夜明け前の補給拠点は、昼より静かで、昼より容赦がなかった。
照明に照らされた滑走区画の床は、夜のあいだに乾ききらなかった湿気を薄く残している。地上の湿った空気と、燃料と、油と、金属の匂いが混ざり合って、眠気を飛ばすには十分すぎる匂いになっていた。
エドワウは、朝一番の点検表を手にしたまま、格納区画の端から端まで歩いた。
歩きながら、目だけで見る。
監視カメラの位置。
搬入路の死角。
夜勤から朝勤へ変わる時刻。
署名台の前で列ができる瞬間。
荷物を数える人間が、個数を見るか、品目を見るか。
固定具を締める整備員が、締めたあと振り返る癖があるかどうか。
人は忘れる。
だが、記録は忘れない。
人の目は曖昧だ。
だが、映像は後から何度でも見返される。
今回、相手にするべきなのは用心棒でも賭場の主でもない。もっと面倒で、もっと始末が悪いものだ。
時刻表。
搬入記録。
署名欄。
固定番号。
そういう、人を通り過ぎたあとも残るもの。
英雄みたいに人を奪って走れば、誰かの記憶に残る。
記憶に残れば、あとで辿られる。
だからやらない。
気づいた時にはもう終わっている。
それが一番いい。
「追加箱、来てます」
若い整備員が声をかけてきた。
エドワウは頷き、格納区画の奥へ向かった。
壁際に、他の梱包材と並んで一つ大きめのケースが置かれている。外装は新品ではない。角に擦れがあり、片側の留め具だけ少し色が違う。目立たない。そこがいい。
「こっちでやる」
エドワウが言うと、整備員はすぐ手を離した。
「中の緩衝、まだ詰め切ってません」
「見れば分かる」
「終わったら札だけ戻してください」
「分かった」
整備員が離れるのを見送ってから、エドワウはケースの前にしゃがんだ。
留め具を外す。蓋を上げる。内側には緩衝材と固定布が入っている。昨日のうちに用意したものだ。底に薄く敷いた柔らかい層。壁側には体温がこもりすぎないよう、詰めすぎない余白。蓋の合わせ目には、外から見えない程度の空気の道。
丁寧すぎる、と自分でも思う。
だが、これでいい。
前は、戦場へ連れて行った。
今は違う。
今度はまず、生きたまま地球の外へ出す。
ケースの底へ手を入れ、固定具の位置を少し直す。布を一枚折り返し、水筒が転がらない場所へ差し込む。呼吸が浅くなっても息苦しさが増えにくい角度を頭の中で組み直す。
人を運ぶのではない。
それでも、運ぶのだ。
人としてではなく、記録の中をすり抜ける一個の搬送物として。
それが嫌だとは思わなかった。
嫌だと思う資格は、前に失った時点で、たぶんもうない。
ケースの蓋を閉じる。
留め具を掛ける。
荷札はまだ付けない。
時刻は見ていなかったが、外の動きで分かる。出発まで、まだ二時間ある。今はまだ早い。ケースは一度、普通の荷物として人の目を通っていなければならない。
エドワウは立ち上がり、点検表へいつも通りの印を入れた。
そのあと、整備員と他の箱の固定位置について二言三言交わす。ごく普通に。特に覚えられない程度に。
それから署名台へ行き、受領書を二枚確認し、現地担当と短く話した。
「三番荷、戻りで積み替えます」
「昨日の予備梱包のやつか」
「そうです」
「重量は合わせろよ」
「合わせます」
「中で動くな」
「動かさないようにします」
そこまで聞いて、現地担当はもう次の伝票へ目を落としていた。
それで十分だった。
誰かがあとで思い出すとしたら、昨日言っていた追加梱包の箱だ、という程度のことだけでいい。
朝の仕事は、淡々と流れた。
