妹に撃たれない方法   作:Brooks

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第110話 流れの変わる前に

 

 

 湖の家へ移ってから、ララァの眠りは少しずつ深くなった。

 

 最初の夜は、物音がするたびに目を開けた。風で枝が窓に触れた音、水鳥が水面を叩いた音、廊下を歩くセイラの足音。ひとつひとつは小さいのに、そのたびに肩が固くなる。だが三日目の夜には、その回数が目に見えて減った。

 

 朝、エドワウが起きて居間へ出ると、ララァはまだ寝台の上にいることがあった。

 

 起きてはいる。けれど、すぐには身体を起こさない。窓から差し込む薄い光を見て、水の音を聞いて、それからゆっくりと毛布をはぐ。

 

 それだけで十分だった。

 

 この家は間違っていなかった。

 

 賭場の裏ではない。

 白い部屋でもない。

 仕事場の奥に無理に寝かせた仮の部屋でもない。

 

 まだ本当の意味で「帰る場所」だとは言えない。だが、少なくとも、眠りの深さが少しずつ戻る場所にはなっている。

 

 エドワウはその変化を、胸のどこかで静かに数えていた。

 

 居間の窓を開けると、朝の空気が入ってくる。

 

 サイド6の外れにあるこの湖は、広すぎないのがよかった。海のように果てがなくない。池のように閉じてもいない。風が吹けば光が走り、止まればすぐに鏡みたいに静まる。水面の向こうには木立があり、その影が朝と昼と夕方で少しずつ伸び縮みする。

 

 ここでは時間が音で分かる。

 

 朝は、水鳥の羽音と、葉の裏を抜ける細い風。

 

 昼は、遠くを通る搬送車のかすかな響きと、陽に温められた水の匂い。

 

 夜は、ほとんど何も聞こえなくなる代わりに、時々だけ水が岸へ寄ってくる音。

 

 人の気配がないわけではない。だが、人の生活の音が自然の音に押し返されている。

 

 それが、今のララァには必要だった。

 

 台所では、セイラが湯を沸かしていた。

 

「起きてる?」

 

「起きてる」

 

 エドワウが答えると、セイラは振り返らないまま言った。

 

「今日は少し長く寝てた」

 

「見てたのか」

 

「見なくても分かるわよ。部屋の空気が違うもの」

 

 セイラはそういうところがある。数字や計器ではなく、部屋の空気の変化で人の調子を読む。兄が何日眠れていないかも、顔色を見る前に食器の置き方で気づくような人間だ。

 

「良かったわ」

 

 セイラは小さく言った。

 

「ここへ移して正解だった」

 

「まだ足りないけどな」

 

「足りないのは当たり前よ」

 

 セイラがようやく振り向いた。

 

「でも、足りないからって、最初から全部ある場所なんてないでしょう」

 

 そう言って、盆に三つのカップを並べる。

 

「それに」

 

「この子、事務所の時よりずっと顔がやわらかい」

 

 その言葉に、エドワウは少しだけ窓の外を見た。

 

 顔がやわらかい。

 

 戦場に連れて行った前の人生では、そんな言い方でララァを見たことがあっただろうかと考える。

 

 たぶん、ない。

 

 見ていたのはいつも、もっと先のことだった。敵、味方、戦況、位置、時間。目の前にいる人間の顔がやわらぐかどうかなんて、最後まで優先順位に入らなかった。

 

 その報いを、もう一度やり直す権利もないまま、今こうして拾い直している。

 

 台所の方から、寝台を下りる小さな音がした。

 

 ララァが出てきた。

 

 まだ髪は少し乱れている。眠気の残った目で、居間の光をひとつ確かめるみたいに見てから、椅子へ向かう。その歩き方が、数日前より迷っていない。

 

 セイラは何も言わずにカップを一つララァの前へ置いた。

 

「熱いから気をつけて」

 

 それだけ。

 

 ララァは両手でカップを持ち、少しだけ息を吹きかけてから口をつけた。

 

「……あったかい」

 

「そうね」

 

「苦くない」

 

「まだ子どもに苦いものは早いわ」

 

 ララァはその答えを聞いて、少しだけ口元をゆるめた。

 

 大きな笑いではない。だが、笑い方を忘れてはいないと分かる程度には、ちゃんとやわらかかった。

 

 その日の昼過ぎ、マリアが来た。

 

 サイド6で長く住み込みの仕事をしてきた女で、背は高くない。派手な服も着ていない。灰色に近い色のワンピースに、使い慣れた鞄をひとつ持っている。声は大きくないが、足音が落ち着いていた。

