妹に撃たれない方法   作:Brooks

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第109話 湖の家

 サイド6の朝は、静かだった。

 

 だが、その静けさはララァを休ませる種類のものではなかった。

 

 窓の外を人が通る。遠くで搬送車の音がする。港の方から来る低い機械音が、壁の薄い事務所の中まで細く届いてくる。物音そのものは大きくない。けれど、途切れない。

 

 ララァは眠れていた。だが、深くはなかった。

 

 朝方、通路で台車の車輪が引っかかる音がしただけで、肩が小さく跳ねた。目を開けて、天井を見て、それからようやくここが白い部屋でも賭場の裏でもないと確かめるように、息をゆっくり吐いた。

 

 エドワウは手前の机で帳面を開いていたが、その小さな動きはちゃんと見ていた。

 

 まだ足りない。

 

 この部屋は、隠すには使える。

 

 だが、休ませるには向いていない。

 

 事務所とはそういうものだ。仕事のために借りる場所であって、心をほどくための場所ではない。壁の向こうに人の気配があり、扉の向こうに荷と金の流れがある限り、ここは眠る場所にはなっても、帰る場所にはならない。

 

 セイラが湯気の立つカップを二つ持ってきた。

 

「起きてたの」

 

「ああ」

 

 エドワウは帳面から目を上げた。

 

 セイラは片方を机へ置き、もう片方を手にしたまま奥の小部屋をちらりと見る。

 

「夜中も二回起きてた」

 

「気づいてたか」

 

「私も寝てないもの」

 

 セイラはそれを大げさには言わなかった。ただ、事実として置いた。

 

「ここは仮よ」

 

「分かってる」

 

「寝られても、落ち着けない」

 

 エドワウはカップへ手を伸ばした。熱が指先へ移る。

 

「今日、見に行く」

 

「場所?」

 

「もう少し外れを」

 

 セイラは頷いた。

 

「仕事の拠点って顔は残してね」

 

「残す」

 

「じゃないと兄さん、すぐ“拾いもの”の顔になるもの」

 

 その言い方に、エドワウは少しだけ口元を緩めた。

 

「そんな顔してるか」

 

「してる」

 

 セイラはきっぱり言った。

 

「今の兄さん、自分で思ってるよりずっと分かりやすい」

 

 それから声を少し落とす。

 

「でも、悪くない」

 

 エドワウは答えなかった。

 

 悪くない、と言われる資格が自分にあるとは思わない。前に一度壊したものを、今さら拾い直しているだけだ。

 

 それでも、拾い直すことをやめる理由にもならない。

 

 昼前、ララァへ軽く食べさせたあとで、エドワウは一人で事務所を出た。

 

 サイド6の通りは整っている。道幅、標識、店の並び、広告の色。どれも過不足なく揃っていて、乱れが少ない。整っているということは、余分が少ないということでもある。余分が少なければ、余所者は目立つ。

 

 だから、港に近すぎる物件は駄目だった。

 

 人通りが多い。運送屋も保険屋も仲介人も、その顔を覚える必要がある仕事をしている。仕事の顔で出入りするなら都合はいいが、生活の匂いを持ち込むには近すぎる。

 

 二件見た。

 

 一件目は便利すぎた。通りの角にあり、部屋も広い。だが窓が大きく、人の目が近い。帳場としてはいいが、奥へ人を隠す余地がない。

 

 二件目は倉庫向きだった。荷は置ける。だが壁も床も冷たく、寝台を入れても人が住む感じがしない。

 

 案内役の仲介人は、エドワウの様子を見ながら控えめに言った。

 

「お探しなのは、事務所だけではなさそうですね」

 

「そう見えますか」

 

「人が長くいる前提で見ておられる」

 

 仲介人は商売人らしく、それ以上は踏み込まない。

 

「もう一つ、外れですが」

 

「外れ?」

 

「港から少し離れます。事務所としては不便です。ですが、長くいるなら悪くない」

 

「見ます」

 

 そこは、湖のそばだった。

 

 サイド6の居住区画のさらに外れ、通りの音が一段遠くなる場所に、水の面があった。大きすぎない。だが、風が走ると細かな光がゆっくり揺れる。

 

 建物は派手ではない。平屋に近い低い家で、白く塗られた外壁の一部が少し古びている。窓は大きいが、通りではなく水の方を向いていた。入口から中へ入ると、木の匂いがする。誰かが長く暮らしていた名残ではなく、ただ静かに保たれてきた家の匂いだった。

 

 エドワウは、部屋の広さではなく、最初に音を聞いた。

 

 静かだ。

 

 完全な無音ではない。水のかすかな音。外の葉が触れ合う音。遠くの足音が来ても、ここへ届く頃には角が取れている。

 

 通りから一段引いているだけで、こんなに違うのかと思う。

 

「港からは少し遠いですが」

 

 仲介人が言う。

 

「車を使えばそれほどではありません。小さな打ち合わせや、長く腰を落ち着けたい顧客には好まれます」

 

 仕事の言い方だった。

 

 だがエドワウの中では、もう別の言葉に変わっていた。

 

 ここなら眠れる。

 

 ここなら、起きた時に最初に聞こえるのが人の声ではなく、水の音で済む。

 

 戦場から遠いというのは、こういうことかもしれないと思った。

 

 銃声がしないことではない。怒鳴り声がないことでもない。目を開けた時に、自分が何かの途中ではなく、ただそこにいていいと思えることだ。

 

 エドワウは窓辺へ寄り、水面を見た。

 

 前の人生で、一度でもこういう場所をララァへ渡せただろうか。

 

