妹に撃たれない方法   作:Brooks

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第111話 流れの変わる場所

 

 サイド7へ戻ってきた時、最初に鼻についたのは乾いた金属の匂いだった。

 

 地球の湿った熱でも、湖の水の匂いでもない。切断された鉄骨、溶接の熱、建材の粉、人工の空調に薄められた油の匂い。少し前までは、それがただの仕事の匂いに思えていた。

 

 今は違う。

 

 工事中の壁も、組み上がりかけた骨組みも、仮設の搬送路も、全部がまだ途中の器に見えた。ここは未完成のコロニーで、未完成の会社で、未完成の生活の場だ。だからこそ、形を変える余地がある。

 

 黒猫ルシファーの荷捌き場へ入ると、台車の音と呼び声がすぐ耳へ戻ってきた。人が走り、伝票が飛び、荷札がめくられ、モビルワーカーの腕が資材を持ち上げる。昨日まで自分がいなかったことなど、仕事の流れは気にもしていない。

 

 それが少しだけありがたかった。

 

 流れが止まっていないなら、その中へ手を入れられる。

 

 荷を追うだけでは足りない。

 

 その考えは、もう揺らがなかった。

 

 湖の家でララァが眠るのを見た時にはっきりした。あの眠りひとつ守るだけでも、人手も、家も、食べるものも、金もいる。しかもそれは一度きりでは済まない。毎日いる。続いていく。続かせるには、感情ではなく器が要る。

 

 器がなければ、守るつもりだったものは、結局全部こぼれる。

 

「戻ったのね」

 

 荷札を束ねていたミライが先に気づいた。

 

 彼女は前より現場の顔をしていた。髪をまとめ、袖を少し捲り、書類の端を指で押さえる仕草まで無駄がない。ヤシマの娘、という肩書きだけではもう足りない場所に立っている。

 

「戻った」

 

 エドワウが答える。

 

 ミライは荷捌き場の音の中で、少しだけ目を細めた。

 

「地球は」

 

「湿ってた」

 

「そういうこと聞いてるんじゃないの」

 

 その返しが来ると思っていたように、エドワウは少しだけ口元を動かした。

 

「分かってる」

 

「でしょうね」

 

 ミライは一歩近づいて、声を少し落とした。

 

「今度の顔は、前より危ない」

 

 危ない、という言い方が妙に正確だった。

 

 危険な場所へ行ってきた顔ではない。何かを決めて、その決めたものをもう自分の中だけでは止められなくなっている顔だ。

 

「前より遅くはない」

 

 エドワウが言う。

 

 ミライは一瞬だけ黙った。

 

 意味は全部分からないだろう。だが、それで十分だった。前に何か遅れたものがあって、今はそれに間に合わせようとしている。そのくらいは伝わる。

 

「会長のところ?」

 

「ああ」

 

「じゃあ一つだけ」

 

「何だ」

 

「無茶するなら、今度は最初からこっちにも計算を見せて」

 

 その言い方に、エドワウは少しだけ目を上げた。

 

 待つだけの顔ではない。もうそういう場所にはいない。流れが変わるなら、その数字を見たいと言っている。

 

「見せる」

 

 短く答えると、ミライはそれ以上引き留めなかった。

 

「じゃあ、あとで」

 

 そう言ってまた荷札へ目を戻す。その横顔に、少しだけ安堵が混じっているように見えたのは、こちらの勝手な見方かもしれない。

 

 会長の部屋は、前に来た時と何も変わっていなかった。

 

 狭いわけではないが広くもない。机の上には書類の山。壁際に地図。棚に積まれたファイル。窓の外には工区の骨組みが見える。物を増やし続ける人間の部屋なのに、無駄がない。

 

 会長は椅子に深く腰を下ろしたまま、エドワウの顔を見た。

 

「また何か拾ってきた顔だな」

 

 最初の一言が、それだった。

 

 エドワウは少しだけ間を置いた。

 

「拾いました」

 

 会長の眉がわずかに動く。

 

「そうか」

 

 それ以上は聞かなかった。聞かないまま、机の上の書類を一つ閉じる。

 

「で、何を変える」

 

 エドワウは椅子へ座った。

 

「少し予定を変えたいんです」

 

