マナウスの夜は、眠っているふりだけが上手かった。
窓を閉めても、外の音は薄い板を通って部屋へ染みてくる。遠くの笑い声、どこかで割れた瓶の音、川の方から流れてくる湿った風、壁の裏にでもいるような虫の声。アンダルシアの夜は、もっと乾いていた。音は遠くへ逃げ、闇には輪郭があった。
ここは違う。
闇が近い。
近くて、重い。
エドワウは寝台の端に腰を下ろしたまま、しばらく靴も脱がなかった。机の上には明日の搬送表と、現地で書き足した受領の控えが広がっている。紙の上では、明日もただの仕事だ。荷の順番を入れ替え、補給拠点から離陸し、宇宙へ戻る。数字に直せば、それだけだった。
だが、胸の奥ではもう別のものが動いていた。
遠いところから来た人。
もっと遠い。
あの言葉が、耳ではなく骨に残っている。知らない少女に言われたはずなのに、前から知っていたことを言い当てられた気がした。
目を閉じる。
すぐに来る。
赤い機体。
焼けるような警報。
白い機体。
伸ばした手。
届かない。
そして、名を呼ぶ自分の声。
エドワウは目を開けた。
荒い息が喉をひりつかせる。
全部を思い出したわけではない。だが、もう否定はできなかった。あれは夢ではない。誰かの人生でもない。自分のものだ。
シャア・アズナブル。
その名を、頭の中で静かに置いてみる。
違和感はなかった。
むしろ今まで口にしなかったことの方が、不自然だったのかもしれない。
ザビ家への復讐。
一年戦争。
グリプス。
ネオ・ジオン。
アクシズ。
世界を変えたつもりで、結局何一つ変えきれなかった人生。
その中で、いちばん深いところに残っていたのが、あの少女の死だった。
救ったつもりだった。
あの時の自分は本気でそう思っていた。地球の底から引き上げて、誰にも渡さず、そばに置いて、守るつもりでいた。だが、最後に連れて行ったのは戦場だった。自分の近くに置くことを守ることだと思い込み、いちばん近い場所でいちばん危ないものにした。
最低だ、とエドワウは思った。
今さらそれを取り繕う気はない。自分がしてきたことも、壊してきたものも、今になって綺麗な言葉へ言い換えるつもりはなかった。
だが、今回は違う。
その言葉だけは、胸の中で静かに固まっていく。
今回は、戦場へ連れて行かない。
そばに置いて安心したりしない。
見えるところにいることを、守っていることだと勘違いしない。
放っておけば、あの子は売られる。
拾われる。
研究される。
測られる。
連邦でも、ジオンでも、別の研究機関でも同じだ。名前と制服が違うだけで、やることは一つになる。珍しいものを囲い込み、数字を付け、能力を切り分け、使い道へ押し込む。
兵器になる。
それだけは、もうはっきり分かる。
エドワウはゆっくり立ち上がり、窓を少しだけ開けた。湿った空気が流れ込む。街の灯りは低く、空は雲で重かった。どこか遠くで水音がした。
地球の夜は嫌いではない。
だが今夜だけは、何もかもが遅すぎるように感じた。
明日、運ぶ。
人としてではない。
荷としてでもない。
だが、荷の流れに紛れ込ませて消す。
人は逃げると追われる。
荷は動いても、誰も追わない。
帳面の数字が合っていて、出入りの時間が崩れていなければ、誰も箱の中身まで気にしない。物流の中では、人間より荷札の方が強いことがある。エドワウはそれを知っていた。
今回使うのは、力ではない。
金でもない。
流れだ。
運ぶ時間、積む順番、空き箱一つ。そういうもので、人一人を地球から消す。
そこまで組んで、ようやく少しだけ呼吸が落ち着いた。
