機体の中は、地上よりずっと静かなはずだった。
それでも完全な無音にはならない。低く続く駆動音、空調の乾いた風、どこか遠くで鳴る小さな金属音。地球の湿った騒音が消えたあとに残るのは、機械だけが生きているみたいな静けさだった。
ララァはブランケットにくるまったまま、しばらく何も言わなかった。
ケースの中にいた時の固さが、まだ身体に残っている。座席に浅く腰を掛け、足を少し内側へ寄せている姿は、小さな子どものものなのに、どこかでずっと大人の顔色を見てきた癖が抜けていない。
エドワウは水の入った容器を渡した。
ララァは両手で受け取って、少しずつ飲んだ。
喉が鳴るほど一気には飲まない。
その飲み方まで慎重なのが、胸に引っかかった。
「もう、揺れない?」
ララァが小さく聞いた。
「さっきよりは」
「こわくない?」
「少しは」
エドワウがそう答えると、ララァはそれを不思議そうに見た。
「こわいんだ」
「怖くない方が、おかしい」
そう言ってから、自分でも少しだけ可笑しかった。前の人生なら、こんな言い方はしなかったかもしれない。強がることの方が多かった。怖いと口にする代わりに、もっと別の顔を選んでいた。
今は違う。
怖いものは怖い。遅れるのが怖い。見つかるのが怖い。取り返せないところまで行くのが怖い。
そして何より、また同じことを繰り返すのが怖かった。
ララァは水を飲み終えると、容器を膝の上に置いた。
小さな肩が少しずつ下がっていく。緊張が切れてきたのだろう。
エドワウはブランケットの端を整えてやった。
その手つきに、前の記憶が刺さる。
こんなふうに肩へ何かを掛けたことがある。眠そうな顔をしたララァを見たことがある。守れているつもりで、その先に何が待っているかを止められなかった。
今はその先を知っている。
知っているからこそ、今ここでできることが、いっそう小さく見える。
水を渡す。眠らせる。乾いた毛布を掛ける。たったそれだけだ。
だが前は、そのたったそれだけすら、最後まで正しい形で続けられなかった。
ララァは容器を抱えたまま、うとうとし始めた。
「少し寝ていい」
「いい」
「起きたら、まだここ?」
「ここだ」
ララァは目を閉じた。
呼吸が静かに落ち着いていく。
子どもの寝顔だった。
その当たり前の事実に、エドワウは妙に打たれた。戦場で見たララァも、前の人生で背負わせたものも、そういうものを全部剥いでしまえば、ただ痩せた女の子が疲れて眠っているだけなのだ。
守るというのは、本当はこういう顔を戦場へ持って行かないことだったのだろう。
ようやくそこへ辿り着いた自分を、誇る気にはなれなかった。
遅すぎたからだ。
だが、遅すぎると知ったまま何もしないよりはましだとも思う。
エドワウは席を立ち、狭い通路の端にある通信端末へ向かった。
長く話す気はなかった。記録が残る。声色まで残らなくても、発信先と時間は残る。必要なことだけでいい。
呼び出しの間、短い雑音が入る。
映像は繋がない。
数秒後、セイラの声が出た。
「兄さん?」
「俺だ」
「無事?」
「今のところは」
少しだけ間があった。
セイラは、その短さで何かを察したはずだ。兄がいま、余計な言葉を挟めない場所にいると。
「増えた」
エドワウが言う。
「一人」
向こうが静かになる。
それから、セイラは落ち着いた声で聞いた。
「女の子?」
「そうだ」
「年は」
「若い」
「けがは」
「ない。疲れてる」
もう一度、短い沈黙。
「じゃあ」
セイラの声が少しだけ柔らかくなった。
「静かな部屋を一つ取る」
「服もいるわね」
「頼む」
「食べやすいものも用意する」
「それと」
セイラが言葉を継いだ。
「女手、考える」
エドワウはそこで少しだけ息を吐いた。
「助かる」
「兄さん」
「どうした」
「その子、拾ったの」
まっすぐな聞き方だった。
エドワウは少しだけ迷ってから答えた。
「拾ったというより」
「間に合った」
セイラは、それ以上聞かなかった。
「分かった」
「戻る先、まだ決めてないのね」
「サイド7へは直帰しない」
「そう」
「サイド6へ寄る」
セイラの返事は早かった。
「その方がいい」
「人も目も多すぎるもの」
「ええ」
「なら、そっちで先に場所を見て」
「私の方でも当たる」
「頼む」
「うん」
通信が切れる直前、セイラは小さく言った。
「兄さん」
「何だ」
「今度は、ちゃんと眠らせてあげて」
そこで通信は切れた。
言い返す言葉はなかった。
ちゃんと眠らせてあげて。
たぶん、それだけで十分なのだ。
前の人生でできなかったことを、ひどく小さな言葉にすると、そこへ行き着く気がした。
席へ戻ると、ララァはまだ眠っていた。
ブランケットから出た指先が少し冷えている。エドワウはそっとその端を掛け直した。
サイド7へは戻れない。
戻ること自体はできる。だが、やらない方がいい。
ヤシマ家の仕事と結びつきすぎる。建設中のコロニーは人の出入りも多い。兄妹だけで見知らぬ少女を抱えれば、どこかで目立つ。会社の表の顔と、保護する相手を近づけすぎれば、片方が崩れた時に全部が一緒に崩れる。
先に、もう一つ外側の場所が要る。