 

 台所を見る。

 水回りを見る。

 窓を見る。

 寝台を見る。

 最後にララァを見る。

 

 その順番がよかった。

 

 いきなり子どもの顔を覗き込むのではなく、まず家を見て、それから人を見る。生活を預かる人間の目だった。

 

「マリアです」

 

 そう名乗って、軽く頭を下げる。

 

「少しの間、お世話になります」

 

 ララァは椅子に座ったまま、その顔を見ていた。

 

 怖がってはいない。だが、まだ距離を測っている。マリアも分かっているのか、それ以上近づかない。

 

「お腹は空いてますか」

 

 ララァは少し考えてから答えた。

 

「少しだけ」

 

「じゃあ、少しでいいですね」

 

 マリアは鞄から布を出し、台所へ向かった。

 

「急にたくさん食べるとお腹が驚きますから」

 

 その言い方が、ひどく自然だった。

 

 ララァはマリアの背中をしばらく見ていたが、やがて安心したように視線を外した。

 

 セイラは小さく息を吐いた。

 

 それだけで十分だった。

 

 必要な人間かどうかは、長い話より最初の十秒で分かることがある。マリアは、あの白い部屋や賭場の裏から連れ出された子どもに対して、余計な詮索も同情も見せなかった。ただ、今ここで必要なことだけを先にした。

 

 それが良かった。

 

 夕方近く、エドワウとセイラは家の外へ出た。

 

 湖のほとりに沿って、短い遊歩道のようなものがある。といっても大げさなものではない。石が二列に並べられ、雑草が刈られているだけだ。歩けば水面がすぐ横に見える。

 

 家の中ではララァとマリアがいる。窓の内側で、薄いカーテンが少し揺れているのが見えた。

 

「ひとまず形にはなったわね」

 

 セイラが言う。

 

「ああ」

 

「でも、ひとまずよ」

 

「分かってる」

 

「兄さんが出る日が増えたら、私は毎日は来られない」

 

「分かってる」

 

「分かってるばっかりね」

 

 セイラは少しだけ笑った。

 

「でも、その方がいいか」

 

 エドワウは水面を見た。風が細かい筋を作っている。

 

「どういう意味だ」

 

「前の兄さんなら、“俺がやる”って言ってた」

 

「今は言わない」

 

「言えないだけだ」

 

 そう答えると、セイラは首を横に振った。

 

「違うわね」

 

「分かったのよ」

 

「人を守るのに、自分一人じゃ足りないって」

 

 エドワウは何も言わなかった。

 

 その通りだったからだ。

 

 前の人生では、何でも自分の手でやれると思っていた。やれないことまで、自分が抱えれば何とかなると思っていた。その結果があれだ。

 

 だから今は違う。

 

 自分の手が届かない時間に、届く別の手を置く。それを弱さだとは思わない。

 

「この先、もう少し人がいるわ」

 

 セイラが言う。

 

「マリアさんだけじゃなくて?」

 

「いずれね」

 

「この子がここで本当に暮らすなら、誰か一人の善意だけじゃ危ないもの」

 

 その言葉には頷けた。

 

 善意は大事だ。だが善意は病気をし、老いる。事故にも遭う。人一人の善意に全てを預けるのは、構造として弱い。

 

 守る場所には、守る仕組みが要る。

 

 そのための金が要る。

 

 そのための流れが要る。

 

 エドワウはそこで、自分の考えがまた同じところへ戻っていくのを感じた。

 

 物流。

 

 保険。

 

 食料。

 

 燃料。

 

 資材。

 

 中立圏の倉庫。

 

 今のうちに押さえるべきものは、もう見えている。前世の知識で見えるものもある。だが、最近それとは別に、もう一つ増えた手触りがある。

 

 ララァの感覚だ。

 

 その日の夕食のあと、ララァは窓辺で外を見ていた。湖の水面が夕暮れの色を映して、昼より少し重い色になる時間だった。

 

「ここ、いいね」

 

 ぽつりとララァが言った。

 

「そうか」

 

 エドワウが返す。

 

「音が遠い」

 

「水の近くは、少し遅い」

 

「遅い?」

 

 セイラが聞き返す。

 

 ララァは窓の外を見たまま頷いた。

 

「怒るのも、なくなるのも」

 

「ここは少し遅い」

 

 またその言い方だ。

 

 理屈ではなく、流れの傾きだけを言う。

 

