妹に撃たれない方法   作:Brooks

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第105話 記憶の扉

 

 マナウスの夜は、眠っているふりだけが上手かった。

 

 窓を閉めても、外の音は薄い板を通って部屋へ染みてくる。遠くの笑い声、どこかで割れた瓶の音、川の方から流れてくる湿った風、壁の裏にでもいるような虫の声。アンダルシアの夜は、もっと乾いていた。音は遠くへ逃げ、闇には輪郭があった。

 

 ここは違う。

 

 闇が近い。

 

 近くて、重い。

 

 エドワウは寝台の端に腰を下ろしたまま、しばらく靴も脱がなかった。机の上には明日の搬送表と、現地で書き足した受領の控えが広がっている。紙の上では、明日もただの仕事だ。荷の順番を入れ替え、補給拠点から離陸し、宇宙へ戻る。数字に直せば、それだけだった。

 

 だが、胸の奥ではもう別のものが動いていた。

 

 遠いところから来た人。

 

 もっと遠い。

 

 あの言葉が、耳ではなく骨に残っている。知らない少女に言われたはずなのに、前から知っていたことを言い当てられた気がした。

 

 目を閉じる。

 

 すぐに来る。

 

 赤い機体。

 

 焼けるような警報。

 

 白い機体。

 

 伸ばした手。

 

 届かない。

 

 そして、名を呼ぶ自分の声。

 

 エドワウは目を開けた。

 

 荒い息が喉をひりつかせる。

 

 全部を思い出したわけではない。だが、もう否定はできなかった。あれは夢ではない。誰かの人生でもない。自分のものだ。

 

 シャア・アズナブル。

 

 その名を、頭の中で静かに置いてみる。

 

 違和感はなかった。

 

 むしろ今まで口にしなかったことの方が、不自然だったのかもしれない。

 

 ザビ家への復讐。

 

 一年戦争。

 

 グリプス。

 

 ネオ・ジオン。

 

 アクシズ。

 

 世界を変えたつもりで、結局何一つ変えきれなかった人生。

 

 その中で、いちばん深いところに残っていたのが、あの少女の死だった。

 

 救ったつもりだった。

 

 あの時の自分は本気でそう思っていた。地球の底から引き上げて、誰にも渡さず、そばに置いて、守るつもりでいた。だが、最後に連れて行ったのは戦場だった。自分の近くに置くことを守ることだと思い込み、いちばん近い場所でいちばん危ないものにした。

 

 最低だ、とエドワウは思った。

 

 今さらそれを取り繕う気はない。自分がしてきたことも、壊してきたものも、今になって綺麗な言葉へ言い換えるつもりはなかった。

 

 だが、今回は違う。

 

 その言葉だけは、胸の中で静かに固まっていく。

 

 今回は、戦場へ連れて行かない。

 

 そばに置いて安心したりしない。

 

 見えるところにいることを、守っていることだと勘違いしない。

 

 放っておけば、あの子は売られる。

 

 拾われる。

 

 研究される。

 

 測られる。

 

 連邦でも、ジオンでも、別の研究機関でも同じだ。名前と制服が違うだけで、やることは一つになる。珍しいものを囲い込み、数字を付け、能力を切り分け、使い道へ押し込む。

 

 兵器になる。

 

 それだけは、もうはっきり分かる。

 

 エドワウはゆっくり立ち上がり、窓を少しだけ開けた。湿った空気が流れ込む。街の灯りは低く、空は雲で重かった。どこか遠くで水音がした。

 

 地球の夜は嫌いではない。

 

 だが今夜だけは、何もかもが遅すぎるように感じた。

 

 明日、運ぶ。

 

 人としてではない。

 

 荷としてでもない。

 

 だが、荷の流れに紛れ込ませて消す。

 

 人は逃げると追われる。

 

 荷は動いても、誰も追わない。

 

 帳面の数字が合っていて、出入りの時間が崩れていなければ、誰も箱の中身まで気にしない。物流の中では、人間より荷札の方が強いことがある。エドワウはそれを知っていた。

 

 今回使うのは、力ではない。

 

 金でもない。

 

 流れだ。

 

 運ぶ時間、積む順番、空き箱一つ。そういうもので、人一人を地球から消す。

 

 そこまで組んで、ようやく少しだけ呼吸が落ち着いた。

 

