

 

 後ろで整備員が苦笑した。

 

「空気ですか」

 

「空気も、匂いも、全部」

 

 タラップを降りると、靴底の感触まで違った。乾いた地面ではない。きちんと舗装されているのに、熱の向こう側に湿りがある。

 

 出迎えに来たのは、ヤシマ側の腕章を付けた現地担当だった。日に焼けている。笑うと歯が妙に白い。

 

「黒猫ルシファーの便だな」

 

「はい」

 

 男はエドワウを一度見て、少しだけ笑った。

 

「若いな」

 

「そう見えますか」

 

「見える」

 

 それで挨拶は終わりだった。

 

 すぐに仕事へ入る。

 

 受領確認。箱の状態確認。搬入順の擦り合わせ。現地側の人員不足。地下搬送便の遅れ。予定していた三番荷が後ろへ回り、代わりに保安隔壁の制御ユニットを先に通せと言われる。

 

 紙の上の順番と、現場の順番が違う。

 

 シュウ・ヤシマの言葉が、そのままだった。

 

 地球の荷は紙の通りには流れない。

 

「この箱は先じゃない」

 

 現地担当が言う。

 

「地下三層じゃなく、一層で受ける」

 

「受領印は三層側の名義です」

 

「三層は今、人が足りん。荷が詰まってる」

 

 エドワウはすぐに言い直した。

 

「なら一層で仮受けします」

 

「三層の便が空いたら回す」

 

「印は後で取り直します」

 

 現地担当は少し目を細めた。

 

「分かるのか」

 

「分からないと困るので」

 

 男は短く笑った。

 

「若いのに、荷の詰まり方を見ただけで順番を直せる顔だ」

 

「誉め言葉として受け取っておきます」

 

「そうしとけ。ここじゃ、そういう奴が一番助かる」

 

 午前の荷は、それでなんとか流れた。

 

 汗が背中に張りつく。水もいつもより早く減る。宇宙での仕事の疲れとは違う。空気そのものが体力を持っていく。

 

 だが、忙しい方が助かった。

 

 手を動かしている間は、胸の奥のざわつきに意識を向けなくて済む。

 

 昼過ぎ、ようやく待ち時間ができた。

 

 次の受け渡し先からの連絡がまだ来ない。現地担当が端末を閉じて言う。

 

「早くて二時間、下手すりゃ夕方だ」

 

「そんなにですか」

 

「向こうの荷捌きが止まってる」

 

「ここで座って待ってても、呼びに来るのは同じだ」

 

 男は汗を拭った。

 

「腹に何か入れておけ」

 

「この辺で食える場所、ありますか」

 

「ある」

 

 少し間を置いてから、苦笑する。

 

「まともな飯屋より、話の早い場所がな」

 

「話の早い場所?」

 

「作業員も、運び屋も、現場の雑用係も、暇になるとそこへ流れる」

 

「顔を出しておけば、待ってる間に余計な話も拾える」

 

 エドワウは少し考えた。

 

「酒場ですか」

 

「似たようなもんだ」

 

 男は顎で奥を示した。

 

「新しく出来た賭場だ」

 

 エドワウはすぐには頷かなかった。

 

「俺はここで待っていても」

 

「そう言うと思った」

 

 男は笑う。

 

「だが、荷の受け手が遅れてる時ほど、先に顔を売っといた方が後で揉めない」

 

「この街は、帳面より口が先に動く」

 

 その言い方は、少しだけサイド7に似ていた。

 

 きれいな規則より、誰がどこで何を言ったかが先に効く現場。

 

「……分かりました」

 

「そうこなくちゃな」

 

 補給拠点から少し離れたマナウスの街は、雑多だった。

 

 港町とも違う。工区の町とも違う。作業員、兵、商人、運び屋、地元の子ども、酒場の呼び込み、見慣れない果物の匂い、水気を含んだ布、雨の残り香。人の流れに、宇宙のコロニーにはない“生き物の雑音”が混じっている。

 

 エドワウは現地担当と並んで歩いた。

 

「ジャブロー向けの荷は、いつもこんな感じですか」

 

「いつもじゃない」

 

「じゃあ今日は外れですか」

 

「いや」

 

 男は少しだけ笑った。

 

「今日はまだ、ましな方だ」

 

 通りの奥に、新しい建物が見えた。まだ外壁の塗りが若く、周囲の古い酒場や倉庫から少し浮いている。

 

「あれですか」

 

「ああ」

 

 男が言う。

 

「新しく出来た箱だ」

 

「成金、作業員、運の悪い奴。そういうのを一緒くたに飲み込む」

 

「ずいぶんな言い方ですね」

 

「違うか?」

 

 違わない気がした。

 

 中へ入ると、外の湿気に酒と香水と人の熱が混じる。笑い声。怒号。カードの擦れる音。球の跳ねる音。安い音楽。

 

 派手すぎる場所ではない。だが、金の流れる匂いはした。

 

 エドワウは最初、周囲を一度見渡して、それから止まった。

 

 勝っている男がいた。

 

 卓の前に座り、札を積んでいる。顔は凡庸だ。だが妙に落ち着いている。

 