「会社のか」

 

「はい」

 

「大きくするのか」

 

「違います」

 

 エドワウは首を振った。

 

「形を変えます」

 

 会長は黙って待った。

 

「今までは、荷を追えばよかった」

 

「荷のあるところへ船を出して、倉庫を押さえて、間に入れば金になった」

 

「でも、もうそれでは遅れます」

 

「遅れる?」

 

「資金と物の流れの変換が起きています」

 

 会長は椅子の背に身を預けたまま、視線だけを少し鋭くした。

 

「どういう意味だ」

 

「物が動く前に、金が動いています」

 

 エドワウはできるだけ言葉を削った。

 

「製品じゃありません」

 

「食料、燃料、保全資材、輸送保険です」

 

「物が足りなくなる前に、倉庫が埋まり始めている」

 

「人はまだ平時の顔をしています。でも、資金と荷だけが先に次へ入っている」

 

 会長はしばらく何も言わなかった。

 

 窓の外で、何か重いものを吊り上げる音がした。

 

「読みすぎじゃないのか」

 

 ようやくそう言う。

 

「そうかもしれません」

 

「でも、もう買い増してます」

 

「食料、燃料、保全資材、輸送保険」

 

「それにサイド6の事務所も押さえた」

 

 会長の目が少しだけ細くなる。

 

「サイド6か」

 

「中立圏に出先を置きます」

 

「窓口として必要です。輸送の表口にも、積み替えにも、保険の受けにも使える」

 

「外れには別に、静かな家も押さえました」

 

 最後の一言だけは、少し重かった。

 

 会長はそれを聞き逃さなかったが、やはり細かくは聞かなかった。

 

「……お前、どこまで見るつもりだ」

 

 エドワウはそこで、視線を机の木目へ落とした。

 

 どこまで、という問いに、きれいな答えはなかった。

 

 ララァ一人を守るだけでいいのなら、もっと小さく済ませられたかもしれない。だが一人を守るために必要なものを数え始めたら、それはもう一人分では終わらなかった。

 

「荷を運ぶだけでは、守れないところまで来たんです」

 

 会長は、息を吐くように笑った。

 

「守る、か」

 

「そうです」

 

「珍しい言葉を使うようになったな」

 

「前は違ったかもしれません」

 

「違ったな」

 

 会長はあっさり言った。

 

「前は、もっと自分の腕でどうにかする顔をしていた」

 

 図星だった。

 

 前の人生も、今までの自分も、結局はそういう人間だったのだろう。自分の手の届く範囲で抱え込み、背負い、何とかなると思っていた。その果てに何を落としたかを、いまようやく数え直している。

 

「皆にも聞かせろ」

 

 会長が言う。

 

「お前一人で抱えるには、もう大きすぎる話だ」

 

 呼ばれたのは三人だった。

 

 資材の流れを見ている男。

 輸送便の実務を回している女。

 そしてミライ。

 

 机を囲むほどでもない、小さな打ち合わせの形だった。だがそれで十分だ。大事なのは人数ではなく、今この会社の骨に近い人間へ先に通すことだ。

 

 エドワウは地図と簡単な帳面を机へ広げた。

 

「サイド6に出先を置きます」

 

 最初にそう言うと、資材担当が眉をひそめた。

 

「急だな」

 

「急です」

 

「理由は」

 

「流れが変わってるからです」

 

 ミライが黙って帳面を覗き込んでいる。輸送実務の女は、腕を組んだまま聞いていた。

 

「今までは荷の受け先を追えばよかった」

 

「これからは違う」

 

「先に押さえるべきなのは、倉庫、保険、長期の燃料便、保存食、保全資材です」

 

「輸送会社のままだと、全部あと手に回る」

 

 資材担当が口を開く。

 

「広げすぎじゃないか」

 

「船も人も足りん」

 

「最初から全部はやりません」

 

 エドワウは答える。

 

「サイド6は窓口にする」

 

「中立圏での受け、積み替え、保険、備蓄の入口を先に持つ」

 

「全部を自前で抱えるんじゃなく、先に置き場を持つ」

 

 輸送実務の女が言う。

 

「置き場を持つって簡単に言うけど、在庫を見る人間がいる」

 

「便が遅れた時の連絡もいる」

 

