妹に撃たれない方法   作:Brooks

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第108話 新しい事務所

 

 

 サイド6の港湾ブロックは、よく磨かれていた。

 

 床も、手すりも、案内表示の枠も、どこか人の目を意識した光り方をしている。汚れていないわけではない。だが汚れを汚れのまま放っておく土地ではなかった。すぐ拭き、すぐ直し、すぐ値札を付ける。そういう金の匂いがした。

 

 入港区画を歩く人間も、サイド7やサイド3とは少し違う。

 

 怒鳴り声は少ない。代わりに、視線が静かだ。商人、仲介人、保険屋、運送屋、旅行者。皆それぞれに忙しい顔をしているのに、すれ違うものの値打ちはちゃんと見ている。戦争の影を知らないわけではない。ただ、それを表へ出さず、手数料と契約書の中へ押し込めるやり方に慣れている。

 

 エドワウはララァの歩幅に合わせて進んだ。

 

 ララァはフードの付いた薄い上着を借り、少しだけ顔を伏せている。隠れようとしているというより、周囲の目の冷たさをまだ測りかねている顔だった。マナウスの雑多な視線より、こちらの値踏みする視線の方が、子どもには分かりにくいのかもしれない。

 

 それでも、泣かない。

 

 立ち止まらない。

 

 そのことが、かえって胸に引っかかった。

 

「疲れたか」

 

 エドワウが小さく聞くと、ララァは首を振った。

 

「だいじょうぶ」

 

 その返事の細さで、十分大丈夫ではないと分かる。

 

 だが今は、足を止めるより先に場所が要る。

 

 まずは事務所だ。

 

 帰る家ではない。隠れ家でもない。表向きは会社の新しい出先。荷を受け、書類を置き、出入りがあっても不自然じゃない場所。その奥に、静かな小部屋が一つあればいい。

 

 最初はそれで十分だと、自分に言い聞かせる。

 

 港湾ブロックの管理棟に入ると、空気がさらに乾いていた。受付台の上には端末と帳簿、壁には賃貸案内の表示。職員の笑顔まで、どこか決められた幅に収まっている。

 

 応対に出てきた仲介人は、細い眼鏡を掛けた中年の男だった。柔らかい声をしているが、指先は書類をめくる時しか動かない。

 

「新規の貸区画ですね」

 

「ええ」

 

 エドワウは答えた。

 

「港に近い小事務所を一つ」

 

「倉庫も必要ですか」

 

「大きいものは要りません。帳場と、荷の一時置きが出来れば足ります」

 

 仲介人は端末を見ながら頷いた。

 

「人員は」

 

「多くありません」

 

「常駐ですか」

 

「当面は」

 

 それだけ言って、エドワウは少し言葉を切った。

 

「寝泊まりしても、不自然じゃないところがいい」

 

 仲介人の目がわずかに上がる。

 

「宿舎兼用ですか」

 

「仕事が夜にずれることがあります」

 

「なるほど」

 

 その返事は早かった。サイド6では珍しくもないのだろう。港に近い仕事なら、事務所がそのまま仮眠室になることもある。

 

「ご希望の条件だと、表通り沿いより一つ内側の棟がよろしいでしょう」

 

「人通りが多すぎると落ち着きませんし、少なすぎると逆に目立ちます」

 

 その言い方が、少しだけこの土地らしかった。

 

 エドワウはララァを振り返った。

 

 ララァは黙って立っている。説明の内容は半分も分かっていないだろう。だが、今ここで自分がどこかへ置かれようとしていることだけは感じている顔だった。

 

「見ます」

 

 エドワウは言った。

 

 通された棟は、港から歩いて遠すぎない場所にあった。表通りから一本だけ引いていて、人の流れが途切れない程度にはあり、だが立ち止まって中を覗く人間はいない。雑居棟の二階。階段は金属製で、手すりに擦れた跡がある。

 

 中は狭かった。

 

 手前に机を二つ置けるだけの事務スペース。壁際に棚。奥に引き戸で区切られた小部屋。さらにその奥に簡単な水回り。窓は細いが、外の通路と真正面には向いていない。

 

 エドワウは最初に床を見た。

 

 次に窓。

 