 翌朝、補給拠点へ向かう道は昨日よりさらに湿っていた。夜半に雨が通ったらしく、石畳の継ぎ目に黒い水が残っている。朝の市場では青い果実が積まれ、裸足の子どもが走り、川から上がってくる風が魚の匂いを運んでくる。

 

 マナウスは、同じ地球でもアンダルシアとはまるで違った。あちらは乾いた光で人の影を長く引く土地だった。ここは湿った光で、何もかもが地面に近い。

 

 仕事は待っていた。

 

 エドワウは仕事をした。

 

 搬送先の変更、受領印の取り直し、補修材の仕分け、地下搬送便の遅れの調整。手は止めない。声も乱れない。今の自分が壊れていないことを示すいちばん確実な方法は、仕事を崩さないことだった。

 

 現地担当が、昼前にやっと一息ついて水筒の蓋を開けた。

 

「今日は昨日より回るな」

 

「遅れが前で止まってくれたからです」

 

「後ろで止まる方が厄介だ」

 

「ええ」

 

 エドワウは搬送表を見ながら言った。

 

「明日の便、空き箱を一つ増やせますか」

 

 現地担当が眉を上げる。

 

「何に使う」

 

「精密機材の予備梱包です」

 

 嘘ではない。正確でもないだけだ。

 

「今の箱じゃ足りんのか」

 

「足りるかどうかは、積み替えの時まで分かりません」

 

「途中で割れたら面倒だろうと思いまして」

 

 男は少し考えた。

 

「大きさは」

 

 エドワウは手でおよその幅を示した。

 

「人が入るくらいか」

 

 冗談みたいに言う。

 

 エドワウは顔色を変えない。

 

「長尺材のクッションを入れるので」

 

「なるほどな」

 

 男は頷いた。

 

「一つだけなら回せる」

 

「助かります」

 

 話はそれで終わった。

 

 物流は、必要な大きさと時刻さえ通れば、理由は意外と雑でも流れる。そこがこの仕事の恐ろしいところでもあり、便利なところでもある。

 

 昼を過ぎて、次の受け渡し先から返事が遅れると分かったところで、エドワウは昨日と同じように街へ出た。だが今日は、どこへ行くかが先に決まっている。賭場の表ではなく、裏口だ。

 

 表の通りはもう昼の熱を抱えていた。客引きの声、運び屋の怒鳴り声、煙草の煙、焼いた肉の匂い。だが建物の脇へ入ると、急に音が鈍る。湿った壁、洗ったばかりの床、水の滴る木箱。裸電球がまだ消えていない。

 

 誰かに呼ばれたわけではない。

 

 それでも、ここだと思った。

 

 店の裏へ回り込めば会える気がした。理屈ではない。戦場で時々あった、次に撃たれる場所を先に身体が知る感じに近かった。

 

 エドワウが立ち止まると、裏口の扉が少しだけ開いた。

 

 昨日と同じ目が先に覗く。

 

 少女は扉の隙間から外へ出ると、何でもないことみたいに言った。

 

「来ると思ってた」

 

「……分かったのか」

 

「うん」

 

 少女は頷いた。

 

「こっちから来るって」

 

 昼の光は弱く、裏路地の空気はぬるかった。近くの壁を伝って落ちた水が石の上で細く光っている。

 

 エドワウは、昨日よりましな顔をしているつもりだった。だが少女はすぐに首を振った。

 

「昨日より、眠ってない」

 

「少しだけ」

 

「少しじゃない」

 

 それでエドワウは、小さく息を吐いた。

 

 誤魔化しても仕方がない相手だと、もう分かっていた。

 

「思い出した」

 

 そう言うと、胸の奥が少し冷えた。

 

「全部じゃない」

 

「でも、十分だ」

 

「何を?」

 

 少女が聞く。

 

 エドワウは言葉を選んだ。選ばなければ、あまりに多くのものが口から出てしまいそうだった。

 

「前に一度、君と会った」

 

 少女は黙って聞いている。

 

「助けたつもりだった」

 

「でも、守れなかった」

 

「最後は、いちばん行かせちゃいけない場所へ連れて行った」

 

 口にした瞬間、白い光が頭の奥をかすめた。伸ばした手。届かなかった指先。間に合わなかったという、あのはっきりした感触。

 

 エドワウは壁へ手をついた。

 

 少女は近づきすぎず、だが離れもしない。

 

「今は分かる?」

 

「何が」

 

「ここにいたら駄目ってこと」

 

 その言い方があまりにまっすぐで、エドワウは少し笑いそうになった。

 