「向こうで帳場を回す人もいる」

 

「だから形を変える」

 

 エドワウはそこで一度言葉を切った。

 

「今までは、荷の帳面だけ見ればよかった」

 

「これからは、保険と在庫と、人の居場所まで一緒に見る必要がある」

 

 ミライがそこで顔を上げた。

 

「保険まで抱えるなら、窓口が足りない」

 

「サイド6で事務を回す人間、今の数じゃ持たないわ」

 

「それに、備蓄を持つなら在庫管理は誰がやるの」

 

 その問いを待っていた気がした。

 

「だから輸送会社の形では足りない」

 

 エドワウはまっすぐ答える。

 

「荷を請けて運ぶだけの会社なら、流れが変わった時に飲み込まれる」

 

「これからは受ける場所と、抱える場所が要る」

 

 ミライはしばらく何も言わなかった。

 

 それから小さく頷く。

 

「分かった」

 

「じゃあ最初から、その前提で数字を出して」

 

「ヤシマ側にも、船と人と保険枠の話を同時に回す」

 

「後出しされると、こっちが詰まる」

 

「出す」

 

 エドワウはすぐに言った。

 

「最初から全部見せる」

 

 会長はそれを聞いて、机を指で軽く叩いた。

 

「話は分かった」

 

「ただし、お前」

 

「何です」

 

「広げるなら、途中で放るなよ」

 

「一つでも拾ったなら、最後まで拾え」

 

 その言葉が、思った以上に深く刺さった。

 

 最後まで拾え。

 

 前に拾ったつもりで、最後まで持ちきれなかったものの顔が、胸の奥で一瞬だけ動く。

 

「分かってます」

 

 声は静かだった。

 

 会長はそれ以上何も言わなかった。

 

 話が終わったあと、セイラと二人で荷捌き場の裏手を歩いた。昼の工区は相変わらず騒がしい。だが話のあとでは、その騒がしさもただの雑音ではなく、これから組み替えるべき流れの音に聞こえた。

 

「ずいぶん大きくしたわね」

 

 セイラが言う。

 

「大きくしたんじゃない」

 

「足りないものを足しただけだ」

 

 セイラは少し苦く笑った。

 

「その足りないものが、前よりずっと多いのよ」

 

 エドワウは答えなかった。

 

 事実だからだ。

 

 ララァ一人を守るために、家がいる。人手がいる。食料がいる。医薬がいる。隠す場所と、見せるための表の顔がいる。金の流れも要る。航路も、保険も、倉庫も。数え始めたらきりがない。

 

「中途半端に広げると全部こぼすわよ」

 

 セイラが立ち止まって言った。

 

「分かってる」

 

「ほんとに?」

 

 エドワウは少しだけ目を伏せた。

 

「もう一度こぼしたくない」

 

 セイラはそれを聞いて、何も言わなかった。

 

 ただ、しばらくしてから歩き出す。

 

「じゃあ、今度は最初からこぼれない器にしなさい」

 

 その言い方が、セイラらしかった。

 

 優しい言葉ではない。だが、まっすぐだ。慰めるより先に、やるべきことを突きつける。

 

 荷捌き場へ戻ると、人工の空が少しだけ夕方の色を帯び始めていた。建材の影が長くなる。搬送レーンの音はまだ止まらない。作業員が声を張り、台車が曲がり、荷が次の区画へ消えていく。

 

 エドワウは、その流れをしばらく見ていた。

 

 前はここを、ただの仕事場として見ていた。

 

 今は違う。

 

 ここはもう、運ぶだけの場所ではない。これから先、物が流れ込む前に受ける場所を作る。人がこぼれる前に拾う器を作る。その起点に変わる場所だ。

 

 前の人生では、戦争の中で強くなることばかり考えていた。

 

 今は違う。

 

 先に置き場を作る。

 流れの前に回る。

 荷だけじゃない。

 金も、人も、生活も、先に受ける側へ回る。

 

 そうしなければ、また同じことが起きる。

 

 サイド7へ戻ってきても、もう前の場所には戻れなかった。

 

 黒猫ルシファーは、ただの運送屋では終わらない。

 

 終わらせない。




チート と 成り上がり をエドワウは タグに追加しようとしている。
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