 エドワウはそれを聞いて、静かにノートを開いた。

 

 前世の知識では、戦争が近づけば何が高騰し、何が不足するかが分かる。だが、その始まり方までは常に一定じゃない。どこから先に詰まるか、どこが先に熱を持つか、その“ずれ”は時代と状況で変わる。

 

 ララァはそこを感じている。

 

 人が怒り出す前の重さ。

 物が足りなくなる前のざわつき。

 集まる前の気配。

 なくなる前の偏り。

 

 それは戦場で敵の位置を読む力より、ずっと大きい。

 

 前の人生で、この力は戦争へ押し込まれた。モビルアーマーの中、戦場の只中、敵の位置、死の匂い、撃つべき方向。そういう使い方しかできなかった。

 

 だが本当は違う。

 

 もっと手前で使うべきだったのかもしれない。

 

 戦争が数字へ変わる前。

 保険料が跳ねる前。

 食料が消える前。

 船が足りなくなる前。

 

 その流れを先に知る。

 

 そして、金に変える。

 

 金に変えて、こういう家と、こういう眠りを守る。

 

 それが今度のやり方だ。

 

 ノートには、短くしか書かない。

 

 食料。

 燃料。

 保全資材。

 中立航路。

 輸送保険。

 サイド6倉庫。

 

 セイラがそれを見た。

 

「また増えたわね」

 

「増やしてる」

 

「今のうちに?」

 

「今のうちにだ」

 

 エドワウはノートを閉じた。

 

「もう資金も物も流れが変わり始めてる」

 

「人はまだ平時の顔をしてる。でも、金と荷だけが先に次の季節へ移ってる」

 

 セイラは少し黙って、その言葉を聞いていた。

 

「だから会長に言ったの?」

 

「そうだ」

 

「会社の形を変えるって」

 

「ただの輸送屋じゃ間に合わない」

 

「備える器が要る。抱え込む器が要る。守る器が要る」

 

「この家一つ守るにも、それが要る」

 

 セイラはようやく小さく頷いた。

 

「分かる」

 

「なんだか嫌だけど、分かる」

 

「こういう静かな場所ほど、お金がないと守れないもの」

 

 その通りだった。

 

 戦争は前線だけで起きるわけじゃない。静かな場所を静かなまま残すにも、金が要る。流れの変わる前に先回りして、必要なものを抱え込む力が要る。

 

 ララァはその二人の会話の全部を理解しているわけではないだろう。だが、言葉の表面より深いところにある緊張は感じている顔だった。

 

「食べるもの、今のうちに置いた方がいい」

 

 また、ぽつりと言う。

 

 エドワウはそちらを見る。

 

「どうしてそう思う」

 

「少ししたら、船が急ぐ」

 

「急ぐと、先に減る」

 

 前と同じことを、少しだけ違う言い方で繰り返した。

 

 ララァの感覚は気まぐれではない。やはり何かの流れを見ている。

 

 エドワウは、ゆっくりと息を吐いた。

 

 前の人生では、この子の力を戦場でしか見なかった。

 今回は違う。

 この力を、戦争の道具にはしない。

 その代わり、戦争が来る前に何が痩せていくかを知るために使う。

 敵を撃つためではない。

 飢えさせないために。

 守る場所を消させないために。

 

 夜になると、湖の家はまた静かになった。

 

 マリアは台所を片づけ、セイラは明日の足りないものを書き出し、ララァは窓辺でしばらく水面を見てから寝台へ入った。毛布を肩まで引き上げると、今日はもう目を閉じるのにそれほど時間がかからなかった。

 

 エドワウは居間の灯りを少し落とした。

 

 この家には、まだ何も足りていない。

 

 人も足りない。

 金も足りない。

 仕組みも足りない。

 この静けさを守るための手が、まだ細すぎる。

 

 それでも、ようやく一つだけははっきりしていた。

 

 前の人生で、自分はララァを戦場へつないだ。

 

 今は違う。

 

 今度は暮らしへつなぐ。

 

 そのために必要なものが、金なら金でいい。倉庫なら倉庫でいい。保険でも航路でもいい。手段はきれいでなくていい。結果として、この眠りを守れるならそれでいい。

 

 窓の外では、水面に月の薄い光が落ちていた。

 

 湖は何も言わない。

 

 だが、水のそばに立っていると、急ぎすぎるものだけが先に壊れるのだと、理由もなく思えた。

 

 エドワウはその夜、久しぶりに焦りではなく順番を考えながら眠った。

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