 扉から机までの距離。

 

 奥の小部屋までの導線。

 

 寝台を一つ置いたら、もう余裕はない。

 

 だが、最初の仮置きには足りる。

 

「ここにしますか」

 

 仲介人が聞く。

 

「もう一つ見ます」

 

 エドワウはそう答えた。

 

 もう一室見た。そちらは少し広かったが、人の流れが近すぎた。扉の前を、港帰りの人間がひっきりなしに通る。いざ何かあった時に、逆に逃がしにくい。

 

 戻ってきて、最初の部屋の前でもう一度立ち止まる。

 

 ララァは何も言わない。ただ、廊下の先と、扉の中を交互に見ていた。

 

 エドワウには分かった。

 

 この子は、派手なものより、逃げ道の方を先に見ている。

 

「ここにする」

 

 エドワウが言うと、仲介人は短く頷いた。

 

「契約は」

 

「すぐに」

 

 手続きを終え、鍵を受け取った時には、もうララァの足取りが目に見えて重くなっていた。

 

 部屋に入る。

 

 何もない。

 

 机、棚、硬い椅子、簡易寝台、薄いカーテン。

 

 だが、それでも賭場の裏や、あの白い部屋の匂いよりはましだと、エドワウには分かった。

 

「しばらく、ここだ」

 

 ララァは部屋の中を見回した。

 

 靴を脱いでいいのか迷っている顔をする。

 

「そのままでいい」

 

 エドワウが言うと、ララァは少しだけ頷いた。

 

 椅子に座るかどうかも迷っている。

 

「座れ」

 

 ララァはようやく腰を下ろした。椅子の硬さに少し驚いた顔をしたが、文句は言わない。

 

 エドワウは水回りを見て、蛇口をひねる。水は出た。少し鉄の匂いがするが、流せば抜ける。窓の留め具も確かめる。寝台の脚も揺らす。自分でも嫌になるくらい、何でも先に確かめるようになっている。

 

 だが今はそれでいい。

 

 完璧な保護者になる気はない。なれるとも思わない。足りないことだらけだと分かっている。だからこそ、足りないものを先に見つけるしかない。

 

 しばらくして、扉が鳴った。

 

 セイラだった。

 

 両手に荷物を持っている。小さな鞄に衣服、別の袋にタオルや石鹸、食べ物、髪を結ぶもの、薄い毛布。兄なら思いつかない順番で、必要なものが詰め込まれている。

 

「入るわよ」

 

 そう言って入ってくると、セイラはまずララァに話しかけなかった。

 

 水を替える。

 

 タオルを置く。

 

 窓際の埃を指でなぞって、布でさっと拭う。

 

 寝台の固さを手で確かめる。

 

 それを見ているうちに、ララァの肩の力が少しだけ抜けていくのが分かった。

 

 歓迎の言葉より先に、困らないように動く人間だと伝わったのだろう。

 

 セイラはようやくララァの前にしゃがんだ。

 

「何か食べられる?」

 

 ララァは少しだけセイラを見てから答えた。

 

「少しなら」

 

「じゃあ、少しでいいわ」

 

 セイラは袋から柔らかいパンと薄いスープの容器を出した。

 

「急に食べると気持ち悪くなるから」

 

 ララァはその言い方を聞いて、ほんの少しだけ目を丸くした。

 

「……うん」

 

 それだけで、十分だった。

 

 エドワウはその様子を見て、少しだけ息を吐いた。

 

 兄では足りないところを、セイラは最初から分かっている。

 

 ララァが奥の小部屋で休み始めたあと、兄妹は手前の机の前に立った。

 

 部屋は静かだったが、港の方から低い機械音が薄く届いてくる。完全に切れた場所ではない。

 

「仮だわ」

 

 セイラが最初に言った。

 

「ああ」

 

「人の出入りがまだ近い」

 

「分かってる」

 

「兄さんがいる時はいい。でも、いない時が駄目」

 

 エドワウは壁にもたれた。

 

「だからここには長く置かない」

 

「もっと静かな場所が要る」

 

「うん」

 

 セイラは机の上の鍵を見た。

 

「でも、ここがあるだけでも違う」

 

「賭場の裏よりは、ずっといい」

 