荷は動く。人も動く。呼び声、台車の音、固定具の金属音、遠くの鳥の鳴き声。マナウスの朝は、川が近いせいか、音の奥にいつも水がある。見えなくても、匂いと湿気で分かる。
その水の匂いが、今朝はやけに白く感じた。
白鳥、という言葉がふいに頭をよぎる。
どこから来た連想かは、自分でも分からない。だが、泥と熱と酒の街の底に、場違いなくらい白いものを一つ置いたら、それはきっとすぐ汚れる。だから、汚れる前に水のある場所へ返す。そんなことを、頭のどこかで考えていた。
出発九十分前。
エドワウは、予備梱包の確認という名目でケースをもう一度開けた。
周囲には二人ほど人がいる。わざとだ。何も隠していない作業に見えるように。蓋を開け、緩衝材を直し、水筒を入れ、固定布を折り直す。
「そこまでやるか」
通りがかった整備員が言う。
「戻りで割れたら面倒だ」
「まあな」
男はそれ以上見なかった。
カメラも、そこに普通の作業が映っただけで終わる。
それでいい。
ケースを閉じたあと、エドワウは一度だけ持ち場を離れた。忘れ物でも取りに行く顔で、伝票を一枚手に持つ。足早でもなく、遅くもなく。急げば記憶に残る。迷えばなおさら残る。
補給拠点から街へ抜ける脇道は、まだ朝の店支度が始まったばかりだった。市場は半分しか開いていない。果物の籠、水桶、洗ったばかりの布。人通りが少ない。出発一時間前なら、賭場の夜勤はようやく眠りに落ち、昼の雑用が目を覚ます頃だ。
水汲み場は、裏通りの角を折れた先にあった。
石の縁。濡れた床。桶。壁の染み。
そこに、もういた。
ララァは小さな包みも持っていなかった。昨日の服のまま、ただ立っていた。急かされた顔でも、怯えきった顔でもない。静かなまま、ただこちらを見ている。
エドワウも何も言わなかった。
言葉はいらなかった。
今だと分かっている目だった。
ララァが一歩寄る。
エドワウは手に持っていた伝票を折って懐へ入れ、歩く向きを変えた。
ララァもそのままついてくる。
それだけで、もう十分だった。
途中で一度だけ、荷車を押した男がこちらを見た。だが、若い男が親類の子どもでも連れて歩いているようにしか見えなかったのだろう。すぐに視線は外れた。
補給拠点の外縁に沿った搬入通路へ入る。
整備布の陰、積み上げられた木箱、その隙間。人の足は通るが、立ち止まる理由のない場所。
エドワウがケースを引き寄せる。
蓋を開ける。
中の白い緩衝材が、薄暗い朝の中で妙に明るく見えた。
ララァは中を覗き込んだ。
少しだけ眉を寄せる。
暗い。
狭い。
だが聞かない。
この子はもう、分かっている。
エドワウは小さな水筒を見せ、内側の布を軽く叩いた。呼吸のための隙間を指で示す。声にすれば長くなる。長くなれば、何かがこぼれる。
ララァは頷いた。
そして、自分から中へ入った。
小さな身体が収まる。膝を抱え、横向きになり、顔だけ少し上げる。その仕草が、年相応に幼い。
エドワウは胸の奥が一瞬だけ詰まるのを感じた。
前は、もっとひどい箱へ入れた。
モビルスーツ。軍服。政治。戦場。
そういうもっと巨大な箱へ。
今は違う。
今度は出口のある箱だ。
ララァが見上げる。
「……うん」
それだけだった。
大丈夫、という意味にも、準備できた、という意味にも聞こえた。
エドワウは手を伸ばし、ララァの髪が蓋に挟まらないよう整えた。
「着かせる」
言葉はそれだけにした。
ララァは目を閉じ、小さく頷いた。
蓋を閉じる。
留め具を掛ける。
荷札を付ける。
人間を隠したという感覚は、不思議と薄かった。むしろ、世界の側から見えない場所へ移した、という感じの方が近い。
台車に乗せる。
押す。
他の荷と一緒に動く。