翌朝、補給拠点へ向かう道は昨日よりさらに湿っていた。夜半に雨が通ったらしく、石畳の継ぎ目に黒い水が残っている。朝の市場では青い果実が積まれ、裸足の子どもが走り、川から上がってくる風が魚の匂いを運んでくる。
マナウスは、同じ地球でもアンダルシアとはまるで違った。あちらは乾いた光で人の影を長く引く土地だった。ここは湿った光で、何もかもが地面に近い。
仕事は待っていた。
エドワウは仕事をした。
搬送先の変更、受領印の取り直し、補修材の仕分け、地下搬送便の遅れの調整。手は止めない。声も乱れない。今の自分が壊れていないことを示すいちばん確実な方法は、仕事を崩さないことだった。
現地担当が、昼前にやっと一息ついて水筒の蓋を開けた。
「今日は昨日より回るな」
「遅れが前で止まってくれたからです」
「後ろで止まる方が厄介だ」
「ええ」
エドワウは搬送表を見ながら言った。
「明日の便、空き箱を一つ増やせますか」
現地担当が眉を上げる。
「何に使う」
「精密機材の予備梱包です」
嘘ではない。正確でもないだけだ。
「今の箱じゃ足りんのか」
「足りるかどうかは、積み替えの時まで分かりません」
「途中で割れたら面倒だろうと思いまして」
男は少し考えた。
「大きさは」
エドワウは手でおよその幅を示した。
「人が入るくらいか」
冗談みたいに言う。
エドワウは顔色を変えない。
「長尺材のクッションを入れるので」
「なるほどな」
男は頷いた。
「一つだけなら回せる」
「助かります」
話はそれで終わった。
物流は、必要な大きさと時刻さえ通れば、理由は意外と雑でも流れる。そこがこの仕事の恐ろしいところでもあり、便利なところでもある。
昼を過ぎて、次の受け渡し先から返事が遅れると分かったところで、エドワウは昨日と同じように街へ出た。だが今日は、どこへ行くかが先に決まっている。賭場の表ではなく、裏口だ。
表の通りはもう昼の熱を抱えていた。客引きの声、運び屋の怒鳴り声、煙草の煙、焼いた肉の匂い。だが建物の脇へ入ると、急に音が鈍る。湿った壁、洗ったばかりの床、水の滴る木箱。裸電球がまだ消えていない。
誰かに呼ばれたわけではない。
それでも、ここだと思った。
店の裏へ回り込めば会える気がした。理屈ではない。戦場で時々あった、次に撃たれる場所を先に身体が知る感じに近かった。
エドワウが立ち止まると、裏口の扉が少しだけ開いた。
昨日と同じ目が先に覗く。
少女は扉の隙間から外へ出ると、何でもないことみたいに言った。
「来ると思ってた」
「……分かったのか」
「うん」
少女は頷いた。
「こっちから来るって」
昼の光は弱く、裏路地の空気はぬるかった。近くの壁を伝って落ちた水が石の上で細く光っている。
エドワウは、昨日よりましな顔をしているつもりだった。だが少女はすぐに首を振った。
「昨日より、眠ってない」
「少しだけ」
「少しじゃない」
それでエドワウは、小さく息を吐いた。
誤魔化しても仕方がない相手だと、もう分かっていた。
「思い出した」
そう言うと、胸の奥が少し冷えた。
「全部じゃない」
「でも、十分だ」
「何を?」
少女が聞く。
エドワウは言葉を選んだ。選ばなければ、あまりに多くのものが口から出てしまいそうだった。
「前に一度、君と会った」
少女は黙って聞いている。
「助けたつもりだった」
「でも、守れなかった」
「最後は、いちばん行かせちゃいけない場所へ連れて行った」
口にした瞬間、白い光が頭の奥をかすめた。伸ばした手。届かなかった指先。間に合わなかったという、あのはっきりした感触。
エドワウは壁へ手をついた。
少女は近づきすぎず、だが離れもしない。
「今は分かる?」