「そうだな」

 

「女手も要るわ」

 

 セイラは続ける。

 

「私一人じゃ足りない」

 

「それも分かってる」

 

「生活を見る人が要る。食べること、眠ること、服のこと。兄さんが全部やると、逆におかしくなる」

 

 エドワウは少し苦く笑った。

 

「自覚はある」

 

「あるなら早いわ」

 

 セイラはきっぱり言った。

 

「探しましょう」

 

 その時、奥の小部屋で布の音がした。

 

 ララァが起きたらしい。

 

 セイラが先に立ち、様子を見に入る。エドワウは少し遅れて扉のところで立ち止まった。

 

 ララァは寝台に座って、細い窓の外を見ていた。

 

「ここ、静か」

 

 ぽつりと言う。

 

「気に入らないか」

 

 エドワウが聞くと、ララァは首を横に振った。

 

「静かだけど、静かすぎる」

 

「みんな笑ってるのに、笑ってない」

 

 その言い方に、セイラが少しだけ眉を上げた。

 

 エドワウには分かる。

 

 サイド6はそういう場所だ。中立で、豊かで、丁寧だ。だが優しいわけではない。傷つける時も、露骨にはやらない。その代わり、値段と契約と距離で切る。

 

 ララァはそれを理屈ではなく、空気で感じている。

 

「でも、ここはすぐには燃えない」

 

 ララァが続けた。

 

「すぐには、って?」

 

 セイラが聞く。

 

「向こうみたいに、急に熱くならない」

 

 ララァは窓の外の通路ではなく、そのもっと遠くを見ていた。

 

「いっぱい集まるけど、すぐには燃えない」

 

 エドワウはその言葉を反芻した。

 

 集まる。

 

 人も、物も、金もだろう。

 

 戦争が近づけば、まず中立圏へ物が逃げる。人も金も集まり、保険も輸送も仲介も膨らむ。前世の知識だけでも分かることだ。だが、ララァはそこへ、もっと生の感覚で触れている。

 

 なくなる前に、集まる。

 

 怒る前に、重くなる。

 

 この子はやはり、流れを感じている。

 

「ここに、いっぱい来るね」

 

 ララァが窓の方を見たまま言った。

 

「人も、物も」

 

「なくなる前に、先に来る」

 

 セイラは意味が取りきれない顔をしていたが、エドワウには十分だった。

 

 中立圏の倉庫。

 

 輸送保険。

 

 燃料便。

 

 備蓄食料。

 

 仲介。

 

 サルベージ。

 

 前世知識の地図の上に、ララァの感覚が重なる。

 

 今はまだ小さい。だが、この小さな事務所を起点にして伸ばせるものは多い。

 

 エドワウは手前の机へ戻り、ノートを開いた。

 

 書くのは説明ではない。断片だけでいい。

 

 サイド6倉庫。

 

 保険。

 

 食料備蓄。

 

 燃料便。

 

 中立航路。

 

 それだけ書きつける。

 

 セイラがそれを横目で見た。

 

「もう次のこと考えてるの」

 

「今考えないと遅い」

 

「兄さんらしいけど」

 

 セイラは少しだけため息をつく。

 

「でも、まずはこの子よ」

 

「分かってる」

 

 エドワウはノートを閉じた。

 

「まずはこの子だ」

 

 夕方が夜へ変わる頃、事務所の灯りだけが細く窓から漏れていた。

 

 奥の小部屋ではララァが眠っている。手前では、セイラが椅子に座ったままうとうとしていた。持ってきた布を膝に広げたまま、首だけが少し前へ落ちている。

 

 エドワウは窓際に立ち、外の通路を見ていた。

 

 人の足音はまだある。港の方から荷役の音も届く。仕事の匂いが近い。金の流れも近い。

 

 この部屋は借りられる。

 

 事務所も借りられる。

 

 だが、帰る場所は借りるだけでは足りない。

 

 もっと静かな場所が要る。

 

 水辺で、風が通って、足音が遠い場所。

 

 誰かを隠すためではなく、誰かがちゃんと生きるための場所。

 

 その形が、夜の窓に映る自分の向こうで、まだぼんやりと輪郭を持ち始めていた。

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