中立で、戦争の匂いが届きにくく、会社の仕事として人がいても不自然でない場所。
サイド6。
そこに新しい事務所を借りる。
表向きは、物流会社の中立圏拠点。戦争が近づけば、なおさら意味がある。保険、運送、積み替え、避難、全部の中継になる。
その事務所の奥に、静かな部屋を一つ置く。
それが最初の形でいい。
いきなりすべてを作る必要はない。まずは人目から切る。眠れる場所を置く。衣服と食事を置く。生活を見る手を置く。そうやって小さいものから揃えていくしかない。
大きな理想より先に、今日の寝床だ。
それをようやく、自分は分かってきたのかもしれない。
機体がわずかに姿勢を変えた。
窓の外で、地球の青がゆっくりと角度を変える。
その白い縁を、ララァは目を覚ましたあとでしばらく見つめていた。
「……きれい」
まだ眠気の残る声で言った。
「ああ」
エドワウは短く返す。
ララァは窓から目を離さないまま、少しだけ眉を寄せた。
「あっち、こわい」
エドワウはその声で顔を上げた。
「どっちだ」
ララァは指をささない。ただ、視線を少しずらした。地球の一部を見るというより、その向こうの何かを感じているような顔だった。
「向こう」
「いっぱい怒ってる感じがする」
その言い方があまりに自然で、エドワウはすぐには答えられなかった。
「怒ってる?」
「うん」
「まだ何も起きてないみたいなのに」
「でも、重い」
「雨が来る前みたい」
ララァは窓の外を見たまま言う。
「まだ降ってないけど、空が重くなるでしょう」
そのたとえに、エドワウはゆっくり息を吐いた。
戦争、という言葉をララァは使わない。使う必要がないのだろう。分からない形のまま、空気の重さだけを先に感じている。
「何が起きると思う」
聞いてから、自分でも妙だと思った。
子どもに聞くことじゃない。だが、前の人生を知っている自分にとっては、もっとも聞きたい相手だった。
ララァはしばらく考えた。
「いっぱい、ぶつかる」
「人も、船も」
「みんな急ぐ」
「急ぐと、なくなる」
なくなる。
その一言が、奇妙に現実的だった。
輸送が詰まる。
船が足りなくなる。
航路が混む。
保険が上がる。
積み荷が遅れる。
先に足りなくなるのは燃料か、建材か、食べ物か。
前世の知識が、その言葉の後ろで自然につながっていく。
エドワウはララァの横顔を見た。
前の人生で、この力は戦場へ押し込まれた。敵の気配、死の匂い、撃つべき方向。だが本来は、もっと大きい流れを拾うものだったのかもしれない。
人が怒り出す前の重さ。
物が足りなくなる前のざわつき。
航路が詰まる前の鈍い圧。
この子はそれを、雨の匂いみたいに感じている。
もしそうなら。
使い方は一つしかない。
戦場のために使わせない。
戦争で勝つために使わない。
世界がどちらへ傾き始めたかを、誰よりも早く知る。そのために守る。
その流れを、今度は市場と航路で読む。
燃料。建材。食料。輸送。保険。通信。サルベージ。足りなくなるものを先に押さえる。跳ね上がる前に仕込む。金に変える。金に変えて、その金で二度と商品にも兵器にもならない場所を作る。
前は力で世界を変えようとして失敗した。
今度は違う。
金と流れと情報で、歴史の前へ回る。
そのための扉が、いまこの子の何気ない一言で、また一つ開いた気がした。
ララァは、窓から目を離さないまま言った。
「食べるもの、少なくなるね」
エドワウは視線を戻した。
「どうしてそう思う」
「分からない」
「でも、少なくなる感じがする」
「みんな少しずつ怒ると、先に減る」
食べ物。
それもやはり来るか。
前世で何度も見た。戦争は兵器だけでは動かない。食料、水、空気、建材、保全資材。そういう当たり前のものが欠け始めた時、社会は本当に傷む。
ララァはそれを理屈ではなく、先に感じている。
エドワウは小さく頷いた。
「減らさないようにする」
ララァはそこで、ようやく窓から目を離してエドワウを見た。
「できる?」
「やる」
答えは短かった。
できるかどうかではない。やるしかない。前の人生の借りを返す相手は一人ではなくなっていくのかもしれないが、始まりはいつだって一人からだ。
エドワウはブランケットのずれを直しながら言った。
「次に行くところは、少し静かだ」
「静か?」
「仕事の場所の近くに、部屋を借りる」
「しばらくそこにいる」
ララァは少し考えた。
「一人?」
「一人にはしない」
「女の人も来る?」
セイラのことだと、すぐ分かった。
「そうなる」
「やさしい?」
エドワウは少しだけ考えてから答えた。
「厳しい」
ララァはその答えを聞いて、少しだけ笑った。
初めて見た、年相応に近い笑い方だった。
「でも、やさしい?」
「そうだな」
「たぶん」
「うん」
それでいいらしかった。
窓の外では、地球が少しずつ遠ざかっていく。暗い宇宙の中に、青と白だけが浮いていた。離れれば離れるほど静かに見える。だがその向こうで、怒りも不足も、確かに膨らみ始めている。
地球からは切れた。
だが、まだ帰る場所へ着いたわけではない。
今はただ途中にいる。
この途中を、今度こそ間違えないこと。
まずはそれだけだった。