「何が」
「ここにいたら駄目ってこと」
その言い方があまりにまっすぐで、エドワウは少し笑いそうになった。
「分かる」
「だから、連れ出す」
少女の目が少しだけ揺れた。
「今度は、戦うところじゃない?」
「違う」
エドワウは即座に答えた。
「もっと静かなところだ」
「水のそば」
「風が通る家だ」
「誰にも見られない場所じゃない」
「ちゃんと暮らす場所だ」
その言葉を言いながら、自分の中にある景色がはっきりしていく。サイド6。湖。小さな家。戦争から少しだけ遠い場所。帰る場所。もし戦争がなかったなら、という仮の可能性を置いておける場所。
少女はその景色を見たみたいに目を細めた。
「水の音がする」
「する」
「静か?」
「静かだ」
「そこへ行く?」
「行く」
もう迷いはなかった。
「今日じゃない」
「でも長くは置かない」
「明日の便で出す」
少女は小さく頷いた。
「どうやって?」
エドワウは周囲を一度見た。裏路地には誰もいない。表の音だけが壁越しに濁って届いている。
「消えるんだ」
「人としてじゃなく、荷の流れの中に入る」
「逃げると探される」
「でも運ばれるものは、誰も追わない」
少女は少しだけ考え、それから言った。
「箱に入るの?」
エドワウは苦く笑った。
「そうなる」
「苦しい?」
「一時間くらいだ」
「我慢できる?」
「できる」
そこで少女は、昨日より少し幼い顔をした。
「一人にしないで」
その一言が、いちばん現実だった。
「しない」
エドワウは答える。
「近くにいる」
「声をかける」
「出るまでは待つ」
少女は安心したような、まだ怖いような、どちらともつかない顔で頷いた。
「何も持たなくていい」
エドワウは続けた。
「服だけでいい」
「呼ばれたら?」
「呼ばれても、今夜は何も変えない」
「明日の出発一時間前に来る」
「裏口は危ない。店の横の水汲み場があるだろ」
少女はすぐに頷く。
「あそこ」
「あそこにいる」
「誰にも見られるな」
「分かった」
少しだけ間が空いた。
ララァはエドワウの顔を見たまま、小さく言った。
「今度は、遅れないで」
その一言で、また奥が開いた。
宇宙。
白い機体。
名前を呼ぶ自分の声。
遅れた。
前は遅れた。気づくのも、止めるのも、引き返すのも、全部。
エドワウは歯を食いしばり、呼吸を整えた。
「遅れない」
その声は、自分でも驚くほど静かだった。
「今度は、先に行く」
裏口の向こうで何かが倒れる音がした。少女が肩を少し揺らす。
「戻れ」
エドワウが言う。
「明日だ」
「うん」
「名前を呼ばれても、顔に出すな」
「うん」
扉の向こうへ戻る前に、少女は一度だけ振り返った。
「待ってる」
それだけ言って、扉は閉じた。
薄い板一枚の向こうに、もう喧騒が戻っている。だがエドワウの中では、順番が全部変わっていた。
明日の搬送表。
空箱の番号。
積み込みの順番。
離陸一時間前。
水汲み場。
シャトルの後方収納。
サイド6への導線。
その先に置く家。
生活を見てくれる人。
医者。
服。
食事。
言葉。
全部が一本につながる。
助けたい、では遅い。
運ぶ。
切る。
隠す。
暮らさせる。
それだけだった。
マナウスの空は重く曇っていた。雨が近いのかもしれない。川の方から吹いてくる風が、湿った土の匂いを運んでくる。
この街は何でも飲み込む。
人も、金も、嘘も、名前も。
だからこそ、今夜のうちに順番を整えれば、明日には一人くらいきれいに消せる。
その夜、開いたのは昔の記憶だけではなかった。
一度見てしまった過ちの先で、今度は何をするかという扉も、もう閉じなくなっていた。