「分かる」

 

「だから、連れ出す」

 

 少女の目が少しだけ揺れた。

 

「今度は、戦うところじゃない?」

 

「違う」

 

 エドワウは即座に答えた。

 

「もっと静かなところだ」

 

「水のそば」

 

「風が通る家だ」

 

「誰にも見られない場所じゃない」

 

「ちゃんと暮らす場所だ」

 

 その言葉を言いながら、自分の中にある景色がはっきりしていく。サイド6。湖。小さな家。戦争から少しだけ遠い場所。帰る場所。もし戦争がなかったなら、という仮の可能性を置いておける場所。

 

 少女はその景色を見たみたいに目を細めた。

 

「水の音がする」

 

「する」

 

「静か?」

 

「静かだ」

 

「そこへ行く?」

 

「行く」

 

 もう迷いはなかった。

 

「今日じゃない」

 

「でも長くは置かない」

 

「明日の便で出す」

 

 少女は小さく頷いた。

 

「どうやって?」

 

 エドワウは周囲を一度見た。裏路地には誰もいない。表の音だけが壁越しに濁って届いている。

 

「消えるんだ」

 

「人としてじゃなく、荷の流れの中に入る」

 

「逃げると探される」

 

「でも運ばれるものは、誰も追わない」

 

 少女は少しだけ考え、それから言った。

 

「箱に入るの?」

 

 エドワウは苦く笑った。

 

「そうなる」

 

「苦しい?」

 

「一時間くらいだ」

 

「我慢できる?」

 

「できる」

 

 そこで少女は、昨日より少し幼い顔をした。

 

「一人にしないで」

 

 その一言が、いちばん現実だった。

 

「しない」

 

 エドワウは答える。

 

「近くにいる」

 

「声をかける」

 

「出るまでは待つ」

 

 少女は安心したような、まだ怖いような、どちらともつかない顔で頷いた。

 

「何も持たなくていい」

 

 エドワウは続けた。

 

「服だけでいい」

 

「呼ばれたら?」

 

「呼ばれても、今夜は何も変えない」

 

「明日の出発一時間前に来る」

 

「裏口は危ない。店の横の水汲み場があるだろ」

 

 少女はすぐに頷く。

 

「あそこ」

 

「あそこにいる」

 

「誰にも見られるな」

 

「分かった」

 

 少しだけ間が空いた。

 

 ララァはエドワウの顔を見たまま、小さく言った。

 

「今度は、遅れないで」

 

 その一言で、また奥が開いた。

 

 宇宙。

 

 白い機体。

 

 名前を呼ぶ自分の声。

 

 遅れた。

 

 前は遅れた。気づくのも、止めるのも、引き返すのも、全部。

 

 エドワウは歯を食いしばり、呼吸を整えた。

 

「遅れない」

 

 その声は、自分でも驚くほど静かだった。

 

「今度は、先に行く」

 

 裏口の向こうで何かが倒れる音がした。少女が肩を少し揺らす。

 

「戻れ」

 

 エドワウが言う。

 

「明日だ」

 

「うん」

 

「名前を呼ばれても、顔に出すな」

 

「うん」

 

 扉の向こうへ戻る前に、少女は一度だけ振り返った。

 

「待ってる」

 

 それだけ言って、扉は閉じた。

 

 薄い板一枚の向こうに、もう喧騒が戻っている。だがエドワウの中では、順番が全部変わっていた。

 

 明日の搬送表。

 

 空箱の番号。

 

 積み込みの順番。

 

 離陸一時間前。

 

 水汲み場。

 

 シャトルの後方収納。

 

 サイド6への導線。

 

 その先に置く家。

 

 生活を見てくれる人。

 

 医者。

 

 服。

 

 食事。

 

 言葉。

 

 全部が一本につながる。

 

 助けたい、では遅い。

 

 運ぶ。

 

 切る。

 

 隠す。

 

 暮らさせる。

 

 それだけだった。

 

 マナウスの空は重く曇っていた。雨が近いのかもしれない。川の方から吹いてくる風が、湿った土の匂いを運んでくる。

 

 この街は何でも飲み込む。

 

 人も、金も、嘘も、名前も。

 

 だからこそ、今夜のうちに順番を整えれば、明日には一人くらいきれいに消せる。

 

 その夜、開いたのは昔の記憶だけではなかった。

 

 一度見てしまった過ちの先で、今度は何をするかという扉も、もう閉じなくなっていた。

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