結構な時間が過ぎた。
戦争はまだ始まっていない。
だが、平和だった頃の流れはもう戻っていなかった。
サイド6港湾区画の一角、ガラス張りの高層区画の上階から港を見下ろすと、大小さまざまな輸送船が静かに出入りしているのが見える。貨物船、燃料船、保全資材輸送便、冷蔵コンテナ便、そして警備付きの契約便。船の種類が増えたことが、そのまま世界の空気の変化を示していた。
窓の内側には、控えめなプレートが一枚だけ掛かっている。
ルシファー財団
最初は倉庫一つ、事務員二人、帳面と通信機が一台。
ただの中継業者に毛が生えた程度の会社だった。
今は違う。
倉庫は港湾区画だけでいくつも押さえ、備蓄用の区画は中立圏の各コロニーに分散している。輸送保険の窓口を持ち、燃料便と食料便の長期契約を結び、複数の金融口座と信用枠を確保し、航路情報と保険料率と価格情報が集まる通信網も整えた。
表向きには、中立圏で輸送、保険、倉庫、金融仲介を扱う便利な会社。
裏から見れば、人、物、金、情報の逃げ道と置き場を用意している組織。
誰かが冗談半分に言ったことがある。
「ルオ商会の小さい版みたいな会社になってきましたね」
エドワウはその時、笑わなかった。
ルオ商会。
表の世界で商売をしながら、裏では戦争と政治と資源の流れの間を渡り歩く巨大商社。連邦でも各サイドでも、名前を知らない者はいない。
そこまで大きくなるつもりはない。
だが、流れに飲まれないだけの器は必要だった。
守るために始めたはずの仕事は、いつの間にか、守るための場所をいくつも作る仕事に変わっていた。
ノックもなくドアが開き、ミライが入ってきた。薄い端末を片手に、もう完全にここの人間の顔をしている。
「燃料便の保険料率、また上がったわ」
「どれくらいだ」
「先月比で七パーセント。まだ表には出てないけど、保険会社はもう戦争前提の料率で計算してる」
ミライは端末を机に置き、港の方をちらりと見た。
「船も増えてる。特に保全資材と燃料。食料便も少しずつ増えてる」
「順番通りだ」
エドワウが言う。
「燃料、保険、輸送、食料、製品」
「最初に動くのはいつもその順番だ」
ミライは少しだけ笑った。
「あなた、本当に未来を知ってるみたいな言い方するわね」
「未来じゃない。流れだ」
「同じようなものよ」
彼女は椅子に腰掛け、足を組んだ。
ミライ・ヤシマ。ヤシマ家の娘であり、今はルシファー財団の契約、保険、輸送枠、金融のかなりの部分を実務で握っている。そして彼女は、エドワウの婚約者でもあった。
この婚約は恋愛だけで決まったわけではない。
ヤシマ家の信用と輸送網、ルシファー財団の物流と金融と情報。この二つが結びつけば、中立圏の流れのかなりの部分を押さえられる。
だが、それだけでもなかった。
ミライは最初から、エドワウの変化に気づいていた。
荷を追っていた頃の彼。
流れを読むようになった頃の彼。
そして今、流れを作る側に回った彼。
彼女は感情だけでなく、数字と契約と保険料率の変化でその変化を見ていた。
「ビスト側からまた話が来てる」
ミライが言う。
「資産の一部をこっちの保管と運用に回したいって」
「断る理由はない」
「ええ。でも、あそこは利用する相手であって、従う相手じゃないわ」
「分かってる」
ビスト財団は政治と資産の塊だ。
ルシファー財団は物流と中立圏の流れを握る。
互いに使える相手だが、どちらかの下に入れば終わる。
「アナハイムの方は?」
「部材輸送と技術者移動の契約を更新。向こうも中立圏の航路を押さえたいみたい」
アナハイム・エレクトロニクス。
まだ軍需の王者ではないが、確実にその方向へ伸びている企業。輸送、部材、技術、人材、その全部で関係を作っておく価値がある。
「警備会社の方は?」
「機体が三機増えた。全部護衛用。倉庫警備と輸送船護衛に回す予定」
軍ではない。
だが無防備でもない。
ルシファー財団は民間警備会社という形でMSを保有していた。
輸送船の護衛、倉庫防衛、重要人物の警護。あくまで民間警備という線を越えない範囲での武装。それが中立圏で生き残るためのぎりぎりの線だった。
「連邦側の調査筋が、こっちの保険と金融の動きを見始めてる」
ミライが少し声を落とした。
「ジオン側も同じ。便利だから使うけど、大きくなりすぎて気味が悪いって」
「当然だ」
エドワウは港を見たまま言った。
「中立を名乗って、大きな金と船と保険を動かす組織は、どこから見ても怪しい」
「敵になる?」
「ならないようにする」
敵にならないこと。
だが、誰にも支配されないこと。
それがこの財団の存在条件だった。
窓の外では、警備用のMSがゆっくりと港湾区画の上を巡回している。軍用の塗装ではない、灰色の警備塗装の機体。あれがこの組織の今の姿だった。
軍ではない。
だが、ただの民間でもない。
ミライは少し黙ってから言った。
「ねえ」
「何だ」
「あなた、どこまで行くの」
その問いは仕事の話ではなかった。
エドワウは答えなかった。答えられる問いではなかった。
ララァを守るために始めた。
それだけのはずだった。
だが守るために器を広げ、器を広げるために金を集め、金を集めるために流れを読み、流れを読んでいるうちに、流れの中心に近づいていた。
気がつけば、戻れない場所に立っている。
「遠くに行くつもりはない」
ようやくそれだけ言った。
ミライは少しだけ笑った。
「もう十分遠いわよ」
その言葉に、エドワウは何も返さなかった。
その頃、サイド6の外れ、湖の家では、ララァが窓の外を見ていた。
水面が揺れ、鳥が一羽、水の上を滑るように飛んでいく。マリアが台所で鍋をかき混ぜ、セイラがテーブルで書類を読んでいる。静かな午後だった。
「今日は静か」
ララァが言う。
「そうね」
セイラが答える。
「でも、向こうは忙しい」
「向こう?」
ララァは少し考えてから言った。
「船が多い。人が怒ってる。食べるもの、高くなる」
セイラは少しだけ手を止めた。
その言葉の意味を、彼女はもう知っている。
ララァは戦場を見るわけではない。
人の流れ、物の流れ、怒り、不安、そういう偏りを感じる。
その偏りが、いつも現実になる。
その夜、ルシファー財団本部では一枚の報告書が机の上に置かれていた。
連邦技術者移動一覧
輸送機材契約
行き先 サイド7
名前の欄に、一つの名前があった。
テム・レイ
エドワウはその名前をしばらく見ていた。
ついに来たか。
歴史が、予定通りの場所から動き始めた。
ララァを守るために始めたはずの仕事は、気がつけば歴史の流れを横から見る場所まで自分を連れてきていた。
そして今、その流れの起点の名前が、机の上の書類に書かれている。
テム・レイ。
世界が動き出す前触れとしては、これ以上分かりやすい名前はなかった。