 たぶん、ない。

 

 地球の底から引き上げたあとも、宇宙へ連れ出したあとも、自分はいつも「その次」を戦場の方へつないでいた。静かな場所は、いつも一時のものでしかなかった。

 

 今回は違う。

 

 違わせなければならない。

 

「ここにしますか」

 

 仲介人の声で、エドワウは振り返った。

 

 即答はしなかった。

 

 不動産を決めるみたいに軽く口にしたくなかったからだ。

 

 しばらく部屋を見て、それから頷く。

 

「ええ」

 

「ここにします」

 

 事務所ではない。

 

 ただの隠れ家でもない。

 

 帰る場所にしなければならない。

 

 その言葉は口に出さず、契約の書類へ名前を書く。

 

 夕方、ララァを連れて来た時、反応はすぐに分かった。

 

 事務所へ入った時のあの子は、椅子に座るかどうかさえ迷っていた。ここでは、扉をくぐって少し進んだところで立ち止まり、何も言わずに水の見える窓の方へ歩いた。

 

 窓際に寄る。

 

 外を見る。

 

 水面が揺れている。

 

 ララァはしばらく黙っていたが、やがて小さく言った。

 

「音が、やわらかい」

 

 エドワウはその言葉を、胸の中で何度か繰り返した。

 

 音がやわらかい。

 

 それだけで、この場所を選んだ意味が全部入っている気がした。

 

「ここなら、眠れそう?」

 

 セイラが聞く。

 

 ララァは少し考えてから頷いた。

 

「うん」

 

「水の近くは、少し遅い」

 

「遅い?」

 

 セイラが聞き返す。

 

「怒るのも、なくなるのも」

 

 ララァは窓の外から目を離さなかった。

 

「ここは、少し遅い」

 

 セイラは意味を取りきれない顔をしたが、エドワウには分かった。

 

 理屈ではなく、流れだ。

 

 怒りが一気に燃え上がる場所と、少し遅れて熱を持つ場所。物が最初に足りなくなる場所と、あとから影響が来る場所。その違いを、この子は感覚で掴んでいる。

 

 ララァは窓の外の水を見ながら続けた。

 

「でも、いっぱい来る」

 

「何が」

 

「人も、物も」

 

「なくなる前に、先に来る」

 

 エドワウは、その言葉でようやく椅子に腰を下ろした。

 

 前世の知識が、頭の中で静かにつながる。

 

 戦争が近づけば、人も物もまず中立圏へ逃げる。サイド6には金が集まり、保険が動き、航路の価値が上がる。食料、燃料、建材、保全資材、輸送保険、サルベージ、通信。全部だ。

 

 それは前から知っている。

 

 だが、ララァはその“始まり方”を感じている。

 

 どこが先に重くなるか。

 

 どこで物が集まり、どこから先に足りなくなるか。

 

 この子の感覚があれば、長期の歴史を知っているだけでは取れない“時期”が読める。

 

 前の人生で、この力は戦場へ押し込まれた。敵の位置、死の匂い、撃つべき方向。だが本来はもっと手前に使うものだったのかもしれない。人が怒る前。物が足りなくなる前。戦争が数字へ変わる前。

 

 それを先に拾う。

 

 航路で読む。

 

 市場で読む。

 

 金に変える。

 

 金に変えて、この家も、この子の暮らしも、二度と戦場へ売られない形にする。

 

 エドワウは手元の小さなノートを開いた。

 

 長くは書かない。

 

 断片だけでいい。

 

 サイド6倉庫。

 

 燃料便。

 

 食料備蓄。

 

 中立航路。

 

 輸送保険。

 

 保全資材。

 

 サルベージ。

 

 通信。

 

 それだけを書きつける。

 

 セイラが横から覗き込んだ。

 

「もう次のこと考えてるの」

 

「今考えないと遅い」

 

「兄さんらしいけど」

 

 セイラは少しだけため息をついた。

 

「でも、まずはこの子よ」

 

「分かってる」

 

 エドワウはノートを閉じた。

 

「まずはここを回す」

 

 セイラは部屋を見回した。

 

「家はいいわ」

 

「でも、ここに住ませるなら人が要る」

 

「私一人じゃ足りない」

 

「それも分かってる」

 

「食べるもの、着るもの、寝る前のこと、起きた後のこと。兄さんが全部やると、逆におかしくなる」

 

 エドワウは苦笑した。

 

「自覚はある」

 

「あるなら早いわ」

 

 セイラは窓際にいるララァを見た。

 

「女の人が要る」

 

「そばにいて、生活の方を見られる人」

 

「探さなきゃ」

 

「そうだな」

 

 その答えを口にした時、ようやくこの家が“借りた場所”から“これから整える場所”へ変わった気がした。

 

 夕方、水面に細い光が落ちていた。

 

 ララァは窓辺に座り、しばらくその揺れを見ていた。何かを考えているのか、ただ安心しているのか、その境目は分からない。だが、少なくともここでは、耳を澄ませても扉の向こうの足音に怯えずに済んでいる。

 

 エドワウは少し離れた場所から、その背中を見た。

 

 助けた、ではない。

 

 まだそこまでは言えない。

 

 ただ、ようやく暮らしの入口へ乗せた。

 

 それだけだ。

 

 だが、その“それだけ”が前の人生ではできなかった。

 

 事務所は借りられる。

 

 倉庫も借りられる。

 

 だが、帰る場所は借りるだけでは足りない。

 

 水の音のする窓辺で、小さな生活そのものを守れる形にまで、ここから作っていくしかなかった。

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