 いや、落ち着いているのはその男ではない。

 

 隣に立つ少女の方だった。

 

 歳はまだ若い。場に似合わないほど静かで、視線だけが深い。周囲の騒ぎから少し浮いている。逃げているのではない。全部見えているような目だった。

 

 その目が、エドワウを捉えた。

 

 胸の奥で何かが止まった。

 

 知らない。

 

 知らないはずだ。

 

 だが、目をそらすのが遅れた。身体の方が、先に何かを知っているみたいに。

 

「どうした」

 

 現地担当が聞く。

 

「いや……」

 

 言葉が少し遅れる。

 

「なんでもない」

 

 なんでもないはずがなかった。

 

 少女は、少しだけ首を傾けた。そして卓の男の方ではなく、まっすぐこちらへ歩いてきた。

 

 現地担当が小さく舌を鳴らす。

 

「おいおい」

 

「知り合いですか」

 

「知らん」

 

 それでも止めなかった。

 

 少女はエドワウの前まで来て、そこで立ち止まった。

 

 近くで見ると、なおさら妙だった。幼いとか綺麗だとか、その前に“静かすぎる”が来る。

 

「あなた、遠いところから来た人」

 

 最初の言葉は、それだった。

 

 エドワウは一拍遅れて答える。

 

「そうだね」

 

「遠いだけじゃない」

 

 少女は言う。

 

「もっと遠い」

 

 胸の奥がざわつく。

 

 意味は分からない。だが聞き流せない。

 

「君は」

 

 ようやくそれだけ言う。

 

「ララァ」

 

 その名を聞いた瞬間、頭の奥で何かが白く弾けた。

 

 光。

 

 赤。

 

 暗い宇宙。

 

 誰かを呼ぶ声。

 

 熱。

 

 白い何か。

 

 息が一瞬詰まり、視界の端が揺れる。

 

「おい」

 

 現地担当が手を伸ばしかける。

 

 エドワウはかろうじて踏みとどまった。倒れるほどではない。だが膝の裏が少し冷たい。

 

「大丈夫ですか」

 

 担当の声が遠い。

 

 少女は少しだけ近づいた。

 

「まだ、全部は戻ってない」

 

 エドワウは顔を上げた。

 

「……何が」

 

 すぐには答えない。

 

「思い出したら、苦しいよ」

 

 それだけ言う。

 

「でも、思い出さないままでも苦しい」

 

 意味が分からない。

 

 なのに、胸の奥のどこかだけが、それを知っている気がした。

 

 卓の向こうで、苛立った声が上がる。少女を呼ぶ声だった。どうやら一人でここにいるわけではないらしい。

 

 それでも目は離さない。

 

「また来る?」

 

 その問いに、エドワウはすぐ答えられなかった。

 

 来ないと言えば切れる気がした。

 

 来ると言うには意味が重すぎた。

 

「……仕事が終わったら」

 

 やっとそれだけ言う。

 

 少女は小さく頷いた。

 

「うん」

 

「待ってる」

 

 それだけ言って、ようやく振り返った。

 

 元の卓へ戻っていく後ろ姿を見ている間、エドワウは指先に力を入れていた。そうしていないと、自分が今ここに立っている感じが薄れそうだった。

 

「お前」

 

 現地担当が横で言う。

 

「顔が真っ白だぞ」

 

「……暑いせいです」

 

「今のでか」

 

「多分」

 

「多分じゃないだろ」

 

 だが、それ以上は聞かなかった。聞いても答えが出ない顔をしているのが分かったのだろう。

 

 補給拠点へ戻ったあとも、エドワウは仕事をした。

 

 荷の積み替え先を直し、受領印を二つ取り直し、地下搬送便の遅れに合わせて順番を組み替える。手は動く。声も出る。ミスはしない。

 

 だが、時々ほんの少しだけ、手が止まる。

 

 あの名。

 

 遠いところ。

 

 もっと遠い。

 

 赤い光。

 

 白い何か。

 

 思い出したら苦しい。

 

 思い出さないままでも苦しい。

 

 現地担当が最後の伝票へ印を押しながら言った。

 

「今日は休め」

 

「まだ終わってません」

 

「終わらせた顔をしてる」

 

「そんな顔ですか」

 

「してる」

 

 それでエドワウは、ようやく自分がいつもより黙っていたことに気づいた。

 

 夜、簡易宿舎の狭い部屋に戻る。

 

 窓の外は黒い。宇宙の夜とも、アンダルシアの夜とも違う。湿った闇だった。遠くで虫が鳴いている。空気は重く、じっとしていても肌にまとわりつく。

 

 一人になると、昼の言葉が静かに戻ってくる。

 

 ベッドに腰を下ろす。目を閉じる。すると、すぐに断片が来た。

 

 赤。

 

 警報。

 

 暗い宇宙。

 

 白い機体。

 

 そして、自分が誰かの名を呼んでいる声。

 

 そこで目を開けた。

 

 息が少し荒くなっている。

 

 まだ、何も思い出してはいない。

 

 だが、思い出す前の痛みだけは、もう胸の奥に入り込んでいた。

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