それだけで、もう取り返しのつかない線を越えた気がした。
搬入口では、係員が荷札と番号を見る。
「追加梱包のやつか」
エドワウは頷いた。
「精密機材用です」
「重量は」
「昨日の登録通りです」
係員は端末を見て、短く頷いた。
「通せ」
それで終わった。
通ってしまう。
それが物流の怖さであり、今回の救いでもあった。
人間を連れ出すから事件になる。
貨物として流せば、それはただの搬送だ。
帳面に一行加わるだけで、人は世界から見えなくなることがある。
前は戦場の中で守ろうとした。
今は流れの中に隠して守る。
その違いだけで、結末まで変わると信じるしかない。
シャトルへの積み込みが始まる。
他の箱と並んで、ララァの入ったケースも後方収納へ収まった。固定具が締められる。係員が一度だけ手で揺すって、動かないことを確かめる。
その一瞬、エドワウの喉が少しだけ乾いた。
音はない。
揺れもない。
大丈夫だ。
まだ大丈夫だ。
だが、離陸前の最終確認で一人の整備員が足を止めた。
「この固定、もう一段締めます」
ケースに手がかかる。
エドワウはその場へ自然に寄った。
「そこは大丈夫です」
「少し浮いて見える」
「下の緩衝が柔らかいだけです」
整備員はもう一度見た。
長い一秒だった。
「……そうか」
それで手を離した。
エドワウは何でもない顔を崩さなかった。崩したら負けだ。ここで大丈夫かと確認する声を出したら、今まで何もなかった箱が、急に意味を持ってしまう。
最終の署名。
搭乗。
閉鎖。
機体の振動が床を通じて上がってくる。
地上の熱気と湿気が、隔壁一枚向こうへ押しやられていく。
エドワウは席に着きながら、頭の中で一度だけ時刻を数え直した。水汲み場から搬入通路まで。ケース投入。積み込み。離陸。誰かが不審に思っても、探し始めるのは早くて夜だ。それまでには、もう重力圏を離れている。
前より、ずっとましだ。
その考え方が、ひどく冷たくて、自分らしいと思った。
離陸。
機体が重力を押し返す。
身体が座席へ押しつけられる。
地球の湿った匂いが少しずつ薄れ、代わりに機体の中の乾いた空気と金属の匂いが戻ってくる。振動が形を変える。上へ抜けていく音になる。
大気圏離脱後、安定飛行へ入ってから、エドワウは後方収納へ向かった。
留め具を外す。
蓋を上げる。
中に、小さく丸まった白い顔があった。
光が差し込むと、ララァは少しだけ目を細めた。狭い箱の中にいたせいで髪が少し乱れている。それでも泣いてはいなかった。
「着いた?」
ララァが小さく聞く。
「まだ途中だ」
エドワウは答えた。
「でも、もう地球じゃない」
ララァはそれを聞いて、静かに頷いた。
「うん」
エドワウは手を差し入れ、ララァをそっと起こした。ブランケットを肩へ掛け、水を渡す。小さな手が容器を持つ。ごく普通の、痩せた子どもの手だった。
前は、この手に戦場を握らせた。
今は、ただ水だけを渡せばいい。
それだけのことが、どうしてあの時はできなかったのかと思う。
窓の外には、もう地球の曲線が見えた。濃い青の縁に白い雲が浮き、その下に見えない森と川と街が沈んでいる。
まだ何も終わってはいない。
だが、少なくとも今回は、白い部屋へ入る前に手が届いた。
それだけは、前と違った。
ララァはブランケットの端を握ったまま、窓の外を見ていた。
「白いね」
地球の縁を見て言ったのか、雲を見て言ったのかは分からなかった。
エドワウは小さく頷いた。
「ああ」
その日エドワウがようやく手に入れたのは、先の計画ではなかった。
ただ、間に合ったという事実だけだった。